生まれてから死ぬまでの記録

人生とは、生まれてから死ぬまでの間のこと

ドラえもんの道具で何が欲しいか

2005-11-04 22:40:03 | トラックバックの記録
タイムマシンですねぇ。タイムマシンを貰えたら
「私、タイムマシンを手に入れちゃったよ」
と友達に告白して、2人してゲラゲラ笑って、
「じゃあ、行こうか」
と言ってタイムマシンに乗って、
タイムマシンを手に入れたと告白する直前の自分達のところに戻って、
ゲラゲラ笑ってる自分達を見てまた笑う、という、
筒井康隆の「笑うな」を地で行きたいです。
(「笑うな」の場合は、タイムマシンを発明してしまう、という設定でしたが)
本当のところはタイムマシンよりも、こういうセンスが欲しい。切実に。


やらなきゃいけないことは

2005-10-17 00:54:08 | トラックバックの記録
可及的速やかにやるべきことは、借りたCDを聴くことです。
木曜日(4日前)に6枚借りて、まだ1枚も聴いてません。
土日に重点的に聴くかな、と思ってたら思いのほか忙しくて、
全然聴いてないです。
とりあえず今1枚、ストレイテナーの「アーリーイヤーズ」をかけました。
んー、いいですねぇ
月・火・水で各2枚聴けばいいんだな。

その他、やらなきゃいけないことは、衣替えです。冬に向けて。
今年着れる服と捨てる服の選別をせねば。

あと、やらなきゃいけないわけではなく、やりたい部類のことは、
歴史を改めて勉強したい。
それと、もっとちゃんと好きな本を読んで、好きな作家論(小説・漫画問わず)を
このブログでやりたい。
そのタネみたいなものは頭にあるんですけど、文章にまとめるのがしんどい



ブログの本旨~なぜ「交流する」は難しいか

2005-09-25 11:58:05 | トラックバックの記録
今日は近所の小学校が運動会で、その音が風に乗って聞こえてくるんですが、
最近の小学校は運動会でオレンジレンジが流れたりするんですよ。以心伝心とか。
朝っぱらからご陽気過ぎる 
という訳でご陽気に目が覚めましたよ、覚めましたとも。
で、あまりにご陽気なんで朝っぱらからブログを見てたら、「おお」と思う、
ブログがあったんでトラックバックです。

ブログって何をどこまで書いていいのやら、よくわからん、ということを
以前書いたけど、言われてみれば、ブログって交流するためのツールですね。
でも、確かに発信すること・書くことが一番の目的になってますね。
なんでかっつーと、誰もコメントしてくれないんだもん
何事かに当たるにあたって「誰それが○○してくれないから」と他人のせいに
するのは結局自分を不幸にするだけだということはわかってるつもりですが、
でも、当初の頃を思い出すと、「コメントついてないかなー」と
楽しみにしてたのに、今は学習機能がバッチリ働いて全然期待してないですから。
でも、発信して、それをちゃんと読んでる人がいる限り、一方的ではあれ
交流になってるかな、と思ってせっせとブログ書いてる、ってとこかな。

「交流する」のは「発信する」より難しい、とありますが、まさにそうだと思う。
コメントつけるのは難しいんですよね。ましては、トラックバックは
なんで難しいかというと、「不快な気分にさせないかな?」という遠慮があるから
ですね。結構気をつかうし、それなら書かないほうが楽なんですよね。
人はそれを「自己完結」と呼ぶわけですが
「自己完結」って悲しいけど、日本には「察しが悪い」という恐ろしい言葉も
あってですね、自己完結と察しが悪い、どっちか選べといわれれば、
大抵の人が自己完結を選ぶ、という図式になってるんだと思う。
そして自己完結を元に、発信一方になるのでしょう。

でも、ブログでちゃんと交流してる人達もいてるんですよ。
ハムスター飼ってる人たちとか、りらっくま集めが趣味の人とか。
でもね、読んでると、これって本当に交流かな? と思います。
あれはこうすればいいだの、これはどこでどうゲットしただの、それを
「ふんふん」と読んでコメントして、結局、他人が一情報に収斂してしまってる。
一情報に対してなら、いくらでも遠慮なくコメントできるんですよね。

ここまでくると現代日本コミュニケーション論になってくるけど、どうして
他人が一情報にならないと交流できないとかというと、日本人って結局
「自分」がいたって脆弱だからだと思う。

私にはすごく気のおける友達と気のおけない友達がいて、気のおけない友達は
いたって「自分」がはっきりしてる。
こっちが何か言っても、いいものはいい、駄目なものはダメ、とはっきりしてる。
だから声かけやすいし、こっちも反省すべき点がよく分かる。
それに対して気のおける友達は、こっちが誘ってもあいまいで、はっきりしない。
で、「どうなってるの?」とか催促すると「察しが悪い」と陰で言われたり
するんですよ。日本って恐ろしい国ですよー
「自分」の脆弱さを他人に「察しが悪い」って言葉で責任転嫁できるんだから、
いいご身分だよなぁ はっきり、嫌いだ、こんな人間。
でも、さすがに私も日本に生きているので、そういう人たちとも「交流」したりするんですが

