生まれてから死ぬまでの記録

人生とは、生まれてから死ぬまでの間のこと

結婚を両親に反対される の巻

2006-05-28 11:49:57 | 日々のどうでもよさげな記録
久々です

ブログを書かない間何をしていたかというと、
見合いした相手の人とラブラブでした

んで、結婚はまだまだ先になるやろうけど、とりあえず、昨日うちの親に顔見せに
相手の人が来たんですが、今朝両親から、はっきり「反対」と言われました。
収入が少ない(月給手取りで20万くらい)し、昇給の目途もないし、
お兄さんも本人もちょっと精神やられてるし、本人はあまり結婚に向いてる
タイプではないし、それと連動することですが、なにより将来の展望がないわで、
両親が反対するのは充分すぎるほど分かるんですけど、反対されて、

ああそうですか

ときっぱり諦める気もなく、どうしようかな、というのが最新な状況です。

しかし、こんなに親と冷静に話しあったのは、初めてじゃないかってくらい
冷静に話し合えました。
両親の気持ちもよく分かるし、「現実」ということを、何度も言ってて、
私も相手も、

「現実なんて、自分の精神次第でそれなりになんとかなる」

という、現実軽視タイプなんで、なおさら親の言う「現実」には、
無視しきれないものもあるしで、本当によく考えてみなければいけないところです。

相手の人は、つねづね、

「本当に俺でいいの?」
「俺よりもっといい人がいるはず。」

ということを言ってて、昨日も帰ってから電話でそう言ってて、別れると
いいだしたりで、なんだか、前向きではなくて、それが何より問題な気がする。

私としては、どんな苦労も構わない、というか、世間で言う苦労は私的には
苦労ではなく、世間の人的には苦労でないことが、私的にはすごい苦労だったり
するから、私的にはあまり苦労しないと思うんですが、でも、この人のため
だったらどんな苦労でもやってやらぁ、と思ってるけど、両親も相手も、

「そんな苦労する必要ないよ」

と云ってて、相手と両親の言ってることが、変なとこで一致していることが、
私的には辛い。

親からは、「同情心で好きになってるだけで、同情心だけで結婚は維持できない」
とも言われて、そうかもしれない、そうかもしれない…
でも一緒にいたい。浮ついた想いではなくて、冷静にそう思える。

とりあえず、今から相手と会ってきます。
まて、続報。



母親のことなど

2006-05-04 03:21:40 | 思考の記録
一人暮らしを始めて、早4ヶ月。
実家に帰ってくるペースがどんどん落ちてて、最初は1週間に1回は
帰ってこようと思ってたのに、全然帰ってこないようになってしまって、
よってこのブログも更新ペースが落ちるのです。

一人暮らしを始めて気がついたことは、親と一緒に暮らしているのが、
なんとストレスになっていたことだろうか(感嘆)、ということです。
一緒に暮らしている時から、親は私に干渉しないので、そんなストレスに
思ってなかったんですが、離れてみると、いやいや、一緒に住んでるだけでも
かなりストレスでしたよ。
特に母親。
やっぱり人間、無意識的に、「この人の前ではこう」というのが決まってて、
親と一緒に暮らしてると、親用のそれが作動してしまうから、それだけでも
ストレスになってたなぁ、と、ストレスフリーな今、思う。

たまに家に帰ると、なんだかんだと言って来る(心配してるし、
コミュニケーション取ろうともしてるんだと思う)けど、
それがうざくてかなわん。
本当に本当に、うざい、とストレスフリーな今、思う。

母親に関しては、子供の頃から、ずっと考え続けてた。
今は母親に対して、かなり懐疑的です。

例えば、実によくあったのが、母親が私に服を買ってくるんですよ。
で、センスが全然違うから、てか、断然おばはん用の服を買ってくるので、
「私はこんなん着ぃひんで(着ないよ)」
って、服を着るのを拒否すると、
「じゃあ、いいよ。お母さん着るから。お母さんが着てもいいように
 買ってきたから」
って言うんですよ。
それってさ、本当に私の為に買ってきたのか?
本当のところは、自分のためちゃうんか? と。
服のサイズ的には、母親が9号、私がベストは5号なんだけど、あまりないので、
普段は7号、9号は細めにつくられたもの以外は着ないです。
普通の9号は「新入学おめでとう!」ってな感じになる。
だから、普通の9号を買ってきてる時点で、「私の為に買ってきた」は
かなり怪しくって、私は単なる「ダシ」で、というか、私に対して

