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いのっちのブルースは絆

ブルースハープを吹きながら歌う「いのっち!」のブログです。音楽と関わりながら家族や友人達と楽しむ日々を綴ります。

ライブスケジュール

1月17日(土)13:00~14:00 新潟ジャズストリート          ふくわうち滋烈亭◆新潟市中央区西堀通3番町258       TEL025-229-6700                         料金◆1,000円(フリーチケット)

柳橋慕情・・・無念!

2006-06-05 19:34:51 | テレビ番組

 二階の自室から階下の居間に下りる。扉を開けると、音楽が流れてきた・・・、聞き覚えのある旋律・・・。えっ、エンディングのテーマ?・・・ということは・・・しまった!見逃した!先週から楽しみにしていたのに・・・。 “おせんちゃん”の成り行き、いったいどうなったんだろう・・・。

Photo_2  「柳橋慕情」最終回。六年ほど前に初放映されたNHKドラマの再放送。短い予告編であらかた察しは付いていたものの、悔しさ覚めやらずネットで検索。どうやら概要は解った。でもそれでも観たいと、DVDをあたってみたが販売しておらず断念。原作は山本周五郎氏の「柳橋物語」だが、他の幾つかの短編がエピソードとして加えられている。江戸下町を舞台に、運命に翻弄されながらもけなげに生きる町娘の姿を、貧しい裏長屋の人間模様を絡めて情緒豊かに描いている。所はその名の通り柳橋。今で言うと総武線浅草橋駅と両国駅の間の南側。北に浅草、南には日本橋。現在も地名として残っている。そして実際の柳橋はというと、西から流れ込む神田川が浅草橋をくぐり、隅田川に注ぐ正にその間際に架けられている。南北にとうとうと流れる隅田川右手には両国橋がある。僕は昨年の十月まで江東区に住んでいて、そこは案外生活圏に近い場所だったのだ。総武線の車窓から眺めたその界隈がイメージのなかで繋がってくる。

 物語の大筋は、父母に先立たれ、研ぎ師の祖父と共につましく暮らす『おせん』が、幼馴染みの若者を待ちこがれながら、波乱の人生の中で大切な人々との別れと出会いを重ね、真実の愛に目覚めていくというもの。筋書きだけ頼れば単なるメロドラマだが、名もなき人々のはかなくもひたむきな生き様が交差して奥行きを増す。さらに背景にある江戸の時代考証が情緒溢れる下町の風景を彩る。登場人物には将軍様も役人も同心も岡っ引きもいない。ひっそりと生きる江戸町屋の庶民だけだ。勧善懲悪も気晴らしにはいいが、このドラマが映し出す裏長屋の住人たちの人情の機微に触れるとには替えがたい。キャストは、主人公のおせん若村 麻由美。大工の若棟梁で、おせんへの思いを遂げられずに大火で命を落とす『幸太』に吉田栄作おせんと契りを結び上方へ出るも、おせんへの誤解を拭いきれず決別してしまう『庄吉』に田中 実。大店のひとり娘でおせんの唯一の友だち。災害で人生が一転し遊女となる『おもん』に井上 晴美。あらぬ噂を吹聴しおせん庄吉のすれ違いの原因を作り、後に愛したおもんを捜し求める飛脚『権二郎』吹越 満。居酒屋の常連、剣の腕はめっぽう強く、弱い者を助けずにはいられない浪人『松村信兵衛』滝田 栄。他に徳井優、左とん平、内藤武敏、原 日出子、井川比佐志、市毛良枝、藤村志保など。僕が一番憧れたのはやっぱり松村信兵衛だけど、思うに、一番役者冥利だったのは、実は吹越 満だったかもしれない。劇中のもうひとつのストーリー。飛脚権二郎おもんの絡み。原作では獄中で死ぬはずなのに、ドラマの権二郎は、遊女のおもんを悪人から助けるが深手を負い、おもんの胸に抱かれながら結婚を誓う。そして「いい夢見させてもらったぜ」と言い残して死ぬ。かっこ良過ぎー!まるでフランスのフィルムノワールの中でアラン・ドロンやジャン・ポール・ベルモンド演じる“やんちゃ坊主”の最期みたいだ。あの死に際の美学に男の子は惚れるよねぇ。思わず「健さぁ~ん!」って?違うか・・・。吹越さん。WAHAHA本舗時代の超おバカなパフォーマンスに、腹を抱えて笑かしてもらったが、退団一年半後の演技、既に目を見張る成長を遂げていた。

