やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(2)

2007-05-11 11:49:07 | 古代史
 古田先生に、次の著書があります。
  1)「人麿の運命」        原書房  1994.3
  2)「古代史の十字路 万葉批判」 東洋書林 2001.4
記紀の中に歌謡が散りばめられていることはご承知の如くですが(岩波文庫に「記紀歌謡集」武田祐吉校注などもある)、その歌謡の中身と表題が違う…と思われたことが万葉などに取り組まれたきっかけだったそうです。
万葉などを考えるとき、下記もお手元にあったほうがいいでしょうね。
  3)「万葉集」 鶴久・森山隆編 おうふう 昭和47.4初版
  4)「万葉集」 岩波:日本古典文学大系、小学館:日本古典文学全集など

 さて始めに、「歌謡は歌の中身そのものが第一史料(直接史料、同時代史料)であり、前書きや後書きは第二史料にしかすぎない」…という、先生のお考えにぴったりの和歌を紹介します。
 「古今和歌集」で、阿倍仲麻呂の歌です。
この仲麻呂という人は、あの列島の実権が大和王朝に移った701年(大宝元年)に生まれ、17歳で留学生として唐に遣わされました。唐では王維や李白と親交を重ね、可愛がられたそうです。そのようなある日の明州での宴で、詠んだ歌とされています。53歳のときに鑑真和尚の渡日に尽力し、自らも帰国を試みましたが失敗しました。その後玄宗皇帝に仕え、左散騎常侍・鎮安南都護などを歴任し、結局唐に骨をうずめました。さて…、
  前書き:もろこしにて月を見てよみける
  和歌 :あまの原 ふりさけみれば かすがなる 
        みかさの山に いでし月かも     :巻九406番歌
  後書き:(土佐日記に、「青海原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」とあることが紹介されている。)
<通説>:「あまの原ふりさけみれば」は、「遠く目を放って大空を見ると(見える月は…を補う)」という意味。「かすがなるみかさの山(に)」は、今の奈良県の東部、春日の地にある御蓋山。春日山の一峯で、山腹に春日神社がある。「いでし月かも」は、「出た月かなあ」と日本にいたころ出た月かとなつかしむ心を表している。(岩波「古今和歌集」による)

 古田先生によると、いろいろ疑問があるのだそうです(教師時代に、生徒から尋ねられて答えに窮した…というエピソードも書かれています)。
(1)明州は浙江省の東海岸にあるそうですが、そうであれば月は"海上"に出ているはずだから、ことさらに「天の原ふりさけ見れば」というのはなぜか。土佐日記で「青海原」と改訂されているのは、確かに"海上"と理解したからだろう。
(2)中国の人々の前で作られたのなら、いきなり「春日なる」では理解不能ではないのか。「大和なる春日の」とか「大和の三笠山」が分かるのではないか。
(3)春日大社の裏(東)に御蓋山はあるが、海抜294.1mの低い山いや丘だ。ここから「月が出る」とはいいがたい。その背後(東)の春日山は496mであり、せめて月はこの山から出る。しかも大和盆地の海抜約100mを考慮すると、実感する高さは遥かに低い。
(4)この地理的視覚的無理を解決せんとして、右手の若草山が「三笠山」に当てられた。しかし海抜341.8mのこの山から出る月を見れるのは、ごく限られた地点だけだ。多くは背後の高円(たかまど)山432mや、春日山496mから出る月を見ることになる。
(5)現地の固有名詞としての「みかさやま」は、当然「御蓋山」だ。若草山を当てたのは、この仲麻呂の歌のためであろう。
(6)「御蓋山」は春日大社の背後にあって、古くからの聖山である。やはり「みかさやま」というのは、この「御蓋山」以外にはない。そうすると、上記の諸矛盾・無理が生ずる…。
ではこれら疑問は、解決できるのか…。

 その疑問の糸がほぐれだした第一歩は、博多から対馬へ船で行く途中壱岐の北端を通られたときだそうです。
(1)船員さんに岬の名を聞かれたところ、その答えは「天の原です…」と。知識としては知っていた「天の原遺跡」のあの「天の原」か…と。
(2)そうすれば、「三笠山」とは福岡県のいまは「宝満山」といっているあの山ではないか。ほぼ平地にそそり立つ宝満山の標高は、869m…。「御笠川」もあり「御笠郡」もある…。宝満山の頂には、「三列石」がある。つまりこの三列石を「三つの笠」に見立てた命名ではないか…。
(3)そして「春日」とは、当然いまの「春日市」を含むのだろうが、古にはもっと広い地域を網羅していたのではないか。「か」は「神」であり、「す」は「住まう、居す」であり、「が、か」は「ありかなどの接尾語」だ。
(4)「春日―三笠(御笠)」のセットは、筑紫より大和へ移動し「春日―御蓋」となったのではないか…。
(5)太宰府の住人であれば、どこから見ても月はこの宝満山、つまり三笠山から出るのだ。
(6)万葉2675番歌、女性の恋の歌「君が着る三笠の山にいる雲の立てば継がるる恋もするかも(三笠山に雲が立ち、消えたかと思うとまた継いで雲が立つように、わたしのあなたに対する思いは"消そう"と思ってもまた涌いてきて止むときがありません):古田先生解釈」の「三笠山」も、大和のそれではなくここ筑紫の山ではないか。900m近い山の頂は、よく雲が巻いていることがある。
(7)これは仲麻呂が留学するとき、壱岐の北端でいよいよ日本とも別れるという「天の原」を通るとき、後ろを振る返って春日の三笠山から出る月を思いながら詠ったものだ。それをある宴会で披露したのだろう。「前書き」とは違う?
(8)恐ろしいことに、仲麻呂は太宰府あたりに土地勘を持っていた…。すなわち仲麻呂が生まれ育ったところは、筑紫太宰府だった…。

