二階の自室から階下の居間に下りる。扉を開けると、音楽が流れてきた・・・、聞き覚えのある旋律・・・。えっ、エンディングのテーマ?・・・ということは・・・しまった!見逃した!先週から楽しみにしていたのに・・・。 “おせんちゃん”の成り行き、いったいどうなったんだろう・・・。
「柳橋慕情」最終回。六年ほど前に初放映されたNHKドラマの再放送。短い予告編であらかた察しは付いていたものの、悔しさ覚めやらずネットで検索。どうやら概要は解った。でもそれでも観たいと、DVDをあたってみたが販売しておらず断念。原作は山本周五郎氏の「柳橋物語」だが、他の幾つかの短編がエピソードとして加えられている。江戸下町を舞台に、運命に翻弄されながらもけなげに生きる町娘の姿を、貧しい裏長屋の人間模様を絡めて情緒豊かに描いている。所はその名の通り柳橋。今で言うと総武線浅草橋駅と両国駅の間の南側。北に浅草、南には日本橋。現在も地名として残っている。そして実際の柳橋はというと、西から流れ込む神田川が浅草橋をくぐり、隅田川に注ぐ正にその間際に架けられている。南北にとうとうと流れる隅田川右手には両国橋がある。僕は昨年の十月まで江東区に住んでいて、そこは案外生活圏に近い場所だったのだ。総武線の車窓から眺めたその界隈がイメージのなかで繋がってくる。
物語の大筋は、父母に先立たれ、研ぎ師の祖父と共につましく暮らす『おせん』が、幼馴染みの若者を待ちこがれながら、波乱の人生の中で大切な人々との別れと出会いを重ね、真実の愛に目覚めていくというもの。筋書きだけ頼れば単なるメロドラマだが、名もなき人々のはかなくもひたむきな生き様が交差して奥行きを増す。さらに背景にある江戸の時代考証が情緒溢れる下町の風景を彩る。登場人物には将軍様も役人も同心も岡っ引きもいない。ひっそりと生きる江戸町屋の庶民だけだ。勧善懲悪も気晴らしにはいいが、このドラマが映し出す裏長屋の住人たちの人情の機微に触れるとには替えがたい。キャストは、主人公のおせんに若村 麻由美。大工の若棟梁で、おせんへの思いを遂げられずに大火で命を落とす『幸太』に吉田栄作。おせんと契りを結び上方へ出るも、おせんへの誤解を拭いきれず決別してしまう『庄吉』に田中 実。大店のひとり娘でおせんの唯一の友だち。災害で人生が一転し遊女となる『おもん』に井上 晴美。あらぬ噂を吹聴しおせんと庄吉のすれ違いの原因を作り、後に愛したおもんを捜し求める飛脚『権二郎』に吹越 満。居酒屋の常連、剣の腕はめっぽう強く、弱い者を助けずにはいられない浪人『松村信兵衛』に滝田 栄。他に徳井優、左とん平、内藤武敏、原 日出子、井川比佐志、市毛良枝、藤村志保など。僕が一番憧れたのはやっぱり松村信兵衛だけど、思うに、一番役者冥利だったのは、実は吹越 満だったかもしれない。劇中のもうひとつのストーリー。飛脚権二郎とおもんの絡み。原作では獄中で死ぬはずなのに、ドラマの権二郎は、遊女のおもんを悪人から助けるが深手を負い、おもんの胸に抱かれながら結婚を誓う。そして「いい夢見させてもらったぜ」と言い残して死ぬ。かっこ良過ぎー!まるでフランスのフィルムノワールの中でアラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモンド演じる“やんちゃ坊主”の最期みたいだ。あの死に際の美学に男の子は惚れるよねぇ。思わず「健さぁ~ん!」って?違うか・・・。吹越さん。WAHAHA本舗時代の超おバカなパフォーマンスに、腹を抱えて笑かしてもらったが、退団一年半後の演技、既に目を見張る成長を遂げていた。
