goo blog サービス終了のお知らせ 

このマンガを詠め!サブカルエンタな道

メジャー、マイナー限らず個人的にマンガやアニメをご紹介。記憶の片隅で残るものがメインかな・・・

少女漫画の名作中の名作「キャンディ・キャンディ」

2006年06月20日 18時33分19秒 | 最近のレビュー
昨夜おもむろに読み出したら、たまらず全巻完読してしまった。
その作品とは、講談社の少女向け漫画誌「なかよし」に70年代に連載されていた
原画・いがらしゆみこ、原作・水木杏子の少女漫画の不朽の名作
「キャンディ・キャンディ」である。

なぜ女兄弟もいないぼくの家にいまだに「キャンディ・キャンディ」があるのか…
実をいうとぼくが中学生のときに揃えちゃったんのだ。
もともとおふくろが誰かからもらってきたもので、
何巻か足りない分は女友達から無理言ってもらったりした記憶がある。
それで全巻揃えたんだよなあ。

当時はアニメにもなってて、あの主題歌は誰でも唄えたはず。
ぼくもそばかすがあったから妙に親近感があったのを覚えている。
まあオンエアーはぼくが小学生低学年の頃だけどね。

そんな「キャンディ・キャンディ」とは、
孤児としてポニーの家という孤児院に引き取られたキャンディース・ホワイトが、
いろんな苦難や偏見に負けず、心ある周りの人々の愛情を受けて成長する過程を、
彼女の純愛を交えながら描かれるビルドゥングス・ロマンといえるだろう。

ここで、いろいろな要素があるのだが、キャンディを養女として迎える
ウイリアム大おじさまは間違いなく「足長おじさん」を彷彿としている。
また、キャンディを取り巻く友人たちの構成や人間関係は
「生徒諸君!」などの少女漫画に見られるものだ。
さらには、キャンディの性格は「生徒諸君!」のナッキーにも通じているし、
よかった探しをするポリアンナなども想起される。

キャンディキャンディの一番感動的なところは、
丘の上の王子さま=アルバートさん=ウイリアム大おじさま、という展開である。
キャンディがアンソニーを好きになるのも、
そのアンソニーの面影を感じるテリィを好きになるのも、
実は子供の頃にであった「丘の上の王子さま」への恋心から派生している。

そして、孤児であるキャンディを自分の一存で養女に迎え入れ、
その後金銭的な支援を行う足長おじさんのウイリアム大おじさまは影の存在として、
表向きはアルバートという名で精神的な支援をキャンディにするのだ。

この作品の彼こそがトリックスターであることは間違いない。
キャンディはこの若きトリックスターによって、
紆余曲折した多感な少女期、青年期を送ることになる。
それは、ウイリアム・アルバート・アドーレーが求めた
キャンディース・ホワイト・アードレーの真のレディーへの道だったのだと思う。
貴族階級のアードレー一族の養女でありながら、
看護婦の道を選んだキャンディの意思はそのまま
アルバート=ウイリアムの意思でもあったのだろう。

最後の最後で、ウイリアム大おじさまが現れる瞬間は感動的である。
誰もが知っているあのアルバートが、
誰もが尊敬の念で憧れるウイリアム大おじさまなのである。
そして、キャンディの願いが成就された瞬間でもあるのだ。
このとき、ぼくら読者はそのハッピーエンドに素直に感動してしまう。

ということで、今度はアニメがみたいかな(^^♪

細野不二彦「ママ」

2006年05月22日 01時18分39秒 | 最近のレビュー
細野不二彦の「ママ」をひさびさに一気に完読して感じたのは、
いまの、子供はいないにしてもバツイチとなった自分に
すごくタイムリーな作品だったということだ。
子供が大好きなぼくとしては、
バツイチ子持ちの女性はすごく憧れる存在であり、
そんな女性との恋愛劇がぼくの中で未消化のまま放置された感じである。

ところで、この機会に細野不二彦という漫画家を調べてみたら
意外な、なおかつ非常にオタクな事実にびっくりした。
細野不二彦のデビュー作は意外や意外、
高千穂遥×安彦良和「クラッシャー・ジョウ」だったのだ。

この作品にマンガがあったことすら知らなかった。
「クラッシャー・ジョウ」のキャラクターデザインは安彦良和であり、
文字通り「機動戦士ガンダム」「ダーティー・ペア」「アリオン」で
言わずもがなのデザイナー(漫画家)である。
しかしながら、この「クラッシャー・ジョウ」は、
今は亡き『マンガ少年』に1979年計3ヶ月連載されている。
このマンガ雑誌は、実は漫画家フリークには超有名で、
かの手塚治虫「火の鳥」、石森章太郎「サイボーグ009」
そして大友克洋「SOS東京探検隊」(単行本持ってます、もちろん火の鳥もだけど)
までもが連載、掲載されていたマニアックにしてカリスマ的雑誌なのだ。

