遊鵬窟

展覧会感想メモ等

山口晃「ヘンな日本美術史」

2013-02-17 14:40:18 | 読書

山口晃「ヘンな日本美術史」(祥伝社,2012)を読みました。描き手の立場から,各時代の画家の表現上の格闘,虚実の操り方を読み解いたもの。東大の佐藤教授のUP連載とはまた違った角度から,読者の膝を打たせてくれること請け合い。山口氏は,仮に芸大と不忍池を挟んで対岸にある大学に入学していても美術史家として名を成した気がします。

本書全体に通底する考えの一つは,テクネーと客体把握/世界認識との弁証法的関係があるということ。そしてそれは内面の問題であると同時に,動作連鎖(chaîne opératoire)も含めた身体論の問題でもある点で,きわめて実践的でもあります。

これとは別に,私は「近代」の芸術(家)至上主義やそこから派生した純粋美術論を妄想と考えていますが,私の考えていてことを山口氏が代弁してくれたかのような記述もありました:「基本的に,残っている作品と云うのは,生きている時からそれなりの評価や知名度があったものです。その時代の誰かが残そうと思わないと,あんな紙っぺらや布っぺらはそうそう残るものではありません。」「売れる物と云うのは,必然的にその時代の空気を非常に反映しているものではないでしょうか。」「その時代をきちんと掘り下げて,人の世の基底部に届いていれば,現在性と普遍性は両立するのです。」(以上,同書190頁)。

作品を評価して,造り手を経済的に支える需要者=パトローネがいなければ作品の制作と次代への継承は難く,作品を残そうという各代の持ち手の想いのフィルターを経るが故に,古美術,オールドマスター作品は勁いのです。だから,「再発見」「再評価」は嘘で,評価する者の増減の問題にすぎません。

そして,それだけの作品は,モノとして傷んでも,修復家を動かして何度でも甦るマナを制作の当初から備えています。火焔土器が幾千年を経て破片から完器に復し,ラファエロの一角獣を抱く貴婦人が元の画像を顕すように。



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