神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

心配,思い煩い~聖書

2020年08月01日 | 日記

心配,思い煩い(Anxiety)

幾つかのヘブライ語が,心配,思い煩いという意味を伝えています。
その一つ(ツァーラル)は,物理的な意味で閉じ込められることを意味し,したがって,『くるむ』,「閉じ込める」,『狭苦しい思いをする』というように訳されています。


比喩的な用法では,「心配になる; 窮境に陥る」を意味します。

別の語はダーアグで,「心配する; 怖がる」と訳されており,「煩い事」という意味のデアーガーと関係があります。

ギリシャ語の名詞メリムナは「思い煩い」と訳されており,それと関連のある動詞メリムナオーは「思い煩う」ことを意味します。

「いばらの間にまかれたもの,これはみ言葉を聞きますが,この事物の体制*の思い煩いや富の欺きの力がみ言葉をふさぐ人のことであり,その人は実らなくなります」。
(マタイ 13:22)

「それから弟子たちに言われた,『それだから,あなたがたに言っておく。何を食べようかと,命のことで思いわずらい,何を着ようかとからだのことで思いわずらうな』」。
(ルカ 12:22)


心配は人の福祉に有害な影響を及ぼします。そのために憂うつになったり,元気がなくなったり,行動する気力がなくなったりします。
霊感のもとに記された箴言はこう述べています。
『人の心の煩い事はこれをかがませる』

「人の心の煩い事はこれをかがませ,良い言葉はこれを歓ばせる」。
(箴言・格言 12:25)


思い煩いの結果が深刻な形で身体に表われることがあります。
「自分の神経を制御する方法」と題する本に次のように記されています。
「医師は心配事がどのように体の機能に影響を与えるかを知っている。血圧を上げ(下げ)たり,白血球の数を多くしたり,アドレナリンの肝臓への働きによって血糖に急激な変化を与えたりすることがある。また,人の心電図を変えることさえある。チャールズ・メーヨー医師は,『思い煩いは血液の循環,心臓,リンパ腺,全神経系に影響を与える』と述べた」
P・スタインクローン医師とD・ラ・フィア医師の共著,1970年,14ページ。

これよりさらに深刻なのは,過度の心配がもたらし得る霊的な害です。
イエス・キリストは,現在の事物の体制の生活にしばしば付きまとう問題への思い煩いが「神の言葉」に対する認識を完全にふさいでしまう危険性を示唆しました。
苗木が十分に成長して実を結ぶのをいばらが阻害するように,そのような心配も霊的な発育,また神の賛美という結実を妨げることがあります。

「いばらの中にまかれたものとは,御言葉を聞くと,この時代の思い煩いや富の惑わしが御言葉をふさぐので,実を結ばなくなる人である」。
(マタイ 13:22)

「また,ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが,この世の思い煩いや富の誘惑,その他いろいろな欲望が心に入り込み,御言葉を覆いふさいで実らない」。
 (マルコ 4:18,19)

「ほかの幾らかはいばらの間に落ち,一緒に成長するいばらがそれをふさいでしまいました」。
(ルカ 8:7)
「さて,例えの意味はこうです。種は神の言葉です」。
(ルカ 8:11)
「いばらの中に落ちるとは,こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが,とかくしているうちに,この世の心づかいや,富や,快楽によってふさがれて,実が熟するまでにならないのです」。
(ルカ 8:14)


生活をこの種の思い煩いに支配させて霊的な関心事を締め出す結果,多くの人は神のみ子が栄光のうちに戻られる時そのみ前に是認を得ることができず,永遠の損失を被ることになります。

「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。
それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。
それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。

(ルカ 21:34~36)


ふさわしい心配や気遣い 専心的な僕の享受できる祝福を失うことのないよう神様に喜ばれることをしようと心を配るのは正しいことです。
重大な悪行を犯した人は,詩編作者と同じく,『自分の罪について思い煩うようになる』はずです。

「わたしは自分のとがを言い表わし,自分の罪について思い煩うようになったからです」。
(詩編38:18)


罪に対するふさわしい思い煩いは人を告白,悔い改め,また悪い道からの転向へと導き,至高者(神)との良い関係を回復させます。

すべてのクリスチャンは,仲間の信者の霊的,身体的,また物質的な福祉を心配する,あるいは気遣う必要があります。

「それは体に分裂がなく,各肢体が互いに同じ顧みを持つためです。もし一つの肢体が苦しむなら,すべての肢体が共に苦しみます。もし一つの肢体が栄光を受けるなら,すべての肢体が共に喜びます。今や,あなたがたはキリストのからだであり,そして各自は肢体なのです」。
(コリント第一 12:25~27)


この種の心配はガイオにあてた使徒ヨハネの手紙に表われています。
「愛する者よ,あなたの魂が栄えているのと同じように,あなたがすべての点で栄え,健やかであるように祈ります」。
(ヨハネ第三 2)


使徒パウロは「すべての会衆に対する心配」について述べました。

「このような外から来ることのほかに,日々私に押しかかるすべての教会(会衆)への心づかいがあります」。
(コリント第二 11:28)


彼はすべての人が最後まで神のみ子の忠実な弟子としてとどまることに深い気遣いを抱いていました。

聖書は,『主の事柄に気を遣う』こと,すなわち神のみ子の関心事を促進するすべての事柄を気に掛けることについて述べています。
独身のクリスチャンは配偶者や子供に対する責任や世話から解放されているので,「世の事柄」への思い煩いを最小限にし,「主の事柄」により多くの注意を向けることができるという点で,
結婚している人たちより良い立場にあります。