ぼく的には、細野不二彦と言えばサンデー連載の
「さすがの猿飛」「GUーGUーがんも」「どっきりドクター」
なんかがインスパイアされる。
まあ、アニメにもなった作品だけに印象強いですよね。

そんな中で、「ママ」という作品は、
17歳の高校生・萩原行と同じ17歳にしてバツイチ子持ちの江夏みさを、
そして行の同級生で恋人となる佐倉恵との三角関係をベースに、
江夏の息子である留ボーがトリックスターとなり、
最終的に行と江夏が結ばれるというストーリーである。

ところで、この作品によく比較されるのが、
同じ小学館のスピリッツで連載していた「めぞん一刻」である。
この作品も、未亡人の音無響子と浪人生の五代裕作の恋愛劇で、
このときのトリックスターは音無響子の飼い犬にして、
音無響子の死んだご主人と同じ名の「惣一郎」
そして一刻館に住まう怪しい人々であり、
この辺はルーミックワールドの何ものでもない。

だから、このふたつの作品は設定は非常に似てるにしても、
似て非なり、といった感じがする。

ということで、この細野不二彦の「ママ」については、
いまの自分の立場にとてもマッチした、
非常に酷な作品として記憶されることになった。

ところで、細野不二彦って、もともと「スタジオぬえ」という
80年代のアニメではとても活躍したアニメ制作会社の出身だったんですね。
まあ、おたくな話題で申し訳ないが・・・

夢戦士ウィングマン 実写化待望!

2006年05月19日 00時23分43秒 | 最近のレビュー
こないだ久々読み返してたら一気に読破してしまった。なかなかいまでもおもしろい作品です。
「夢戦士ウィングマン」
桂正和のデビュー作で、1983年から2年ほど週刊少年ジャンプで連載した。

主人公の広野健太はヒーローおたくで、実際にウィングマンなるヒーローを自ら作り、コスチュームも自作しコスプレよろしく、正義の味方ごっこをしている中学生。
そこに、異世界よりもたらされた、書き込んだことが叶ってしまう、デスノートのようなノート「ドリームノート」を巡って、地球と異世界との現実の戦いが始まり、健太は本物のヒーローとして戦いながら成長していくのだ。

しかしながら、実際はいわゆるヒーロー物のパロディであり、どちらかというと学園ラブコメというストーリー設定で、これに、あおい、みく、ももこ、布沢久美子、アイドルのくるみ、そしてリロといった美少女キャラがウィングマンを中心に活躍する。当然、恋愛劇にも発展していく。

このウィングマンのヒットは、実は彼女たち美少女キャラの完成度にも大きく起因している。

桂正和自身、後の「電影少女」や「I"s(アイズ)」でもわかるように、美少女キャラを描くことによりすばらしい才能を発揮する。

結果的に桂正和は美少女を描くことに方向性を求め、そっちのオタクな方々の支持を得ることになるわけだが、
再度この作品「ウィングマン」を見直してみると、そのストーリーや表現方法の秀逸なことに驚く。
特に、あおいの生まれ育ったポドリムスがリメルによって征服され、ウィングマンによって奪還するまでのストーリーは
かなり秀逸であると思う。逆に、その後のお話はなくてもよかったかも、って感じですが・・・。

でもでも、最後のすべての記憶を消し去り、過去に引き戻し、お話を終焉させるあたりは
さすがおたくな桂正和らしいラストだったと思う。

アニメにもなったが、これは実写化も可能なストーリーである。
クドカンが哀川翔と三池崇史とともに世に送り出した「ゼブラーマン」に通ずるヒーロー映画になると思う。
戦隊物や仮面ライダーシリーズとは異質なものとして、「アリ」だと思う。

実写化したウィングガールズが見てみたい、というエロ親父的見解が実は本音なんだけどね(*^。^*)

性教育としてのメルモ

2006年02月16日 23時39分24秒 | 最近のレビュー
手塚治虫が性に対して突っ込んだ作品を残したとすれば、そのひとつは「ふしぎなメルモ」である。

メルモは、天国のお母さんから若返ったり、大人になったりする不思議な魔法のキャンディーをもらい、そのキャンディーでいろんな事件を解決していく、いわゆる魔法少女系の作品だ。

しかし、手塚作品だからなのか、ストーリーはエスカレートしていく。
大人の女になったメルモは、9歳のくせにエロティシズムを感じさせるような容姿になり、それ相応の反応を回りはし、そういうことを想起させる描写がアニメで表現される。
そうかと思えば、どんどん若返っていき、しまいには受精卵、そして精子と卵子に分離し、微細胞レベルまでミクロ化していく、という生物学的な表現が現れる。