 このドラマが初放送された2000年は、バブル崩壊の余波の消えない二十世紀最後の年。景気のどん底で皆が目標と拠り所を見失いかけていた。そして今、政府は景気回復を宣言するも、相も変わらず数値のみが一人歩きし、庶民に実感はなく心は憔悴したままだ。当時の番組の企画意図が残っている。「なぜ、周五郎なのか。人間賛歌として、愛、信頼、絆、の大切さをしっとりとした情感の中で描く周五郎の世界が、今だからこそ受け入れられている・・・。すがすがしく、生きる勇気が湧いてくるような ドラマを創ること・・・。人は弱く悲しいけれど、人と人との助け合いの中で力強く生きていく姿を描く・・・」当然のことながら、番組制作にも相応の思案が要るのだなぁ。さらにプロデューサーの小見山氏は語る。「・・・周五郎の作品群は、戦前戦後の貧しい日本人の生き方を情に訴えながら描いていくものが多いのですが、・・・どう現代的なテーマを持たせていくかという事は重要です。善意の人々が運命に翻弄されながらも、希望を捨てないという事ですが、それは、ただ生ぬるい優しさを描くのではなく優しさの中にある弱さと強さをきっちり描くものだと思っています。見終わったあと、優しい思いをつかの間であってもいい、共感できるようなドラマを創ることが最大の想いです。優しさが最後には絶対に勝つ物語は、・・・今、もっとも必要なドラマだと思っています。」力のこもった言葉。意気込みが伝わってくる。

 それでは時代が要求する善意や優しさとは何だろう。少しそれるが、日本と日本人を愛し観察し続けた外国人は数多いる。古くは小泉八雲に始まり、幾人もが日本の民族と文化を尊敬し温かく見守って来た。そして殆どの人々が警鐘を鳴らし、戦後の様の変わりようを嘆く。ドラマの初放映と同じ頃、あるトーク番組で、親日家のフランソワーズ・モレシャンさんが語ったことを思い出す。「日本人は勤勉で穏やかで親切な人々でした。でもバブルの時期に大きく変わりました。総ての価値基準がお金になりました。私は日本人が信じられなくなって、一時心の病気になり外出も出来なくなりました。」バブルが更に人々を変えたのか。シグナルを発する人物がそこにもいた。文明の進化はややもすると効率と利便性の追求の果てに、人が手づから行う善意と、心から発する優しさを奪い、お金という無表情な価値感に替えてしまうのかもしれない。

 京都の町屋に暮らすコピーライターの若い女性を取材したあるドキュメントを思い出す。彼女は言う「町屋は古い建物です。不便がいっぱいです。京都の夏はじっとり暑く、冬は底冷えがして楽ではありません。だから工夫しなければ生活できない。そこで頭を使うんです。それが大切なんです。利便性だけを追求して、頭を使わないと人間はダメになります。」

