1日、2日と東京出張だった。初日は一日中強い雨で足元がずぶ濡れになってしまった。よりによって履いていってしまった皮底の靴。不覚。翌日郡山に帰ったら雪。駅前の暖かなネオンに誘われてラストワルツに寄り道。カウンターの止まり木に止まって疲れを癒す。穏やかな物腰の店主の和泉、スタッフのマリちゃんの優しい笑顔。こういうときにこそありがたい(ちょっと宣伝しちゃいました)。いつものように、一杯目のビールから後はライム抜きのラムソーダ。よもやま話の果てにほろ酔い気分で帰宅。家の玄関の前は雪にすっぽり埋もれていた。雪かきなんぞしたら、せっかく出来上がった良い心持に冷水を浴びせるようなものだから、見ぬふりして就寝。それからそのままこもりっきりのだらしなさ。11月の紅葉美しい頃、一念発起して毎朝颯爽と一時間ウォーキングしていたのが嘘のよう。12月の大雪と寒波に縮み上がり、腰の抜けた番犬の如く尻尾を巻いて丸くなってしまった。おかげで引き締まりかけたお腹や喉元が更にぼってりと見苦しい。口やかましく育てられなかったせいか根性というものが無く、まったくのマイペース。そういう性格をこの期に及んで恨んでみても後の祭り。毎度毎度のケセラセラである。愚痴をこぼしても仕方が無いので、以前、世話になったバンド仲間のことを思い出してみる。
最近リンクを貼って周知になった「山形ブルース研究会」。その事務局の浅沼さんは、僕のブルースの師匠だ。5、6年前にバードランドの前身Maxwell Streetで、偶然知り合った。その当時のMaxは、カウンターとわずかな小上がりだけの和風居酒屋に機材を押し込んだだけのお店で、畳敷き二畳ほどのステージで、押しくら饅頭しながら熱気溢れるセッションを繰り広げていた。定員10名ほどの店内に倍近いお客がひしめき、足の踏み場もなく、すぐにハウリングを起こすアンプの爆音と人いきれ。音楽というより増幅された情念が渦巻くるつぼのような場所だった。そこで彼はだれかれかまわず話しかけていた。「ブルースを知ってるかい?」「1863年、奴隷解放宣言ののち・・・・」といった調子で。銀縁の眼鏡にぱりっとしたスーツといういでたちでストラップを肩に掛け、大きなあたりに翻弄される釣り人のように小刻みにギターを立てる。当時から髪に大分白いものが入っていたので、僕の最初の印象は、「ずっと年上の変てこなオッサン」。のちにひとつ年長だと知って驚いた。
程なくしてマスターの清水さん率いるMaxwell Street Bandに共に参加。そしてそこから割って出て新たな仲間を募る。僕は本格的ブルース・バンドは初めてだったので、既にブルース・ギタリストとしてのスタイルを身に着けていた彼の胸を借りることになる。彼が酔いに任せてブルースの歴史を講釈する姿に、敬愛を込めて僕がつけたバンド名が「ドクトル浅沼のBlues History 1863」。いつの間にかブルヒスと呼ばれるようになっていた。彼のギター・パフォーマンスは最高だった。テクニック云々よりも、どうすれば格好が良いか、どうすれば聞き手が喜ぶかを知っていた。ステージの上で何をすべきか、何をさせるべきかを理解していた。ライヴでは、彼がネックをタクトのように振り回しバンドを操り、あとはお客が歓声を上げ、拍手するだけで良かった(ちょっと持ち上げ過ぎか?今度遊びに行ったときにおごってね!)。彼からは多くのことを学んだけれど、煎じ詰めると「めりはり」ということになる。ひとつの曲を演奏するなかで、フレーズごとにしっかりと強弱をつけて、物語りの起承転結をドラマチックに描く。この事は僕の音楽観に深く根ざし、その後の演奏活動に大いに影響を及ぼす事になった。2時間練習して6時間酒を飲むような恐ろしいバンドだったが、それすら結束を第一義とする彼の音楽哲学。紳士を気取ってはいたが、ギターを持てば神も恐れぬ傲慢バンマス、酒瓶を抱えれば歯止めを知らない自堕落な大酒飲み。しかしてその実体は、家族思いで負けず嫌いの仕事人間。愛すべきオヤジである(今度はこき下ろし過ぎ。陳謝!)。「浅沼さん!僕は芭蕉の弟子の曾良よろしく、奥の細道ブルース行脚に末永く付き合う覚悟でおりますよ!」
お後がよろしいようで・・。つづきはまたの機会に。http://blog.livedoor.jp/blues66yamagata/