「案 内 (あんない) 平成29年師走16日~大晦日
我 達谷西光寺では 師走二日に御年越の神事が執行されると
平成30年戊戌に目出度く改まるのである
早速 謹賀新年の立看板を立てた譯だが
一足早く毘沙門樣に元朝詣りを済ませた常連の信者さんの心は
もう正月八日の修正會結願にあるらしい
新しい牛玉寶印を待ち侘びている信者さんから
有り難い結願の牛玉法の神事について
法話で案内してほしいといわれたので
斯く陳べることにする
「延暦廿年 征夷大将軍 坂上田村麿公の創建を伝える
達谷窟毘沙門堂の修正會の結願の法要である「牛玉法」が
正月八日午後二時から執り行われます
法要の結びには 寶印授与の神事かあります
参拝の皆様には一年間の「無病息災」「除災招福」を祈念する
目出度い御判(判子)を額と掌に御押し致しますので
是非御来山下さいますよう御勧め申し上げます
こののち 御神酒を頂戴し
いよいよ最強の御札「牛玉寶印」の頒布となります
なお「牛玉法」に参集された方はもちろんですが
14日の枩焚祭(どんと祭)まで「牛玉寶印」が入用の信者に限り
拝観料は無料となりますので
この旨を黒門入口の寺務所までお申し出ください云々」
じつは 無事結願を待ち侘びておられるのは
なにより毘沙門様なのであるが
御仕えする達谷西光寺の寺僧も同じなのである
因みに 今度の修正會では
今年目出度く四度加行を終え
権別當職に任ぜられた弟子の豪侑が
結願まで出仕することがうれしいのである
私事も述べ 拙い案内を終えることにする 合掌
「閼伽堂(あかどう)」
毘沙門堂から不動堂に向かうと、坂の途中で御修復なった朱(しゅ)塗りの鐘楼が左に、小さな切妻(きりづま)の朱(あか)い御堂が右に見える。閼伽堂(あかどう)である。朱(あか)い御堂(おどう)だから閼伽堂だと、勘違(かんちが)いしている御仁(ごじん)も多いようだが、然(さ)にあらず。閼伽(あか)とは神仏に御供(ごそな)えする水のことで、梵語(ぼんご)のアルガの音(おん)写語(しゃご)なのである。だから閼伽(あか)井(い)、すなわち閼伽(あか)水(すい)の湧(わ)き出(いず)る井戸を護(まも)るための覆屋(おおいや)なのであり、関西(かんさい)では閼伽(あか)井屋(いや)と呼ばれることが多いらしい。
嘗(かつ)ては杉皮(すぎかわ)葺(ぶ)きの屋根であったが、草や木が生えて痛みが酷(ひど)くなったので、平成20年5月に、銅板に葺き替えられた。本義(ほんぎ)ならば、杉皮で葺き替えるべきなのだが、材料の調達が難しいので断念(だんねん)したことが、今でも忘れられないのである。
昔から、達(たっ)谷窟(こくのいわや)の御神域(ごしんいき)に座(おわ)します神仏(しんぶつ)の修法(しゅほう)に用いる水は、この井戸から汲(く)むべきとされている。来(きた)る修正會(しゅしょうえ)では、一七日(いちしちにち)の間、後(ご)夜座(やざ)の前に御水(おみず)をいただいて、先(ま)ず毘沙門堂の閼伽(あか)棚(だな)に納(おさ)め置くのである。ちなみに、年頭(ねんとう)に汲(く)まれた若水(わかみず)だけ、香水(こうずい)壺(つぼ)に注(つ)ぎ足(た)すことが許されている。これに香を入れて御神(ごじん)水(ずい)を作るのだが、牛玉寶印を摺(す)るための墨は、この壺(つぼ)に古(いにしえ)より伝(つた)わって来(き)た御神(ごじん)水(ずい)を以(も)って磨(す)られるのである。また、寛政(かんせい)元年(がんねん)に不動堂が現地に移されてからは、眼(め)の神様である姫待(ひめまち)不動(ふどう)尊(そん)の信仰と結びついて、目薬(めぐすり)として御水(おみず)を求める信者が引きも切らなかったという。