このドラマが初放送された2000年は、バブル崩壊の余波の消えない二十世紀最後の年。景気のどん底で皆が目標と拠り所を見失いかけていた。そして今、政府は景気回復を宣言するも、相も変わらず数値のみが一人歩きし、庶民に実感はなく心は憔悴したままだ。当時の番組の企画意図が残っている。「なぜ、周五郎なのか。人間賛歌として、愛、信頼、絆、の大切さをしっとりとした情感の中で描く周五郎の世界が、今だからこそ受け入れられている・・・。すがすがしく、生きる勇気が湧いてくるような ドラマを創ること・・・。人は弱く悲しいけれど、人と人との助け合いの中で力強く生きていく姿を描く・・・」当然のことながら、番組制作にも相応の思案が要るのだなぁ。さらにプロデューサーの小見山氏は語る。「・・・周五郎の作品群は、戦前戦後の貧しい日本人の生き方を情に訴えながら描いていくものが多いのですが、・・・どう現代的なテーマを持たせていくかという事は重要です。善意の人々が運命に翻弄されながらも、希望を捨てないという事ですが、それは、ただ生ぬるい優しさを描くのではなく優しさの中にある弱さと強さをきっちり描くものだと思っています。見終わったあと、優しい思いをつかの間であってもいい、共感できるようなドラマを創ることが最大の想いです。優しさが最後には絶対に勝つ物語は、・・・今、もっとも必要なドラマだと思っています。」力のこもった言葉。意気込みが伝わってくる。
それでは時代が要求する善意や優しさとは何だろう。少しそれるが、日本と日本人を愛し観察し続けた外国人は数多いる。古くは小泉八雲に始まり、幾人もが日本の民族と文化を尊敬し温かく見守って来た。そして殆どの人々が警鐘を鳴らし、戦後の様の変わりようを嘆く。ドラマの初放映と同じ頃、あるトーク番組で、親日家のフランソワーズ・モレシャンさんが語ったことを思い出す。「日本人は勤勉で穏やかで親切な人々でした。でもバブルの時期に大きく変わりました。総ての価値基準がお金になりました。私は日本人が信じられなくなって、一時心の病気になり外出も出来なくなりました。」バブルが更に人々を変えたのか。シグナルを発する人物がそこにもいた。文明の進化はややもすると効率と利便性の追求の果てに、人が手づから行う善意と、心から発する優しさを奪い、お金という無表情な価値感に替えてしまうのかもしれない。
京都の町屋に暮らすコピーライターの若い女性を取材したあるドキュメントを思い出す。彼女は言う「町屋は古い建物です。不便がいっぱいです。京都の夏はじっとり暑く、冬は底冷えがして楽ではありません。だから工夫しなければ生活できない。そこで頭を使うんです。それが大切なんです。利便性だけを追求して、頭を使わないと人間はダメになります。」
主役の若村さんが江戸の町屋の暮らしぶりについて語る。「・・・夕方になって行灯を灯すにも、何を使ってどうやるのか? 私たちには分からないですよね。・・・ヤマブキの茎を油皿におき、明るさを調節する、芯を沢山出せば灯が大きくなるし、引けば小さくなる。時計なんかないから、その茎と油の減りようや、上野寛永寺の鐘の音で時を知る。で、『もうこんな時間なのに、お祖父ちゃんが帰ってこないわ』という台詞になるんです。」なるほど。そして山本作品について言及。「・・・いい台詞が沢山ありますよね。・・・人の幸せと不幸せについて、お祖父ちゃんが『なあに、いっときのことだ。長い目でみれば、どっちもたいした違いはないのさ』と言う。『運、不運なんてものは、死んでみなければ知れないものさ』と。それと、主人公のおせんは、次々と窮地にたちますが、そのなかにも助けてくれる人がいて、『やっぱり人間は一人じゃないのね』って気づく台詞があったりする。人は決して一人ではなく、必ず誰かのために生きていると、作品を通して感じるし。ここにも今、求められるものが凄くあるような気がします。」
新しいものが総て悪く、古いもの総てが良いとは言わない。こうして僕自身もPCという文明の利器を使ってブログを書いている。しかし、利便性の追求や消費が物質的豊かさを支えることが出来ても、それだけで人の心を豊かにすることは出来ないのではないか。不便とは実のところ、人の心を通わせ、善意や優しさを生む知恵の道具ではないのか。そこに時代や世代を超えて、信じ守り通さなければならないものがあるように思う。あちこちひも解くうちにいろいろ考えさせられた。山本周五郎さんの作品を読んでみたくなった。
蛇足だけど、毎回ハラハラしながら「頑張れー!」って観たのは、民放のドラマ菅野美穂主演の「イグアナの娘」以来かなぁ。こういうのにめっぽう弱い・・・。こんだけ書いといて締めくくりがお粗末だなぁ。ホント・・・。