「私はこんなにあなたのためを思ってるよ」とアピールできる
          +(プラス)
自分の欲しい服を買える

という、そういう仕掛けになってるんちゃうんかい? と思います。
そして、そういう仕掛けは実はいたるところにあったのではないか?と
思う今日このごろ。
自分が行動する動機付けを私にすることによって、私に愛情をアピールしつつ、
自分の欲望を満たしてたんじゃないのか?
そうやって、自分の愛情をことさらにアピールして、私を支配下においてたし、
おこうと今もしてるんじゃないのか? と。

母親は全く意識的にはこんなこと考えてないだろうけど、無意識的には
そうなってるとしか思えない点が多々ある。
服に関しては、さんっっっっっざん、
「もう買ってくるな」
と言ってるのに、飽きずに懲りずに買ってくるし。
そうやって買ってきた服を私が受け入れれば、私は母親の支配化にあるという
証拠になるし、私が拒否しても母親が新しい服を着れるわけで、
すごく巧妙にできてる、と思う。

そうやって、いちいちいちイチイチイチイチ、母親に構われてきた私は、
母親に愛されてると、母親は私のことを愛していると思っていたけど、
それはどこまでそうなのか、極めて怪しいな、と。
全く愛していなかったわけでもないと思うけど、母親が私にアピールしてきた
ほど、愛していたのかどうか。

今でも悲しく思うのは、私は子供の頃、母親によく
「その根性を叩き直さなあかん」
と言われてたことです。
それで実際、よく殴られてたけど、今となっては、殴られてたことより、
そう言われ続けてたことが、悲しい。
根性は、人格の基となるようなもんで、それを叩き直さなあかんのなら、それは
すなわち私が私であることの根本的な否定じゃないですか。
結局母親は、私のことを全然認めてなかったんやな、ってのが、悲しい。
母親に認めてもらえず、母親のええように殴られてた幼少期を思うに、
本当に悲しい。
別に今更、母親に私のことを認めてもらったところで、どうってことない、と
思うけど、なんとも言えない無念さがある。
母親が根本的に私のことを認めてくれていたら、
認めてくれていたら、受け入れてくれていたら・・・

でも、それはもう過ぎたことで、かなわないことで、
私はもう充分に自分のことを受け入れてるし、信じてるし、愛しているから、
母親の愛情を必要としない。
でも、どこかにまだ、子供のように母親を慕う気持ちがあって、
だからやっぱり悲しい。

その悲しさ+(プラス)母親の人間としての哀しさが、ある。
子供に対する接し方が、「干渉する」「支配しようとする」という形でしか
できない人なんだなぁ、と。
母親が私のことを必要としてるのは間違いのないことで、そういう大切な人に
対して、なんと不適切な対応しかできない人間なんだろうか(感嘆)、と。

一緒に住んでた時、よく喧嘩というか、言い争いになって、母親は親に対する
愛情や感謝ということを言ってたんですが、それに対して私は

「親に対する愛情や感謝以前に、あんたは子供との信頼関係を築くことに
 失敗したんや」

ということを、さんざ言ってきたんですが、それも、お互いに距離を取れば、
つまり一人暮らしを始めれば、また新しく始まるかな、と思ってたんですが、
不本意にも、冷静に親を見つめ返して、かえって不信が募る結果となってます。
これも、一時的な、単なる通過点で、やっぱり新たなる関係が
出現すると思うけど、その関係がどんなものかは分からない。

ただ、私が一人暮らしを始めてから、両親の仲は良くなってるみたいなんで、
それはつくづくよかったな、と。
 
長くなったついでに書くと、うちの親はよく、
「親になったら、親の気持ちが分かる」
と言うんですが、なぜそんなことを言うのかが意味不明。
親の気持ちがわかったら、なんやねん?
親の気持ちがわかったら、親といい関係を築けるの?
親が望むような私になれるの?
親(特に母親)が私にしてきた仕打ちが全部チャラになるとでも?
んなことないでしょ。ありえへんわ。
親を赦す、ということであれば、とっくに赦してる。
ただ、信頼できないだけで。
世間一般の親って、こんなに「親の気持ち、親の気持ち」って子供に
言うもんなの?

本当に長くなったけど、最近、母親とのこれからの関係を考えることがあって、
憂鬱でたまらん。