早いもので、今年もあと半月で暮れようとしている。大晦日(おおみそか)といえば除夜(じょや)の鐘(かね)で、主役は鐘楼(しょうろう)なのだが、閼伽堂(あかどう)も正月行事の一方(いっぽう)の主役であるから、紹介することにした。水位が高い井戸にも拘(かか)わらず、真冬でも滅多(めった)に凍らない。ここ30年で凍った記憶は、二三度しかないのである。しかも、薄氷(うすごおり)であることは、寒中(かんちゅう)の修行(しゅぎょう)においては、じつに有難い。閼伽堂(あかどう)の神様の成(な)せる業(わざ)であろうか。
毘沙門堂から不動堂に向かうと、坂の途中で御修復なった朱(しゅ)塗りの鐘楼が左に、小さな切妻(きりづま)の朱(あか)い御堂が右に見える。閼伽堂(あかどう)である。朱(あか)い御堂(おどう)だから閼伽堂だと、勘違(かんちが)いしている御仁(ごじん)も多いようだが、然(さ)にあらず。閼伽(あか)とは神仏に御供(ごそな)えする水のことで、梵語(ぼんご)のアルガの音(おん)写語(しゃご)なのである。だから閼伽(あか)井(い)、すなわち閼伽(あか)水(すい)の湧(わ)き出(いず)る井戸を護(まも)るための覆屋(おおいや)なのであり、関西(かんさい)では閼伽(あか)井屋(いや)と呼ばれることが多いらしい。
嘗(かつ)ては杉皮(すぎかわ)葺(ぶ)きの屋根であったが、草や木が生えて痛みが酷(ひど)くなったので、平成20年5月に、銅板に葺き替えられた。本義(ほんぎ)ならば、杉皮で葺き替えるべきなのだが、材料の調達が難しいので断念(だんねん)したことが、今でも忘れられないのである。
昔から、達(たっ)谷窟(こくのいわや)の御神域(ごしんいき)に座(おわ)します神仏(しんぶつ)の修法(しゅほう)に用いる水は、この井戸から汲(く)むべきとされている。来(きた)る修正會(しゅしょうえ)では、一七日(いちしちにち)の間、後(ご)夜座(やざ)の前に御水(おみず)をいただいて、先(ま)ず毘沙門堂の閼伽(あか)棚(だな)に納(おさ)め置くのである。ちなみに、年頭(ねんとう)に汲(く)まれた若水(わかみず)だけ、香水(こうずい)壺(つぼ)に注(つ)ぎ足(た)すことが許されている。これに香を入れて御神(ごじん)水(ずい)を作るのだが、牛玉寶印を摺(す)るための墨は、この壺(つぼ)に古(いにしえ)より伝(つた)わって来(き)た御神(ごじん)水(ずい)を以(も)って磨(す)られるのである。また、寛政(かんせい)元年(がんねん)に不動堂が現地に移されてからは、眼(め)の神様である姫待(ひめまち)不動(ふどう)尊(そん)の信仰と結びついて、目薬(めぐすり)として御水(おみず)を求める信者が引きも切らなかったという。
早いもので、今年もあと半月で暮れようとしている。大晦日(おおみそか)といえば除夜(じょや)の鐘(かね)で、主役は鐘楼(しょうろう)なのだが、閼伽堂(あかどう)も正月行事の一方(いっぽう)の主役であるから、紹介することにした。水位が高い井戸にも拘(かか)わらず、真冬でも滅多(めった)に凍らない。ここ30年で凍った記憶は、二三度しかないのである。しかも、薄氷(うすごおり)であることは、寒中(かんちゅう)の修行(しゅぎょう)においては、じつに有難い。閼伽堂(あかどう)の神様の成(な)せる業(わざ)であろうか。
