やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

筑紫倭国の終焉(1)

2007-05-02 15:21:57 | 古代史
 天智紀九年条に、法隆寺が火事になり、寺の建物はもちろん本尊などの仏像も全焼した…と読める記事があります。
<夏四月の(30日)に、夜半の後に(暁時に)、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(ひとつのいえ)も余ること無し。>(天智紀九年条、670年)
わたしは「「九州王朝」の七世紀(6)」で、「ですからいま私たちが見ることのできる「釈迦三尊像」は、後年どこからか持ち込まれた仏像でしょうね。」と書きましたね。古田説によると、「これは筑紫王朝が黄昏を迎えついに命運がつき、主権が大和に移ったあところ、例えば太宰府の観世音寺などから新しく建築された法隆寺に持ち込まれたもの」としているのです。
その光背銘は、上宮法皇つまり天子矛の死(登遐)を悼んだものでした。622年3月にこの仏像が作られていますから、700年前後に法隆寺が再建されたとすれば、八十年ほども太宰府で九州王朝の繁栄と没落を見ていたことになりましね。

 さてその翌年、重大なニュースが飛び込んできました。
<十一月の…に、対馬国司、使いを筑紫太宰府(これしか言いようがなかったか、書紀編集時には慣用されていたか)に遣わして言(まう)さく、「月生(つきた。朔日)ちて二日に、沙門(僧侶)道久・筑紫の君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝裟婆・布師首磐の四人、唐より来りて曰く、『唐国の使人郭務悰ら六百人、送使沙宅孫登ら一千四百人、総合(す)べて二千人、船四十七艘に乗りて、共に比知嶋(半島西南の比珍島か?)に泊まりて、相謂(かた)りて曰く、いまわれらが人船、数衆(おほ)し。忽然(たちまち)に(突然)かしこに到らば、恐るらくはかの防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。すなわち道久らを遣わして、予め稍(やうやく)に来朝(まうけ)る意(こころ)を披(ひら)き陳(まう)さしむ』とまうす」とまうす。>(天智紀十年条、671年)
書紀はわざと卑字を使って貶めていますが、この「筑紫の君、薩野馬…幸山」こそ九州王朝の天子にして「冬の陸戦」か「夏の海戦」で行方不明…実態はこの通り唐に囚われていたその人なのです。足掛け十年ぶりの、郭務悰らに伴なわれての帰国でした。
筑紫君幸山の帰国を目の当たりにして、筑紫の人々の驚き、戸惑い、その他もろもろの感情は如何ばかりであったのでしょう。よくもまあご無事で…、多くの将兵を死なせて自分ばかり…、わたしの父や兄はわたしの恋人はまだ囚われているのですか…、これらが交差したのではないでしょうか。
 この二千の唐の将兵は、先の二千との交代要員でしょうか、それとも合流したのでしょうか。いずれにせよ唐は、占領地九州の統治に、先の天子であった幸山に何らかの利用価値を見出したのでしょう。ですから帰した…。
大和としては、この唐の処置をどのように見たのでしょうね。

 この671年12月、中大兄皇子(天智)は亡くなりました。次の672年、子の大友皇子があとを継いだ…はずでした。この672年には、郭務悰らは肥前の多良を拠点としてまだ駐留していたようです。
しかし天智の弟(といわれている)大海人皇子(のちの天武)が反逆し、大友皇子と王位を争いました。これが真夏に行われた「壬申の乱」といわれるもので、大海人皇子側が大勝し王位を継いだのです。

 そして次の673年に、面白い記事があります。
<十二月の(5日)に、大甞(おほにえ)に侍奉(つかへまつ)れる中臣・忌部及び神官の人等、併せて播磨・丹波、二つの国の郡司、また以下の人夫(おほみたから)らに、悉く禄(もの)賜ふ。よりて郡司らに、各爵一級賜ふ。…>(天武紀二年条、673年)
「大嘗(祭)」とは、岩波書紀の解説に「天皇が即位後、初めて新穀を以って神祇を祭るぎしき」とあります。でも「大嘗をした」とは読めません。「大嘗に出席しただれそれに何々を賜う」としか読めないのです。しかし一応、大海人皇子の即位のための(一年目は壬申の乱のため出来なかった…として)大嘗祭…とも考えられます。ですがやはり「これより大嘗祭を執り行う…」などの、荘厳な詔がないのです。唐突に、上の記事が出てくるのです。
 考えられることはただ一つ…、この大嘗祭は太宰府で行われた!
(1)661年に即位した幸山は、「冬の陸戦」への出撃を控えそのとき大嘗祭をしなかった。
(2)唐より帰国してようやく人心も落ち着いた二年後、幸山は念願の大嘗祭を執り行った。
(3)大和は始めて、大嘗祭に招待された。いや、押しかけたのかもしれない。
(4)播磨と丹波は、筑紫が定めた斎忌(ゆき)・次(すき)であったろう(ともに、大嘗祭のための神饌を献上する地)。また行政上「郡」はなく、「評」だったはずだ。
ことが考えられます。

