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ロハ好き!

~地球と仲良くできるやさしい暮らし

今年はやるぞ新聞切抜き

2005年01月13日 | ロハ好き
新聞切抜き収集の下手な私。
気になった記事を切り取っても、それをきちんと保管しないので、黄色くなってしわしわになってしまう。そこで昨日、キングファイルのスーパードッチ(これって商品名?)を購入。環境仕様とか書いてあってなんかエコですね。
両面プリントを終えた紙をパンチで穴あけし、スーパードッチに挟む。あとはそこにペタペタ張るだけ。これで準備完了、と思いきやスティックのりを切らしてしまい、結局今日も切り抜いた記事をめちゃくちゃに重ねるのでした。

空き地

2005年01月12日 | ロハ好き
 区画整理がすすんでいる私の町には空き地があちこちに見られる。
 実は昔もけっこう空き地がたくさんあって、私も空き地で野球をやったり、ヒミツ基地をつくったりしながらこの町で幼少期をすごした。
 でも今の空き地はどうも気に入らない。金網のフェンスが立てられ入り口にはカギがかかり、「区画整理事業用地東京都:立ち入り禁止」という看板が立てられている。それを無視して遊ぶ子供の姿も見当たらない。人が入れない空き地はなんだか薄気味悪い。
 気に入らないと思っているのは私だけではないせいか、その看板の周りには缶やビンなどのゴミが投げ込まれている(それはモラルの低下のような気がするが・・・)。
 空き地っていうのは、そもそも行政上は存在してはいけない場所なのだろう。すべては公園や道路や建物など、ガシガシ整然とタテたてヨコよこの空間にしたいのだろう。
 その理屈はわからなくもないのだけれど、その結果として場所はきれいだけれどつまらない場所になり、かかがえのない何かを失ってしまう。それは町への愛着だったり、ほっとできる一時だったり、空き地で出会う人とのあいさつだったり・・・。
 どんなに科学が発展しようとも生活が便利になろうとも、私たちはそんな不確かなものを必要としているのではないだろうか?空き地はその象徴なのかもしれない。決まりや法律で縛られない「意味のない空き地」とそれをゆるすおおらかな社会になれば、もっと気楽に過ごせるのに。

コーヒー豆とフェアトレード

2005年01月11日 | ロハ好き
 おいしいコーヒーを飲むために、豆の種類や入れ方だけでなく、商品が生産されるプロセスにこだわるという方法がある。フェアトレードだ。
 モノを買うときに、消費者がいかに安いかだけに目を向けるのではなく、生産者にとって「フェア」な買い物をしようというもの。特にコーヒーなどは発展途上国の生産者から不当に安く買い叩いて成立している場合があるという。簡単に言えばコーヒーを飲めば飲むほど、生産者を貧しくさせるビジネスに加担している場合もあるということだ。正直、これまでモノを買うときにそんなことにまで気を配っていなかった。
 消費者である私たちが商品を買うという行為は、その商品を支持し、その商品に投票するということでもある。商品の安さの限界は、生産者に対して生活の安定を保証する価格で取引することだ。モノの値段が安いのは消費者として私も歓迎だけれど、それによって不幸になる人がいるのは歓迎できない。
 「そんなのは自分の生活が豊かな人の言うセリフで、貧乏な人はそんなぜいたくは言っていられない」
という人がいるかもしれない。たしかに。
 しかしだからといって、フェアではない社会の様々な仕組みについて、消費者が消費という投票をしていかなければ、「豊かな人」と「貧乏な人」との努力ではとうてい埋めきれないアンフェアな条件を変えていくことができないことも事実だ。
 私はこの世の中のあまりに不公平で理不尽な仕組みの多さに辟易することがある。
 けれどなさけないことに、その中のひとつも変えていくことはできない。そこで庶民のささやかな抵抗として「お金」を使うことで社会に意思表示していくことができるんだという風に考えると、たとえそれが100円であっても違った価値観が見えてきそうな気がする。
コーヒーを飲むとき、
「俺は社会を変えている、俺はこのこだわりコーヒーで世界に鉄槌を食らわせてやる!」
というささやかな自己満足に浸りながら、朝の一時を過ごしてみたい。今はまだ引き出物などでもらったコーヒーが余っているけれど、今度買い物に行くときは妻に相談してみよう。
▽リンク:フェアトレード

