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いのっちのブルースは絆

ブルースハープを吹きながら歌う「いのっち!」のブログです。音楽と関わりながら家族や友人達と楽しむ日々を綴ります。

ライブスケジュール

1月17日(土)13:00~14:00 新潟ジャズストリート          ふくわうち滋烈亭◆新潟市中央区西堀通3番町258       TEL025-229-6700                         料金◆1,000円(フリーチケット)

娘の帰還

2006-10-18 11:26:41 | ともだち

 15日、夜更け。うたた寝をしているところに携帯が鳴った。「帰ってまいりましたっ!!」やけに威勢の良い声。チャーリーだった。「今ねぇ。お酒のんでカラオケ歌ってるの。井上さんの歌聴きたいから来てぇ。あっ、曲入っちゃった・・・。」はぁ~、勝手に盛りあがっとる。彼女はあるボーカル教室のインストラクター研修を終えて、郡山に戻った。一週間の缶詰教習とホテル暮らしの憂さ晴らしらしい。父はのこのこと駅前に出向く。

 彼女は、日曜日の閑散とした店内のソファーに独り座って歌っていた。「これ!観てくださいっ!!」と誇らしげに一枚の紙をよこす。講師の認定書だった。達成と安堵の気持ちが顔に溢れている。「ほぉ~、良かったなぁ、おめでとう。」酔いに任せて彼女「ねえユア・ソング歌って、アローン・アゲイン歌ってぇ。」とせがむ。はしゃいでいる割には、秋らしいしんみりとした曲じゃないか。彼女は勝手に、矢井田瞳やらマライヤなんかをやっている。しまいに僕はジョージアとソング・フォー・ユーを求められた。総て珠玉の名作、僕も大好きなものばかりだが、今までどんなに惚れた女にだって、こんなバラードのオンパレードを聴かせたことはない。癒されたいか娘よ、大サービスだ。

 「久しぶりにラスト・ワルツに行きたい。」というので、連れて行く。店主の和泉が「大人っぽくなったなぁ。」とお世辞を言うと「老けたんですぅー。」とすねてみせた。既に大分飲んでいた彼女は間もなく撃沈。さぞかし疲れたのだろう。

Pict0005_10  翌日、買物をしてからCafe de TO-NEでお茶をする。安積町荒井のケランの裏手、店主の愛想は悪いが味と雰囲気はいい。明るいテラスでまったりする。彼女はそこから教室の打ち合わせに向かった。オープンは2日後だ。期待と不安で胸を膨らませているのだろう。上手くいくことを祈る。

USボーカル教室http://www.us-owners.com/onten/class/classprofile/class00125.html


おひさしぶり・・・

2006-10-03 02:00:48 | ともだち

 一昨日、チャーリーとお昼。二週間前、彼女はいわきのステージを観に来てくれた。思いがけない再会だった。彼女の最後のライヴ以来、二年振りになる・・・。先日お礼の電話で話はしたが、改めて顔を合わせると思うと心が浮き立つ。この長らくの一会の新鮮さに気恥ずかしささえ憶える。待ち合わせのコンビニの前で手を振る彼女は、こぼれるような笑みをうかべていた。元気そうてはないか。「お久しぶりですぅー。」とかしこまった挨拶が少しはにかんでいる。

Pict0080  せっかくだから、二人とも行ったことのないお店にしてみた。内環状線、並木のCannery Row。パスタとピザのレストラン。夏にオープンしたらしいが最近まで気がつかなかった。メルヘンチックなレンガ造りのエントリーに「カワイイー!」を連発する彼女。玄関の待合に人が溢れている。休日の昼食時とはいえ予想外に混み合っている。明るいビストロのテイスト、愛らしい小物に彩られて女性好みの雰囲気。10分程で、クラシックなメイド風の制服を着たウエイトレスが現れ、僕たちを店内に案内した。家族連れやカップルなどで賑わうフロア。圧倒的に女性客が多い。Pict0078_1メニューはパスタorピザのセット。スープとドリンク&前菜のバイキングが付いている。驚くのは前菜の豊富さ。野菜、ナスのソース和え、かぼちゃのグリル、ラビオリ、味付けされたライス、パンなど・・・十数種類。これだけでも充分な食事になりそうだ。僕はパスタとピザをひとつづつ頼むことを提案する。彼女は「いいねぇ~。」と目を輝かせた。取り皿に分け合って食べる。イタリアンはこれが醍醐味だね。味はとびっきり上等とは言えないが、値段相応で悪くない。家族や友人達との会食にはもってこいではないか。斜向かいのテーブルには、無数のスウィーツが盛られたワゴンが運ばれ、注文主は目移りしている。なかなかツボを心得ているものだ・・・。

