心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

3・11以後に向けて(5) 2011/05/31 09:08

2011-07-03 00:28:00 | 3・11と原発問題

自由(自発的)で平等(相互的)な「特別な共同体」を生んでしまう、この<災害ユートピア>(レベッカ・ソルニット)の側面を、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”のスローガンは、果して促進しようとしたのか、隠蔽しようとしたのか。自由で平等な友愛のエネルギーを存分に横溢させようとしたのか、それともそのエネルギーを、内側にも外側にもはみ出さないように囲い込み・去勢し・水路づけようとしたのか。なにしろ、歴史上多くの災害は、“いま・ここ”にユートピアを現出し、そのまま革命にすら転化していってしまう危うい可能性を秘めるものだったのですから。

1906年のサンフランシスコ大地震では、渡米中に被災した幸徳秋水が、澎湃たる相互扶助の自然発生に「無政府共産」の一挙実現をみて、「愉快なり」と快哉を叫んだ手紙を日本に書き送っています(その5年後、今からちょうど100年前に、日本政府のでっち上げた「大逆」の獄に刑死)。
1923年の関東大震災でも、たとえば芥川龍之介は、「大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だった。僕は永久にあの記憶だけは大事にしておきたいと思ってゐる。」(「大震雑記」)と記しています(その彼自身は4年後に、「ただぼんやりとした不安のために」と書き遺して自死)。にもかかわらず、いや恐らくだからこそ、官憲自らデマで人心を煽動し、朝鮮人大虐殺へと導いたのでした。この官憲のデマと、わがスローガンとは、果たして同じ機能を果たすものなのか違うものなのか・・・
そして今日では、1972年のニカラグア地震と7年後のサンディニスタ革命、1985年のメキシコシティ大地震と以後の民主化革命。さらには1991年のソ連崩壊も、元大統領ゴルバチョフの述懐によれば、彼の推進したペレストロイカよりもチェルノブイリ原発事故が、真の原因・転回点だったというのですから、もうとても他人事ではないですよね。

それでなくても、今日の「リスク社会」と呼ばれる段階の「リスク」は、今までの危険一般と違って、どのリスクも発生地をこえて脱領域的・超国家的に広がってゆき、いわば危険そのものが、それだけですでに世界中の人々を、さらには地球上いっさいの山川草木悉く皆をも、共通の運命のもとにつなげてしまう可能性をもっています。
<存在>の脆弱な偶然性を逃れる(=克服する!)ために、懸命に発展を重ねてきた近代文明は、その進歩の尖端において、ほかならぬ僕らの脆弱性・偶然性をかえっていっそう強烈に炙り出し、切実に向き合わずにはいられなくさせてしまったのでした。

さてそれでは、3・11大震災は、ついにいよいよ”万類共存の一大ユートピア社会”への突破口を切り開いたということでしょうか。“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”のスローガンの覆いの下で、実はもう僕らは、この”いま・ここ”に、自由でかつ平等な、新たな理想社会を築き始めているということでしょうか。またそのとき、このユートピアは、いったん成立すれば、あとは順調に発展してゆくものなのでしょうか。

その点で忘れてならないのは、被災地に決して少なくないと伝えられる盗難や略奪、そして性被害などの実態です。
「日本社会の美徳として、災害のあとに略奪が起こらないという神話は、今回の震災で少し揺らいでいた」(朝日新聞グローブ63号)とは、石巻を中心に被災地を回る、復興会議のメンバーの1人・高成田享氏のことば。もっともこれまでも、それらは公にされない暗数として常に存在してきたのではないか(とりわけ性被害)、「日本社会の美徳」神話こそがむしろそうさせてきたのではないか、との疑問符は外せません。そのことでやっと少し真実に接近できるといったところでしょう。

たしかに今回の震災では、被災地の半壊したコンビニや商店、ATM等の、震動や津波でなく叩打によって破られたガラスの決して少なくなかったことを、報道も知人も教えてくれます。宮城県内のコンビニやホームセンターでは、仙台市の都市部を中心に、震災に便乗したとみられる夜間の窃盗ないし窃盗未遂事件が、震災後3日間ですでに40件にも上ることを、県警が発表しています(読売新聞3月15日付夕刊)。岩手県山田町では、津波で流されたパチンコ店の両替機がこじ開けられて現金二百数十万円が盗まれ(毎日新聞3月30日付夕刊)、福島県大熊町の避難指示区域にわざわざ栃木からやってきた男が軽乗用車を盗んで逮捕され(毎日新聞4月5日付)、福島県いわき市では市内在住の若い兄弟が民家から現金などを盗み、腕時計や指輪等を都内の質屋に持ち込んで逮捕される(毎日新聞4月29日付)、などの報道があります。
避難生活者の間でも、高成田享氏が被災地で聞いたところでは、被災後2日間は乏しい食べ物を分け合って我慢していたが、3日目になると、しばしば食事の取り合いや喧嘩が始まったとのこと(前掲紙)。なかには昼間からの飲酒や賭博・・・。岩手県大槌町の避難所では、支援に来た北海道南西沖地震の被災者と避難住民たちが、夜のたき火を囲んでギターで歌っていたところ、すでに就寝していた避難住民と口論になり、殴り合い寸前になる一幕もあったことが報じられています(東京新聞4月8日付)。
避難所での女性の性被害もまた、阪神や中越の時と同様、やはり非公式ながら被害が報告されていることを忘れてはなりません(東京新聞4月7日付夕刊)。そしてここで確認しておきたいのは、これらの事実をもまた、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”のスローガンは隠蔽することができる(そして事態を促進してしまう)ということです。「全国女性シェルターネット」の代表のお話では、過去の事例でも、「被害者が訴えても『こんな時に何を言うのか。加害者も被害者だ』と逆に叱られ、闇に葬られた例は少なくない」とのこと(同紙)。・・・ああ、かくまでもかくまでも、”ニッポンはひとつ”(加害者も被害者)、“がんばろうニッポン”(こんな時に何を言うのか)!
この「日本社会の美徳」!

それにしても、そもそも災害時になぜこうした無法な行為が発生するのか。災害ユートピアでは、法律や警察が無効になり、ほどなく利己主義に支配されるからでしょうか。それなら上にあげた、より理想的な社会を建設していったいくつかの事例が説明できません。むしろそれは、ユートピアが十分な支援で支えられず(つまり外部の方が勝手にユートピアから醒め)、孤立する時に、そして孤立すればするほど、起こりやすいのではないでしょうか(被災地の窃盗事件が都市部の方に多いのもそのためかもしれません)。あるいは逆に、ユートピアの「無法」を勝手に恐れた公権力の過剰な介入が、一種の「予言の自己成就」のようにして、それを惹起してしまうのではないでしょうか(関東大震災の官憲デマはその極限例)。いずれにせよ要するに、避難生活とその支援の条件が、被災当事者にとって、あまりにも(つまり過少にも過剰にも)不適切で、不安や恐怖、不信、苛立ちの昂じるなかで生じるのではないでしょうか。

しかし結論を急ぐ前に、まだ手を着けていないもう2つの時間的符合の件がありました。まずはその検討をしておかなければなりません。

<つづく>

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