 歌は実地で実感するもの…。特に万葉の時代は史実や実際を踏まえた歌が多く、観念の歌は少ないようです。古田先生が、「歌の中身こそ第一史料」といわれる所以です。
通説のような解釈では、変哲もない望郷の歌に思えます。しかも低い御蓋山から出る月…と、実際にはない風景を想像たくましくして詠んだ…と。
何もかも大和に結びつけるのではなく、一旦立ち止まって「もしかして、筑紫…」と考えることが必要でしょうね。このため、古田先生が新たに解釈され、生き生きとした命を吹き込まれた歌を紹介していきましょう。では…。

筑紫倭国の終焉(2)

2007-05-05 12:36:04 | 古代史
 九州王朝は唐・新羅の連合軍に完膚なきまでに打ちのめされ、いまは細々と点いている最後の灯火まで消えようとしています。

 さて今回から、「続日本紀」の世界に入ります。引用する場合は、「続紀」としましょう。
さて大和の主は代わって、大海人皇子(天武)と鸕野姫(うの。持統)の孫である「豊祖父(文武・もんむ)」の時代です。今後は、「文武」で通します。697年に即位しました。その二年条に、面白い記事があります。
<三月(9日)、詔して、「筑前国宗形(むなかた)・出雲国意宇(おう)の二の郡司は、並びに三等已上の親(三等親以上の者)を連任する(続けて任ずる)ことを聴(ゆる)す」とのたまふ。(10日)、諸国の郡司を任じたまふ。よりて諸国司らに詔して、「郡司を銓擬(せんぎ。人の才能を測って適任かどうか決める)せむに、偏党(へんとう。偏る、えこひいきする)あること勿(なか)らしむ。郡司、任にいて須(すべか)らく法の如くすべし。いまより以降、違越(いえつ。違い超える、違反する)せざれ」といふ。>(文武続紀二年条、698年)
古田先生は、次のように解説されました。
(1)まず、「諸国の郡司を任ず」とあることより、これまでの九州王朝による「評」制度に代わり、大和王朝の「郡」制度を発足させる…との正式表明であることが分かる。これまでの「評督ー助督」に代わる「郡司(大領ー小領ー主政ー主張)」の任命である。原則として、九州王朝下の「評督、助督」は再任されないのだ。宗像・意宇二群を除いては…。
(2)次に、「宗像・意宇二群の郡司は三等親以上のものを続けて任じてもよい」とは、明記はされていないものの、やとえば父や伯父が「評督」などであった場合、子や甥が新制度下の「郡司」になってよい…という意味であろう。前者は九州王朝に深く関る人であったろうし、後者ははるか昔の出雲王朝の後裔であったかもしれない。
(3)また「郡司は任についたら、すべからく法の如くせよ。これより以降、違反するな」といういわでもがなの詔は、「いままでは九州王朝の法の下で地方の統治をしてきたであろうが、これよりは大和王朝の法による統治をせよ。決して間違えるなよ」という宣言だ。
古田先生はこのように解説され、この項は「先行した九州王朝の存在を抜きにしては理解できない」とされました。

 いよいよ大和王朝は、郡制を断行しました。
<夏四月(13日)、…文忌寸(ふみのいみき)博士(人名です)ら八人を南嶋(屋久島や種子島などの南西諸島)に遣わして、国を覓(もと)めしむ。よりて戎器(じゅうき。弓や刀などの武器)を給う。(文武続紀二年条、698年)
「国を覓める」とは、物見遊山や探検の類ではありません。武器を携えての、上記新制度の強要のことです。ですからたった八人で行ったのではなく、八人が率いる軍と共に行った…と理解すべきでしょう。

 九州王朝が衰えたとはいえ、地方はすんなりと承知するとは限りません。当然、抵抗するものもいたのです。
<六月(3日)、薩末比売(さつまのひめである。比売は女性の位)久売波豆(くめはず)、衣(えの。鹿児島県揖宿郡穎娃町・開聞町)評督(である)衣君県、助督衣君弖自美(てじみ)また肝衝(きもつきの。鹿児島県肝属郡高山町・内之浦町)難波、肥人(くまのひと)らに従いて、兵(武器)を持ちて覓国使(くにまぎのつかい)刑部真木らを剽劫(おびやか)す。ここに竺志(筑紫)惣領に勅して、犯に准(なぞら)へて(犯罪の大きさを勘案して)決罰せしたまふ。>(文武続紀四年条、700年)
この記事は、今まで書紀が必死で隠そうとしてきた九州王朝、引いてはその下での制度「評督・助督」がひょっこりと頭を出したものです。書紀の編者も「日本旧記」なる九州王朝に史書を露呈していましたし、続紀の編者も無意識に露呈させたのでしょう。
それにしても、ついに軍事衝突が生じました。「肥人」とは、太宰府の中枢にいた人でしょう。その人が、薩摩の巫女や評督・助督を従えて大和の勅使に反逆したのです。もうこの頃には、大宰府は大和から派遣された「筑紫惣領」なる官名あるいは人物に抑えられていたようです。だからこそそのことを良しとしない肥人が、薩摩や大隈の隼人に檄を飛ばしたのでしょう。
このようにして、大和は各地に「覓国使」を派遣し、「郡制度」の定着を強要していきました。