「絵馬」
様々な願いが叶(かな)うように神佛(かみほとけ)に奉納されるもの、といえば、絵馬(えま)に止(とど)めを刺すのではないか。今は小さな板ばかりになってしまったが、かつては本物の馬が奉納されていたという。いわゆる、神馬(しんめ)である。
ちなみに、下達谷の日光(にっこう)権現社(ごんげんしゃ)の参道には、ほぼ等身大の石の馬が鎮(ちん)座している。生きている馬よりも高価であろうが、未来(みらい)永劫(えいごう)の奉納にしたかったに違いない。
余談(よだん)ながら、御引き物、引き出物も、もともとは宴(うたげ)の結びに、寝殿造(しんでんづくり)の庭先で馬の手綱を引いた故事(こじ)に由来(ゆらい)するという。現代なら自動車といったところだろうから、将に最高の贈り物だったのだろう。
高価な馬が適(かな)わなくなったのちも、暫(しばら)くは大きな馬(うま)絵(え)が奉納されていたが、近年は、図柄(ずがら)も係(かかわ)りのない、多くは社寺の縁起物(えんぎもの)に因(ちな)んだ絵馬が奉納されている。また、これを御守りとして求める御仁も、じつに多いそうだ。
我(わが)達(たっ)谷(こく)西光(せいこう)寺では、窟の毘沙門様には七曜(しちよう)の星の絵馬、姫待の御不動様には剣の絵馬が、それぞれの願いを込めて御宝前に奉納されているのであるが、平成26年に蝦蟇ヶ池辯天堂が御修復なったのちに、辯天様に絵馬を奉納したいと申し出る参拝者が引きも切らないのである。
そんなわけで、秋口から奉納(ほうのう)絵馬を作る算段を始めることにした。あれこれ図案に悩んだ末、表(おもて)には辯天様の御使いの白蛇と、佛説即身貧轉(ぶつせつそくしんびんでん)福徳(ふくとく)円満(えんまん)宇賀神将(うがじんしょう)菩薩(ぼさつ)白(はく)蛇(じゃ)示現(じげん)三日(さんじつ)成就(じょうじゅ)経(きょう)に説く転貧雨宝、すなわち「貧しきを転じて宝を雨(ふ)らす」との目出度い文言(もんごん)を朱(しゅ)書(が)きすることにした。
11月に待望の絵馬が完成したので、去る23日に祈禱を行った。併(あわ)せて、願い事を記すための、赤い御机(おつくえ)も一緒に新調したから、是非御参りに来てほしいと希(ねが)うのである。
秋も深まり、当地を訪れる参拝客もめっきり少なくなったが、参道を進み、三之(さんの)鳥居(とりい)から辯天堂を望むたびに、祷(いの)りを込めて奉納された絵馬が、一枚二枚と増えていくのが嬉(うれ)しいのである。辯天様もきっと御歓びであるに、違いない。
様々な願いが叶(かな)うように神佛(かみほとけ)に奉納されるもの、といえば、絵馬(えま)に止(とど)めを刺すのではないか。今は小さな板ばかりになってしまったが、かつては本物の馬が奉納されていたという。いわゆる、神馬(しんめ)である。
ちなみに、下達谷の日光(にっこう)権現社(ごんげんしゃ)の参道には、ほぼ等身大の石の馬が鎮(ちん)座している。生きている馬よりも高価であろうが、未来(みらい)永劫(えいごう)の奉納にしたかったに違いない。
余談(よだん)ながら、御引き物、引き出物も、もともとは宴(うたげ)の結びに、寝殿造(しんでんづくり)の庭先で馬の手綱を引いた故事(こじ)に由来(ゆらい)するという。現代なら自動車といったところだろうから、将に最高の贈り物だったのだろう。
