明けて8日の午後、町田から蕨へ。学生時代の友人である北村先生宅に伺う。昨日の朝から携帯に見捨てられた僕は、桜散る時候に似合わない薄ら寒い風にあおられながら、蕨駅前の公衆電話で彼の携帯に留守電を入れ、ドトールで一息入れる。暫くして彼がやってきた。「いやいやど~も。」と懐かしい京都弁。彼は同じ学年でひとつ年上。飄々として騒がず、仙人のような風貌から先生と呼ばれた。大学の新入生オリエンテーリングで隣り合わせたのが彼。正真正銘最初の学友である。学生時代から口髭と顎鬚がトレードマークだったが、随分白いものが混じって、ますます世事を超越した宗教家のような顔付きになっている。だからと言って、実のところ深刻なところがあまりない。温厚そのものの性格で、学生時代は傲慢でうぬぼれの強い若輩者達の良き緩衝役だった。
彼のマンションに着くと、まず先に僕の床の準備。いつものゲストルームが様々な凧で溢れていて、その片付けから始める。彼は人知れず凧の収集家なっていたのだ。仕事でタイに赴任していた頃、現地の知り合いに誘われて凧揚げを始めたと言う。それ以来数々の凧を集め、帰国してからも沖縄まで行って凧揚げに興じたりしている。趣味とは恐ろしいもので、各々の部屋には見たこともないデザインの凧が飾られている。今片付けている凧の山は、仕事先で凧博覧会を開いた時の展示品だそうな。まー、凄いもんですなぁ。まさに凧博士。ここまできたら死ぬまでやったんさい。準備が整うと「これで、酔っ払って帰ってもすぐ寝られますぅ。」と、はんなりおっしゃる。
家を出て向かったのは、最近先生が開拓した焼き鳥屋。「えいっ、いらっしゃいー!」店頭で兄さんが鳥を焼いている。遠慮の無い煙と香ばしい匂いに誘われて店内へ。引き戸はどこを空けてもいきなりカウンターと言う具合で、客入りを確認して空いたところから入っいく。うなぎの寝床のような極端に細長い店内に、大蛇が店一杯にとぐろを巻いたようなカウンター。内側の狭い厨房の中を、店員が舞台の袖から袖に駆け回る役者のように動いている。客席の背中は人が一人やっと通れる程の隙間しかない。タバコのヤニと焼き物の煙に燻されて渋く変色した柱と壁。タールのような汚れでこっぺこぺになった招き猫、頭上の梁から一枚一枚ぶら下がったお品書きは、しょっぱく焼けている。んー、このしみったれた塩梅がええなぁ。庶民の社交場ですわぁ。こんなところにぷらっと寄らはる先生も、随分おっさんが板についてきはりましたんやねぇ。そん昔、新宿西口のしょんべん横丁で、酎ハイ飲んじぁ酔っ払って騒いだ頃の勢い思い出しますなぁ。そんな具合に学生時代に戻って盛り上がりましたんや。って変な関西弁。
北村先生は仕事場の傍にあるひなびた定食屋の話を始める。そこの女将の聞くも涙の物語。食えない役者夫婦と出来の良い息子の人間模様なんだけど、いつの間にか学生時代に観たお芝居の話にすり替わってしまった。実は先生、僕のお芝居の師匠でもある。とは言っても観る側の方だけど。渋谷公園通りにあったジァンジァン、新宿シアター365、千石三百人劇場、新宿紀伊國屋ホール、渋谷パルコ西武劇場、六本木俳優座劇場などいろんなところに連れて行ってくれたものだ。もともと先生は、京都のさる貿易商のご子息だったかな?小さな頃からおばあちゃんに連れられて歌舞伎見物をしていたという。そんな具合で凧にはまる以前から根っからの芝居狂い。東京の大学を選んだのも観劇のためだって。おかげさまで僕は、あっという間に引きずり込まれてしまった。 別役実にこだわった現代劇センターやグループ・ナックにはじまり、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場(出演・根津甚八ほか)、東 由多加の東京キッド(柴田恭兵、坪田直子)、出口典雄のシェイクスピア・シアター(佐野史郎)、「熱海殺人事件」のつかこうへい事務所(加藤健一)、作家の安部公房スタジオ(山口果林)、清水邦夫の木冬社(清水綋治、吉行和子)、気鋭の演劇集団円(橋爪功)、イヨネスコの「授業」にこだわった中村伸郎、そして数多の無名のアマチュア劇団。東北の田舎育ちの僕にとって、それは想像を超えた刺激だった。受験戦争に疲れ、安穏と卒業単位を取るためだけに、枯れ木のような年老いた教授たちのカビ臭い講義を聞いている生活。そのすぐ外側に、驚くべき躍動感に溢れた情熱的ステージがあった。唐突に「役者になりたい!」と野望を抱いたりもしたが、生来の臆病がそれをさせなかった・・・。何か観るたびに、喜んだり、怒ったりしている僕の心を知ってかしらずか北村先生、いつまでたっても飽きもせず、せっせと芝居見物。そして「よかったですねぇ」「おもしろかったなぁ」と例の京なまりでほのぼの感じ入っている。それはまるで数寄屋造りの茶室で、床の間の四季折々にあつらえた掛け軸や花を楽しみながら、抹茶でも頂くような、そんな風流な姿。師匠!風の吹くままケ・セラ・セラでやすなぁ。
学生時代からユニークな行動をとった先生。入学早々「日本あんみつ党」を旗揚げしてひとり甘味どころで悦に入り、当時早くも嫌煙運動を展開し、KMI(けむい)通信という怪しげな新聞を刊行。自分の物好きを追及し、他人のわがままをやんわりたしなめた。ある時はタバコの煙だけ出てくる自販機の発明のほら話、またあるときは、新幹線のトイレの前に張り込んで、洗面所で手を洗わない人の統計、なぜかNHKドラマ「おしん」の撲滅運動だったり、水戸黄門の印籠と銭形平次の寛永通宝についての考察だったり・・・。当時の僕の日記にこんなくだりがあった、「・・・新宿での待ち合わせに北村が遅れ・・・いつものように、ニコニコと、"実はロンドンで買い物をしていたら、あっという間にアラブの宮殿が現れて、捕らえられてしまって、デブッチョの大様に危うく食べられるところだった。という夢をみていて、つい遅くなりました"とまったく彼らしい・・・」なんともすっとんきょうな先生。ひょっとすると、未だに夢の中を徘徊しているのかもしれない。
授業をサボってばかりで単位がとれず、留年の挙句に父が急に亡くなって実家に戻ってしまった僕が、なんとか卒業できたのは、大学院で教授と懇意にしていた北村先生の口添えのお陰だった。先生本当に感謝しています。これからもその不思議な雰囲気をかもしつつ、せいぜい長生きしていただいて、浮世の移り変わりを面白おかしく批評してくださいな。