 そして次の年、時の唐の権力者である則天武后より、大和はその実力を認められました。列島の主権者…となったのです。
当然のこと、「建元の権」は大和王朝の手に握られました。
<三月…(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。元を建てて大宝元年としたまふ。始めて新令によりて、官名・位号を改制す。>(文武続紀五年目、701年)
誇らしげに建元し、「大宝元年」と宣言しました。本来であれば「大化七年」であるのですが…。ここに名実共に、九州王朝は滅亡したのです。そして701年以来こんにちの平成まで、いまの天皇家が改元する権利をお持ちなのです。

 しかしまだ九州王朝の旧臣が、山奥深く亡命(名籍を脱して逃亡すること)している…という厄介な問題が残っていました。その者たちの抵抗を排除しなければなりません。それで、詔を出しました。素直に従えばよし、従わなければ討伐する…ということでしょう。大和は、文武の母成姫(元明)の御世です。
<七月…(中略)、山沢(さんたく。山奥や川の上流の谷)に亡命し、軍器を挟蔵(軍事に供する武器・鼓・楽器などを所持)して、百日首(まう)さぬは(百日の間に自首しなければ)、また罪なふこと初めの如くせよ。>(元明即位前続紀慶雲四年条、707年)
九州王朝で使っていた軍器を持って、山沢に亡命している人々がいたのです。ですから、百日待ってやるから軍器を持って出頭せよ…と。九州王朝の旧臣らから、まずは武力を奪いました。そして次は…。

<正月…、山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首さぬは、また罪なふこと初めの如くせよ。>(元明続紀和銅元年、708年)
昨年は、「軍器」を供出させました。そして今年は「禁書」です。この「禁書」とは、なんでしょうか。まさに、いま…大和王朝の世となっては九州王朝の旧臣や大和王朝の臣らが個人的に蔵することのできない「九州王朝内部の文書」…、例えば金印「漢委奴国王」受領の文書(竹簡など)・俾彌呼の「表」の写し・倭の五王の「使持節都督」称号受領の写し・「日本国」自称の詔・史書「日本旧記」・「磐井律令」・「県風土記」・建元や改元の詔・「評」制施行の詔・九州王朝の歌集「倭歌」・百済三史料…などなどでしょうか。
これらを全て没収したのです。そしてこれらを駆使して、「日本書紀」は編纂されました。その三十巻は720年に上梓され、元正天皇に献上されました。
筑紫王朝―九州王朝の歴史を、大和の歴史と思わせる一大事業だったはずです。その思惑はまんまとあたり、未だにわたしたちは幻惑されているのです。古田説が世に問われるまでは…。そろそろ目を覚まさないと…。

 次に時代は少し下るのですが、古田先生が「これこそ、九州年号が実在した証拠…」といわれる記事を紹介しましょう。書紀が上梓された四年後、書紀が講義されているその真っ最中です。
<冬十月…、治部省、奏言すらく(お伺いを立てるには)、「京及び諸国僧尼の名籍(原簿)を勘撿する(調べる)に、あるいは入道の元由(僧になった元のいきさつ)、披陳(申し立て状)明らかならず(はっきりしません)。あるいは(僧尼の)名、綱帳(寺院などの帳簿)に存すれども、還て(かえって)官籍(官が保管する帳簿)に落つ。あるいは形貌(顔かたちに)黒子(ほくろ)を誌(しる)して、すでに相当たらざる者(一致していない者などあり)、惣(すべ)て一千一百二十二人。格式(律令格式の実施細目)に准量して(準じ当てはめ)公験(公的な許可状)を給うべけれども、処分を知らず(どう取り扱ったらいいかわかりません)。伏して天裁(聖武天皇のお裁き)を聴く」と。
詔報して(返事の詔勅に)曰く、「(僧尼の申し立て状によれば)『白鳳以来』『朱雀以前』(と述べているが)、年代玄遠にして(それらの「年代」は遥かに遠く)、尋問明め難し(当人に尋ねてもはっきりしにくい)。また所司の記注、多く粗略あり。(だから過去の経緯は問わず)一に見名を定めて(現在の名籍を定めて)、よりて公験を給え」と。>(聖武続紀神亀元年、724年)
僧や尼らは、「白鳳以来こうだった」「朱雀以前はああだった」と述べているのですね。それで詔勅は、「年代玄遠にして…」と返事しました。この返事は、実際「白鳳や朱雀」年号があった…ことを前提にしなければ成り立ちません。
この「年代玄遠」という意味は、白鳳(661-683年)や朱雀(684-685年)は「いまより四十年も六十年も前のことではないか」という時間軸の遠さと、もう一つ「他の王朝のことであって、そのときの名籍など知らぬ」という空間的な遠さも併せ持っている…といわれます。
前にも言いましたが通説では「白鳳は白雉の、朱雀は朱鳥の間違い…」といっているのです。確かに書紀には、「大化、白雉、朱鳥」の三つの年号が取り込まれていましたね。700年まではその三つしかなかった…。
しかし「九州年号」には、この全てがあるのですから…。でもいまは遠い昔!!

