遊鵬窟

展覧会感想メモ等

書聖 王羲之展

2013-02-23 16:40:03 | 展覧会

会場:東京国立博物館 会期:2013年3月3日まで

このところ書道づいて,書道博物館とよくつるんでいる東博が,またまた空前絶後の企画。この王羲之展は,実は日中国交35周年記念企画のトリであるにもかかわらず,後援に中国大使館は入っておらず,大陸からの出品もない。昨今の情勢がなければ,もしかして更に凄いことになっていたのかもしれぬ。

それにしても,王羲之の唐摸本が4点並ぶさまは圧巻の一言。何度も観たので今回見送った前記展示の喪乱帖も入れると,全部で5点!尺牘は簡潔な表現,それも決まり文句が多いが,当時紙が貴重品だったことをかんがえると,得心がいく。テレックスと同じである。しかし,戦国期や漢代の木簡が細かい字で密に書き込む方向性だったのと比べると,紙と筆という新たな表現手段の可能性を極めるべく,テキスト上は最小限,著作権法に云う「思想及び感情」の「表現」としては最大限の効果をもとめたのだろう。いかにも六朝らしい風雅ではある。

唐摸本の他,様々な系統の拓本を集めた今回の展示からは,作品を保存し,広め,批評しようとする人間の累代の営為と熱意が伝わってくる。原作品が失われても,その本質をいささかなりとも継承・再生しようとする試みは,古代地中海彫刻におけるヘラスのオリジナルとローマン・コピーの関係にも似ている。オリュンピアからプラクシテレスの彫刻が甦り,こうした思いに応えたように,いつの日か,太宗陵から王羲之の直筆が書道家に真の範を垂れることがあるのだろうか。

展覧会の後半部は,個人蔵の智永「千字文」や東博の黄庭堅・米芾が出迎えてくれ,三度美味しい展示になっている。王羲之は,よく鳴くガチョウの飼育に熱中していたという。私の好きな「興に乗じて行き,興尽きて返る」の故事で知られる息子を持ち,奇人で有名な米芾に範とされたのも,またうべなるかな。

観覧:2013年2月19日


エル・グレコ展

2013-02-23 15:15:15 | 展覧会

会場:東京都美術館 会期:2013年4月7日まで

最も好きな画家を挙げよと言われれば,ボッスと迷うところではあるけど,エル・グレコと答えることにしている。
前回(1986)より四半世紀以上を経て,再び大規模なグレコ展が来日した。

前回来日展やロンドンNG展(2004)と重複する作品も多いが,また見れてうれしい。

まごうかたなきイタリア・ルネサンスの継承者であることことが一目瞭然な「フェリペ2世の栄光」,作者比定に異論があるものの優品であることに争いのない「毛皮を着た貴婦人」,荒木飛呂彦顔負けのデフォルメを縦長画面にさらりとまとめた「キリストの復活」,別人の凡庸な原画を見て描いた圧巻の寿像「ディエゴ・デ・コバルービアス像」,美しい聖母マリア像十選に入るであろう「聖アンナのいる聖家族」と優品が並ぶ中,トレドのエル・グレコの家で見た使徒像連作も,洗浄により面目を一新。現地で工房作ではないかと疑った我が眼の不明を恥じ入るばかり。

今回目玉の「聖母被昇天」は,私が学芸員なら「無原罪の御宿り」と並べて展示するか,対向形式で展示したいところ。だれでも思いつきそうな静動対比の前記展示手法を取らなかったのには,所蔵者から何らかの指示が出ているのかもしれないが。

考えてみると,3月2日から2日間は,本展に加え,東博王羲之展の唐摸本,西洋美術館ラファエロ展の「大公の聖母」と,人類の至宝が上野で一堂に会するまたとない機会!バブル期でもこんなことはなかったのに。日本社会の文化的成熟か,はた高齢化社会の経済現象か・・・吹雪の平日,上野の人出は影響なし。

2013年2月19日観覧


諸星大二郎トリビュート展

2013-02-17 15:20:10 | 展覧会

会場:パラボリカ・ビス(浅草橋) 会期:2013年3月8日まで

小学1年生の頃から好きな漫画家、諸星大二郎の原画及び人形作家等によるトリビュート作品の展示。原画の展示点数は少ないが、暗黒神話、生物都市、アダムの肋骨、妖怪ハンターなど、ファン好みのセレクト。生物都市の扉絵がやや光線焼けしているほかは,70年代の作品でも昨日描いたような感じで,作家が原画を大切に保存していることが窺われます。

暗黒神話は,スサノオ=馬の首星雲を描いた2点(ジャンプスーパーコミックス版176頁&194頁)が出ていて,はじめて原画が見れて嬉しかったのですが,欲を言えば,慈空上人の「カン!!」と真言を唱えるシルエット(128頁)と,武くんとブラフマンの対峙(182-183頁)が見たかったですね。私が幼時に考古学に興味を持つ1つのきっかけになった作品でもあり,20代の末に,作中に出ていた尖石考古館,竹原古墳,日岡古墳を回ったことから國學院の夜間に学士入学して小林達雄先生に師事することになり,また後に宇佐神宮を崇敬神社とするようになるなど,この作品には妙な縁があります。

妖怪ハンターシリーズからは,「海竜祭の夜」のあんとく様の見開きと「黒い探求者」のヒルコの原画が来てます。「天孫降臨」連作もあれば・・・・

トリビュート作品の方は正直??

(観覧日時2/16)


山口晃「ヘンな日本美術史」

2013-02-17 14:40:18 | 読書

山口晃「ヘンな日本美術史」(祥伝社,2012)を読みました。描き手の立場から,各時代の画家の表現上の格闘,虚実の操り方を読み解いたもの。東大の佐藤教授のUP連載とはまた違った角度から,読者の膝を打たせてくれること請け合い。山口氏は,仮に芸大と不忍池を挟んで対岸にある大学に入学していても美術史家として名を成した気がします。

本書全体に通底する考えの一つは,テクネーと客体把握/世界認識との弁証法的関係があるということ。そしてそれは内面の問題であると同時に,動作連鎖(chaîne opératoire)も含めた身体論の問題でもある点で,きわめて実践的でもあります。

これとは別に,私は「近代」の芸術(家)至上主義やそこから派生した純粋美術論を妄想と考えていますが,私の考えていてことを山口氏が代弁してくれたかのような記述もありました:「基本的に,残っている作品と云うのは,生きている時からそれなりの評価や知名度があったものです。その時代の誰かが残そうと思わないと,あんな紙っぺらや布っぺらはそうそう残るものではありません。」「売れる物と云うのは,必然的にその時代の空気を非常に反映しているものではないでしょうか。」「その時代をきちんと掘り下げて,人の世の基底部に届いていれば,現在性と普遍性は両立するのです。」(以上,同書190頁)。

作品を評価して,造り手を経済的に支える需要者=パトローネがいなければ作品の制作と次代への継承は難く,作品を残そうという各代の持ち手の想いのフィルターを経るが故に,古美術,オールドマスター作品は勁いのです。だから,「再発見」「再評価」は嘘で,評価する者の増減の問題にすぎません。

そして,それだけの作品は,モノとして傷んでも,修復家を動かして何度でも甦るマナを制作の当初から備えています。火焔土器が幾千年を経て破片から完器に復し,ラファエロの一角獣を抱く貴婦人が元の画像を顕すように。