生まれてから死ぬまでの記録

人生とは、生まれてから死ぬまでの間のこと

責任ってなに?

2006-12-17 20:33:48 | 読書の記録
大庭健著、講談社現代新書です。
最近、倫理とは何だろうか、と思うことしきりなので、倫理学系の本を
読んでます。
この本は私は大変わかりやすく、面白く読んで、世の人々はこれをどのように
読んだのだろうかと思い、アマゾンの書評を読んだら、評判わるっ!
でも、その書評のほとんどどれもが、私にとっては的外れで、
これは発言したいなと思って、自分のブログに書く次第です。

まず、
>表題の「責任」を解き明かすかのようなタイトルでありながら、 何もはっきりとさせていません。
という内容の書評が二つ。
でも、倫理学ってのは、それぞれがそれぞれの倫理を確立させるための
ものであって、「これが答えだ!」ってなものを提出するものではない、
と思うんやけどなぁ。哲学もしかりです。
ヒントや考え方のガイドになればいいわけで、この書評を書いた人たちには
ヒントにすらならんかったのか。

次に
「歴史問題に関してあまりにも無知」
というご意見で、この本は日本の戦争責任についても1章をさいて、ドイツと
比較しながら言及してるんだけど、

>しかも肝心の、「戦後生まれの日本人に、「戦争責任」はあるのか」は、完全にスルー。「戦争中の一兵卒」の問題などより(もちろん、この問題を「どうでもいい」というわけではないが)、この問題が、今、そして今後、最も重要であるのは言をまたないのに、である。

という意見に関しては、いや、本の中で、30年前に発行された社債の返還責任が
現在のその社にあるのと同様、責任あり、とはっきり書いてるけどなぁ。

>「戦後生まれ(の中国人・韓国人)」が「戦後生まれ(の日本人)」の「戦争責任」を追求するということは、はたして可能なのか。こうした問題に答えるには、「倫理学者」には、荷が重すぎた、ということなのか。

って、これも殆ど本の中で答えられてると思うけど。
構成員が全員代わろうと、組織が継続しているなら、その構成員に組織の責任が
あるのと同様、自分がこうむった損害じゃなくても、その責任を追及することも
できると思うけど。

時間が経つと、いろんな要素が加わって、何が原因でどこに責任があるんだか
わからなくなることもある(バブル以降の不景気がまさにそれだな。
バブルが悪かったんだか、バブル以降の経済政策が悪かったんだか、
よう分からん)けど、そういう風になったなら、当時責任の所在をはっきり
させるべきだったのに、所在をはっきりさせなかった人間にも、
「現状のわけのわからなさ」の責任があると思う。
(バブル以降の不景気を例にとると、バブルの責任は誰に?という問題と、
崩壊直後にその責任をはっきりさせなかったのは誰?
というもうひとつの問題がある、ってことね)
私の個人的な見解では、戦争責任は、そういう2重の責任論が混乱してると
思う。
現状の訳のわからなさ、に対しては、現代の日本人も責任を追及できると思う。
そうやって過去の日本人に対して責任を追及すれば、日本がどれほどの
責任をとったのかがわかると思うし、その責任の取り方を現代の日本人が
どのように評価するかは、またその時の倫理観によるんやろうけどねぇ。
私は、日本の戦争責任の取り方は甘いと思うし、その元凶として昭和天皇が
あると思う。
昭和天皇は、戦争責任自体よりも、戦争責任問題をこれだけややこしくした責任の
方が重い、と思うけどなぁ。

話はそれたけど、戦争責任などの組織の責任論には、倫理学は不向きという
書評が2つあったけど、そうかなぁ?
この本の中で、ちゃんと言及されてますし、私はそれに納得ですが。

組織といえども、人間がつくってるものであって、そんな中での個人の責任と
継続している組織の責任がちゃんと考察されてたいい本だと私は思う。

アジカンに癒される

2006-12-17 00:49:44 | 日々のどうでもよさげな記録
本当に疲れきってて、なんか叫びだしたいような、誰かに話をしたいけど、
何をどう話したらいいのやら分からん感じで、とりあえず音楽をかけたら
アジカンがセットされてたんで、アジカンを聴いたら、いつの間にやら
大声で一緒に歌ってて、癒された・・・

考えてみれば、辛くて辛くてたまらんかった2005年、
一番聴いたのはアジカンやった。
アジカンがなければ、今の私はなかったやろうと思う。
アジカンには大恩があるなぁと思った。

来年1/11のライブ行くよ。
ありがとう、アジカン。

結婚式披露宴に行って疲労困憊

2006-12-16 22:26:14 | 日々のどうでもよさげな記録
本日、今年のメインイベントと言ってもいいような結婚披露宴に行って来て、
疲労困憊。
たった3時間、飲んで食べてするだけで、どうしてこんなに疲れてるのか?
ってくらい疲れてる。
知らん間にいろいろ気をつかってるんやろうなぁ。