まさに、性教育を絵に描いたようなアニメである。
実のところ、ぼくはこのふしぎなメルモで精子と卵子が受精して子供ができることを知った。おそらく10歳ぐらいのメルモとそう対して変わらない年齢だったと思う。そんな内容は理科の授業でもまだ出てこないし、まして性教育にはあと2年ほど早い時期である。
ぼくはこのことを知ったとき、当然精子と卵子が結合する行為がどのようなものかについては無知だったことは言うまでもない。

では、どのように結合するのか。

この時期、男女が結合するなどキスという行為以外知らないわけで、ぼくは口から口へ精子が運ばれ卵子にたどり着くのだと真剣に想像した。しかし、そのときの疑問は、では挨拶代わりにキスをする欧米人はいつでも妊娠してしまうのでは、ということだった。

こんな気持ちの悪い想像をさせる「ふしぎなメルモ」は、おそらく手塚治虫だからこそ創造しえた性教育漫画であると思う。

カーリングといえば「ちょっとヨロシク!」

2006年02月15日 02時03分43秒 | 最近のレビュー
カーリングは初戦惜しくもロシアに逆転負けをしてしまったが、
見てるとやっぱり引き込まれてしまう案外面白いスポーツだ。

カーリングって氷上のビー玉って感じの戦略スポーツだよね。

ところで、カーリングをなぜぼくは知ってるんだっけと思ってふと考えたら、
そうです、週刊少年サンデーで連載されていた吉田聡の漫画
「ちょっとヨロシク!」が後にも先にもこれだけなのだ。

この漫画は、
スポーツ万能で成績優秀の一年生・羽田に対して、ライバル心むき出しの3年生番長の苺谷が、羽田を負かそうといろんな部活を設立して対決するギャグ漫画。部活を設立しては羽田に負けて、次の部活を設立してまた負けてというパターンなんだけど、この部活の中でカーリングが登場するのです。

もともと吉田聡は湘南爆走族でブレイクした漫画家。その後、小学館のサンデーに移って始めた漫画で、だからギャグのセンスはかなり一流だ。

吉田聡の奥深さは、いろんなマイナーなスポーツを登場させるのだけれど、
それをきちんと説明して、読者に興味を持たせている。
いま読んでもおそらくとても新鮮に感じるような漫画かもしれない。

原作「風の谷のナウシカ」

2005年09月29日 22時58分04秒 | 最近のレビュー
「風の谷のナウシカ」と言えば、ジブリアニメの第1作目として多くのファンを持つアニメ映画でありますが、この映画には原作の漫画があったことはあまり多くの人は知らないようです。また知っていてもきちんと完読されている人はさらに減るでしょう。ちなみに、実はこの作品はジブリが作ってません。ですから実際のジブリ第1作目はラピュタの方です。

原作の「風の谷のナウシカ」は、当時オタクやおたくがまだそのように呼ばれるちょっと前に、比較的清く正しいアニメ雑誌として徳間書店から発刊されていた「アニメージュ」というアニメ雑誌に連載されていました。

もともとアニメ化を前提とした企画だったのですが、連載の途中でアニメの方が先行して放映され、中断に中断を重ねながら、結局13年の連載期間を経て完結したのです。そのためなのか、アニメの方は原作の2巻目途中までの設定しか含まれておらず、ワイド版で7巻まであるストーリーにはもちろん対応していませんが、その設定すらも踏襲できておらず、風の谷とトルメキアの2項対立を巨神兵という過去の生物兵器を基盤に描いた勧善懲悪のお話に終始している気がします。

しかし、原作の「風の谷のナウシカ」はもっと複雑でグロいストーリーになっています。アニメには出てこない第3の種族である土鬼諸侯連合(ドルク)が持つ不可思議な力や文明を焼き尽くした「火の7日間」と呼ばれる最終戦争の謎、さらには腐海で生きる第4の種族である森の人など、話は想像を絶するところに膨らんでいきます。

自然と人工物の対立を描いていると思いきや、自然の象徴である王蟲でさえ、実は人間が作り出した人工物であった、というオチは、宮崎駿が創造する究極の人間悪なのかもしれません。

原作を完読して思ったのは、大友克洋の「AKIRA」にすごくよく似ていると思いました。人間の都合の良いように自然や生き物に手を加えていくことによって生まれるもの、行き着く場所がなんなのか、それを創造したのではないかと思うのです。

ところで、宮崎駿はずっとナウシカ的なヒロインを描き続けているようにも思います。原作のナウシカは巨神兵にしろドルクの王にしろ敵や悪を内包してしまいます。千と千尋でも千尋は顔なしを助けます。また、ハウルでもソフィーは荒地の魔女をかばいます。そういうキャラクターが宮崎駿のヒロインの原点であり、それは母性であると思います。

原作で描かれたものは、アニメでは描かれない、描くことができなかった、強くて怖い母性の人としてのナウシカであると思います。それこそが宮崎駿が描きたかったものだったのではないでしょうか。