高価な馬が適(かな)わなくなったのちも、暫(しばら)くは大きな馬(うま)絵(え)が奉納されていたが、近年は、図柄(ずがら)も係(かかわ)りのない、多くは社寺の縁起物(えんぎもの)に因(ちな)んだ絵馬が奉納されている。また、これを御守りとして求める御仁も、じつに多いそうだ。
我(わが)達(たっ)谷(こく)西光(せいこう)寺では、窟の毘沙門様には七曜(しちよう)の星の絵馬、姫待の御不動様には剣の絵馬が、それぞれの願いを込めて御宝前に奉納されているのであるが、平成26年に蝦蟇ヶ池辯天堂が御修復なったのちに、辯天様に絵馬を奉納したいと申し出る参拝者が引きも切らないのである。
そんなわけで、秋口から奉納(ほうのう)絵馬を作る算段を始めることにした。あれこれ図案に悩んだ末、表(おもて)には辯天様の御使いの白蛇と、佛説即身貧轉(ぶつせつそくしんびんでん)福徳(ふくとく)円満(えんまん)宇賀神将(うがじんしょう)菩薩(ぼさつ)白(はく)蛇(じゃ)示現(じげん)三日(さんじつ)成就(じょうじゅ)経(きょう)に説く転貧雨宝、すなわち「貧しきを転じて宝を雨(ふ)らす」との目出度い文言(もんごん)を朱(しゅ)書(が)きすることにした。
11月に待望の絵馬が完成したので、去る23日に祈禱を行った。併(あわ)せて、願い事を記すための、赤い御机(おつくえ)も一緒に新調したから、是非御参りに来てほしいと希(ねが)うのである。
秋も深まり、当地を訪れる参拝客もめっきり少なくなったが、参道を進み、三之(さんの)鳥居(とりい)から辯天堂を望むたびに、祷(いの)りを込めて奉納された絵馬が、一枚二枚と増えていくのが嬉(うれ)しいのである。辯天様もきっと御歓びであるに、違いない。
「銀杏」
紅葉といえば紅(くれない)はモミジだが、黄色(きいろ)は深山(みやま)ならコシアブラ、里ならイチョウに止めを刺すのではないか。窟(いわや)毘沙門堂の境内(けいだい)には、二本のイチョウが聳(そび)え立つ。一つは蝦蟇(がま)ヶ池東(ひがし)の水口(みなくち)近くに、もう一つは蝦蟇ヶ池西の護岸にあり、後者(こうしゃ)は百年少し昔(むかし)に信徒が献木(けんぼく)したものである。その曾孫(ひまご)が達谷神楽の庭元(にわもと)であるのは、不思議な縁である。
植物なのに、雌雄(しゆう)の別があり、東が雄(おす)で、西が雌(めす)である。風媒花(ふうばいか)で、1キロくらい離れていても花粉が届くそうだ。ちなみに、被子(ひし)植物なら雄(お)蕊(しべ)雌蕊(めしべ)であるのに、イチョウが受粉後に花粉管の中で精子を作って受粉するのは、不思議な生態といえよう。
平瀬作五郎によって裸子(らし)植物の精子が発見されたのは、明治27年である。それが、恩師の池野成一郎のソテツの精子発見に結びつくのである。この功績により、共(とも)に帝国学士院恩賜賞を受賞している。
生きている化石と呼ばれるが、1000年ほど前には、江南(こうなん)に自生していたらしい。北宋の王(おう)都(と)があった開封(かいふう)に移植され、広まったとする説が有力だが、現在自生地はない。したがって、原産地を確定し難いのも、不思議である。
葉の上に銀杏(ぎんなん)が生(な)るオハツキイチョウや、葉が円筒状になるラッパイチョウ、そして銀杏(ぎんなん)を採るための園芸種など変種も多く、将に日本を代表する樹木ともいえよう。ちなみに日本では多くの社寺(しゃじ)に樹齢千年を超える大木が残っているが、イチョウの名木は東北に、その中でも青森県に巨木が多いというから、不思議な植物である。
