エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「イザヤは、イエスの栄光を見たので」(ヨハネ12:40)

2009-07-30 | ヨハネによる福音書
 不思議なことに「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語った」(ヨハネ12:40)とあります。
 イエスが栄光を受ける、あるいはここへ至っては、父が子により栄光を、という意味の栄光とは異なり、預言者イザヤが見た栄光というのは、神の臨在にほかなりません。先の引用のあったイザヤ書6章において、「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」(イザヤ6:1)と始め、飛び交うセラフィムの声を聞いています。そのうちのひとりが、イザヤの口に火を触れさせることによって、イザヤの罪が赦され、イスラエルの民に主の言葉をもたらすために遣わされていくことになるのです。
 このように、神秘的な体験をしたイザヤのことを、栄光を見たと称していることは理解しやすいのですが、ヨハネはそれがあくまでも「イエスの栄光」であると言っています。ここにはやや論理の飛躍があります。あるいは、ヨハネの福音書をここまで読んだ読者であれば、この栄光がイエスのものであることは十分分かっているはずだ、というメッセージが背景にあるのかもしれません。
 ニコデモや、アリマタヤのヨセフなど、ユダヤの議員の中にも、イエスの弟子に連なっていく者が現れたことが、ヨハネによって記されています。議員というのは、おそらく会堂の役員などをも含む形で指摘されているのだろうと予想されます。何らかの指導者を意味していると思われますが、メシヤを待ち望むメンバーの中に、イエスに惹かれていく者が実際にあったということを告げています。
 会堂から追放されるのは、社会的に抹殺されることだということは、先にも解説しておきました。9章では、その決定が確かになされていました。「多かった」(ヨハネ12:42)というのは、一人や二人ではなかった、という程度の意味でしょうか。多数になったというふうに受け取ることはできません。あるいは、ヨハネは、心の中で動かされていた者が実はかなりいたのだ、と言いたかったのかもしれません。これもまた、今これを読む読者への配慮です。立派な指導者にも信じる者がいたのだ、という具合です。
 また、「ファリサイ派の人々をはばかって」(ヨハネ12:42)いなければならない様子も書かれています。ファリサイ派指導層が、ヨハネにおいて完全に敵に回されています。もうこうなると、ファリサイ派イコールイエスの敵です。
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