 さて…、

 対馬海峡の両岸にまたがる海洋民族「海人族」が、先行し主人であった出雲王朝に「国譲り」を迫り、次いでその支配地であった「倭、すなわち筑紫」に「天孫降臨」を敢行したのは、紀元前二百年頃でした。
中国の歴代の王朝、周や(前後)漢と交流を重ね、暦法を知り文字を受け入れました。そして三世紀には、時の女王俾彌呼(ヒミカ)が魏に表(国書)を出すまでになったのです。その後も使いを出し、五世紀には百済との好(よしみ)を深いものとし、高句麗・新羅とは死闘を繰り返しました。そして時の南朝宋に使いを出し、「使持節都督」や「六国諸軍事」を要求し、倭王武にいたっては見事な漢文の表を以って「開府儀同三司」を自称しました。
しかし六世紀になると自立を図り、筑紫自らの史書「日本旧記」の編纂や「磐井律令」の普及を試みました。また「九州年号」も建て、年号三十一代百八十四年も続いたのです。六世紀終りに鮮卑族の隋が中国を統一すると、時の大王足りし矛は自ら南朝を継ぐ「天子」と称し、その直轄の島を「九州」と名づけたのです。
しかし七世紀後半、ついに百済が唐に滅ぼされると、その再興を図って三万二千の将兵と千艘の軍船を派遣し、662年ついに大敗を帰しました。しかし名目上にせよ列島の主権者であったものが、ついに701年、大和王朝にその座を明け渡したのです。ほぼ千年にわたる海人族の歴史でした。

 大和王朝は、筑紫の王族の一員であった若御毛沼が、土着の勢力を駆逐しながらその片隅橿原にしがみついたことから始まりました。筑紫王朝の土台がしっかりしてきた、二世紀の初めと思われます。そして三世紀半ば以降、いまの茨木市佐保から東奈良あたりを拠点としていた土着勢力を滅ぼし大和の外へ出たようです。
それから筑紫王家の分派であることを誇りとしながらも、いつかは筑紫を超えたい…との願いを持って、着々と地歩を固めてきました。
しかしその王統も六世紀、近江の豪族に王位継承の争いに付けこまれて簒奪され、途絶えました。しかしこのことは、大和が筑紫に対するある種の負い目を払拭するチャンスでもあったようです。これ以降は、ライバル視しました。
大陸で隋が南北朝に終止符を打ったとき、大和は交流を望んだのでしょうが、結果的になしえませんでした。しかし唐に代わったとき、大和にもチャンスがめぐってきました。唐は、何かと対等意識を持つ筑紫よりも、その東にある大和に目を向け始めたのです。
662年の戦には、大和は参戦しませんでした。筑紫が大敗したことを奇貨として、大和は筑紫の持っていた権利を徐々に奪っていきました。その蓄えた実力が唐に認められたのは、やっと701年になってからでした。
それから大和は、筑紫が先行していたという形跡をすっかり消し去ることに傾注しました。太安万侶に作らせ712年に完成した「古事記」は、708年に手に入れた筑紫の書籍が取り入れられていない…という理由で隠蔽されました。そしてそれら書籍を読み込み、筑紫の歴史をあたかも大和の歴史に見せかけたイデオロギーの史書「日本書紀」が、改めて720年に上梓されました。
三世紀前半から終わりにかけて実在した筑紫の女王ヒミカとイチヨの事績を、気長足姫(神功皇后)という一人の女性を創作して取り込み、書紀の年代軸の基本に据えたきらいがあります。

 この長い日本列島には、縄文時代という一万年を越える長い歴史があります。
火山列島でもあるこの地に、一種の化学工業製品といえる土器が、世界に先駆けて作られたようです。土器は、食料の煮炊きに使われました。同じように、黒曜石(白曜石)といわれるガラス質の岩石はナイフや矢じりなどの武器とすることが出来るため、必然的にそこに権力が生まれ、またその権力を行使するリーダーが生まれ、縄文都市(国家)が発生したと思われます。北海道から九州まで、全国六十ヶ所ほどの産地が知られているそうです。
その縄文文化を土台に、弥生文化が花を咲かせました。「米」という食料を得て、また新たに「銅・鉄」という金属も入手し、養える人口は飛躍的に増えたのではないでしょうか。そして、ある程度まとまった範囲を支配する権力も生まれました。その中の一つが筑紫であり、大和だったのです。
 私たち列島人が「倭人」として大陸の人々に知られてより、三千年以上の歴史があります。その中でほんの千年ほどの歴史を、筑紫に花開いた王朝を通してみてきました。皆さん、いかがでしたでしょうか。

長い間のお付き合い、誠に有難うございました。この辺でお別れします。

                               完了

筑紫倭国の終焉(1)