Pict0079_1  「心配かけてごめんなさい。」と彼女。「いいさ。」僕は努めて穏やかに返した。心配してないと言えば嘘になるが、謝られる理由もない。もともと僕は、とやかく言う立場にはいないのだから。過去にも二度会わない時期があった。中傷するつもりは毛頭ないが、振り返れば彼女の男出入りと僕の心の機微の変化がもたらした結果だと思う。まして三度目の空白は実のところ僕の方に起因している。はるかにかけ離れた年齢でも、男と女の友情はそう易々とは維持できないのだ。

 チャーリーに初めて会ったのは七年と少し前。間もなく彼女が成人式を迎えようとしていた頃。厚底靴にマイクロミニ、派手なメイクと髪型のギャルと呼ばれる娘たちのひとりだった。僕は厄年の真っ只中で、公私共に大きな変化の渦中にあった。当時行きつけのMaxwell Streetには近隣のミュージシャンが集い、夜毎熱いセッションが繰り広げられていた。Againという風変わりな店で、その娘の歌の非凡さに魅せられた僕は、Maxのむせ返るような混沌の中に得意げに彼女を引き入れた。娘はすぐさま光を放ち歌姫の地位をものにすると、観客たちを虜にした。そして、演奏と乱痴気騒ぎに明け暮れる不良中年たちの中で大切に育てられた。世間の荒波に漕ぎ出したばかりの娘は、最後に燃え盛る灯火のように生き急ぐ男たちに、何を見出していたのか。僕は苦々しい現実から逃れるように、遅れてきた二度目の放蕩期に自ら身を投じ、彼女と連れ立って夜の街を徘徊し、朝までカラオケに興じたりしていた。キャロル・キングのCDと譜面を買い与えると、彼女は見事にピアノで弾き語った。際立って印象的だったのは、会津若松『風街亭』でのライヴ。彼女の歌う“You've Got A Friend”にアメリカ人青年が涙した。「日本に旅立つ時、ママが歌ってくれたのを思い出したんだ。」そんな場面に幾度も遭遇した。彼女の歌には不思議な力が備わっていたのだ。OldShepを訪れれば急逝したエバ・キャッシディに心酔し、SlowHandでバカ話に興じ、Bar夜空では見果てぬ夢をさえずるように描いてみせた。そして今時の若い娘のご多分に漏れず、気まぐれで、我がままで、生意気で、臆病だった。有頂天になるかと思えば身の置き所なく泣いたりもした。僕はそういう娘に翻弄されることをあえて楽しんでいた。そうして分別ある保護者善として振舞いながら、その実、心地よい癒しの海に漂っていたのだ。あの刹那、彼女は、僕にとって行き場のない魂の旅路の道連れだったのかもしれない。無論、彼女はそんなことを知る由もなく、自身の夢と欲望を持て余しながら、一喜一憂しているだけだったが・・・。

 「後で読んでね。」彼女は小さく折りたたんだ紙片をよこした。「えっ、何?今読んじゃいけないの?」「いいけど・・・」それは短い手紙だった。僕が関知していなかった今日に至るまでの経緯と、過去に僕から与えられたものに対するお礼の言葉が綴られていた。末尾に『27才のチャーリー』と結んである。彼女は折に触れて手紙をくれた。出会った頃の僕の誕生日、そして僕の転勤が決まった時・・・。それはお節介な奉仕活動への感謝状。そのたびに僕は、沸き起こる心のさざ波を封じ込められ、模範的な大人を演じることになった。だがそれも良かろう・・・。

 彼女は、この10月から、ボーカル・レッスンのインストラクターになると言う。その為に来週から上京して研修を受けるそうだ。そうして自立の道を模索するらしい。バンド活動はしばらくお預けということだが、近い将来、再び彼女の瑞々しい歌声を聴くことが出来るかもしれない。過去に彼女の歌に感銘を受けた者のひとりとして、心から復活を願う。そしてその行く末を暖かく見守るとしよう。血の繋がらない不肖の娘を案ずる、いささか怪しげな父として・・・。

 


熱血!快男児!