「実際わたしは,あなた方に思い煩いがないようにと願っているのです。結婚していない男子は,どうしたら主の是認を得られるかと,主の事柄に気を遣います。一方,結婚している男子は,
どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い,彼は分かたれるのです。
さらに,結婚していない女,および処女は,主の事柄に気を遣い,自分の体と霊の両面で聖なる者であろうとします。しかしながら,結婚している女は,どうしたら夫の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣います。しかし,わたしがこれを言うのは,あなた方自身の益のためであって,あなた方に輪なわを掛けるためではありません。あなた方を,ふさわしい事柄へ,また気を散らすことなく絶えず主に仕えられるような事柄へと動かすためなのです」。

(コリント第一 7:32~35)

 

使徒パウロは,クリスチャンの夫と妻が「世の事柄に気を遣い」,独身のクリスチャンが経験しないですむ数々の気を散らす事柄を経験すると書いています。
結婚していない人にとっては十分と思える身体や家の世話,および衣食住面の生活の必要物も,家族の場合にはそれではとてもやっていけないということもあります。
夫と妻の親密な関係から,二人が共に家族全体の身体的,精神的,感情的,また霊的な福祉に貢献する事柄を備えて互いを喜ばせようと気を遣ったり,思い煩ったりするのは当然のことです。
たとえ病気,危急の事態,弱さ,障害などの問題と取り組まないでよいとしても,子供を持つ結婚した夫婦は,普通の独身のクリスチャンの場合よりはるかに多くの時間を「世の事柄」,すなわち人間の生活に関係した霊的でない活動に費やさなければなりません。

とはいえ,この世の思い煩いに過度の重要性を付すべきではありません。イエス・キリストはこの点をラザロの姉妹マルタに明らかにされました。
客をもてなすことを思い煩うあまり,彼女にはイエスの話を聴く時間を取ることなど考えられませんでした。
一方マリアは,神のみ子から霊的栄養物を受けるという「良いもの」を選びました。

『一行が歩いて行くうち,イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が,イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って,
その話に聞き入っていた。
マルタは,いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが,そばに近寄って言った。「主よ,わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが,
何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。
主はお答えになった。「マルタ,マルタ,あなたは多くのことに思い悩み,心を乱している。しかし,
必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』。

(ルカ 10:38~42)

 

過度の心配を避ける ご自分の僕たちに対する神様の愛ある気遣いに全幅の信頼を寄せるなら,不必要な心配に屈することのないよう助けられます。

「祝福されよ,主(神)に信頼する人は。主(神)がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り,暑さが襲うのを見ることなく,
その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく,実を結ぶことをやめない」。

(エレミヤ 17:7,8)


イエス・キリストは山上の垂訓の中で同じことを述べ,思い煩いに関する助言を次のように結ばれました。

『次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日の悪いことはその日だけで十分です」。
「それで,何を食べ何を飲むのだろうかと自分の命のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで,心配するのをやめなさい。命は食物より,体は服より大切ではありませんか。
鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集めたりはしません。それでも天の父は鳥を養っています。
あなたたちはそれよりも価値があるのではありませんか。
心配したからといって,誰が自分の寿命を少しでも延ばせるでしょうか。また,服のことでなぜ心配しているのですか。
野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。苦労して働いたり,
糸を紡いだりはしません。しかし,華やかな生活を送ったソロモン王でさえ,このような花の1つほどにも装ってはいませんでした。
では,神が,今日ここに生えていて明日火に投げ込まれる野の草木にこのように服を与えているなら,ましてあなたたちには服を与えてくださるのではないでしょうか。信仰の少ない人たち。 それで,心配して,『何を食べるのか』,『何を飲むのか』,
『何を着るのか』などと言ってはなりません。これら全ては異国の人々が必死に求めているものです。
天の父は,あなたたちがこうしたもの全てを必要としていることを知っています。ですから,
王国と神から見て正しいこととをいつも第一にしなさい。そうすれば,こうしたほかのもの全ても,あなたたちに与えられます。
それで,次の日のことを決して心配してはなりません。
次の日は次の日で心配する事があります。その日の問題は,その日だけで十分です」』。

(マタイ 6:25~34)

 

 

クリスチャンにとって日ごとに十分の問題がありますから,次の日に起き得るとしても,実際には全く生じないかもしれない事柄について思い煩って問題を増やす必要はありません。

クリスチャンが迫害時に官憲の前に引き出されて尋問を受けたとしても,神の助けに信頼を置くことにより心配から解放されます。
神様はご自分の霊によりそのような試練の時にクリスチャンを支え,立派な仕方で証しができるようにしてくださいます。

「いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,
または何を話そうかと思い煩ってはなりません。
話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです」。

(マタイ 10:18~20)

「人々があなたがたを会堂や支配者や権威ある者たちの前に引いていく時,どのように弁明しようか,何を弁明しようか,何を言おうかと,心配してはならない。
その時,言うべきことは,聖霊があなたがたに教えてくださるからである」。
(ルカ 12:11,12)


クリスチャンが何かを心配したり,不安や憂慮の念に駆られたりしたら,いつでも祈りによって天の父に頼るべきです。
このようにして,『自分の思い煩いを神にゆだね』,顧みてくださる神が祈りを聞いてくださるとの確信を抱くことができます。

「思い煩いは,何もかも神にお任せしなさい。神が,あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。
(ペテロ第一 5:7)

その結果として内面の平安,神の平和を得ることができ,それが心と知力を守ってくれるのです。
クリスチャンは自分の内面の奥深く,すなわち心の中で不安,悪い予感,恐れから解放され,心配から来る動揺や当惑によって思いを乱されることはありません。

「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,
あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。

(フィリピ・ピリピ 4:6,7)