2007-05-02 15:21:57 | 古代史
 天智紀九年条に、法隆寺が火事になり、寺の建物はもちろん本尊などの仏像も全焼した…と読める記事があります。
<夏四月の(30日)に、夜半の後に(暁時に)、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(ひとつのいえ)も余ること無し。>(天智紀九年条、670年)
わたしは「「九州王朝」の七世紀(6)」で、「ですからいま私たちが見ることのできる「釈迦三尊像」は、後年どこからか持ち込まれた仏像でしょうね。」と書きましたね。古田説によると、「これは筑紫王朝が黄昏を迎えついに命運がつき、主権が大和に移ったあところ、例えば太宰府の観世音寺などから新しく建築された法隆寺に持ち込まれたもの」としているのです。
その光背銘は、上宮法皇つまり天子矛の死(登遐)を悼んだものでした。622年3月にこの仏像が作られていますから、700年前後に法隆寺が再建されたとすれば、八十年ほども太宰府で九州王朝の繁栄と没落を見ていたことになりましね。

 さてその翌年、重大なニュースが飛び込んできました。
<十一月の…に、対馬国司、使いを筑紫太宰府(これしか言いようがなかったか、書紀編集時には慣用されていたか)に遣わして言(まう)さく、「月生(つきた。朔日)ちて二日に、沙門(僧侶)道久・筑紫の君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝裟婆・布師首磐の四人、唐より来りて曰く、『唐国の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら一千四百人、総合(す)べて二千人、船四十七艘に乗りて、共に比知嶋(半島西南の比珍島か?)に泊まりて、相謂(かた)りて曰く、いまわれらが人船、数衆(おほ)し。忽然(たちまち)に(突然)かしこに到らば、恐るらくはかの防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。すなわち道久らを遣わして、予め稍(やうやく)に来朝(まうけ)る意(こころ)を披(ひら)き陳(まう)さしむ』とまうす」とまうす。>(天智紀十年条、671年)
書紀はわざと卑字を使って貶めていますが、この「筑紫の君、薩野馬…幸山」こそ九州王朝の天子にして「冬の陸戦」か「夏の海戦」で行方不明…実態はこの通り唐に囚われていたその人なのです。足掛け十年ぶりの、郭務悰らに伴なわれての帰国でした。
筑紫君幸山の帰国を目の当たりにして、筑紫の人々の驚き、戸惑い、その他もろもろの感情は如何ばかりであったのでしょう。よくもまあご無事で…、多くの将兵を死なせて自分ばかり…、わたしの父や兄はわたしの恋人はまだ囚われているのですか…、これらが交差したのではないでしょうか。
 この二千の唐の将兵は、先の二千との交代要員でしょうか、それとも合流したのでしょうか。いずれにせよ唐は、占領地九州の統治に、先の天子であった幸山に何らかの利用価値を見出したのでしょう。ですから帰した…。
大和としては、この唐の処置をどのように見たのでしょうね。

 この671年12月、中大兄皇子(天智)は亡くなりました。次の672年、子の大友皇子があとを継いだ…はずでした。この672年には、郭務悰らは肥前の多良を拠点としてまだ駐留していたようです。
しかし天智の弟(といわれている)大海人皇子(のちの天武)が反逆し、大友皇子と王位を争いました。これが真夏に行われた「壬申の乱」といわれるもので、大海人皇子側が大勝し王位を継いだのです。

 そして次の673年に、面白い記事があります。
<十二月の(5日)に、大甞(おほにえ)に侍奉(つかへまつ)れる中臣・忌部及び神官の人等、併せて播磨・丹波、二つの国の郡司、また以下の人夫(おほみたから)らに、悉く禄(もの)賜ふ。よりて郡司らに、各爵一級賜ふ。…>(天武紀二年条、673年)
「大嘗(祭)」とは、岩波書紀の解説に「天皇が即位後、初めて新穀を以って神祇を祭るぎしき」とあります。でも「大嘗をした」とは読めません。「大嘗に出席しただれそれに何々を賜う」としか読めないのです。しかし一応、大海人皇子の即位のための(一年目は壬申の乱のため出来なかった…として)大嘗祭…とも考えられます。ですがやはり「これより大嘗祭を執り行う…」などの、荘厳な詔がないのです。唐突に、上の記事が出てくるのです。
 考えられることはただ一つ…、この大嘗祭は太宰府で行われた!
(1)661年に即位した幸山は、「冬の陸戦」への出撃を控えそのとき大嘗祭をしなかった。
(2)唐より帰国してようやく人心も落ち着いた二年後、幸山は念願の大嘗祭を執り行った。
(3)大和は始めて、大嘗祭に招待された。いや、押しかけたのかもしれない。
(4)播磨と丹波は、筑紫が定めた斎忌(ゆき)・次(すき)であったろう(ともに、大嘗祭のための神饌を献上する地)。また行政上「郡」はなく、「評」だったはずだ。
ことが考えられます。

