やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(8)

2007-05-01 14:27:31 | 古代史
 直接、本題に入ります。
<春二月の…に、天皇、大皇弟(大海人皇子、後の天武のこと)に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上(このかみ。氏の代表者)・民部(かきべ。氏に供給される民、令制での封戸の前身か…と)・家部(やかべ。氏に供給される賎民、令制の家人か…と)らのことを宣(のたま)ふ。その冠は、二十六階あり。大識・小識・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下…(後略)>(天智紀三年条、664年。旧唐書年で663年)
どうです、この冠位の大判振る舞いぶりは…。もしあなたが大和の王で、「白村江の戦」で大敗して王子や王族や重臣に大勢の戦死者や行方不明者が出ていたら、その大敗の翌年に「冠位二十六階」を定めるような気分になりますか。普通は朝廷の中は打ちひしがれた気分が支配し、お祝い事をしようなど思いもしないでしょう。それを現に、大和はしているのです。
このこと一つとっても、通説のように「日本書紀にそう書いてあるから、この戦の当事者は大和である」とはならないことがお分かりいただけたものと思います。
このあとには、大氏の氏上には大刀を、小氏の氏上には小刀を…と、贈り物なども書いてあります。大和においては、天智をはじめ誰一人として戦死者も戦傷者もいなかったから、できたのでしょう。よほど眼の上のたんこぶ的な、なんとも目障りで癪にさわる存在であった「九州王朝」の敗北が嬉しかったのでしょうか。
「さあ、これから大和の時代…」と思ったのでしょうが、しかし実際はそうはなりませんでした。名目上にせよ、列島を代表する主権はこれより三十七年も九州王朝にあったようです。

 <この月(冬十月)に、高麗の大臣蓋金(泉蓋蘇文のこと)、その国に終(う)せぬ(亡くなった)。児らに遺言して曰く、「汝ら兄弟、和(あまな)はむこと魚と水との如くして、爵位を争ふことなかれ。もしかくの如くにあらずば、必ず隣に笑はれむ」といふ。…(中略)
この歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国らに、防(さきもり)と烽(すすみ。のろし)とを置く。また筑紫に大堤を築きて、水を貯へしむ。名づけて水城(みずき)といふ。>(天智紀三年条)
前半は高句麗の泉蓋蘇文が亡くなる時、仲の悪い三人の息子に「仲良くせよ。そうしなければ隣から笑われるぞ(つまり、唐や新羅から攻められ、百済や筑紫倭国みたいに滅びるぞ)」と遺言した話です。岩波書紀では、「十月は合っているが、年は翌年(664年)ではないか」としています。実際兄弟が割れて、高句麗は668年には滅んでしまいますが…。高句麗は五王時代の筑紫倭国とは敵対し、隋・唐の時代には百済と共に九州王朝と仲がよかったようです。
 後半は、九州王朝が壊滅的打撃を受けたことを横目に、防人を置いたとかのろしを設けた…などの記事ですね。果ては「水城」を築いた…と。
しかしわたしは「「倭の五王」の五世紀(11)」で、「水城より発掘された「木樋」を放射性炭素(C14)年代測定法で測定したら、「この木が伐採されたのは、430±30年」という結果が出た」…と書いたことを覚えておられると思います。そして、「乾燥させ、板に加工し、それを樋に造り、80mほどの長さにつないで五ヶ所ほど大堤の下に埋め、上流より下流へ水が流れるようにする。水城は、五世紀も終りのほうで構築されたのでしょうか」とも書いています。
つまり日本書紀にどう書かれてあろうと、神籠石といわれた「山城」やこの「水城」は、筑紫倭国の胎内で五世紀後半に造られた…ということです。

 さて、いよいよ筑紫に唐の占領軍がやって来ました。
<十一月に(9日)に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送る。(13日)に司馬法聡ら、罷り帰る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以って、送使とす。>(天智紀六年条、667年。軍使往来や旧唐書年のズレ4年を考慮し、663年)
この境部連石積という人物は、天智四年条(665年。実際は4年のズレで661年)にある「最後通牒に来た劉徳高らと共に唐に渡った守君大石の副使」でした。このときの唐使の司馬法聡らの人員は不明ですが、軍を引き連れてきていることは確実でしょう。敗戦後一年ほどの筑紫太宰府を偵察し、かつ再び反抗しないように軍を留めた…と見ます。その目の前で水城を築き、防人を配置し、大野城や基肄城を造った(下記、四年条)…?? そのような敵対行為が出来るはずはないではありませんか。やはり書紀の記事には、大いなる潤色・文飾があります。
 司馬法聡らは、石積らを「筑紫都督府」に送って来た…とありますね。これに対する岩波書紀の注は、「筑紫太宰府を指す。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」とあります。ではその「原史料」を、私たちは見ることができるか。学者の頭の中だけにあり実在しませんから、見れません。追試験が不可能な学問は、科学的ではない…。古田先生は、そういわれます。
あくまで素直に、筑紫王朝の首都であった五世紀以来の「筑紫都督府」であり、のち五世紀終わりに倭王武が「開府儀同三司」を自称し、七世紀始めに九州王朝と称してからはそれが「太宰府」と呼ばれた…と考えましょう。百済の都を熊津都督府といい、倭の都を筑紫都督府…といった。「都督」は「倭の五王」が任じられましたが、「太宰」は倭王武の自称でしたから正式名をとった…だけの話です。

