本岡典子著「流転の子」(中央公論新社)を読んだ。
日本と中国の間で、激動の昭和に翻弄されながらも、清廉に逞しく生きぬき、日中の懸け橋として、両国の友好に尽力した愛新覚羅溥傑一家の物語である。
日本本土は敗戦によって終戦を迎えたが、満州ではソ連兵だけでなく、恨みをはらそうと暴徒化した中国人による略奪、暴行、殺害が吹き荒れ、地獄のような凄惨な状況下、約24万5000人が犠牲になったと言われる。
また、余り知られていないが「通貨大虐殺」により2000~3000人の日本人が虫ケラのように惨殺された真実がある。
そのような中、嫮生と母浩は、ある時は中共軍、ある時は国民党軍に拘束、軟禁されながら、6000キロに及ぶ壮絶な流浪の果て敗戦から1年5ヶ月後、最後の引き揚げ船で日本への奇跡の帰還を果たす。
父溥傑はソ連軍によって、シベリア抑留、その後、中国側に引き渡され、戦犯として長く収容所生活を送る。
16年後、周恩来のはからいで、一家は北京で再会を果たすが、嫮生は父と母の願いを断ち切り日本で生きる道を選ぶ。
その後、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、9年間父母との交流が途絶える。
1972年、戦後27年を経て日中は国交を樹立することになる。
国交回復は周恩来の功績によるところが大きいが、本書の中でも、彼の言動が次のように紹介されている。
周恩来は戦犯の判決についても細かく厳格な指示を与えている。「1人の死刑もあってはならず、また1人の無期徒刑者も出してはならない。」彼は20年後の世界と中日関係を見据え起訴状を何度も却下し、戦犯らの罪を軽減することを求めた。不満を示す最高人民検察員に対して「日本戦犯に対する寛大な処理については20年後には君達も中央の決定の正しさを理解するようになるであろう」「この日本人は今は戦犯だが、20年たったら友人になる。日中友好を考える友人になる」と述べた。( p185 )
「日本の軍国主義は1894年から1945年まで中国人民に損害を与えました。(略) 日中両国は2000年の往来があり、経済文化の交流を発展させてきました。その2000年の長さに比べ、50年と言うのはほんの短いものです。しかもすでに過ぎ去ったことです。我々は前を見なくてはいけません。(略) 我々は日本の人民を憎んでいません。日本の人民も同じように軍国主義の被害者です。皇族でも、華族でも、ブルジョア階級でも、労働者でも中国と友好の願いを持つ者ならば我々は歓迎します。(略) 浩夫人が帰ってきました。中国人になることを願っています。日中両国の友好促進を願い国交回復のために尽力されています。私は心から歓迎します」( p250 )
日中関係が険悪化している今、偏った情報に惑わされず、歴史を正しく見つめ、両国で流された血の悲しみを悼み、尊い命を奪われた人たちの為にも2度と悲劇を繰り返さない決意を、今一度強く持つ必要があると感じた。溥傑が娘に書き送った「相依為命(相依って命を為す)」と言う互いの幸福を願う心が必要とされている。
宮本輝著の「流転の海」。作者自身の“父と子”を描くライフワークで1992年に第1部が出版以来、32年を経て今年4月に第7部が出版された。完結まで数年を要しそうだ。今年、第1部から第7部まで読み終えたが、第8部の出版予定を調べている時、たまたま同じ「流転」という言葉で本書と出会った。膨大な資料や証言に基づく500ページ近いノンフィクション大作だが、内容に惹きこまれ一気に読み終えた。