 この後、大和王朝が筑紫王朝の持っていた権限を奪った…と思われる記事が出てきます。かいつまんで説明しましょう。
(1)天武紀十二年(683年)4月条に、「いまより以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫(なか)れ」という詔が出ます。この意味は、「もともと筑紫九州王朝は銀本位制であり、列島全域に銀銭が流通していた…。しかしこのころ大和で銅銭の鋳造を行い、銀銭に変えようとした。すなわち、銭の鋳造権を奪った」ということではないでしょうか。銅銭の鋳造記事は書紀にありませんが、1998年飛鳥池遺跡で発見された「富本銭」がそうではないか…といわれています。
あと銀銭は鋳潰され、銀そのものとして使用されたようです。ですから、銀銭の出土が少ない…?
(2)天武紀十三年(684年)冬10月条に、「八色の姓(やくさのかばね)」を定めた…とあります。この制度は、もともと九州王朝により、天子「足りし矛」のころ定められていたものではないでしょうか。その証拠に、肝心の天武の和風諡号(しごう)「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」の中に、ちゃんと最上位の「真人」を授けられたことが誇示されています。天皇たる大海人が、自分に授ける(?)はずはありませんから…。
また万葉16番歌は前代の天智のころの歌で、「内大臣藤原朝臣(あそみ。鎌足のこと)に詔して…」と題にあります。鎌足はこれより十五年ほど前に、すでに第二位の姓「朝臣」を持っていたのです。万葉集と日本書紀の成立年代から考え、追賜…とは考えられません。なお万葉歌人で歌聖の名をほしいままにしている「柿本朝臣人麿」も、同じ「朝臣」を持っていますね。因みに人麿は、「冬の陸戦」などに従軍したのではないか…と古田説では見ているのですよ。
このころ大和は、「授爵の権」を奪ったようですね。
(3)天武十五年(686年)にあたる年を、突如「朱鳥(あかみとり)」と改元した記事があります。7月条ですが、「(20日に)元を改めて朱鳥元年といふ。よりて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)といふ。」とあるのです。改元の理由はありません。大海人皇子はこの年に亡くなりますから、この元はこの年の半年ほどです。しかし、「自立の六世紀(3)」で説明しました「二中暦」を思い出してください。ずばり686年を元年とし、九年間も続く九州年号「朱鳥」があるではありませんか。大海人皇子は、九州年号を大和にも取り入れようとしたのか…。さにあらず、書紀の編集者は、書紀に九州年号を三つだけ取り入れ、大和にも年号はあったのだ…と主張したのです。ですから大和が列島の主権者になって以降、「九州年号…といおうものなら死罪!」ということでしょう。
それにしても朱鳥と改元したことと宮の名との関連…、全くなぞですね。

 持統紀に、胸の締め付けられるような話があります。
<九月の…(中略)(23日)に、大唐の学問僧智宗・義徳・浄願、軍丁(一般の兵士)筑紫国の上陽(かみつやめ。和名抄に上妻)郡の大伴部博麻、新羅の送使大奈末金高訓らに従いて、筑紫に還至(まういた)れり。
冬十月の…(中略)(22日)に、軍丁筑紫国の上陽郡の人大伴部博麻に詔して曰く、「天豊財重日足姫(斉明)天皇の七年に、百済を救う役に、汝、唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別(天智)天皇の三年に洎(およ)びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども(唐の筑紫への駐屯などを太宰府に知らせたい…の意か)、衣粮(きものかて)無きによりて、達く(とつく。届く)こと能はず。ここに博麻、土師富杼らに謂(かた)りて曰く、『我、汝と共に本朝(太宰府だろう)に還向(まうおもむ)かむとすれども、衣粮無きによりて、共に去(い)くこと能はず。願ふ。我が身を売りて、衣食に充てよ』といふ。富杼ら、博麻が計(はかり)のままに、天朝(ここは筑紫と大和の両方としてもよい)に通(とど)くこと得たり。汝、独り他界に淹(ひさしく)滞(とどま)ること、いまに三十年なり。朕、その朝(みかど)を尊び国を愛して、己(おのがみ)を売りて、忠を顕(あらは)すことを嘉(よろこ)ぶ。故に務大肆(むだいしのくらい)、併せて絁(ふとぎぬ)五匹・綿十屯・布三十端(むら)・稲一千束・水田四町を賜ふ。その水田は曾孫に及至(いた)せ。三族の賦役を免(ゆる)して、その功を顕(あらは)さむ」とのたまふ。…>(持統紀四年条、690年)
筑紫君幸山らが帰国できた陰には、661年に虜となったあと大伴部博麻の671年より二十年にも及ぶ奴隷生活があった…というのです。筑紫の天子幸山や重臣らを帰国させる旅費を稼ぐため、我が身を売る…涙なしには聞けない、読めない話ですね。
いま福岡県八女市に、土地の古田史観に納得される方々の依頼で、古田先生の揮毫で「大伴部博麻の塔」の石碑が立っているそうです。
 因みに筑紫大伴氏は、歴代の筑紫の大王・天皇・天子の楯となり、陰の如く寄り添っていた武将の家柄でした。大伴部というのは、その家人でしょう。再三紹介しましたように、その流れを汲む大和の大伴家持の長歌があります。その一部…、
   海ゆかば 水浸く屍 山ゆかば 草生す屍 
      大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせず    (万葉4094歌)

 鸕野(うの)姫(持統)は翌691年、筑紫九州王朝の天子だけが行いえた「大嘗祭」を、ついに執り行いました。「建元の権」だけを残して、筑紫の持っている権限を大和に取り込んだのです。いや、奪ったのです。
<十一月に…に、大嘗(おほにえ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞(あまつかみのよごと)を読む。…(中略)及び供奉(そのことにつかえまつ)れる播磨・因幡の国の郡司より以下、百姓の男女に至るまでに饗(あへ)たまひ、併せて絹等賜ふこと、各差(しな)あり。>(持統紀五年条、691年)
筑紫九州王朝は、外堀より埋められていったのでしょう。もはや筑紫王朝はほとんど実権は持たず、死に体同様のありさまです。