おいしいコーヒーを飲む楽しみ

2005年01月10日 | ロハ好き
最近、コーヒーを入れるのが日課となっている。季節によってオレンジジュースになったり、玄米茶を飲んだりもするけれど、寒いこの時期、おんぼろ我が家では白い湯気が立つ入れたてコーヒーが一番おいしい。
コーヒー粉かすは乾燥させて花壇に撒いている。ささやかだけれどこれも立派なゴミ削減と資源循環。
もうひとつのエコアイテムとして、500mlのステンレスボトルがかかせない。
入れたてのコーヒーをカップに入れた後、残りをペットボトルに入れると、2杯目も温かいコーヒーを飲むことができる。電子レンジでチンするのもいいけれど、これもささやかなこだわり。
ステンレスボトルを持ち歩けば、缶ジュースを買わないで済むし、お金もかからず経済的でもある。缶をポイ捨てしないでも済む。
海外ではプラスチック容器を持っていくと量り売りしてくれるお店もあるけれど、日本でもスターバックスあたりはやっているのだろうか?
そもそもスターバックスにあまり行かない私にはわからないのだが・・・。

自転車と私(2)

2005年01月09日 | ロハ好き
私は通勤でほぼ毎日自転車に乗っている。別に環境問題を意識しているわけではないが、私の町は駅に行くにも買い物に行くにも自転車が一番適した「自転車のまち」だ。妻は結婚当初、この自転車ライフに適応できず、かなり四苦八苦していたが、今では鼻歌を歌って自転車をこいでいる(なんという順応性、たくましい)。ほかにも子供を前後に乗せて力強く自転車をこぐヤングママさんや野菜をかごに載せたおばちゃんやふらふらしたおっちゃんなど、たくさんの「チャリダー」に出会う。
自転車はガソリンも使わないし、健康にもいいし、景色もよく見えてとてもよい乗り物だと思うのだが、世の現状はあまり自転車にやさしい環境になっていないような気がする。歩道の真ん中に電柱が立っていたり、途中で歩道がなくなっていたりということがよくあるし、車道は段差に挟まってしまったりしてスリップすることがよくある。さらに困るのが駅の駐輪場だ。有料駐輪場は200円と法外とも思える金額をとるので、2回に1回くらいはどうしても近所のスーパーやデパートに止めたりしてしまう(本当は4回に3回くらい)。マナーの悪い違法駐輪をしている悪いヤツは私のことだ(いま反省しています)。
都市整備も自転車にやさしくないし、利用者(私)のマナーも自転車にやさしくない。ロハス的な乗り物であってもそれを使う環境や使う人によっては迷惑なものになってしまうこともあるのだ。自転車が自分のロハス度をもっと高めてくれる道具になるように、まず手っ取り早いところとして、私自身の意識が変わらなければならないと思う。

自転車と私

2005年01月08日 | ロハ好き
昨年末、近くの自転車屋さんで念願のマウンテンバイクを買いました。なんと超特売の7割引!
安いのでモノが悪いと思いきや、ブリヂストンの優れものです。通勤に自転車を使っているのですが、ギアチェンジなどが快適でとっても楽しい。この1年のチャリライフはとても快適でした。
これまでタイヤの歪んだママチャリに乗っていましたが、やっぱり日々使うものはいいものを使いたいです。
「環境にいい」「健康にいい」ということも大切ですが、同時に長い付き合いをしたいという愛着が持てることもロハス的ライフスタイルには大切だと思っています。
でも今年はスギ花粉が爆発的に飛ぶようなので、自転車通勤を満喫できるのは今月までですね。来月からはメガネとマスクで「仮面チャリダー」です。