2006-09-01 13:38:04 | ともだち

 一昨日、なつかしい友人に会った。前職で同僚だった宮城さん。なんでも仕事で喜多方まで足を伸ばした帰りだという。昨秋、僕のささやかな送別会に来てくれた。それ以来だから十ヶ月ぶりか・・・。夕方、彼は郡山駅前のベンチに腰掛けて待っていた。浅黒い顔に、くりくりと悪戯っぽい眼、ニンマリ微笑んだ口元の白い歯。相変わらず元気そうだった。ひとまず居酒屋にて再会を祝す。

Pict0001_12  彼に初めて出会ったのは十四、五年前だろうか。僕が転職して二年目の春、宇都宮。生え抜きの伸張著しい若手営業マンだった彼は、飛び級で所長に抜擢され着任した。そして持ち前の明るさと辣腕で若いチームを牽引した。中途入社だった僕は、彼より年上でなおかつひねた輩だったので、さぞかし扱いにくい相手だったに違いない。そういう僕もいつしか彼の勢いに押されて汗だくの働きバチになっていた。彼にはそれだけの信念と押しの強さがあった。70年代のアンチ・ヒーローに憧れるような屈折した僕から眺めると、そういう彼の態度は、今や化石となってしまった青春ドラマの主役「森田健作」のように、時としてうざい存在だったりもしたが、アフターファイブでの羽目の外し方が、あっけなくそれを打ち消して、人間臭さを醸し出していた。当時、折からのバブルの追い風が吹き、頑張ればそれ以上の見返りさえ手に入った。そうして見る間にグループの業績が上がり、気がつくとその年の実績が評価され、僕は栄えあるアメリカ研修旅行に参加することになっていた(余談ではあるが、初めて降り立った海外の地シカゴで、僕は本物のブルースに出会うことになる)。そんなところから、彼は僕にとって、ビジネスマンという幾つかのモデルのひとつである。おそらく同様には成り得ないだろうが。少年のように元気で明るく、強い意志と目標をもって、大胆に突き進む。その実、繊細さとしたたかさを併せ持つ。しかして本質は浪花節で酒が入ると案外だらしがない。ある意味古典的な男らしい男、わがままな亭主関白、熱い企業戦士なのだ。僕はそれを否定はしない。誰がなんと言おうが、そんなつわものどもが凌ぎをけずって今の経済を家庭を支えて来たのだから。

 焼酎を数杯あおった彼は依然勢いが衰えない。「生涯現役!」と打ち上げる。「だからって俺に言うなよなぁ。」とちょっといやらしい目で僕が切り返す。「ははははっ。」彼が屈託のない晴れやかな声で笑った。「娘がねぇ。お受験したいって言うのよぉ。」と今度は子煩悩オヤジ。なんだかんだ大変なのも生き甲斐ってことかねぇ。

 聞けば、彼のルーツは鹿児島。祖父までさかのぼると沖縄に至るという。南国の島から荒波に乗って本土に辿り着き、更に上京してさる超一流企業の役員にまで上り詰めた立志伝を持つ祖父。おそらく君もその血を受け継く猛々しい気性の男なのだ。そうしてこれからも困難を乗り越えて更に大きく飛躍するのだろう。久しぶりに元気を貰った気がした。僕のルーツは戊辰戦争で討死した会津藩士、薩摩人気質を併せ持つ君は、いわば歴史上の仇敵。これからも良きライバルとして刺激しあいましょう。 


