
「風の谷のナウシカ」と言えば、ジブリアニメの第1作目として多くのファンを持つアニメ映画でありますが、この映画には原作の漫画があったことはあまり多くの人は知らないようです。また知っていてもきちんと完読されている人はさらに減るでしょう。ちなみに、実はこの作品はジブリが作ってません。ですから実際のジブリ第1作目はラピュタの方です。
原作の「風の谷のナウシカ」は、当時オタクやおたくがまだそのように呼ばれるちょっと前に、比較的清く正しいアニメ雑誌として徳間書店から発刊されていた「アニメージュ」というアニメ雑誌に連載されていました。
もともとアニメ化を前提とした企画だったのですが、連載の途中でアニメの方が先行して放映され、中断に中断を重ねながら、結局13年の連載期間を経て完結したのです。そのためなのか、アニメの方は原作の2巻目途中までの設定しか含まれておらず、ワイド版で7巻まであるストーリーにはもちろん対応していませんが、その設定すらも踏襲できておらず、風の谷とトルメキアの2項対立を巨神兵という過去の生物兵器を基盤に描いた勧善懲悪のお話に終始している気がします。
しかし、原作の「風の谷のナウシカ」はもっと複雑でグロいストーリーになっています。アニメには出てこない第3の種族である土鬼諸侯連合(ドルク)が持つ不可思議な力や文明を焼き尽くした「火の7日間」と呼ばれる最終戦争の謎、さらには腐海で生きる第4の種族である森の人など、話は想像を絶するところに膨らんでいきます。
自然と人工物の対立を描いていると思いきや、自然の象徴である王蟲でさえ、実は人間が作り出した人工物であった、というオチは、宮崎駿が創造する究極の人間悪なのかもしれません。
原作を完読して思ったのは、大友克洋の「AKIRA」にすごくよく似ていると思いました。人間の都合の良いように自然や生き物に手を加えていくことによって生まれるもの、行き着く場所がなんなのか、それを創造したのではないかと思うのです。
ところで、宮崎駿はずっとナウシカ的なヒロインを描き続けているようにも思います。原作のナウシカは巨神兵にしろドルクの王にしろ敵や悪を内包してしまいます。千と千尋でも千尋は顔なしを助けます。また、ハウルでもソフィーは荒地の魔女をかばいます。そういうキャラクターが宮崎駿のヒロインの原点であり、それは母性であると思います。
原作で描かれたものは、アニメでは描かれない、描くことができなかった、強くて怖い母性の人としてのナウシカであると思います。それこそが宮崎駿が描きたかったものだったのではないでしょうか。
原作の「風の谷のナウシカ」は、当時オタクやおたくがまだそのように呼ばれるちょっと前に、比較的清く正しいアニメ雑誌として徳間書店から発刊されていた「アニメージュ」というアニメ雑誌に連載されていました。
もともとアニメ化を前提とした企画だったのですが、連載の途中でアニメの方が先行して放映され、中断に中断を重ねながら、結局13年の連載期間を経て完結したのです。そのためなのか、アニメの方は原作の2巻目途中までの設定しか含まれておらず、ワイド版で7巻まであるストーリーにはもちろん対応していませんが、その設定すらも踏襲できておらず、風の谷とトルメキアの2項対立を巨神兵という過去の生物兵器を基盤に描いた勧善懲悪のお話に終始している気がします。
しかし、原作の「風の谷のナウシカ」はもっと複雑でグロいストーリーになっています。アニメには出てこない第3の種族である土鬼諸侯連合(ドルク)が持つ不可思議な力や文明を焼き尽くした「火の7日間」と呼ばれる最終戦争の謎、さらには腐海で生きる第4の種族である森の人など、話は想像を絶するところに膨らんでいきます。
自然と人工物の対立を描いていると思いきや、自然の象徴である王蟲でさえ、実は人間が作り出した人工物であった、というオチは、宮崎駿が創造する究極の人間悪なのかもしれません。
原作を完読して思ったのは、大友克洋の「AKIRA」にすごくよく似ていると思いました。人間の都合の良いように自然や生き物に手を加えていくことによって生まれるもの、行き着く場所がなんなのか、それを創造したのではないかと思うのです。
ところで、宮崎駿はずっとナウシカ的なヒロインを描き続けているようにも思います。原作のナウシカは巨神兵にしろドルクの王にしろ敵や悪を内包してしまいます。千と千尋でも千尋は顔なしを助けます。また、ハウルでもソフィーは荒地の魔女をかばいます。そういうキャラクターが宮崎駿のヒロインの原点であり、それは母性であると思います。
原作で描かれたものは、アニメでは描かれない、描くことができなかった、強くて怖い母性の人としてのナウシカであると思います。それこそが宮崎駿が描きたかったものだったのではないでしょうか。