文化放送、日曜朝の6時から、「志の輔ラジオ 落語DE デート」,「天下たい平! 落語はやおき亭」,「林家正蔵のサンデーユニバーシティ」と、3本の落語家の番組が、毎週放送されている。
用事があって聴けないことも多いが、できるだけダイヤルをあわせるようにしている。この9月1日は「防災の日」に因み、林家正蔵師匠が「避難訓練」のはなしをされていた。御尊父である先代林家三平師匠が先頭にたって、一門総出で上野の山へ真面目に避難訓練をしたそうだ。三平師匠の真面目な顔を想像するだけで思わず笑ってしまうが、中心となったのはおそらく、御母堂の海老名香葉子さんなのだろう。
1923年9月1日の大震災は、1945年3月10日の大空襲の記憶にもはっきりつながる。
香葉子さんは当時、静岡県沼津に学童疎開されていました。
“山の中腹に立って、東京の方角を見ると、墨を流したような、暗い空のはしのほうが、まっ赤に染まっています。立ちすくんだわたしのひざが、ガタガタふるえてきました。
(きっと、東京が爆撃されているんだ。)
とっさにそう思うと、わたしは、胸が苦しくなりました。” 『うしろの正面だあれ』 海老名香葉子
時間は3月10日の0時8分から2時35分までです。(『東京大空襲』早乙女勝元)。
“来襲機数 325 爆弾 100K 6個 焼夷弾 1,665 総トン 1,783 戦災家屋 268,358 罹災人口 1,008,005 負傷者 40,918 死者 88,793 備考 推定死者10万人”
「東京空襲日誌②」『東京大空襲』 早乙女勝元
当ブログでも、疎開先から東京の空が赤く染るのを見た記憶の証言を、ふたつ紹介しました。
“集団疎開で信州の雪深い渋・上林温泉に送られました. ほどなく3月10日の東京大空襲. 秩父山地の上空が異常な深紅に染まり,その下で10万に及ぶ人々が火中を逃げ惑った挙句に命を落とされたことなど想像もつかず,ただあの赤,赤だけが目に焼きつきました. ” 『英語構文全解説』 山口俊治
“渡辺さんには、戦争末期に暮らしていた東京の空襲が激しさを増し、静岡、富山への学童疎開の記憶が残る。「いなかの寺で寝泊まりし、遠くの空が爆撃で赤く染まったのを覚えている。」”
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130816/CK2013081602000134.html
「戦跡を歩く(3)佐倉連隊営所(佐倉市) 跳下台から戦地へ」 『2013.8.16 東京新聞』
同じ新聞の千葉版に、「東京大空襲絵で伝える 流山の画家・吉野山さん 柏の戦争展に作品」という記事が載ったので、その絵を見て、お話しを伺うことができました。
『2013.8.27 東京新聞』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130827/CK2013082702000149.html
この絵には釘で、実際の大きさの焼夷弾が打ちつけられていました。
当時15歳だった吉野山さんは、軍需工場で働いていました。
吉野山さんが激しく怒ったことは、(1964年12月 佐藤栄作政権が、)この大空襲の最高責任者である米空軍参謀総長に、勲一等を贈ったことだと、私に言いました。
(一枚の巨大な絵の各部分を、許可を得て撮影しました。)
焼夷弾は、クラスターだったと言いました。
“戦後、焼け野原となった東京に戻った私は、親戚を転々としました。つらいことばかりの中、どうしても東京で生きていかれなくなったら、穴水に行こうと思ってやってきました。あそこに行けば、きっと誰かが私のことを助けてくれる。だからもう少しだけ東京で我慢しよう。がんばってみよう。ずっとそんな風に思って生きてきました。”
『母と昭和とわらべ唄』 海老名香葉子 (p.175)
用事があって聴けないことも多いが、できるだけダイヤルをあわせるようにしている。この9月1日は「防災の日」に因み、林家正蔵師匠が「避難訓練」のはなしをされていた。御尊父である先代林家三平師匠が先頭にたって、一門総出で上野の山へ真面目に避難訓練をしたそうだ。三平師匠の真面目な顔を想像するだけで思わず笑ってしまうが、中心となったのはおそらく、御母堂の海老名香葉子さんなのだろう。
1923年9月1日の大震災は、1945年3月10日の大空襲の記憶にもはっきりつながる。
香葉子さんは当時、静岡県沼津に学童疎開されていました。
“山の中腹に立って、東京の方角を見ると、墨を流したような、暗い空のはしのほうが、まっ赤に染まっています。立ちすくんだわたしのひざが、ガタガタふるえてきました。
(きっと、東京が爆撃されているんだ。)
とっさにそう思うと、わたしは、胸が苦しくなりました。” 『うしろの正面だあれ』 海老名香葉子
時間は3月10日の0時8分から2時35分までです。(『東京大空襲』早乙女勝元)。
“来襲機数 325 爆弾 100K 6個 焼夷弾 1,665 総トン 1,783 戦災家屋 268,358 罹災人口 1,008,005 負傷者 40,918 死者 88,793 備考 推定死者10万人”
「東京空襲日誌②」『東京大空襲』 早乙女勝元
当ブログでも、疎開先から東京の空が赤く染るのを見た記憶の証言を、ふたつ紹介しました。
“集団疎開で信州の雪深い渋・上林温泉に送られました. ほどなく3月10日の東京大空襲. 秩父山地の上空が異常な深紅に染まり,その下で10万に及ぶ人々が火中を逃げ惑った挙句に命を落とされたことなど想像もつかず,ただあの赤,赤だけが目に焼きつきました. ” 『英語構文全解説』 山口俊治
“渡辺さんには、戦争末期に暮らしていた東京の空襲が激しさを増し、静岡、富山への学童疎開の記憶が残る。「いなかの寺で寝泊まりし、遠くの空が爆撃で赤く染まったのを覚えている。」”
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130816/CK2013081602000134.html
「戦跡を歩く(3)佐倉連隊営所(佐倉市) 跳下台から戦地へ」 『2013.8.16 東京新聞』
同じ新聞の千葉版に、「東京大空襲絵で伝える 流山の画家・吉野山さん 柏の戦争展に作品」という記事が載ったので、その絵を見て、お話しを伺うことができました。
『2013.8.27 東京新聞』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20130827/CK2013082702000149.html
この絵には釘で、実際の大きさの焼夷弾が打ちつけられていました。
当時15歳だった吉野山さんは、軍需工場で働いていました。
吉野山さんが激しく怒ったことは、(1964年12月 佐藤栄作政権が、)この大空襲の最高責任者である米空軍参謀総長に、勲一等を贈ったことだと、私に言いました。
(一枚の巨大な絵の各部分を、許可を得て撮影しました。)
焼夷弾は、クラスターだったと言いました。
“戦後、焼け野原となった東京に戻った私は、親戚を転々としました。つらいことばかりの中、どうしても東京で生きていかれなくなったら、穴水に行こうと思ってやってきました。あそこに行けば、きっと誰かが私のことを助けてくれる。だからもう少しだけ東京で我慢しよう。がんばってみよう。ずっとそんな風に思って生きてきました。”
『母と昭和とわらべ唄』 海老名香葉子 (p.175)