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Eric/Joe Quartet Profile

2012-03-28 17:42:09 | LIVEご案内

 

Eric Alexander エリック・アレキサンダー

 

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1968年8月4日、アメリカ・イリノイ州ゲイルスバーグ生まれ。

音楽好きな両親に育てられ、6才からピアノを始め、12才まで続ける。

高校時代にジャズに目覚め、ジャズバンドに参加。クラリネット、ベース・クラリネットから、アルトサックスへと転換。デイヴィッド・サンボーン、トム・スコット、マイケル・ブレッカーといった現代サックス・ミュージシャンの作品を聴くうちに、高校卒業後、テナーサックスに転向。

1987年にニュージャージーのウイリアム・パターソン・カレッジに入学、デイヴィッド・ベーカーという師の影響から真剣にジャズ・ミュージシャンを志すようになる。ハロルド・メイバーン(pf)やジョー・ロバーノ(ts)らに師事する。

学士号を取得し卒業後、シカゴへ移住。オルガン奏者チャールス・アーランドのアンサンブルに入団し、「Unforgettable」で初レコーディングを行う。ボブ・フリーマン(ts)、ジャック・マクダフ(org.pf)、等のグループで活躍。

1991年のモンク・コンペンションでは、ジョシュア・レッドマンに次いで2位の座に輝いた。1992年にニューヨークに移り、同年録音した初リーダー作『STRAIGHT UP』(Delmark)で、ジャズファンから注目を浴びるようになる。

以降、メルヴィン・ライン、セシル・ペイン、ケニー・バロン、アイリーン・リード、セダー・ウォルトン、フレディ・ハバートというN.Y.を拠点にした名うてのミュージシャンらと共演を実現させた。

シカゴに拠点を置くDelmark Recordsでのレコーディングも続行しており、人気を決定的にした1995年に発売(1993年録音)の『Up Over & Out』(Delmark)、『Stablemates』をサックス奏者リン・ハリディと、『Mode For Mabes』をハロルド・メイバーンとレコーディングし、秀作を生み出している。

また、1996年のアルバム『IN Europe』(Criss Cross)は、日本国内の輸入盤店で記録的なセールスをあげた。

その後も次々とリーダー作を録音し、1997年に(Alfa Jazz)から発表した本邦デビュー作『MAN WITH A HORN』は、新人としては異例のベストセラーになった。

1980年には父親の仕事で短期間ではあるが、日本に滞在した事があり、大の日本贔屓である。趣味はスキー。

1997年には、ビンセント・ハーリング(as)等と『ヤング・ライオンズ』の一員として初来日を果たした。

1998年2月、1999年2月に自己のカルテットで来日し圧倒的な人気と支持を得る。

1998年3月発表の『HEAVY HITTERS』は、スイングジャーナル誌のゴールドディスクとなり、その後「エキストラ・イニング」も出した。

1999年の来日の折には、ライブレコーディングを行い、ジャズファンに大好評を得る。

その後ファンタジーレーベルと契約。

パット・マルティーノ(g)をゲストに迎えた『The First Milstone』がビクターレコードより発売され、トランペッター、ライアン・カイザーをゲストに迎えての来日。来日前にはビーナスレコードから『The End of A Love Affair』が発売されたが、その中の一人、トロンボーン奏者のスティーブ・デイビスを加えて2002年に来日。

2003年にはエディー・ヘンダーソン(tp)をゲストに来日、大好評を博した。

後2004年、2005年、続けて今迄の不動のトリオを脱して、新しいコンセプションでのオルガン奏者、マイク・レドーン、トランペット奏者、ニコラス・ペイトンを迎えて夢の競演を実現した。

2006年今ニューヨークで話題の正統派ペッター、ジェレミー・ペルトを従え、来日。

2007年ハロルド・メイバーントリオのリズム隊を従え今話題のテナーマン、グラント・シュチュワートとのバトルを披露。

2008年6月、前年の公演が大好評な為同メンバーで再度来日と、日本での人気も非常に高く、この度の来日公演も期待が高い。

常に自己のサウンド・スタイルを向上させる努力を重ねつつ、

繊細なバラードから渾身のブロウまでを吹きこなすスケールの大きなプレイヤー。

若手でありながら、テナー・サックスのもつ伝統的で豊かなサウンドをも伝承する、素晴らしいミュージシャンである。

リリースするCDは、若手としては異例のセールスを記録。

重量級のブロウと端正なルックスでファンを魅了するジャズ界の貴公子。
 

 