<秋八月に、達率答本(火偏)春初を遣わして、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き。基肄城のこと)、二城を築かしむ。>(天智紀四年条、665年。旧唐書年で664年)
この大野城や基肄城も、都督府の逃げ城として「倭の五王」時代、五世紀後半に築城されたのです。
通説では「亡命百済人の技術によって築いた」と安住しているようですが、取り巻く状況が許しません(上記解説)。

 いよいよ本格的な占領軍の上陸です。
<この歳、…(中略)また大唐、郭務悰ら二千余人を遣わせり。>(天智紀八年、669年。軍使及び旧唐書年に対し4年のズレより、665年)
二年前の司馬法聡は、小部隊を留めて占領政策の拠点の構築に従事させたのかもしれません。そしてそれが出来上がり、二千余の兵が郭務悰に率いられて上陸しました。どうも肥前(佐賀県藤津郡)多良に本陣を置いたようです。
それは従来余り意味の分からなかった次の歌(万葉27番歌)に、古田先生が新しい解釈で息吹を吹き込まれたことで分かります。まず元暦校本の原文を示します。
   淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見(与) 多良人四来見
  (淑人の 良しとよく見て 良しと言ひし
                  吉野よく見 多良人よく見) 
元暦校本では「多」ですが、通説の解説では後代訂正になるカッコ内の「与」を採用し、前につけて下段を「吉野よく見よ 良き人よく見」としています。代表で岩波万葉の解釈を紹介しますと…、
  「昔のよき人が 良い所だとよく見て 良いと言った
                  この吉野をよく見よ 今の良き人よ」
この歌の題が「天皇(天武を指す)が吉野宮に幸したまひし時の御製の歌」ですから、この題に引きづられた解釈であることは間違いありません。要するに「吉野賛美の祝言性が溢れている…」とされています。
古田先生は、次のように解釈されました。(「壬申大乱」による。)
  「唐の将軍郭務悰殿は、わしの説得に応じ「よし、やれ」と言ってくれた。
   この肥前の吉野で…だ。多良に陣を置かれているあの方が…だ。
   さあ、すべて整った。」
そうです。この歌はあの672年の「壬申の乱」に突入する前、天武は多良にいる郭務」と密会し、「乱を起こす許可」を得たときの歌だ…とされたのです。ですから歌中の「吉野」は大和の吉野ではなく、肥前の吉野としなければなりません。
「淑人」とは単に「良き人」にはあらず、身分の高い政治・軍事に携わる貴人に対しての言葉だったのです。また万葉25番歌も息吹を吹き込まれた一つですが、改めて紹介しましょう。

<春正月の(3日)に、皇太子(中大兄皇子)、天皇の位に即く。…(中略)
冬十月に、大唐の大将軍英公、高麗を打ち滅ぼす。高麗の仲牟王(伝説上の始祖。好太王碑に鄒牟王)、初めて国を建つるときに、千年治めることを欲しき。母夫人の云ひしく、「例え善く国を治むとも、得べからじ。但しまさに七百年の治あらむ」といひき。いまこの国の亡びむことは、まさに七百年の末にあり。>(天智紀七年条、668年。旧唐書年で667年)
これまで天智は、「称制(即位の式を挙げずに政務を摂ること)」していました。7年目にして、正式に即位しました。
高句麗が亡んだのは旧唐書によれば668年ですから、泉蓋蘇文が亡くなった時と同じく一年前に記しているようです。高句麗の建国は紀元前37年といわれていますから、まさに700年の末であったのです。

 旧百済の熊津都督府には唐軍が駐屯していましたが、新羅は百済の旧領への侵入すを繰り返し、そのため唐と新羅間に緊張が走りました。新羅が感じた緊張の度合いを見てみましょう。
<…また消息を通ずるに曰く、国家(唐のこと)、船艘を修理し、外、倭国を征伐するに託し、その実は新羅を討たんと欲す、と。百姓これを聞き、驚愕して安からず。>(三国史記新羅本紀、668年条)
唐が船を修理したことに対し、疑心暗鬼の新羅の君臣は、「倭国征伐と言って船を修理しているが、本当はわが新羅にその矛先を向けるのではないか…」と驚いて、心が休まらなかったという一面を伝えています。ここでいう「倭国」は、九州王朝の残影のような気がします。
しかしこの8年後、新羅は唐より半島の領有を認められ、唐の属国としての道を歩み始めました。

 さて今回はここまでとしましょう。
「冬の陸戦、夏の海戦」で完膚なきまでに叩かれ、天子幸山も行方不明のまま年は流れていきます。しかし九州王朝の山河は、毎年同じ変化…春は桜、秋はもみじと…を見せてくれたのでしょう。
   国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心
   烽火連三月 家書抵万金 白頭搔更短 渾欲不勝簪   杜甫
  (国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火(ほうか)三月に連なり 家書万金に抵(あた)る 白頭を掻けば更に短く 渾(すべ)て簪(しん。かんざし)に勝(た)えざらんと欲す)     (諸橋轍次「中国古典名言事典」より)