今日は近所の小学校が運動会で、その音が風に乗って聞こえてくるんですが、
最近の小学校は運動会でオレンジレンジが流れたりするんですよ。以心伝心とか。
朝っぱらからご陽気過ぎる
という訳でご陽気に目が覚めましたよ、覚めましたとも。
で、あまりにご陽気なんで朝っぱらからブログを見てたら、「おお
」と思う、
ブログがあったんでトラックバックです。
ブログって何をどこまで書いていいのやら、よくわからん、ということを
以前書いたけど、言われてみれば、ブログって交流するためのツールですね。
でも、確かに発信すること・書くことが一番の目的になってますね。
なんでかっつーと、誰もコメントしてくれないんだもん
何事かに当たるにあたって「誰それが○○してくれないから」と他人のせいに
するのは結局自分を不幸にするだけだということはわかってるつもりですが、
でも、当初の頃を思い出すと、「コメントついてないかなー
」と
楽しみにしてたのに、今は学習機能がバッチリ働いて全然期待してないですから。
でも、発信して、それをちゃんと読んでる人がいる限り、一方的ではあれ
交流になってるかな、と思ってせっせとブログ書いてる、ってとこかな。
「交流する」のは「発信する」より難しい、とありますが、まさにそうだと思う。
コメントつけるのは難しいんですよね。ましては、トラックバックは
なんで難しいかというと、「不快な気分にさせないかな?」という遠慮があるから
ですね。結構気をつかうし、それなら書かないほうが楽なんですよね。
人はそれを「自己完結」と呼ぶわけですが
「自己完結」って悲しいけど、日本には「察しが悪い」という恐ろしい言葉も
あってですね、自己完結と察しが悪い、どっちか選べといわれれば、
大抵の人が自己完結を選ぶ、という図式になってるんだと思う。
そして自己完結を元に、発信一方になるのでしょう。
でも、ブログでちゃんと交流してる人達もいてるんですよ。
ハムスター飼ってる人たちとか、りらっくま集めが趣味の人とか。
でもね、読んでると、これって本当に交流かな? と思います。
あれはこうすればいいだの、これはどこでどうゲットしただの、それを
「ふんふん」と読んでコメントして、結局、他人が一情報に収斂してしまってる。
一情報に対してなら、いくらでも遠慮なくコメントできるんですよね。
ここまでくると現代日本コミュニケーション論になってくるけど、どうして
他人が一情報にならないと交流できないとかというと、日本人って結局
「自分」がいたって脆弱だからだと思う。
私にはすごく気のおける友達と気のおけない友達がいて、気のおけない友達は
いたって「自分」がはっきりしてる。
こっちが何か言っても、いいものはいい、駄目なものはダメ、とはっきりしてる。
だから声かけやすいし、こっちも反省すべき点がよく分かる。
それに対して気のおける友達は、こっちが誘ってもあいまいで、はっきりしない。
で、「どうなってるの?」とか催促すると「察しが悪い」と陰で言われたり
するんですよ。日本って恐ろしい国ですよー
「自分」の脆弱さを他人に「察しが悪い」って言葉で責任転嫁できるんだから、
いいご身分だよなぁ
はっきり、嫌いだ、こんな人間。
でも、さすがに私も日本に生きているので、そういう人たちとも「交流」したりするんですが
じゃあ、どうして日本人は「自分」が脆弱なの? と考えるタネはつきない
んですが、いい加減長くなってきたので、今日はもうやめておきます。
ただ、日本は言葉と「自分」の乖離が激しい国だから、ブログで交流って
できないと思う。他人を一情報に収斂させて、情報交換を「交流」と思うのが
関の山じゃないかな?
一部の「自分」がちゃんとある人たちだけが交流できると思います。
最近ブログの新規登録がすごい勢いで増えてて、このgooブログでも、私が
このブログを始めたころ(今年7月)は「25万突破
」と喜んでたのが
今34万ですからね。毎日7000くらい新規登録されてるんですよ。
すごい勢いなんですが、それが日本のコミュニケーションや日本人の自我の
あり方が大いに変わってきたのか、単なる流行なのか、気になるところでは
あります。