やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(7)

2007-05-28 15:52:36 | 古代史
 万葉集にある、通説では間人皇女(はしひとのひめみこ。舒明と皇極の娘、孝徳の妃)あるいは斉明天皇(舒明の死後は皇極、孝徳の死後の重祚)に擬せられています「中皇命(なかつすめらみこと)」の作である短歌を紹介しましょう。一般には大和から大阪湾経由で、「紀の湯」に行かれた時の歌だそうです。

元暦校本:中皇命往于紀温泉之時御歌
   君之歯母 吾代毛所知哉 盤代乃 岡之草根乎 去来結手名  (10番歌)
   吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核     (11番歌)
   吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾   (12番歌)
     或頭云  吾欲 子嶋羽見遠             (12'番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:中皇命の、紀の温泉に往きたまひし時の御歌
 短歌(10番歌):君が代も わが代も知るや 岩代の
           岡の草根を いざ結びてな
    (意味):君の御命もわたしの命も司る岩代の岡の草を、さあ結んで祈りましょう。
     ・この「君」とは、中皇命が間人皇女であれば、夫の天皇たる孝徳になる。斉明であれば不明。誰か恋人でもいたか。
     ・「岩代」の地は、和歌山県日高郡南部町岩代…とする。熊野街道の要衝の地で、旅の平安を祈る場所であった…と。
     ・「歯」は、春秋左氏伝に「歯、年也」とある…と。
   (11番歌):わが背子は 仮廬(かりいほ)作らす 草(かや)なくは
           小松が下の 草を刈らさね
    (意味):わが背子は、仮小屋をお作りになるカヤ(萱)がなかったら、松の木下の草をお刈りなさいな。
     ・「背子」は、「夫や恋人をさす語」(大辞泉)とある。
   (12番歌):わが欲(ほ)りし 野嶋は見せつ 底深き
           阿胡根(あごね)の浦の 珠そ拾はぬ
    (意味):わたしが見たいと思っていた野嶋は、あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。
     ・「野嶋」の地は、和歌山県御坊市名田町野島…に比定。「阿胡根浦」は、「未詳。同上野島付近か」とする。あるいは本居宣長は「野島阿胡根ノ浦は、紀州日高郡塩屋浦の南に野島ノ里あり、その海辺をあこねの浦といひて…」とする。いずれにせよ、いずれも「紀州」である。
     ・「わが欲し野島は身せつ…」を、「…野島はあなたは確かに見せてくれました」と意味を取っている。見た主体は「あなた」で"見せられた"のだ。
   (12'番歌):或いは頭にいう、「わが欲りし 小島は見しを」
    (意味):或いは、「わたしが見たいと思っていた小島は見たけれども」
     ・本歌12番と微妙に違う。「…小島は"わたしは"見たけれども…」と見た主体は"わたし"…だ。「見せてもらった…」のではない…。 
     ・通説では「小島は未詳」…と。

 さて通説の如く「中皇命」を「間人皇女、あるいは斉明天皇」とすると、次のような不思議が生ずるそうです。つづいて、古田先生の論証を見てみましょう。
1)(10番歌)で「君(作歌者の夫、恋人。間人皇女の場合は孝徳天皇、斉明天皇の場合は不明)」に関しては単純に"寿命"を示す「歯」を使い、自分(女性、妻あるいは恋人)には"治世"を意味する「代」を使っている。これはおかしい…と。「間人」の場合は自分が統治しているようになり、使用法が「孝徳」に対し「失礼」になるだろうし(特に当時の感覚として)、斉明・皇極の場合は肝心の「夫」たる舒明天皇は亡くなっているのだから、共に旅は出来ないはずだ。
2)歌を読んでもらえれば分かるように、(11番歌)だけに"敬語"が使われ、(10,12番歌)には使われていない。(11番歌)が確かに間人の「わが背子つまり孝徳」に対する歌とすれば、これに"敬語"が使われているのは当然…と思われる。しかし、(10番歌及び12番歌)は?…とするとき、この不思議はますます大きくなる。