じゃあ、どうして日本人は「自分」が脆弱なの? と考えるタネはつきない
んですが、いい加減長くなってきたので、今日はもうやめておきます。
ただ、日本は言葉と「自分」の乖離が激しい国だから、ブログで交流って
できないと思う。他人を一情報に収斂させて、情報交換を「交流」と思うのが
関の山じゃないかな? 
一部の「自分」がちゃんとある人たちだけが交流できると思います。

最近ブログの新規登録がすごい勢いで増えてて、このgooブログでも、私が
このブログを始めたころ(今年7月)は「25万突破」と喜んでたのが
今34万ですからね。毎日7000くらい新規登録されてるんですよ。
すごい勢いなんですが、それが日本のコミュニケーションや日本人の自我の
あり方が大いに変わってきたのか、単なる流行なのか、気になるところでは
あります。

一つだけ願い事が叶うとしたら

2005-09-16 21:50:40 | トラックバックの記録
何を願うかってお題のトラックバック練習です。
似たようなお題が多くないですか? 
一番欲しいものは何? とか、1番したいことは何? とか。
「トラックバック練習帳のお題がもっとバラエティに富みますように
ってことで、ひとつ、よろしく


こんな嫌味のような願いはさておき、本当に願うとしたら、
「すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
すべての生きとし生けるものは、幸せであれ。」
というブッダの言葉をそのまま願います
この中には私ももちろん含まれるわけだから、別に偽善じゃないもんねー
 

よく見ていた夢

2005-08-16 23:53:11 | トラックバックの記録
以前は夢の中に行きつけの場所がありまして、それは湖のほとりに建つ
中も外もガラス張りの喫茶店で、いたるところに高さの違うロフトがあって、
そこに通じる階段もいたるところにある、空間的にとても面白いつくりの店で、
そこに行く度に「またここにきたのかぁ」と思うし、
店長(知らない人なんだけど)も、「またきたのかぁ」って感じで
出迎えてくれるという、そういう場所がありました最近行かない。

ついでに、今日の昼寝(ちゅーか、さっきまで寝てた)で見た夢なんですが、
8年間つきあった(そして5年以上前に別れた)彼氏と再会したら、
彼氏がデブデブに太った、ただのおっさんになってる夢を見ました
太りにくい体質の童顔の人なので、そんなことあるはずないんですけど、
なぜか夢ではそうなってました。
でも、「ちょっと太りすぎやで 痩せやな」と言うと、うんうん
頷いてて、結構楽しく夢の中で過ごせました。
今頃、どこでどうしてはることやら

って、宮城県が地震で大変なときに、呑気なブログすみません


生きてきた証と生きてることと

2005-08-16 16:59:07 | トラックバックの記録
本日ブックマークさせてもらった、「昭和ひとケタ樺太生まれ」のじゃこしかさん
の「第60回終戦記念日」を読んでですね、感慨深いので記録させていただきます。

>子どもの頃に受けた事柄が今なお心に深く残り、それ以来ソ連という国には信用が置けず許す事は出来なかった。
>だから今ビザ無し交流とか、医療関係での援助などは以っての外だと思う。その様な考えは人道的には間違っているのだろうが、彼の国の残虐な行為を身に沁みて味わされた私としては心情的には納得出来ないのである。

というのは、じゃこしかさんが生きてきた証なんだなー、と思う。
それを意見とした場合の正誤はおいておくとして。

私の祖父も含めなんですけど、戦争体験を語るお年寄りって少ないですよね。
私は戦争体験を身近な人から聞いたことが殆どないんですよ。
どうしてかって、こういう「俺だけの真実」がたくさんあって、
語るに語れないのかなー、と思う。
でもね、語ればいいと思うんですよ。思う存分。
時代と独立して存在している個人なんていないし、個人が個人的体験を語れば、
それはそのまま時代を語ってることにもなると思うんです。
今こうやって私が書いてることも、十分に時代を反映しているわけですよ。
今はわからなくても、過ぎてみればわかる(はず)

昨日も書いたんですが、真実は人それぞれだと思う
だから、時が流れて、時代は変わっても、「俺は許せない」っていうのは
その時を生きてきた証だと思うんです。
でね、それが時と共に変わっていったり忘れていくのも、それは「生きている」と
いうことなんですよね。
なんか、自己完結してしまってますけど、うまくかけないですけど、情報で
人は変わらないんですよね。体験で変わる。
情報を得ることでは「生きていること」の代わりにはならない、と思う。
体験して胸に刻みつけて「生きている」んであって、自分が生きてきたことに
胸をはれたらいいなぁ、と思うんです。

要領得ないですけど、私も含めですけど、現代人って総じて物分りがいいと
思うんだけど、それって、体験不足、「生きている」ということが不足してる
からじゃないかなー、とも思うんですよね。
だから退屈なのかなー、と力なく思うわけでございます。