札幌の秀才中学生は、なぜ料理人を目指したか
進路指導の教員は「アイヌは受験させない」と言った
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一部引用
「アイヌは受験させないよ」。1983(昭和58)年、夏のある昼すぎ、札幌市内の市立中学校の狭い進路指導室だった。
学習机を挟んだ向こうで進路指導の教員が放った一言。36年以上がたった今も忘れることはない。
怒りも湧いてこなかった。ただぼうぜんとした。口を突いて出たのは「へぇ、そうなんや」。
小学校時代を過ごした大阪で身に付いた関西弁だった。年上に敬語を使わなかったのは、後にも先にもこの時だけだ。
勉強が大好きで、朝3時ごろまで机に向かうのが当たり前だった今さんの志望校は、北海道有数の進学校「函館ラ・サール」だった。
模試の理数系科目は北海道で10位以内。学習塾では「体調を崩さなければまず受かる」と太鼓判を押されていた。
だが、アイヌであるというただそのことだけで、願書すら出せなかった。
大学進学はせず、学歴に頼らない職に就こうと思っていたとき、父の勧めもあり、調理師になることを決めた。
卒業後、親元を離れ大阪へ。
調理師専門学校を出た後、東京と大阪のイタリア料理店を経て本場イタリアで1年修業、96年には大阪で自分の店を開いた。27歳の若さだった。
「アイヌの踊りや歌を継承する人はいても、食を継承する人がいない」。
あるときアイヌの友人に言われたことが刺激になった。約10年後、店でアイヌ料理を出し始めた。
当初は色モノとして扱われた。が、人気漫画「ゴールデンカムイ」の影響で、徐々に料理を目当てに訪れる人が増え、評判も高まっていった。
母ミエコさん(74)は、アイヌ料理を提供していることを告げると、普段見せたことのない涙を流した。
「ありがとう」。アイヌである母の涙の理由は、差別された過去だった。
「アイヌ」と聞くだけで動悸(どうき)が激しくなるミエコさんの右頰には、幼いころ鉛筆で刺されたいじめの痕がある。
今さんは「おかんは中学を卒業するとすぐに家を出て美容師になった。ひどい差別を受け続けてきたのだと思う」とおもんぱかった。
教員のあの一言は人生を暗転させた。でも、あの日があったから今の自分があるとも思う。
「ショックだったけど、おかげで自分らしい人生が送れている」