持続可能ってなんだろう

2005年01月07日 | ロハ好き
ロハスの「ス」はサステイナブル(Sustainability=持続可能性)の「S」である。
「持続可能性」はこれからの環境問題のkeyワードのひとつだ。
持続可能なライフスタイル
持続可能な都市整備
持続可能な開発etc.
大量消費の結果生まれる大量廃棄社会は、ゴミを作り出す一方通行のシステムで、この星の資源が限られている以上、そのシステムは持続不可能ということになる。この矢印をくるりと回し、円のようにくるくると循環させる新しいシステムを作っていこうというのが「持続可能性」ということになる。日常生活、都市整備、ビジネスなどあらゆるシーンで「持続可能性」の要素が求められる。
・・・と、頭ではわかっているのだが、それを身近なこととして腹に落とすのはなかなか難しい。
持続可能って何だろう?
そう考えるとき、私にはどうしても忘れられない一言がある。
5年ほど前、旅先の北山川の支流でウナギを取る仕掛けをしていたときのことだ。畑帰りの見知らぬじいさんが私を見つけて声をかけてきた。
「何か取れたかあ」
「いやあ、これからです」
「まあのんびりやれや、だが種まで取るなよ」
たったそれだけの会話だったが、私は『種まで取るなよ』という言葉に思わずギクリとした。
ウナギを取ることだけに夢中になっていた私には、私がウナギを釣りつくした後の川のことなど眼中になかった。一方、じいさんの一言は、ウナギを根絶やしにしない程度に取ることが今年も来年も再来年も川でウナギを取り続けることにつながることを指していた。
じいさんは別に私をたしなめるためにそう言ったのではなく、当たり前の会話だったのだろう。
しかしそこには、自然との共生、持続可能な漁についての基本的な理解と普遍的な価値観のようなものがあった。そんな言葉を当たり前のように口に出来る彼を育てた環境が熊野の山村をはじめ、日本のくらしや森の隅々にある。
ことさら「持続可能性」という小難しい文字を取り上げるまでもなく、日本には実に「持続可能性」が身近に転がっている。
たとえば、「もったいない」。
近所のおばちゃんは「ああ、もったいない」といって余った漬物をほおばり、にんじんやごぼうの皮でキンピラを作るし、チラシの裏紙をメモにする。
私などは新しいものや言葉やコトが大好きで、すぐに飛びつくのだが、それってよく考えてみるとすでに身近にあるものだったりする。
「持続可能性」もそのひとつかもしれない。

「ロハス」ってなに?

2005年01月05日 | ロハ好き
個人的にはここ数年、買い物や行動に「ロハス的」と思われる決定が多くなったような気がする。
例えばスーパーで買い物をするとき、「安いか」「うまそうか」という判断の次に、「産地はどこか」「添加物はないか」「季節的にあっているか(野菜など)」ということをチラッと考えるようになったし、高給取りでもないのに、国産のカボチャと外国産のカボチャでは、ためらうことなく高い国産を選んでいる自分がいる。
ユニクロで安いフリース(最近は違うのかもしれないが)を買って袖口のゴムがだめになるよりは、パタゴニアの高いフリースを買ったほうが、長期的に長持ちすることを経験し、ユニクロには足を運ばなくなったこともここ数年のこと。
「より安く」「より便利に」「より快適に」という考え方はこれまでどおり価値基準の中心にあるのだけれど、そのほかに「より安全に」「より無駄なく」「より賢く」といった様々な『周辺の価値観』がでてきて、それが行動に影響を与える場面が増えてきた。
行動に影響を与える周辺的価値観、これが『ロハス』なのかなあ、というのが私の認識だ。
そういう価値観がでてきたのは、自分の生活に安全でなく、無駄で、賢くない部分があまりにも多く、それが快適な生活を脅かしていることに気づき始めたからかもしれない。
たとえば、今年はすでにスギ花粉が飛んでいて、目がかゆくなったりくしゃみが出たりして、外を歩くことが快適でなくなっている。そんなアレルギー体質の自分を「しょうがない」とあきらめているのだが、それが長年の食への無関心の結果かもしれないと思うと、どうしても無視できなくなってしまう。
ロハスとは「ささやかなこだわり」ということができるだろうか?
そうしてみると、周辺に「ロハス的」なもの、行動、サービスなどグループ化できるものは結構たくさんあることに気づく。
「駅でエレベータに乗らずに階段を使うのはなぜ?」
「無駄な電気は使いたくないし、階段を使うほうがいい運動になる」
こんな行動は「ロハス的」と言えるのではないだろうか?

最近になって興味を持ったもの

2005年01月05日 | ロハ好き
ここ数ヶ月、関心を持ったものがふたつある。

『ブログ』と『ロハス』である。

日記だけでなく、掲示板だけでなく、たくさんの人とリンクしながらネットワークを広げていくブログがどんなものなのか、参加してみたくなった。
ロハスのほうは、雑誌の取材が縁で知った言葉である。ロハスとはLifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字をとった造語で、「健康で持続可能性なライフスタイル」という考え方。スローライフやスローフードといった言葉はけっこう知られているが、ロハスという言葉はあまり知られていない。言葉のフィット感がよいというか、これまで言い表せなかったことを、うまく表現できているような気がする。
ブログとロハス。ふたつのマイブームを軸に、このブログをやって見ようと思う。