 これら一連の歌は、「中皇命が、旅の最終目的地である阿胡根の浦といわれるところへ行く途中、『わたしも見たいと思っていた野島(或いは小島)へ行きお前にも見てもらって肩の荷を降ろし、さていよいよ阿胡根の浦の真珠を拾おうか』と言っている」のではないでしょうか。
この理解は、通説の(12番歌)の意味が「…あなたは確かに見せてくれました。しかし水底の深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾ってはいません」と解釈されていることからも、そう違ってはいないでしょう。ただ、それぞれ野島(小島)、阿胡根の浦などの所在地の理解を除いては…。

 この理解は、番外編(6)の万葉(3番歌)と関連があります。
1)「中皇命」とはその半端ではない称号から、「九州王朝の天子」であった。
2)隋書「俀国伝」によれば、天子たる多利思北孤は「吾輩雞彌(わが君)」と呼ばれ、「王妻号雞彌(王の妻は雞彌(君)と号す)」とあった。中皇命が「矛の太子であった上塔の利」とすれば、隋書の記事はほんの三十年ほど前のことを言っていることになる。そしていまも「天子の皇后を「君」と言っている」とすれば、太宰府から紀の温泉への「中皇命の皇后を伴なっての大船旅」…ということになる。
3)(10番歌):君が歯(よ)も わが代も知るや 盤代(いはしろ)の 
         岡の草根を いざ結びてな
   意味:貴方の寿命もわたしの統治も、いつまで続くと誰が知ろう。この盤代(いはしろ)の名にふさわしく、いつまでも続くことを祈って、さあ岡の草結びをしよう。
   ・「君の歯」は皇后の"寿命"を表し「わが代」は中皇命の"統治"を表すことと、なんら矛盾なく不思議ではない。
   ・「盤代」の「盤」は"広大なさま"を表し、よって「万代」の意に通ずる。その「名」にかけた願いである。「盤」は「磐」とも通づるから、日高郡南部町「岩代」でもいいのかもしれないが…。
   ・"草結び"とは、"願いをこめる"ための庶民の所作である。
4)(11番歌):わが背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(カヤ)なくば
         小松が下の 草を刈らさね
   意味:わたしの夫(中皇命)が、カヤで仮廬(かりほ)を作らせていらっしゃる。もし草が足りないなら、(いまわたしのいる)小松の下の草をお刈りくださいな。
   ・この場所は特定できない。
   ・10番と12番歌は中皇命のそして11番歌は皇后作の、問答歌である。よって11番歌にのみ"敬語"が使われていること、何の不思議もない。
5)(12番歌):わが欲(ほ)りし 野島は見せつ(小島は見しを) 底深き
         阿胡根の浦の 珠ぞ拾はぬ
   意味:わたしが貴方に見せたいと思ってきた(淡路北端の)野島は(つまり明石海峡は)、もう見せた(or 私自身が行きたいと願っていた(吉備の)児島は、もう見た)。だけどあの底の深い(伊勢の)英虞(あご)湾の真珠は、まだ拾ってない。これからの楽しみだよ。
   ・太宰府から瀬戸内を船旅するとき、野島の面する明石海峡は皇后に見せたい所だったのだ(吉備の児島は自身が立ち寄りたい所だったのだ)。(因みに、野島は十年ほど前の阪神淡路大震災時の震源地である。)
   ・最終目的地の「阿胡根の浦」とは、昔より真珠の獲れる伊勢の「英虞湾」である。宿泊地の紀の湯(白浜温泉という)より足を延ばし、伊勢まで真珠を拾いに行くのだ。通説に立つ学者は、何故思いつかなかったのか。それはあくまで「大和から大阪湾経由で、南部町の野島などを見学して白浜へ行った」との固定観念のなせる業…といわれる。げに、固定観念とは恐ろしきもの…である。それにしても、何の変哲もない南部町野島が、それほど見せたかった所なのだろうか。そのあたりを、学者の方々は検証されたのだろうか。

 いかがでしたか、この万葉三歌(四歌)の解釈は…。
「訓みが主、漢字は借物」という本居宣長の説はある意味では正しいのですが、どうして同じ短歌の中で「歯」と「代」を使い分けたのか…、それを究明することも万葉学の一つと思いますね。例え意味するところは「代、よ」であっても…ね。