里歩き花めぐり

道草・寄り道・ぶらり散歩道

今年一年ご訪問ありがとうございました

2015年12月31日 | 日記
2015年、今年も多くの方々にご訪問といいねを頂き、ありがとうございました。

今年も今日までですが、来る2016年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

来る2016年、皆様にとって良き年と成りますようお祈り申し上げます。


兵庫県加古川市、鶴林寺鐘楼。鶴林寺は、播磨の法隆寺とも呼ばれています。

今年一年散歩した道々の風景です。

来年も又、懲りもせず同じ道を元気に歩きたいと思っております。


和泉市箕形町三丁目付近


和泉市中央公園内の径


和泉市中央公園から望む、いぶき野三丁目付近の高層マンション街


和泉市中央公園入口付近






和泉市弥生付近


和泉市弥生付近


和泉市弥生付近から望む和泉山脈

播磨・明石城(2)

2015年12月30日 | 旅行
ーー 播磨・明石城(1)の続きです。 --

明石川河口にあった船上(ふなげ)城に入城した小笠原氏が、現在の地に城を築きました。




本丸跡


巽櫓


坤櫓(ひつじさるやぐら)


本丸跡の石垣


二ノ丸跡の石垣


二ノ丸跡の石垣


東ノ丸跡入口の石垣


薬研堀

明石市は、子午線の町としても知られています。

マンホールにも、子午線について図案化されています。





明石城は公園として整備されていて、無料で一般公開されています。

惜しいかな、櫓の中は見る事は出来ないように成っています。




播磨・明石城(1)

2015年12月29日 | 旅行
兵庫県明石市、播磨(播州)・明石城。

JR山陽本線・明石駅のホームから(車窓からも)見える明石城。

築城以来、僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わり、その後、越前家松平直明が

六万石で入場し、以後明治維新までの10代189年間親藩として松平氏の居城と成りました。


           松平氏の葵の家紋







               抻櫓


               巽櫓

二の丸、本丸への登り口







               天守台跡の石垣


           天守台跡から眺めた明石の街並み



ーー 次回の播磨・明石城(2) -- へ続きます。


播州・赤穂城(2)

2015年12月28日 | 旅行
ーー 播州・赤穂城(1)の続きです。

映画やドラマなどで、忠臣蔵は広く知られていますが史実はかなり違うもののようです。

赤穂市の市内は、赤穂義士一色に染められた感じがしました。


赤穂城の天守台の石垣


赤穂城本丸跡


本丸庭園






二の丸外堀


武家屋敷


お城通りの街並み






赤穂市のマンホール

主君の仇討ち、身命を落としてまで何故、大石内蔵助を始めとした藩士たちは仇討ちを

したのだろう。


理由は幾つかあったと考えられます。

最大の理由は、喧嘩両成敗については将軍の片手落ちの裁断にあったようです。

大石内蔵助の辞世の句「あら楽おおもひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし」や

「極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八ひと」などがあります。


内蔵助は切腹にあたり、何も思い残す事は本当になかったのだろうか疑問に思います。

さて、討ち入り後から時を経て吉良家は断絶、内蔵助の三男・大三郎は正徳三年(1713年)

九月二十六日、芸州浅野家の招きで千五百石の知行で召し抱えられています。


播州・赤穂城(1)

2015年12月27日 | 旅行
兵庫県赤穂市、播州赤穂城と言えば忠臣蔵。

事の発端は、元禄14年江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に

刃傷沙汰に及んだのが始まり、あまりにも有名です。


後に赤穂浪士・家老の大石内蔵助を始めとする47士が吉良邸に討ち入り、見事

主君の仇を討った、赤穂忠臣蔵のふるさとです。



「JR・播州赤穂駅」前に立つ忠臣・大石内蔵助良雄像


JR・播州赤穂駅


播州赤穂城・大手門




隅櫓






大石邸長屋門


元禄14年3月、主君刀傷の非報を持った早駕籠が叩いた門です。




本丸前の堀と石垣






本丸門


内側から見た本丸門

次回の播州・赤穂城(2)へ続きます。