披露宴自体は、180分デザート食べ放題みたいな、あまったるいイベント
盛りだくさんで、胸焼けしそうな披露宴やった。
新婦の友人席10人中、泣いてた人はみんな既婚者で、私は独身の友達と二人、
さばさばと披露宴を眺めてました。
30代独身女の秘訣というか、女の晩婚化のカギはこの辺りに隠されてるかも。
結婚=幸せ、という図式がピンとこないという。

披露宴で一番感動したのは、新郎の姪(小学校低学年くらい)が弾いたピアノ
でした。
千と千尋の神隠しのテーマ曲を弾いてんけど、子供ならではの、あどけなく、
ひたむきで澄んだピアノの音に本当に感動した。
曲は深い意味があるのに、その意味も知らずにあどけなく鳴り響いてる
ギャップがなんとも、涙がでそうやった。
大人になると、ああいう音がだせなくなる。
音ってのは、本当に不思議。

この披露宴は本当に、複雑な思いで出たんですが、帰り道思ったことは、
新郎新婦の幸せよりも、
「あの音のように生きたいなぁ」
ってことでした。
無心に、ひたむきに、澄み切って生きたいなぁと。

本当に、今日は疲れた。



教育基本法改正よりも

2006-12-15 21:01:15 | 思考の記録
時々、みるんですよ、国会中継を。
今は教育基本法の審議のまっただ中でね、教育基本法改正案には
「規律を守る」って表現があって、民主党の議員が
「その規律は誰がつくるんやらほい?
 国家がどうして法律でそんなことにわざわざ言及するんやらほい?」
と質問してて、教育基本法改正案をめぐるごたごたの中心はそこだと思うので、
なかなかいい質問やなぁと、安倍っちの回答に耳を澄ませば
「じゃあ、規律を守らなくてもいいのか?」
ってな回答で、「この人ダメだな」と思った。
真剣に回答してそんな答えなら、能力なさすぎやし、
確信犯的にそんな回答してるなら、たちが悪いよ。
ビミョーな論点のずらし方に腹が立つ。
こういうビミョーな論点ずらしが積み重なった結果、にっちもさっちもいかん
現実があるのではないかと思ってみたり。

ど・お・し・て・国・家・が・?

ってのが、問題なわけですよ。
道徳の源泉を国が持てば、それすなわち国家主義な訳で、
「これって国歌主義への第一歩?」
ってところで紛糾してるのにさ、
「じゃあ、規律を守らなくてもいいのか?」
って、明らかに論点ずれてるやん。

確かに今の教育に問題はあるけど、それを国が教育基本法でどうにかしようって、
考え自体間違ってると思うよ。
問題は人間関係が貧困になりすぎてるところにあると思うんやけどね。
うちの親曰く、自分達が子供の頃は、悪さすると大人はだれかれなしに
注意したらしい。
見知らぬおっちゃん、おばちゃんでも注意したらしい。
その子供の教育になんの利害もない。でも、悪いことしたら、注意する。
そういう存在って大事やと思うし、人間って、そうやって声かけあって、
人の間を生きていくもんやと思うのに(だからこそ「人間」という)
そういう関係が本当になくなってしまったのが、あかん理由やと思う。
「なんの利害もない。でも、関わる」
というのは、本当に大事なことやと思う。
利害のある人間とばかり関わってたら、息がつまるよ。
そのうち、全てを放り出したくもなるよ。
ニートや引きこもりが多分にそれやと思うけど。

教育の問題は、家庭が、学校がと狭いところでごちゃごちゃやっててもダメで、
貧困になった人間関係をどうやって豊かにすることができるか、
ってのが問題やと思うし、人の間に生きる歓びを教えることが、
教育の説得力の大前提やと思うのに、それが抜けてるのが問題なわけで、
それを愛国心や国家主義で補いましょうというのは、全然納得がいかないし、
どうせ失敗すると思う。

教育基本法改正よりも、大人向きに法律をつくればいいと思うよ。
「見知らぬ子供にも、どんどん声をかけましょう」って。
「あなたは、いろんな人から見られてますよ。気にされてますよ」
ってのが分かるだけでも、子供は全然違ってくると思うけどね。


これと関連するような、しないような話ですが、私は最近、
SONYのCMの安さが気になる。
家族の映像をうれしそうに見てる人たちを写して、ハンディカムや
VAIOの宣伝してるねんけど、なんとも、安い!
SONYって、80年代は人を憧れさせてやまないようなCMをうってたのに、
今や庶民にもみ手で近寄るようなCMをやってるなぁ、と思う。
これを見て、うっすらと思うのは、まさか今の日本では、心赦せる人間関係て、
家族だけなんじゃないやろーな
ということ。
家族ってのは、人間関係の基本であって、全てではない、と思うねんけど、
「家族が全て」みたいな人、激増中
と、薄ら寒い想いがする。