john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 39

2017-07-08 20:24:33 | 最も小さい霊魂の会


コンソラータ
「絶え間ない愛の祈りによって、私は全てを所有しております。その祈りを怠った事を何度も
後悔して、時間を費やすことは愚かなことです。怠ってもより熱心に唱える愛の祈りによって、補う事ができますから。
でも、瞬時も、愛の心を起こすことを絶対に怠らないように。怠れば、神のみ栄えに損害を与えるでしょう。今の瞬間から、死ぬ瞬間まで、常に前進のみ。全てが完成されるまで戦い、暴風、雷光、雷などのもとでも常に前進❗」

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人間に失敗は付き物。
失敗をしないと逆に人の痛みをわからない人間、人を上から見下す人間になりかねない。
神様は、失敗してもその反省に長い時間を費やすのは無駄だとおっしゃいます。
そんな時間があるなら、愛の心を起こし、よりよく出来るように頑張るべきだとおっしゃいます。
神様は、罪を犯すのはしょうがないが、罪を犯した後ですぐに自分の元にこない人間が多すぎる事を嘆いていらっしゃるのだ。
カトリック信者に対しては、告解という秘跡を制定した。
いくら汚い霊魂でも、神様のところにきて、正直に告白するならば、霊魂は雪よりも白くなるとおっしゃいます。
神様は、憐れみそのもの、いつくしみそのもの、愛そのものなのです。
神様に赦されない罪などはないのですから。
では、罪とは何かと問う人がいるかもしれない。

私は、罪とは誰かしらを悲しませる事だと思います。
それが、人であれ、ものであれ、動物であれ、神様であれ、です。
その中の最高位である神様を悲しませる事はやはりよくないことなのです。
神様は、私達の創造主であり、父であるのですから。

無駄な時間を費やす、ということであるお話を思い出しました。
ある夫が亡くなりました。
妻は、夫が亡くなりその悲しみのために泣いてばかりいました。
それは、何ヵ月も続いたのです。

見るにみかねた夫は、神様に赦しを得て、妻のもとに現れてこう言いました。
「妻よ、私の為に涙を流すのはやめてください。私が天国へ行こうと思ってもあなたの涙が上から降ってくるので、天国への階段を昇っていく事が出来ないのです。どうか、泣くのをやめて私の為に祈ってください。」

というお話です。

何事も悩みすぎはいけないですね。
現実は、そうもいかないのが現実ですが。




加圧式脂肪燃焼Tシャツを買いました。

2017-07-08 20:17:18 | 日記
日頃なかなか運動も出来ない?しない?ので、お腹が出てきました。
着るだけで体が凄いことになる夢のようなTシャツをネット広告で見て、❗❗と思った人は、わたしだけではないはず。
しかしながら、冷静な目も忘れずに。TVのコマーシャルのように、お金を多くかければ誰でも痩せられる。しかしながら、庶民はお金をそれほどかけられないのが現実なんだよん。
で、まあ、腹筋がそれほどまでにならなくてもいいから、また、糖尿病のために太ることは絶対にさけなければならないので、肥満の予防として買ってみた。
感想。
Mでちょっと大きいので、中にTシャツを着てその上から加圧式シャツを着る。
汗をかいても体の流れないので気持ちいい。お腹を絶えず引っ込めている状態になっている。寝ているときはちがうが。
あと、胸から背中の筋肉が絶えず引っ張られている感じがいいかな。
これで姿勢が良くなるんだろうかね。
まあ、1、2か月使ってみないとわからないと思います。
1着、3980円と多少お高いですが、試しに買ってみました。

聖体拝領について思うこと

2017-07-08 13:34:06 | カトリックのひとりごと
聖体を口に入れる信者がきた場合、司祭は何を思っているのだろうか。と思ってしまった。
また、聖体拝領についてどう思うのか、司祭は司祭同士で話す機会があるのだろうか?とも思ってしまった。
日本の教会は、バチカンに従いつつも独自の道を進んでいるのだろう。
私自身も今の教会のどこが正しくてどこが間違っているかなんて、厳密にはわからないんだ。
カトリック教会も共同体ではあるが、最終的には一個人と神様、それが集まって共同体になるのであって、一個人と神様との絆がしっかりしていなければ、共同体の存続もあやしいものとなる気がする。
カトリックが大切にしているものは、特に聖体。
聖体は神様が残していった形見であるからなんです。
イエズス様は司祭の言葉により、聖体の外観のもとに地上に下られる。
イエズス様は、十字架の死により人類をあがなったが、罪の償いが人類では追い付かないため、世の終わりまでカトリック信者の拝領した聖体の外観のもとにカトリック信者とともに罪の償いを続ける。
イエズス様は、まだ、永遠なる御父に自分を生け贄として捧げていらっしゃるのだ。

