里歩き花めぐり

道草・寄り道・ぶらり散歩道

播磨新宮をぶら~りぶらぶら

2014年12月27日 | 日記
兵庫県たつの市新宮町、播磨新宮と言った方がとおりが良いかも知れません。

播磨新宮については、何も知識はありませんでしたが、ただぶらりと歩いて

来ました。


新宮町という町名に引かれたのかも知れません。


JR姫新線・播磨新宮駅



新宮宮内遺跡



他に城跡や神社など見どころはあったのですが、駅周辺を時間の関係で散策

しただけでした。


たんに散歩に出かけたようなものです。



町中で見たもの、それはボンタンでした。長崎地方ではザボンと言うらしいです。



駅前の歩道には、市の花に制定されている桜の花のタイルがはめ込まれて

いました。


やはり出かける前に下調べなど計画を立てて行くべきだと思う事でした。

宇治ぶらり日帰りの旅

2014年12月25日 | 旅行
12月24日・水曜日、天気は曇り

宇治市内をぶら~り、歩いて来ました。

多くの観光客で賑わっていた平等院、外国人の姿が多く見られました。



平等院・鳳凰堂

1052年(永承7年)、藤原頼通によって父・道長の別荘を寺院に改め創建されました。








喜撰橋と十三重石塔


宇治十帖モニュメント


宇治川の辺の小路


宇治上神社の前の通り、未だ紅葉も見る事が出来ました。



宇治は茶どころ、その茶どころだけに郵便ポストもこのとおり茶壷でした。

JR宇治駅にて。




「近江商人の郷・近江八幡」を歩く

2014年12月20日 | 旅行
12月19日・金曜日、天気は曇りのち晴れ

JRの駅からはじまるハイキングに参加しました。

ハイキングの先は、滋賀県近江八幡市。

近江八幡と言えば、そう近江商人が思い浮かびます。



豊臣秀次は八幡山築城と共に、八幡堀を掘削して湖上交通の要衛とし、

安土や近郷の住民を八幡山城下に集め、楽市楽座制を取り入れて商業都市としての礎を

築きました。



駅前から伸びる大通り「ぶーめらん通り」



「ぶーめらん通り」から続いている「木幡町通り」、中央に見えるのが

八幡山で山上に「八幡山城」跡があります。




八幡堀




八幡堀の周りには雪が残っていました。


日牟禮八幡宮、この鳥居の前に、明治10年に建設された学校建築物

「白雲館」があります。



江戸時代末期から明治にかけて建築された町並み。



豊臣秀次は後に関白職を継ぎましたが、秀吉に秀頼が生まれたことにより、

謀反の罪を着せられ自害させられました。


豊臣秀次の手がけたまちづくり精神は、脈々と今日まで引き継がれて、

八幡開町の祖として慕われているそうです。


朝曇っていた空も晴れて、歩程6.5kmも2時間足らずであっという間に過ぎて

しまいました。




北国街道・山内一豊と千代ゆかりの地

2014年12月09日 | 旅行
今回は北国街道・長浜編に続いて滋賀県米原市宇賀野周辺の散策です。

宇賀野は、山内一豊と千代のゆかりの地です。

北陸本線・坂田駅で下車、駅前には山内一豊と千代の像が迎えてくれ

ました。




北陸本線・坂田駅




JR北陸本線・阪田駅前に立つ「山内一豊と千代」の像


宇賀野の長野家

山内一豊の父・盛豊は、黒田城の家老であった。父亡き後、一豊と母や弟妹は

知人の紹介で永禄3年、宇賀野の長野家に落ち着いた。



今は廃家と成り、住む人もない庭先にひっそりとバラが咲いていた。

母・法秀院没後200年、法秀院の墓の改修工事に着手、長野家は土佐藩より

永代五人扶持が給される事に成った。


一方、千代は近江浅井家家臣、若宮喜助友興(米原市飯)の娘として弘冶3年

に生まれた。幼くして両親を失い、宇賀野で一豊の母に縫製を習った事が一豊との縁の

始まりと言われている。



宇賀野辺りの田園風景


北国街道・長浜

2014年12月08日 | 旅行
北国街道・木ノ本宿と黒田家発祥の地に続いて、長浜編です。

長浜駅に降り立つと駅前には、豊臣秀吉と石田光成の像が立っていま

した。以前に比べ長浜駅も、すっかり様変わりしていたのには驚きました。



JR長浜駅


豊臣秀吉と石田光成の像


北国街道、多くの観光客で賑わっていました。



長浜城は、豊臣秀吉の出世城と言われています。現在のお城は再建された

もので歴史資料館と成っています。




長浜での見どころは沢山あったのですが、何分にも厳しい寒さと時間の都合で

足早に周り、次の米原市宇賀野へ向いました。


宇賀野は山内一豊と妻の千代のゆかりの地です。

またまた、次回に続きます。