菅野くんの出張

2006-06-10 22:18:05 | ともだち

Pict0008_1  今日、会津三島町まで行ってきた。友人の菅野くんが来ていると言う。郡山から49号線を西に向かい猪苗代を超えて河東、会津村から県道33号に分かれて、会津坂下へ。町内を過ぎ七折峠トンネルを抜けると、国道252号線沼田街道を南へ。JR只見線、只見川、沼田街道が絡み合うように奥会津、只見に向かっている。柳津を過ぎトンネルを三つ抜けた。「ふるさと会津工人まつり」ののぼりがちらほら立っている。Pict0009_2 案内にしたがって道を右に折れ、只見川を渡ってしばらく行くと、里山を開いた会場に到着。のんびり走ったら午後の三時を回ってしまった。ブナの林の中に、無数のテントがひしめくように立ち並んでいる。昨年秋に降り積もり、一面に敷き詰められた褐色の落ち葉を踏みしめながら、たくさんの行楽客が行きかっている。聞けば関東からの団体も多いそうだ。都会から遠く離れた山の中に、これ程のイベントがあったとは。木工細工、編組の籠、陶器、漆器、染織物など多彩な工芸品がひな壇に広げられ、なかなかどうして興味深い。Pict0012_1 林の入り口に構える生活工芸館の前庭では模擬店が連なり、様々な美味しいものを売っている。それにしても目星の出店がなかなか見つからない。一回りしてようやく菅野くんを見つけた。草風舎と手書きで書かれた木製の看板。ひな壇には見覚えのある色調の陶器たちが並んでいる。「おまちくださいねぇ。」彼は大皿を丁寧に包みながら、お客様に話しかけている。へえ~、商売になってるじゃあないか。Pict0013 「お~い。」と声をかけると「来たか。」と返した。その後二三ありふれた会話を交わしたが、大して盛り上がるわけでもない。相変わらず男同士のやりとりってぇのは無粋だねぇ。まあそこが肩の凝らない間柄という訳なんだけど。

 三島町は桐の里を自称するだけあって、もともと会津桐箪笥の産地。そして木工細工やヒロロ細工、山ぶどう細工、つる皮細工、染織物などが盛んである。雪国の山間部で冬の間の農閑期、囲炉裏端の手仕事として培われたものだ。「ふるさと会津工人まつり」は今年で二十周年になるという。奥会津周辺から日本全国に至る工芸職人が一同に会し、行楽客向けに体験コーナーまで設けられてまつりを盛り上げている。ちなみにヒロロとは山の野草で水切れが良く、以前は蓑の材料として使われ、現在は編組にして籠やバッグになるそうな。

Pict0011_1  一時間ほどして日が傾き、イベントの終了時間。菅野くんは共同浴場で汗を流して懇親会に出るのだと言う。僕の出る幕ではないので、店を畳んだところで別れる。「仙台のライヴに行くからね。」と言う菅野くんに、「うん、よろしく。」と答え車に戻った。暗くなるまでには間があった。只見川の河畔の風景を撮りつつ帰途に着いた。山間の自然に抱かれながら人が暮らすところ。来年は奥会津の醍醐味を目一杯味わうつもりでゆっくり来てみよう。


陽人くん!

2006-04-17 00:10:12 | ともだち

 12日の晩、中川君くんから電話があった。ホントにご無沙汰だった。彼のお店が閉店する間際に会って以来だった。その後実家に戻って、家業を手伝いながら再び店を開いたと言う知らせは受け取ったが、当時僕は東京勤務になっていて、ついに訪ねることはなかった・・・。1月にツーリング・チームVACANCYの飲み会を計画した頃に連絡をとった。2年数ヶ月ぶりだった。家族を郡山において那須に単身赴任していると言う。結局休みが合わず会えずじまい。それから3ヶ月が過ぎた。

 そして彼が訪ねてきた。愛息子の陽人くんを連れて。陽人と書いて"ひろと"と読む。いい名前だなぁ。でも最近の子供の名前ってかっこいいんだけど、読み方がひねっててちょっと見じゃあ分からないんだ。お母さん似だというこの子は、目鼻立ちのはっきりした男前だ。写真ではフラッシュに反応してしまってその容貌がつかめないが・・・。ひとしきり近況を語ったあと「今日はこいつの誕生日なんで帰ります。」と中川くん。僕が「そおかぁ、二つになったのかな?」と問うと、「いえ、まだ一歳と八ヶ月なんですけど。」と言う。「随分早い誕生日だねぇ。」「はぁ、毎月やってんですよ。」「ははぁ、立派な親バカだなぁ。」「そうっすねぇ。」そう言いながら、照れくさそうにする彼は、とっても幸せそうだった。"いろいろありますが親子三人楽しく暮らしています"と書かれた彼の年賀状を思い出した。これからの人生、どんなことが待ち受けているのか分からないけど、中川くんはしっかり家族を守っていくんだろう。もとから姿も気性もかっこいい男だけど、ひとまわり良い男になっちゃって、こいつぅ。その幸せ僕にも分けてくれよ!っかあ。