 では今回はこれまで。

九州王朝衰退への道(8)

2007-05-01 14:27:31 | 古代史
 直接、本題に入ります。
<春二月の…に、天皇、大皇弟(大海人皇子、後の天武のこと)に命じて、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上(このかみ。氏の代表者)・民部(かきべ。氏に供給される民、令制での封戸の前身か…と)・家部(やかべ。氏に供給される賎民、令制の家人か…と)らのことを宣(のたま)ふ。その冠は、二十六階あり。大識・小識・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下…(後略)>(天智紀三年条、664年。旧唐書年で663年)
どうです、この冠位の大判振る舞いぶりは…。もしあなたが大和の王で、「白村江の戦」で大敗して王子や王族や重臣に大勢の戦死者や行方不明者が出ていたら、その大敗の翌年に「冠位二十六階」を定めるような気分になりますか。普通は朝廷の中は打ちひしがれた気分が支配し、お祝い事をしようなど思いもしないでしょう。それを現に、大和はしているのです。
このこと一つとっても、通説のように「日本書紀にそう書いてあるから、この戦の当事者は大和である」とはならないことがお分かりいただけたものと思います。
このあとには、大氏の氏上には大刀を、小氏の氏上には小刀を…と、贈り物なども書いてあります。大和においては、天智をはじめ誰一人として戦死者も戦傷者もいなかったから、できたのでしょう。よほど眼の上のたんこぶ的な、なんとも目障りで癪にさわる存在であった「九州王朝」の敗北が嬉しかったのでしょうか。
「さあ、これから大和の時代…」と思ったのでしょうが、しかし実際はそうはなりませんでした。名目上にせよ、列島を代表する主権はこれより三十七年も九州王朝にあったようです。

 <この月(冬十月)に、高麗の大臣蓋金(泉蓋蘇文のこと)、その国に終(う)せぬ(亡くなった)。児らに遺言して曰く、「汝ら兄弟、和(あまな)はむこと魚と水との如くして、爵位を争ふことなかれ。もしかくの如くにあらずば、必ず隣に笑はれむ」といふ。…(中略)
この歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国らに、防(さきもり)と烽(すすみ。のろし)とを置く。また筑紫に大堤を築きて、水を貯へしむ。名づけて水城(みずき)といふ。>(天智紀三年条)
前半は高句麗の泉蓋蘇文が亡くなる時、仲の悪い三人の息子に「仲良くせよ。そうしなければ隣から笑われるぞ(つまり、唐や新羅から攻められ、百済や筑紫倭国みたいに滅びるぞ)」と遺言した話です。岩波書紀では、「十月は合っているが、年は翌年(664年)ではないか」としています。実際兄弟が割れて、高句麗は668年には滅んでしまいますが…。高句麗は五王時代の筑紫倭国とは敵対し、隋・唐の時代には百済と共に九州王朝と仲がよかったようです。
 後半は、九州王朝が壊滅的打撃を受けたことを横目に、防人を置いたとかのろしを設けた…などの記事ですね。果ては「水城」を築いた…と。
しかしわたしは「「倭の五王」の五世紀(11)」で、「水城より発掘された「木樋」を放射性炭素(C14)年代測定法で測定したら、「この木が伐採されたのは、430±30年」という結果が出た」…と書いたことを覚えておられると思います。そして、「乾燥させ、板に加工し、それを樋に造り、80mほどの長さにつないで五ヶ所ほど大堤の下に埋め、上流より下流へ水が流れるようにする。水城は、五世紀も終りのほうで構築されたのでしょうか」とも書いています。
つまり日本書紀にどう書かれてあろうと、神籠石といわれた「山城」やこの「水城」は、筑紫倭国の胎内で五世紀後半に造られた…ということです。

 さて、いよいよ筑紫に唐の占領軍がやって来ました。
<十一月に(9日)に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下境部連石積らを筑紫都督府に送る。(13日)に司馬法聡ら、罷り帰る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以って、送使とす。>(天智紀六年条、667年。軍使往来や旧唐書年のズレ4年を考慮し、663年)
この境部連石積という人物は、天智四年条(665年。実際は4年のズレで661年)にある「最後通牒に来た劉徳高らと共に唐に渡った守君大石の副使」でした。このときの唐使の司馬法聡らの人員は不明ですが、軍を引き連れてきていることは確実でしょう。敗戦後一年ほどの筑紫太宰府を偵察し、かつ再び反抗しないように軍を留めた…と見ます。その目の前で水城を築き、防人を配置し、大野城や基肄城を造った(下記、四年条)…?? そのような敵対行為が出来るはずはないではありませんか。やはり書紀の記事には、大いなる潤色・文飾があります。
 司馬法聡らは、石積らを「筑紫都督府」に送って来た…とありますね。これに対する岩波書紀の注は、「筑紫太宰府を指す。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」とあります。ではその「原史料」を、私たちは見ることができるか。学者の頭の中だけにあり実在しませんから、見れません。追試験が不可能な学問は、科学的ではない…。古田先生は、そういわれます。
あくまで素直に、筑紫王朝の首都であった五世紀以来の「筑紫都督府」であり、のち五世紀終わりに倭王武が「開府儀同三司」を自称し、七世紀始めに九州王朝と称してからはそれが「太宰府」と呼ばれた…と考えましょう。百済の都を熊津都督府といい、倭の都を筑紫都督府…といった。「都督」は「倭の五王」が任じられましたが、「太宰」は倭王武の自称でしたから正式名をとった…だけの話です。