 主役の若村さんが江戸の町屋の暮らしぶりについて語る。「・・・夕方になって行灯を灯すにも、何を使ってどうやるのか? 私たちには分からないですよね。・・・ヤマブキの茎を油皿におき、明るさを調節する、芯を沢山出せば灯が大きくなるし、引けば小さくなる。時計なんかないから、その茎と油の減りようや、上野寛永寺の鐘の音で時を知る。で、『もうこんな時間なのに、お祖父ちゃんが帰ってこないわ』という台詞になるんです。」なるほど。そして山本作品について言及。「・・・いい台詞が沢山ありますよね。・・・人の幸せと不幸せについて、お祖父ちゃんが『なあに、いっときのことだ。長い目でみれば、どっちもたいした違いはないのさ』と言う。『運、不運なんてものは、死んでみなければ知れないものさ』と。それと、主人公のおせんは、次々と窮地にたちますが、そのなかにも助けてくれる人がいて、『やっぱり人間は一人じゃないのね』って気づく台詞があったりする。人は決して一人ではなく、必ず誰かのために生きていると、作品を通して感じるし。ここにも今、求められるものが凄くあるような気がします。」

 新しいものが総て悪く、古いもの総てが良いとは言わない。こうして僕自身もPCという文明の利器を使ってブログを書いている。しかし、利便性の追求や消費が物質的豊かさを支えることが出来ても、それだけで人の心を豊かにすることは出来ないのではないか。不便とは実のところ、人の心を通わせ、善意や優しさを生む知恵の道具ではないのか。そこに時代や世代を超えて、信じ守り通さなければならないものがあるように思う。あちこちひも解くうちにいろいろ考えさせられた。山本周五郎さんの作品を読んでみたくなった。

 蛇足だけど、毎回ハラハラしながら「頑張れー!」って観たのは、民放のドラマ菅野美穂主演の「イグアナの娘」以来かなぁ。こういうのにめっぽう弱い・・・。こんだけ書いといて締めくくりがお粗末だなぁ。ホント・・・。

 


久世光彦さん

2006-03-04 11:01:59 | テレビ番組

Pobd69002_l  TBS系の昼の連ドラ「銭湯の娘!?」が放映されている。潰れかかった銭湯の頑固オヤジ(伊武雅刀)の前に、娘と名乗るユメ(矢口真里)が現れる。その中で繰り広げられる笑いあり、涙ありのどたばたコメディ。はて、どこかで観たような風景。これは、むかし観た銭湯のドラマ「時間ですよ!」そして、頑固オヤジと言えば「寺内貫太郎一家」だ。思いっきりぱくりと言うか、あまりにも設定が似すぎていて、これはもう製作者の熱いオマージュとしか言いようが無い。おそらくプロデューサーが同世代に違いない。劇中の音楽担当が鈴木康博(元オフコース)で、ブルージーなアコギのアンサンブルがいい味を出している。あんたも好きねーって感じ。主役の元モー娘の矢口真里も熱演しているが、なんといっても嬉しいのは、頑固オヤジ役の伊武雅刀。最近立派な役者になっちゃってシリアスものに出るようになったけど、やっぱりこれだよね。伊武さんはむかし、かの一世を風靡した(?)「スネークマン・ショー」の怪しい登場人物の一人だった。あのキレ具合、逸脱振りは他者を圧倒する存在感だった。そういう彼の本領発揮というところか。そーかそーかふむふむと、ちょっとほくそえんだのだった。

200603030102_fuji_2  そんな折、「久世光彦、死去!」の突然の報。さすがに驚いた。なにせ彼こそTBS水曜劇場シリーズ「時間ですよ!」「寺内貫太郎一家」さらに「ムー一族」の仕掛け人である。思い起こせば、僕が中学生から高校生の頃、ドリフの「8時だよ・・・」をそろそろ卒業して、思春期を迎えるまさにその時期に、爆発的な人気を博したまったく新しいホームドラマ。登場するキャラクター、挿入歌、連発するギャグの総てが当時の流行となった。今まさに、大定年退職時代を迎えようとしている団塊の世代が、若さを武器に世相を席巻した頃。ヒッピー、サイケ、アングラ、ベルボトム、フォークソング、ウッドストックなどの風俗、三億円事件、安田講堂立てこもり、よど号ハイジャック、三島由紀夫自決、浅間山荘事件という衝撃的現場もまさにそこにあった。子供だった僕は、訳のわからない胸騒ぎを覚えながら傍観するしかなかった。そして、テレビの中でそれらの事象がデフォルメされ、お笑いのネタにされるのを無心に楽しんでいた。そしてそんなお祭りの去った焦燥感とともに訪れた、我らが「無気力無関心の自閉症の時代」。そんな世代の狭間の僕達にも少なからずある、ささやかな思い出を演出してくれたもの。そのひとつは、間違いなくあの一連のドラマシリーズだったように思う。久世さんありがとう。ご冥福をお祈りします。


パワフル・ママ!

