やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

番外編(6)

2007-05-24 12:15:45 | 古代史
 再び万葉集に戻りましょう。
はじめの方に舒明天皇時代の歌として、少し不思議な歌があるそうです。

元暦校本:天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老献歌
 (長歌):八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之
      御執乃 梓弓乃 奈加弭乃 音為奈利
      朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之
      御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里      (万葉3番歌)
 (反歌):玉剋春 内乃大野尓 馬数而
      朝布麻須等六 其草深野            (万葉4番歌)
通  説:岩波書店新日本古典文学大系「万葉集」による
  表題:(舒明)天皇の内野に(または、宇智の野に)遊猟(みかり)したまひし時に、中皇命(なかつすめらみこと)の、間人連老(はしひとの(orたいざの)むらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめし歌
  読み:やすみしし わが大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕べには
      い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の なか弭(はず)の
      音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし
      みとらしの 梓の弓の なか弭の 音すなり   (万葉3番歌)
     たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 
      朝踏ますらむ その草深野           (万葉4番歌)
  意味:(やすみしし)わが大君が、朝には手に取って撫でいつくしまれ、夕べにはそのそばに寄り立たれた、ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。朝狩にいまお発ちになるらしい、夕狩にいまお発ちになるらしい。ご愛用の梓の弓の、中弭の音が聞こえる。                     (万葉3番歌)
     (たまきはる)宇智の大野に馬を並べて、朝の野をお踏みになっているであろう、その深草野よ。                 (万葉4番歌)

 この歌は、さわやかな"狩への出で立ち"を扱った名歌だそうです。何も不思議はないではないか…、歌の作者も間人連老とわかっているし…と思われたのではないでしょうか。でも古田先生は、次の不思議があるといわれます。
1)この歌ほど万葉の研究家を"悩まして"きた歌もない。それは「中皇命」の"正体"だ。この人名は、記紀には現れていない。だからこそ、舒明前後の時代にいる誰に当たるか…、みながその謎解きに腐心してきた。岩波万葉では、舒明の皇女で孝徳の妃である「間人皇女か」としている。いまだ定説がないのである。
2)「やすみしし(八方の地の支配者である) わが大王」は問題ない。しかし「朝庭」の意味だ。万葉2番歌で「山常庭」を「山根には」と読んだ。だからここでも「あしたには」と読むことは問題ない、時間帯としての「朝夕の朝」である、が…。しかしここでは原文を用いて「大王の朝廷(庭)」とも取れる。そうすれば中国での用法、「天子―朝廷」と齟齬が出る。なぜならば、「大王とは、天子の大勢の臣(大王など)の中の一人」だからだ。つまり、決して「大王―朝廷」とはならないのだ。また「朝」一字で「ちょうてい」または「みかど」と読み、「朝庭」を「みかどには」と読むことも出来る。
3)次は、対句の意味だ。「朝には…(弓を)取り撫でたまひ」、「夕べには…(弓に)い寄り立たしし」だ。前者は「弓」を目的語とした「男性的」しぐさ、後者は万葉の他例からすれば「弓」を補語とした「女性的」しぐさなのである。それを男性たる「わが大王(大君)」一人のしぐさとすることはおかしい。
4)次は「奈加弭…なか弭」だ。「弭」とは「弓の両端の弦をかけるところ」だから、その中間…握り部である「中弭」という概念、また本当にそう呼ぶのかが不明なのだ。岩波万葉によれば、「なか弭は未詳。長(なが)弭あるいは金(かな)弭とする説もある」といっているが、これはどの古写本も「奈加弭」だからうなずけない…といわれる。
5)再び表題にかえり、「中皇命」の"正体"と共に、この歌の中での"役割"も不明なのだ。「舒明」は「大王」として(この七世紀中ころ、まだ「天皇」の自称および他称はない)、「間人連」は「作歌者」として役割がある。しかし「中皇命」の役割は…?
6)次は地名。表題の「内野」と反歌4番歌の「内の大野」、岩波万葉では「内大野(うちのおおの):大和国宇智郡。現在の奈良県五條市大野町一帯の山野。(後略)」とある。本当にそうか?

 私たちは日本古代史における古田説…、「近畿天皇家に先立って、大陸の歴代王朝や半島の国々から列島の主権者として認められていたのは、700年までは筑紫倭国引いては九州王朝であった」ことを知っています。
では古田説を適用すれば、上記の不思議は解けるのでしょうか。
1)まず「中皇命」の正体。これは称号からわかる…と。「皇命」という他称は半端じゃない…といわれる。至高の統一中心者を意味する…と。すなわち「九州王朝の天子」その人だ…と。このころであれば、天子「足りし矛」の太子であった「上塔の利」であろうか(「上塔」はいまの九州大学あたり)。いま福岡市内に「那珂川」があり、繁華街になっている「中洲」がある。そこが母の出身地であり、誕生し育った地だったのではなかろうか。だから「中皇命」と呼ばれたのだ。
2)「わが大王の 朝庭(時間帯を表すものではなく、これを「みかどには」と五字に読み、かつ男性たる「中皇命」その人の意ともなる)…」というフレーズは、「大王がお仕えする"みかど"(帝)におかれては…」という意味であって、所有格の「の」ではない。それで「中皇命―朝廷」となって、中国の用法と矛盾しない。
3)またその対句としての「夕庭(夕べには)」は時間帯表現ではなく、やはり「きさき(后)には」と女性に読むべきであろう。そうすると、「みかど―弓矢を愛し、いつも自分の弓を愛撫している」のであり、「きさき―夫の"みかど"を敬愛し、夫の持つ弓の側にいつも寄り添って立っている」という意味になる。これで、男性に女性のしぐさをやらせる不思議もない。
4)次は「なか弭」だ。これは「中皇命」の育った地「那珂(中)風の、あるいは中特産の弭」という意味だろう。「信州そば、京人形、灘の生一本」の類だ。
5)では「中皇命」の役割は? 「狩好きの王者・天子」であって、この歌は「中皇命の男らしさ、その后の女らしさを称える歌」だったのだ。それを中皇命の命を受け、間人連が詠んだのだ。大王(舒明)は臣の間人連を伴ない大和よりこの太宰府の地へ来たり、天子のお供をして朝な夕なの狩に行ったのであろう。だから間人連にとって、舒明は「わが大王」だったのだ。
6)表題の「内野」に対し「宇智の野」と読み、奈良県宇智郡の地を当ててきた。しかし大宰府の奥(後背地、東側)には、まさに「内野」の地名がある。筑豊本線の駅名でもある。しかも更にその奥の西北(篠栗線の沿線)には「大野」がある。反歌に詠われた「内の大野」だ。このあたりは、その昔は「狩場」として適所であったろう…と。「大野城」のある「大野」と区別するため、「内の大野」といったものだろう…と。

 さて古田先生の解釈はどうでしょうか。
(長歌):(やすみしし)わが大王の(お仕えになっている)その天子さま(中皇命)は、弓を愛し取り撫でていらっしゃる。その皇后(きさき)さまは、天子さまに寄り添って立っていらっしゃる。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弭を持つ弓の音がするよ。朝の狩にいま立たれるらしい、夕の狩にいま立たれるらしい。その御手に執っておられる梓弓の、那珂作りの弓の音がするよ。   (万葉3番歌)
(反歌):この内野の(中の)大野に、馬を並べ朝の足踏みをされていることだろう、その(春の)草深い野よ。    (万葉4番歌)

 因みに反歌の中の「玉剋春」は、最後の句「其草深野」とともに「季節は春」を示したものか…と、岩波万葉も注記しています。