<秋八月に、達率答本(火偏)春初を遣わして、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き。基肄城のこと)、二城を築かしむ。>(天智紀四年条、665年。旧唐書年で664年)
この大野城や基肄城も、都督府の逃げ城として「倭の五王」時代、五世紀後半に築城されたのです。
通説では「亡命百済人の技術によって築いた」と安住しているようですが、取り巻く状況が許しません(上記解説)。

 いよいよ本格的な占領軍の上陸です。
<この歳、…(中略)また大唐、郭務悰ら二千余人を遣わせり。>(天智紀八年、669年。軍使及び旧唐書年に対し4年のズレより、665年)
二年前の司馬法聡は、小部隊を留めて占領政策の拠点の構築に従事させたのかもしれません。そしてそれが出来上がり、二千余の兵が郭務悰に率いられて上陸しました。どうも肥前(佐賀県藤津郡)多良に本陣を置いたようです。
それは従来余り意味の分からなかった次の歌(万葉27番歌)に、古田先生が新しい解釈で息吹を吹き込まれたことで分かります。まず元暦校本の原文を示します。
   淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見(与) 多良人四来見
  (淑人の 良しとよく見て 良しと言ひし
                  吉野よく見 多良人よく見) 
元暦校本では「多」ですが、通説の解説では後代訂正になるカッコ内の「与」を採用し、前につけて下段を「吉野よく見よ 良き人よく見」としています。代表で岩波万葉の解釈を紹介しますと…、
  「昔のよき人が 良い所だとよく見て 良いと言った
                  この吉野をよく見よ 今の良き人よ」
この歌の題が「天皇(天武を指す)が吉野宮に幸したまひし時の御製の歌」ですから、この題に引きづられた解釈であることは間違いありません。要するに「吉野賛美の祝言性が溢れている…」とされています。
古田先生は、次のように解釈されました。(「壬申大乱」による。)
  「唐の将軍郭務悰殿は、わしの説得に応じ「よし、やれ」と言ってくれた。
   この肥前の吉野で…だ。多良に陣を置かれているあの方が…だ。
   さあ、すべて整った。」
そうです。この歌はあの672年の「壬申の乱」に突入する前、天武は多良にいる郭務」と密会し、「乱を起こす許可」を得たときの歌だ…とされたのです。ですから歌中の「吉野」は大和の吉野ではなく、肥前の吉野としなければなりません。
「淑人」とは単に「良き人」にはあらず、身分の高い政治・軍事に携わる貴人に対しての言葉だったのです。また万葉25番歌も息吹を吹き込まれた一つですが、改めて紹介しましょう。

<春正月の(3日)に、皇太子(中大兄皇子)、天皇の位に即く。…(中略)
冬十月に、大唐の大将軍英公、高麗を打ち滅ぼす。高麗の仲牟王(伝説上の始祖。好太王碑に鄒牟王)、初めて国を建つるときに、千年治めることを欲しき。母夫人の云ひしく、「例え善く国を治むとも、得べからじ。但しまさに七百年の治あらむ」といひき。いまこの国の亡びむことは、まさに七百年の末にあり。>(天智紀七年条、668年。旧唐書年で667年)
これまで天智は、「称制(即位の式を挙げずに政務を摂ること)」していました。7年目にして、正式に即位しました。
高句麗が亡んだのは旧唐書によれば668年ですから、泉蓋蘇文が亡くなった時と同じく一年前に記しているようです。高句麗の建国は紀元前37年といわれていますから、まさに700年の末であったのです。

 旧百済の熊津都督府には唐軍が駐屯していましたが、新羅は百済の旧領への侵入すを繰り返し、そのため唐と新羅間に緊張が走りました。新羅が感じた緊張の度合いを見てみましょう。
<…また消息を通ずるに曰く、国家(唐のこと)、船艘を修理し、外、倭国を征伐するに託し、その実は新羅を討たんと欲す、と。百姓これを聞き、驚愕して安からず。>(三国史記新羅本紀、668年条)
唐が船を修理したことに対し、疑心暗鬼の新羅の君臣は、「倭国征伐と言って船を修理しているが、本当はわが新羅にその矛先を向けるのではないか…」と驚いて、心が休まらなかったという一面を伝えています。ここでいう「倭国」は、九州王朝の残影のような気がします。
しかしこの8年後、新羅は唐より半島の領有を認められ、唐の属国としての道を歩み始めました。

 さて今回はここまでとしましょう。
「冬の陸戦、夏の海戦」で完膚なきまでに叩かれ、天子幸山も行方不明のまま年は流れていきます。しかし九州王朝の山河は、毎年同じ変化…春は桜、秋はもみじと…を見せてくれたのでしょう。
   国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心
   烽火連三月 家書抵万金 白頭搔更短 渾欲不勝簪   杜甫
  (国破れて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火(ほうか)三月に連なり 家書万金に抵(あた)る 白頭を掻けば更に短く 渾(すべ)て簪(しん。かんざし)に勝(た)えざらんと欲す)     (諸橋轍次「中国古典名言事典」より)