2006-03-02 12:58:52 | テレビ番組

 深夜、NHK総合「プロフェッショナル・仕事の流儀(再放送)」を観た。というか、最後の15分程度だったんだけど、ちょっと衝撃を受けた。「密着・ウイルスとの攻防戦」という内容で、WHO(世界保健機構)で働く新藤奈邦子さんが出演。新種のインフルエンザの流行を水際で防ぐために、体を張って働く使命感に燃える勇敢な女性。番組の後半、ウイルス感染の情報を基にトルコに急行することになる。仕事場から小学生ぐらいの子供たちに電話する。「大事なお仕事に行ってくるから留守番してね。私が行かなきゃならないのはわかってるよね。」同僚に子供のことを託して出発。感染者が収容される病院に乗り込み、情報の開示を促す。病院側は誤報が流れることを警戒し譲らない。しかし、感染状況を把握する必要性を熱意を持って説明し、かたくなな応対を軟化させ、遂には完全に協力を得、院内のウイルス対策システムを構築させてしまう。仕事を終えて、子供達に連絡。「大丈夫?帰るからね。」命がけの現場。なんという行動力。そんな彼女を突き動かしているのは、亡くなった弟が死の床で残した「医者になってくれ。」という言葉。そして彼女はきっぱり言う、「仕事とは情熱です!」 と。信念に裏付けられた力強い生き方。感服いたしました。

 番組はそういう過酷な状況下をとらえながら、自分の子供たちに対する彼女の姿勢が重ねて描かれる。彼女は子供に言う。「大きくなったら働き者にならなければいけないよ。万が一私が死んだら、なんでも自分でしなければならないんだよ。」子供たちは何度となく言い含められているためか、しっかりと受け止めている。現代にこんな母子関係があるなんて、驚愕だった。まるで戦国時代の武将の家族のようで信じられない。でも待てよ。親が子供に教えなければならないことはただひとつ。ひとり立ちさせることなのだ。動物の世界を見ても同じ。手塩にかけて育て、生き抜く術を教え、最後につき放す。こんな肝心なことが、はたして今の社会規範の要として貫かれているのだろうか。いいや、殆どの家庭が、親離れできない子供と、子離れできない親の集まりなのではないか。言いすぎだと叱られるだろうけど、あえて言ってしまおう。文明が熟成し、テクノロジーが進歩し、一見便利すぎるぐらい過ごしやすい社会。子供たちは、溢れんばかりの物と情報を享受している。そんな温室のような場所で、僕たち大人は体を張って生きることを見せているか?人生について子供と向き合ってしっかり話し合っているのか?沢山お金を稼いで、美味しい物をたべさせ、きれいな衣服を着せ、快適な家を与え、塾に通わせ、習い事をさせ・・・・。そういう親心は痛いほど良くわかる。しかし本当に大事なのは、子供達がしっかりと自立できることなのだ。おそらく殆どの大人たちはそれを願っているはず。しかし現実に出来ているだろうか。人間としてきちんと向き合うことなしに、際限なく与えられ続けられる物質的過保護がもたらすものは何だろう。残念なことに、心無い家庭環境によって、貧弱な心しか持てない者、果てしない物欲にさいなまれる者、ゆがんだ精神に操られる者が増え続けている。マスメディアに次々に現れる不可解な事件はこの事と無関係なのだろうか。ついつい思いをめぐらせてしまった。

 それにしても、女性は、母は、強いなぁ。