Pict0009_1 中川君に初めて会ったのは、Bar VACANCYで、その頃、彼はあるホテルのBarで働いていた。スナックのおねぇちゃんにそそのかされて、一度、彼の職場に同伴したことがあった。今思うとオヤジ臭プンプンで恥ずかしい。どうもその時から僕の悪事の一端は、彼に握られている。Maxwell Streetがオープンして数ヶ月、音楽仲間が集まり毎夜盛り上がっていた頃。国道の斜向かいの路地に彼が店を出した。「Bar 夜空」というお洒落なカウンター・バーで、女性受けしそうな明るい内装に、コバルトブルーの淡い照明が酒棚を美しく照らしていた。僕はMaxで歌っては、上り詰めたテンションをクール・ダウンさせるために、独りで止まり木に座ったものだ。彼は僕のためにピンガを取り寄せてくれた。カシャーサ51だったかな。ピンガは最近欧米では一番人気のあるスピリッツなのに、その頃置いているBarが地元には一軒もなかった。それはサトウキビから搾り出したブラジルの地酒で、ラムより雑味があって重たい。その癖のある香りがたまらない。クランベリーのほのかな渋みが好きだった僕は、それでオリジナルカクテルを作ってもらって味わった。本来の飲み方は、グラスのなかでライムをつぶし、そこに砂糖を少々、よく冷えたピンガを注ぎ、クラッシュアイスを入れてかき混ぜる。カイ・ピリーニャである。意味は"田舎の小娘"。ちいさな氷をガリガリしながら飲むのが美味い。

 思えば、黒服にボウタイのいでたちで、粋にシェイカーを振る中川くんの前に、何人の愛すべき"田舎の小娘"を座らせたことか。色とりどりのカクテルが選び抜かれたグラスに注がれ、更に愛らしいフルーツをあしらう。そして彼のスムースな所作によって差し出される甘美な泉の水が、数多の娘達を酔わせたことか。こう言うといかにも恰好いいのだが、実のところその頃の僕は、2年半追い続けたある娘にふられ、その腹いせに遊びまくっていたのだ。毎夜Maxで歌っては、バンド仲間と娘達を伴って朝まで騒いでいた。若い頃には誰にでも経験のあることだろうけど、その当時の僕はちょうど不惑の40を過ぎた時期で、周囲からの嘲笑の的だったかもしれない。今となっては殆どの娘達に愛想をつかされ、破れ寺のくそ坊主のようになってしまった僕の、それは第二の青春だったのか。「Bar 夜空」での笑い話がある。ある晩、僕が独りでカウンターで飲んでいると、菊川怜に似た美しい娘が入ってきた。バーテンの中川くんが珍しく僕を紹介してくれる。そういうことならと僕は口説き始めた。やっと電話番号を聞き出せたのが朝の4時。ぶっ通しで6時間ものあいだ彼女を褒め倒していたらしい。彼女を送り出したところで中川くん、「井上さーん、なにやってんですかー、困りますよぉ。彼女バイクチームに誘おうと思って紹介したのにー。いまにも飛びついてキスしちゃそーで、ひやひやしちゃいましたよー。勘弁してくださいよー。」と攻め立てる。「えー、そうだったの?」と僕。あきれた彼、それ以後一度として女性を紹介することはなかった。なさけなや。

 中川くんの結婚が決まる少し前。彼はある日、夜が白み始めた頃店を閉め、一睡もせず愛車の750を飛ばして宮城県の蔵王に向かった。目指すは愛する彼女のところ。実はふたり、別れて離れ離れになっていたのだ。でも彼は一世一代の勝負に出た。「やっぱり俺にはおまえしかいない。」いやっーん、素敵ー!やっぱライダーは真っ直ぐでかっちょいいわねー。胸がきゅうーんとしちゃった、あたし。ってなんでオカマ言葉になってんのかなぁ。その後の成り行きは言うまでも無い。

 訳あって中川くん、今は宮仕えだけど、いつかまた彼の「Bar 夜空」を再開してくれることでしょう。その時は是非僕の第三の青春を演出してください。って無理かぁ。トホホ・・・。中川くん、結婚式のスピーチで「相手の親に殺されるから」って口止めされた話、暴露しちゃってゴメンね。でも今更時効だよなぁ。