参拝者の目を楽しませてくれた境内(けいだい)の銀杏が、11月11日に散った。黄金(こがね)色の絨毯(じゅうたん)に立って、葉の落ちた西のイチョウを見上げると夥(おびただ)しく実が生(な)っているのが分かる。毎年、果肉ごと拾って笊(ざる)に入れて洗って銀杏(ぎんなん)を採るのだか、臭いだけでなく、肌に触れるとかぶれるのでなかなか大変な作業なのである。困ったことに、不思議なことに、ここ2、3年ほど前から銀杏(ぎんなん)を食べる狸(たぬき)と先を争って拾わなければならないのは、可笑しな話でもある。
斯くして、不思議なことばかりだが、銀杏(ぎんなん)が毘沙門様の御宝前に御供えされるのは、師走15日の御縁日である。続いて、17日の観音様の御年越(おとしこし)に糧(かて)飯(めし)に入れられるのだが、これは昔から決まっているのである。
紅葉といえば紅(くれない)はモミジだが、黄色(きいろ)は深山(みやま)ならコシアブラ、里ならイチョウに止めを刺すのではないか。窟(いわや)毘沙門堂の境内(けいだい)には、二本のイチョウが聳(そび)え立つ。一つは蝦蟇(がま)ヶ池東(ひがし)の水口(みなくち)近くに、もう一つは蝦蟇ヶ池西の護岸にあり、後者(こうしゃ)は百年少し昔(むかし)に信徒が献木(けんぼく)したものである。その曾孫(ひまご)が達谷神楽の庭元(にわもと)であるのは、不思議な縁である。
植物なのに、雌雄(しゆう)の別があり、東が雄(おす)で、西が雌(めす)である。風媒花(ふうばいか)で、1キロくらい離れていても花粉が届くそうだ。ちなみに、被子(ひし)植物なら雄(お)蕊(しべ)雌蕊(めしべ)であるのに、イチョウが受粉後に花粉管の中で精子を作って受粉するのは、不思議な生態といえよう。
平瀬作五郎によって裸子(らし)植物の精子が発見されたのは、明治27年である。それが、恩師の池野成一郎のソテツの精子発見に結びつくのである。この功績により、共(とも)に帝国学士院恩賜賞を受賞している。
生きている化石と呼ばれるが、1000年ほど前には、江南(こうなん)に自生していたらしい。北宋の王(おう)都(と)があった開封(かいふう)に移植され、広まったとする説が有力だが、現在自生地はない。したがって、原産地を確定し難いのも、不思議である。
葉の上に銀杏(ぎんなん)が生(な)るオハツキイチョウや、葉が円筒状になるラッパイチョウ、そして銀杏(ぎんなん)を採るための園芸種など変種も多く、将に日本を代表する樹木ともいえよう。ちなみに日本では多くの社寺(しゃじ)に樹齢千年を超える大木が残っているが、イチョウの名木は東北に、その中でも青森県に巨木が多いというから、不思議な植物である。
参拝者の目を楽しませてくれた境内(けいだい)の銀杏が、11月11日に散った。黄金(こがね)色の絨毯(じゅうたん)に立って、葉の落ちた西のイチョウを見上げると夥(おびただ)しく実が生(な)っているのが分かる。毎年、果肉ごと拾って笊(ざる)に入れて洗って銀杏(ぎんなん)を採るのだか、臭いだけでなく、肌に触れるとかぶれるのでなかなか大変な作業なのである。困ったことに、不思議なことに、ここ2、3年ほど前から銀杏(ぎんなん)を食べる狸(たぬき)と先を争って拾わなければならないのは、可笑しな話でもある。
斯くして、不思議なことばかりだが、銀杏(ぎんなん)が毘沙門様の御宝前に御供えされるのは、師走15日の御縁日である。続いて、17日の観音様の御年越(おとしこし)に糧(かて)飯(めし)に入れられるのだが、これは昔から決まっているのである。