Harold Mabern  ハロルド・メイバーン

 

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1936年3月20日テネシー州メンフィス生まれ。
メンフィス出身のミュージシャンには、ジミー・ランスフィールド、マ・レイニー、BB・キング、アレサ・フランクリン、フィニアス・ニューボンJr.、チャールズ・ロイド、ハンク・クロフォード、ジョージ・コールマン、等々多彩な名前が挙げられる。その恵まれた環境に育ちながら、'54年シカゴに移り、プロ入りを果たす。フィニアス・ニューボーンJr.に直接の指導を受けたながら、ほとんど独学でピアノをマスターする。

初期の活動としては、'58年にウォルター・パーキンスとボブ・クランシュウの異色コンボ、
MJT+3に参加、その演奏によって高い評価を得た。

シカゴのハウス・リズムセクションとしてニューヨークの音楽家と交流を持ち、その人々のアドバイスも在り、'59年ニューヨークに移り、最初の仕事はキャノンボール・アダレイのバンドにスイート・エジソンと参加したのであった。

Jimmy Forrest、Lionel Hamptonと共演、1961-1962年にはJazztetに参加、その他、1963年にはDonald Byrd、Miles Davis、1963-1965年にはJ.J. Johnson、1965年にはLee Morgan、Hank Mobley、1966-1967年にはSonny Rollins、Freddie Hubbard、Wes Montgomery、Joe Williams等と共演した。Wes Montgomeryとの共演は映像として残っている(“Wes Montgomery Live in '65”)。

アート・ファーマー、スタンリー・タレンタイン、ジョニー・グリフィン、ジョージ・コールマン、ソニー・ロリンズ等とも共演、ミュージシャンから厚い信頼を得た。

彼はまた、リー・モーガンのお気に入りのピアニストであって、リー・モーガンの不幸な死に際に立ち会った人間でもある。

'68年の初リーダー作『ア・フュー・マイルズ・フロム・メンフィス』以降、70年代初頭にかけてプレスティッジで4枚のアルバムを制作するも、それらは話題を呼ぶこともないまま終わった。70年代から80年代はもっぱらサイドマンとしての活動が中心だったこともあって、通好みの隠れ名手といった存在を守っていた。そんな状況に変化が訪れたのは、90年代を迎えてからのこと。ピアノトリオものの制作に力を入れていた日本のDIWが、メイバーンを“発掘”したのである。’89年から’99年の間にトリオ編成を中心として、5枚のリーダー作がレコーディングされた。それらのアルバムが世に出たことによって、日本におけるメイバーンの認知度がかなり向上したのは間違いない。

'91年には4人のピアニストによるフィニアス・ニューボーン追悼作『フォー・ピアノ、フォー・フィニアス』(Somethin'else)、実況録音作『100ゴールドフィンガーズ』(All Art)の日本制作のオムニバス盤が発売されたことも重要だ。

さらに追い風となったのがエリック・アレキサンダーとの一連の共演作である。メイバーンとエリックの付き合いは、エリックがウイリアム・パターソン大学時代にメイバーンと師弟関係にあったことに遡る。卒業後、’92年録音のデビュー作『ストレート・アップ』(Delmark)でこの新星をバックアップしたメイバーンは、その後もコンスタントにエリックとの共演関係を継続。’97年録音作『ヘビー・ヒッターズ』(Alfa Jazz)に至って、エリックあるところにミュージシャン・ブレーンのメイバーンありき、との印象を強く人々に与えたのだった。優秀な若手テナー奏者がスターダムに上った陰には、ハロルド・メイバーンという名伯楽の存在があった。そんな役どころをこなしているうちに、いつしかメイバーンもが主役の座を手中に収めたのだからジャズマンの人生は面白い。

また、William Peterson Universityにおいて教員を務め、Stanford Jazz Workshopに置いて教官を務めている。

2000年にベースのジョージ・ムラーツを迎えた彼のトリオによる「恋に恋して」が2001年1月にヴィーナスレコードより発売され、また、来日メンバーで制作された「キス・オブ・ファイヤー」が同じくヴィーナスレコードより続けて発売された。

