「今月中に読みますよ。読んで下さいよ」と書いていたハイデガーの2冊ですが、
読みました
ここでその簡単な解説と共に感想など述べちゃったりするのがいいんでしょうけど、
これがなかなか難しい
非常に我流に乱暴に解説するとハイデガーは存在を哲学した人です。
哲学とは「~である(本質存在)」を考えてきた学問ですが、この人は
「~がある(事実存在)」をテッテーテキに考えた人です。
「そんなもんが哲学の対象になるんか」と思ってしまいますが、
哲学とは本来そういうもんだった、と。
「存在に対する驚きのパトスが哲学のパトスである」というプラトンやアリストテレスの言葉もひっぱり出されてます。
しかし、プラトンがイデアをいいだしたころから、本質存在と事実存在が分離して、
以後哲学は本質存在ばっか追っかけて、事実存在を忘れていく一方だと。
ここのところはすごくよく分かる。哲学って何か変な感じがするのは、それだー と思った。
で、存在は人間に認識されてはじめて存在するので、存在が展開する場としての人間を
「現存在」と表現して「現存在が存在を規定する」と最初は言ってたんですが、
後期には「存在が現存在を規定する」と言います。えー
って感じなんですが、まあ、それはそれとして、すんごく面白くないですか?
また、こういうことも言ってます。「言葉は存在の住処であり、私が言葉を
語るのではなく、言葉が私を語るのだ」と。
言葉によって語られる「私」。でも、それを語るのは「私」ではない。
私の中に何人もの私がいる。「私」(私)”私”<私>・・・
(私)が「私」を語る。「私」を語ることによって(私)が隠される。
しかし、隠されることによって、(私)もまた現れる。
それを語る言葉。その中に「私」が(私)が”私”が存在している。
しかし存在とはそんな多数の私の総称ではなく、あくまでも「私がいる」ということ。
そういう感じでしょうか。
勝手に暴走しますけど、では、なぜ「私」を語るのが(私)であって”私”ではないのか? その違いを生み出したものは?
ハイデガーは「被投性(この世界に投げ込まれているとこと)」「気分」ということも哲学してます。
曰く、「被投性・気分に流されてちゃいかんよ」と。
この辺りが実存主義とみなされてしまう訳ですが、ご本人は強く否定しています。
実存主義は人間中心主義ですが、ハイデガーはあくまでも存在中心主義なので。
ハイデガーはナチズムに加担したことが必ず言及される人ですが、
ハイデガーの信奉者にユダヤ人が多かったそうです。
ユダヤの神様は自分のことを「ありて、あり続けるもの」と言ってますし、
旧約聖書に「天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ見て浄福である」という
言葉がありまして、実は私の一番好きな言葉なんですがこの無限の栄光とは
存在のことなのではないかと思ったりするんですが、こういうことからも、
ユダヤ人は存在に関して敏感な人達なのではないかなぁと思います。
ハイデガーはこれといった答えをくれる人ではないです
んが、すんごく面白いですハイデガー自身、晩年は存在に対して
「ただ問い続けるのみ」てなことを言ってるらしいんで、誤読パラダイスでも、
ハイデガーの考えに触れて、少しでも存在を感じられたらええなぁと思います。
読みました
ここでその簡単な解説と共に感想など述べちゃったりするのがいいんでしょうけど、
これがなかなか難しい
非常に我流に乱暴に解説するとハイデガーは存在を哲学した人です。
哲学とは「~である(本質存在)」を考えてきた学問ですが、この人は
「~がある(事実存在)」をテッテーテキに考えた人です。
「そんなもんが哲学の対象になるんか」と思ってしまいますが、
哲学とは本来そういうもんだった、と。
「存在に対する驚きのパトスが哲学のパトスである」というプラトンやアリストテレスの言葉もひっぱり出されてます。
しかし、プラトンがイデアをいいだしたころから、本質存在と事実存在が分離して、
以後哲学は本質存在ばっか追っかけて、事実存在を忘れていく一方だと。
ここのところはすごくよく分かる。哲学って何か変な感じがするのは、それだー と思った。
で、存在は人間に認識されてはじめて存在するので、存在が展開する場としての人間を
「現存在」と表現して「現存在が存在を規定する」と最初は言ってたんですが、
後期には「存在が現存在を規定する」と言います。えー
って感じなんですが、まあ、それはそれとして、すんごく面白くないですか?
また、こういうことも言ってます。「言葉は存在の住処であり、私が言葉を
語るのではなく、言葉が私を語るのだ」と。
言葉によって語られる「私」。でも、それを語るのは「私」ではない。
私の中に何人もの私がいる。「私」(私)”私”<私>・・・
(私)が「私」を語る。「私」を語ることによって(私)が隠される。
しかし、隠されることによって、(私)もまた現れる。
それを語る言葉。その中に「私」が(私)が”私”が存在している。
しかし存在とはそんな多数の私の総称ではなく、あくまでも「私がいる」ということ。
そういう感じでしょうか。
勝手に暴走しますけど、では、なぜ「私」を語るのが(私)であって”私”ではないのか? その違いを生み出したものは?
ハイデガーは「被投性(この世界に投げ込まれているとこと)」「気分」ということも哲学してます。
曰く、「被投性・気分に流されてちゃいかんよ」と。
この辺りが実存主義とみなされてしまう訳ですが、ご本人は強く否定しています。
実存主義は人間中心主義ですが、ハイデガーはあくまでも存在中心主義なので。
ハイデガーはナチズムに加担したことが必ず言及される人ですが、
ハイデガーの信奉者にユダヤ人が多かったそうです。
ユダヤの神様は自分のことを「ありて、あり続けるもの」と言ってますし、
旧約聖書に「天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ見て浄福である」という
言葉がありまして、実は私の一番好きな言葉なんですがこの無限の栄光とは
存在のことなのではないかと思ったりするんですが、こういうことからも、
ユダヤ人は存在に関して敏感な人達なのではないかなぁと思います。
ハイデガーはこれといった答えをくれる人ではないです
んが、すんごく面白いですハイデガー自身、晩年は存在に対して
「ただ問い続けるのみ」てなことを言ってるらしいんで、誤読パラダイスでも、
ハイデガーの考えに触れて、少しでも存在を感じられたらええなぁと思います。