 この後、大和王朝が筑紫王朝の持っていた権限を奪った…と思われる記事が出てきます。かいつまんで説明しましょう。
(1)天武紀十二年(683年)4月条に、「いまより以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫(なか)れ」という詔が出ます。この意味は、「もともと筑紫九州王朝は銀本位制であり、列島全域に銀銭が流通していた…。しかしこのころ大和で銅銭の鋳造を行い、銀銭に変えようとした。すなわち、銭の鋳造権を奪った」ということではないでしょうか。銅銭の鋳造記事は書紀にありませんが、1998年飛鳥池遺跡で発見された「富本銭」がそうではないか…といわれています。
あと銀銭は鋳潰され、銀そのものとして使用されたようです。ですから、銀銭の出土が少ない…?
(2)天武紀十三年(684年)冬10月条に、「八色の姓(やくさのかばね)」を定めた…とあります。この制度は、もともと九州王朝により、天子「足りし矛」のころ定められていたものではないでしょうか。その証拠に、肝心の天武の和風諡号(しごう)「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)」の中に、ちゃんと最上位の「真人」を授けられたことが誇示されています。天皇たる大海人が、自分に授ける(?)はずはありませんから…。
また万葉16番歌は前代の天智のころの歌で、「内大臣藤原朝臣(あそみ。鎌足のこと)に詔して…」と題にあります。鎌足はこれより十五年ほど前に、すでに第二位の姓「朝臣」を持っていたのです。万葉集と日本書紀の成立年代から考え、追賜…とは考えられません。なお万葉歌人で歌聖の名をほしいままにしている「柿本朝臣人麿」も、同じ「朝臣」を持っていますね。因みに人麿は、「冬の陸戦」などに従軍したのではないか…と古田説では見ているのですよ。
このころ大和は、「授爵の権」を奪ったようですね。
(3)天武十五年(686年)にあたる年を、突如「朱鳥(あかみとり)」と改元した記事があります。7月条ですが、「(20日に)元を改めて朱鳥元年といふ。よりて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)といふ。」とあるのです。改元の理由はありません。大海人皇子はこの年に亡くなりますから、この元はこの年の半年ほどです。しかし、「自立の六世紀(3)」で説明しました「二中暦」を思い出してください。ずばり686年を元年とし、九年間も続く九州年号「朱鳥」があるではありませんか。大海人皇子は、九州年号を大和にも取り入れようとしたのか…。さにあらず、書紀の編集者は、書紀に九州年号を三つだけ取り入れ、大和にも年号はあったのだ…と主張したのです。ですから大和が列島の主権者になって以降、「九州年号…といおうものなら死罪!」ということでしょう。
それにしても朱鳥と改元したことと宮の名との関連…、全くなぞですね。

 持統紀に、胸の締め付けられるような話があります。
<九月の…(中略)(23日)に、大唐の学問僧智宗・義徳・浄願、軍丁(一般の兵士)筑紫国の上陽(かみつやめ。和名抄に上妻)郡の大伴部博麻、新羅の送使大奈末金高訓らに従いて、筑紫に還至(まういた)れり。
冬十月の…(中略)(22日)に、軍丁筑紫国の上陽郡の人大伴部博麻に詔して曰く、「天豊財重日足姫(斉明)天皇の七年に、百済を救う役に、汝、唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別(天智)天皇の三年に洎(およ)びて、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝の児、四人、唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども(唐の筑紫への駐屯などを太宰府に知らせたい…の意か)、衣粮(きものかて)無きによりて、達く(とつく。届く)こと能はず。ここに博麻、土師富杼らに謂(かた)りて曰く、『我、汝と共に本朝(太宰府だろう)に還向(まうおもむ)かむとすれども、衣粮無きによりて、共に去(い)くこと能はず。願ふ。我が身を売りて、衣食に充てよ』といふ。富杼ら、博麻が計(はかり)のままに、天朝(ここは筑紫と大和の両方としてもよい)に通(とど)くこと得たり。汝、独り他界に淹(ひさしく)滞(とどま)ること、いまに三十年なり。朕、その朝(みかど)を尊び国を愛して、己(おのがみ)を売りて、忠を顕(あらは)すことを嘉(よろこ)ぶ。故に務大肆(むだいしのくらい)、併せて絁(ふとぎぬ)五匹・綿十屯・布三十端(むら)・稲一千束・水田四町を賜ふ。その水田は曾孫に及至(いた)せ。三族の賦役を免(ゆる)して、その功を顕(あらは)さむ」とのたまふ。…>(持統紀四年条、690年)
筑紫君幸山らが帰国できた陰には、661年に虜となったあと大伴部博麻の671年より二十年にも及ぶ奴隷生活があった…というのです。筑紫の天子幸山や重臣らを帰国させる旅費を稼ぐため、我が身を売る…涙なしには聞けない、読めない話ですね。
いま福岡県八女市に、土地の古田史観に納得される方々の依頼で、古田先生の揮毫で「大伴部博麻の塔」の石碑が立っているそうです。
 因みに筑紫大伴氏は、歴代の筑紫の大王・天皇・天子の楯となり、陰の如く寄り添っていた武将の家柄でした。大伴部というのは、その家人でしょう。再三紹介しましたように、その流れを汲む大和の大伴家持の長歌があります。その一部…、
   海ゆかば 水浸く屍 山ゆかば 草生す屍 
      大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせず    (万葉4094歌)

 鸕野(うの)姫(持統)は翌691年、筑紫九州王朝の天子だけが行いえた「大嘗祭」を、ついに執り行いました。「建元の権」だけを残して、筑紫の持っている権限を大和に取り込んだのです。いや、奪ったのです。
<十一月に…に、大嘗(おほにえ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞(あまつかみのよごと)を読む。…(中略)及び供奉(そのことにつかえまつ)れる播磨・因幡の国の郡司より以下、百姓の男女に至るまでに饗(あへ)たまひ、併せて絹等賜ふこと、各差(しな)あり。>(持統紀五年条、691年)
筑紫九州王朝は、外堀より埋められていったのでしょう。もはや筑紫王朝はほとんど実権は持たず、死に体同様のありさまです。

 では今回はこれまで。