今や、現代で最高のジャズピアニストの一人である。

ファンキーな彼のピアノは素晴らしいの一言につきる。 

 

 

Nat Reeves  ナット・リーヴス

 

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1955年米国・バージニア州リンチバーグ生まれ。

16歳のときにファンク・バンドでエレキベースを始めたが、その後ジャズとウッドベースに転向。70年代にプロとして活動を始める。

コネチカット州のハートフォードのハート学校で16年間教師として働く。

1979年から1981年は、ニューヨークでケニー・ギャレットクインテット、ムルグロー・ミイラー、ジョー・ジョーンズ、バリー・ハリス等と活動。

'82年最後のソニー・スティット来日公演に参加。

'84年には、ケニー・ギャレットクインテット(フィーチャリング・ウディ・ショー)でレコーディング。その後、現在に至るまで彼のツアーに同行している。一方で、'87年よりジャッキー・マクリーンのジョイントレコーディング(ルイス・ナッシュ(ds))等も行っている。続く12年間彼等のツアーと5枚のレコーディングに参加。

'95年に、再びケニー・ギャレットの世界ツアー。'97年にリリースされたケニー・ギャレットの最後のアルバムにも加わり、グラミー賞候補となる。

ランディ・ジョンストン、アーサー・テイラー、ウェイター・デイビス、ドナルド・バード、ウィントン・マルサリス、クリス・ホリデイ、スティーブ・マクラバン、ランディー・ジョンスン、スティーヴ・デイビス、ロイ・ハーグローブ、ケニー・カークランド、ジェフ・ワッツ、ハロルド・メイバーン等と共演。

セロニアス・モンクのジャズ・アンバサダー等のレコーディングにも参加。

手堅いサポートを身上とする実力派ベーシスト。

 

 

Joe Farnsworth  ジョー・ファーンズワース

 

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1968221日、マサチューセッツ州サウス・ハードリー生まれ。

音楽教師の父と、4人の音楽好きな兄に囲まれて育ったため、自然と音楽への興味を持つ。

10歳の頃から正式なドラム・レッスンを受け始め、やがてアラン・ドーソンに師事する。

高校卒業後、ウィリアム・パターソン大学に入学、アート・テイラーに師事。

大学時に盟友エリック・アレキサンダーに出会い、現在まで固い絆で結ばれている。

卒業後NYに進出、小さなクラブで腕を磨くうちにジュニア・クック、セシル・ペイン等と共演するようになり、ベニー・ゴルソンを始めファラオ・サンダース、ハロルド・メイバーン等のグループに参加。今ではジャズ・シーンに欠かせないドラマーとして引っ張りだこの毎日である。

また、'90年にファンズワースが発起人となってNYシーンで活躍中の若手ミュージシャン(ジム・ロトンディ/tp、エリック・アレキサンダー/ts、スティーヴ・デイヴィス/tb、デヴィッド・ヘイゼルタイン/p、ピーター・ワシントン/b)と結成したリーダー不在のグループ「ワン・フォー・オール」でも活動中。

初リーダー作『Beautiful Friendship』を’99年に発表。

ジョン・ヘンドリックスやダイアナ・クラールらのサポートを経た’02年にはウィントン・マルサリスのツアー・メンバーになり、「ジャズ・アット・ザ・リンカーン・センター」にも参加。

’03年には日本制作の『プライム・タイム』が発表され、人気が急上昇。

N.Y.ではストレートアヘッド系のファースト・コール・ドラマーとして、ベニー・ゴルソンやシダー・ウォルトンなどヴェテランたちの信頼も集めてきた。

ジュニア・クック、セシル・ペイン、ベニー・ゴルソン、ジョージ・コールマン、ベニー・グリーン、ジョン・ヘンドリックス、エディー・ヘンダーソン、ジュニア・クック、フレディー・ハバード、ダイアナ・クラール、シダー・ウォルトン、ファラオ・サンダース、ジム・ロトンディ、デヴィッド・ヘイゼルタイン、ロン・カーター、カーティス・フラー等、多くのミュージシャンと共演。

NYで活躍するジャズ・ミュージシャンの中でも、白人ドラマーとしては一番の人気を誇る。

 

 


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