心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

3・11以後に向けて(6) 2011/06/20 19:04

2011-07-03 00:29:00 | 3・11と原発問題

そこで第2に、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”の連呼と、原発事故の危機的事態~「計画」停電の時期的符合に話を移しましょう。
震災直後かなり早い段階から、多くの人々によって、“地震・津波は天災でも、原発は人災”と口々に語られてきました。“天災”に加えて、その“人災”が、日に日に最悪の様相を呈しつつあったのがこの時期でした。しかも当時発表されていたよりも、事態はずっと悪いものだった。そして驚くべきことに、ていうか恐るべきことに、多くの人々が、合理的にも非合理的にも、そのことを当時とっくに察知してしまっていたのです。察知はしているものの、ただ、その確実な証拠を誰もつかむことができない。この宙吊りの不安! その不安があの頃は至る所に蠢いて、本当に大変でしたね。自然堂の界隈でも、疎開・転居・海外移住…などなどをめぐって、軋轢・葛藤・論争その他さまざまな波紋がありました。その濁流の中で心身の調子を崩し、今なお復活しきれずにいる方もあります。でもいっそう恐るべきことは、その宙吊り構造は今も何ら基本的に変わっておらず、かえってますます見えにくくなって潜行していることではないでしょうか。
なぜ誰も確たる証拠をつかめないのか。いうまでもなく情報が隠され、あるいは操作されているからです。当時(も今も)、東電・政府~マスコミ等から伝えられた情報は、過大にも(チェルノブイリ型の爆発の可能性など)・過小にも(原子炉内外の状況や放射線量等のデータなど)信頼性に欠けるものばかり。これら両極端の煙幕に巧みに守られながら、実際にはすでにこのとき福島第1原発の3機ともがメルトダウンしていたことが、震災から2ヶ月も経ってから、しぶしぶ「認定」される体たらくです。はじめから知っていて、隠していたのだろう? といわれても無理のない話です。

ではなぜ、正しい情報さえもがきちんと一般に公開されないのか。「国民の不安を煽るようなことになってはいけないから」というのが、ほとんどお決まりの答えです。まるでデマへの対応みたいじゃないですか。正しい情報もデマ情報も扱いが変わらない。そう、いま僕らは、どんなに科学が進歩しようが(あるいはそれゆえに?)、真の情報もニセの情報も機能的には区別を失ない、同じものとして流通する世界の中に引き入れられています。内容が正しかろうがデマであろうが、その情報が「国民の不安を煽る」(と想定される)かどうか、社会秩序を乱す(と想定される)かどうかだけが重要であり、そうしたパニックを引き起こさない(と想定される)情報こそが、今や唯一「正しい」情報というわけです。
なんと国民思いの指導者たちでしょう! “大本営発表”だと揶揄する声も盛んでしたが、たぶん根はもっと深くて、そこに流れるのは、もともと『論語』に由来し、江戸幕府で大幅に採用され、明治天皇制でかえって増幅され、戦時体制をへて戦後システムにも継承され、日本的ネオリベを補完する新保守主義にまで一貫した、あの“由らしむべし、知らしむべからず“の儒教的パターナリズムではないでしょうか。何が「正しい」ことか、何が「正しくない」ことか、何が知るべきことか、何が知らなくてよいことか、1人1人が判断するのではなく、”お上“が決めてくれるんです。見るも麗しい<公助>です。そうと決まったら、あとはそれに従って、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”で行くのが一番「正しい」んです。すると俄然みんな元気になります。何のために団結してるのか忘れるぐらいに元気になります。まるでこれこそが<共助>のような気さえしてきます。あの時期にこのスローガンが出てきたのも当然だったのでしょう。

ただ、どうしても1つ気がかりが消えません。僕ら「国民」は、本当のことを知らされると、本当にそんなに不安に陥って、パニックしてしまうものなのでしょうか。むしろ中途半端にしか知らされない方が、宙吊りの不安でパニックも起こしやすくなるのではないでしょうか。さらにはむしろ、知らせまいとしている側の方が、勝手な想像を逞しくして、よっぽどパニックしていることはないでしょうか。
ここで、アメリカの災害社会学でいう「エリートパニック」のことを思い出します。それによると、災害の際には“普通の人々“がパニックになるのではなくて、むしろエリートの方が、社会秩序の混乱(と想定されるもの)を自分たちの正統性に対する挑戦として恐れ、パニックに駆られて、いっそう権力的な行動に出てしまうのです(再び関東大震災の官憲テロを思い出します)。つまり、普通の人々がパニックを起こすのではないか、と想像してエリートがパニックを起こし、そのエリートのパニック行動によって、普通の人々もパニックを起こしかねないというのが、むしろ実態に近い。ただ恐らく、エリートのパニックの方が、(権力をもつ分だけ)より「理性的」な相貌をまとうので、パニックとして見分けがたいということはあるでしょう。

たとえば最近でも、6月11日の脱原発全国行動のデモを、石原伸晃・自民党幹事長が、「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」とか言って、自分は理性的なつもりになっていますよね(読売新聞ほか6月15日付)。では石原氏にお伺いします。石原氏もその中心にいた、菅内閣不信任案をめぐる一連の騒動は、あれは政界の与野党挙げての一大集団ヒステリーではなかったのかと(ちなみに僕は、断るまでもなく、菅氏の支持者ではありません)。
まあ仮に、脱原発デモが集団ヒステリーだったとしても、それでも政界の集団ヒステリーに比べたら、脱原発デモの方が、“原発は恐い”“恐いものは恐いと言っていいんだ”と、自らのホンネを衒いなく表明していた点で、一見「ヒステリック」なようでいて、実はずっと理性的だったように思います。それに比べて政界の集団ヒステリーは、何がホンネなのか、ついぞ表明しえない。隠すことしかできない。隠しているのを自分でちゃんとわかってるのかすら怪しい。だから一見「理性的」なようでいて、その分ずっとヒステリックでした。さまざまな政治的利害の思惑の、さらにその根底のところで、本当のところ何を恐れていたのでしょうか。恐いものは恐いと、みんなの前で言っていいのですよ。どうぞ言ってください。

<つづく>

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