ことの分裂ははっきりしている。
聖母がある特定の選ばれた人に対して、聖体はひざまずき舌で受けなさいと言ったことにある。
しかしながら、現代の教会は悪魔の囁きにより、また、伝統を崩そうとしている人たちにより 舌から手へ、また、ひざまずきから立ってへと変えられようと、変える方向に持っていこうとしていた時期だった。
私が洗礼を受けた時は、まだ、聖変化の時はみなひざまずいていた。
しかし、手への移行は始まっていた。
私に洗礼を授けてくれた主任司祭は、手でも舌でもどちらでもいいが、日本の推奨するやり方は手だとは言わなかった。
なぜ、言わないのだろう。それが不思議なんだよね。
なぜ?
私は、考えた。
手なのか?舌なのか?
立ってなのか?ひざまずいてなのか?

立ってなのか?ひざまずいてなのか?はひざまずいて受けるのが正しいと思う。
手なのか?舌なのか?は、
舌が正しいと結論づけた。

私達は、神様のみ前においては赤ちゃんも同然。
私達は、神様がいなければなにも出来ない。
人間の赤ちゃんのように親から口に食べ物を入れてもらって成長できる生き物だと思う。
神様は、とって食べなさい。とおっしゃった。
このとってとは、取ってではない。ものを取ることではないと思う。
口から食べることであるから、摂ってになる。
摂って(口から )食べなさい。と言っているのだと思う。
むろん、聖体は霊魂の栄養材だ。
私達の霊魂の栄養となると同時に霊魂が聖化され、力になる。

昔は、写真などで見るとひざまづき台があり、みな横一列にならび、司祭が聖体を口に与えると同時に助祭らしきひとが、パテナを口の下に添えて聖体の欠片が下に落ちないようにしていた。
これが、聖体に対する配慮であり、崇敬だと思う。

今のように手で受けるとするなら、手についた神の欠片があちらこちらに飛び散るのではないかと思う。

司祭は、聖体の欠片を最後に水をカリスに入れて飲み干す。
だとするなら、信徒の手に授けることは間違いだと誰でも気づくだろう。

聖体に触れる事の出来るのは司祭の特権なのだから。
ゆえに、司祭の手は尊敬され、接吻の対象となるのだと思う。

いつも書いていることをまた書こう。

誰でもいい。
仮に読んでいる人にしよう。

ある日突然、イエズス様があなたの前に現れました。
あなたならどうするでしょう。

たいていの人は、恐れおののきひざまずぐどころか、ひれ伏すでしょう。
私は、ひれ伏すのが正しいと思っています。
あなたの前にいるイエズス様は、罪深いあなたをゆるし、あなたを諭し、そして聖体を授けてくれるでしょう。

そのとき、どういう姿勢で授けてもらいますか?
神様と同じ目線、つまり、立ってうけますか?

たいていの人ならひざまずき両手を胸の前に組んで舌で受けるでしょう。

これが、私の考え方です。

では、現実問題としてはどうでしょう。

ひざまずきは出来ないとしても、手で受けなさいと司祭に言われた場合。

神様は、全てをご存じです。

全てを神様に委ね、司祭のいうとおり手で受けてください。
神様は、司祭に従順に従ったあなたをほめるでしょう。
神様は、従順を好まれるからです。
そして、次のことは次のことです。

もし、舌で受けることを望んでいるのにも関わらず、それが許されなかった場合。
司祭に一礼して席にもどり、霊的聖体拝領をする。
または、教会を変えて、舌に授けてくれる司祭のところにいく。

聖ビアンネ神父は、霊的聖体拝領には莫大な価値がある、とおっしゃっています。

いずれにしても、聖体拝領するために自身の心、また行動をみつめる事が大切だと思うのです。

聖体拝領の仕方に関して、これから洗礼を受けようとしている方で悩んでいる方も、少なからずいらっしゃいます。

私のように、この件で洗礼を受けたあと、その教会に行くことが出来なくなることがないように、一人でも参考にしていただければいいと思います。

最後に司祭は善意の司祭ならどのようなことがあれ、批判してはならないと感じております。

間違いがあればその都度訂正していきます。