エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

ロゴスが起こったものとしての世界

2019-01-05 | メッセージ
ヨハネ1:1-18 
 
初めに神は天と地とをつくられた。ヨハネがこの創世の書を意識していることは確かです。でも新約のメッセージの冒頭は、創造ではありません。存在です。神は存在するか、という問い自体考えられません。神はただあるのであり、疑問の余地は皆無です。ある、それは何でしょう、それはロゴスだと福音書は告げます。
 
どこかシンボリックなこの初めの数節は大変有名ですが、実はここの邦訳は幾通りにも可能だといいます。日本語の貧しさなのかギリシア語の曖昧さなのか、一義的に訳すことが難しいのです。尤も、それをすら摂理だと理解するならば、私たちは豊に神のメッセージの深さや拡がりを知ることができることでしょう。
 
ロゴスという語ひとつとっても、多義的だとよく知られています。言葉から計算や比例、理由など複雑ですが、動詞形は「語る」です。聖書でも「ことば」と読ませますが、「言」の一字で特徴づけているものがあります。けれども神学的また教義的に、これは古来キリストを示していると見なされてきました。それでよいと思います。
 
ロゴスは神と共にあったといいます。「神のもとに」という訳を、聖書協会共同訳は注に示しています。神に反しているものではない、というニュアンスを感じます。神であったのだとするのはやはりロゴスであって、こうなってくると、そもそも神の概念とは何かという点が追究されて然るべきであるようにも思えます。
 
再び「初めに」と繰り返して、神と共に、とまた同じことを伝えます。冗長なようですが、こうした繰り返しはユダヤ文学のレトリックとして普通のものでしょう。すべてはこのロゴスにより成った、つまり生じたと言いますが、私は「起こった」という言葉で考えてみるとどうだろうかと思いました。言葉が現実の出来事として起こったということです。
 
神の言葉を語る説教が、神の言葉の出来事であるとする理解の仕方がありますが、そのときまさに、この説教は、ロゴスであったことになります。ただの言葉じゃない、計算し動かすものであり、根拠にもありますし、イエス・キリストその方のことでもあります。説教は、それを語るものだというふうに私は捉えて見つめてみたのです。
 
ロゴスなしに、出来事は起こるはずがありませんでした。ロゴスがあれば、出来事が起こり、命が生まれます。人間にとりそれは光そのものとして見え、光源のように他の場所に鎮座しているものでなく、人間の中に差し込み全体を包み込む温かな光です。これに照らされ、これに導かれるのでなければ、人は歩むことができません。
 
光なるロゴスなしの世界は、闇です。闇はこのロゴスに追いつくことも勝ることもありえません。覆われていると感じ、打ちのめされている人のところに、この知らせは福音となります。ヨハネの描写はこの闇を際立たせて、そのことで逆に光の素晴らしさに気づかせようとしているようです。
 
私たちはこのロゴスから恵みを得ています。真理を知らされています。人としてのイエス・キリストを通して、それらは見える、少なくとも体験できる形で私たちのところにもたらされました。ロゴスは肉となって私たちの内にも住みました。こうして第2の創世記は、壮大な世界構造を示しつつ、私に神の出来事が起こるのだと告げてくるのです。


初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
(ヨハネ1:1)
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