母恋

2005.3.5にすい臓がんにより天国へ旅立った母の手記や看病の記録、その後の生活などを書いてます。

12月31日(金)

2004-12-31 23:48:46 | 母の居る生活
今日は、大晦日。
今まで、お母さんに任せっきりだったので、年末がこんなに忙しいものだと思っていなかった。
改めて、お母さんって、働き者だなぁと思った。今まで、手伝わなくてご免ね。
大晦日だけではなく、料理に洗濯、銀行回りに、仕事…。
病気になったのは、私のせいではないかと思うほど、毎日忙しかったのですね。
こりゃ、ストレスも溜まるわ。(-_-;)

今日のお母さんは、久々に家のお風呂に入って、髪も洗ってサッパリしたようだ。
思い出した。
病院の髪を洗う所のシャワーは、温度調整が難しくて、熱くなったり、冷たくなったり。
看護婦さんに聞くと、「私達もなかなか難しいんですよね。」(じゃあ、直せばいいのに…(ー_ー)!!)
あれじゃ、火傷しちゃうよ。病院なんだから、そういう設備はちゃんとして欲しい。

12月30日(木)

2004-12-30 23:46:52 | 母の居る生活
母が、帰ってきた。
と、いっても、4日までの外泊。
これが、退院ならば…。欲張りな考えだな。

それにしても、すっかり体力が落ちてしまって…。
先月、京都旅行に行ってきた事が夢のようだ。
あれ以来、すっかり体調を崩してしまって、責任を感じている。

自宅は、マンションの5階。なのに、エレベーターが無いので、母にとってはかなりきつかったのではないだろうか?
これから、皆、年をとっていくのだから、少し考えなければならない。

とにかく、今日は何事も起らず、無事に過ごせて、神様に感謝。

12月29日(水)

2004-12-29 23:44:19 | 母の居る生活
今日で仕事納め。
毎年、年末のこの時期は、クリスマスやらもうすぐお正月やらで、何だかワクワクして大好きな時期なのだけれど、今年は母の事もあるので、ちょっと違う。

先生のお許しが出て、母が明日から4日まで、帰宅できる事になった。
痛み止めの点滴が50時間位しかもたないこともあり、途中2回、病院に行かなければならないのだけれど…。
当初、先生はこの点滴の関係で、30、31日の2日間だけの外泊を予定していたらしいのだけれど、父が母にその事を伝えると、母は大変がっかりした様子だったので、先生ともう一度話しをした結果、4日までとなった。
先生に言わせると、途中2回も病院に通わなければならないと大変だと思って点滴がもつ2日間としたようで、それでもいいのなら問題はないとの事。
その事を母に告げると大変喜んだらしいです。

IVHポート、ステント挿入の処置以降、母は心と身体のバランスをすっかり崩してしまっていた。
処置後も食べられない事は相変わらずで、21日からはついに抗がん剤の治療も再開したが、症状は変わらない。(ちなみに今回の抗がん剤の投与は、24時間かけて少量ずつをゆっくり点滴しているので、特別具合が悪くなるという副作用は今のところおきていない。)
母は毎日、これらの処置をした事を後悔し、「家に帰りたい。」と、言っていた。
私もこのまま病院にいては、母には絶対に悪いような気がしていたので、今回の帰宅は一時的といえども嬉しい。

気付けば日記の更新を暫くしていなかった。見てくれている人はとても心配したのではないだろうか…。仕事もお休みなので、そろそろ挨拶まわりをしなくては…。

12月15日(水)

2004-12-15 23:41:27 | 母の居る生活
今日は、大事な処置が行われる。かなり緊張。
緊張しすぎて、時間を間違えてしまった。
思い出した時には既に遅く、私が病院に行った時には既にその処置は始まっていた。
かなり時間がかかったが、とりあえず、ステントは通ったようだ。
第一関門突破。
10時30から始まり、終わったのが14時。出血もなかったようで安心した。
後は、これから様子を見て、膵炎等の合併症が起こらなければいいのだが…。
眠薬の為、母は、ずっと寝ていた。
20時で帰らなければならないので、それまでに起きてくれればちょっと話をして帰ろうと思ったのだが、とにかく寝ている。
とても気持ち良さそうに寝息をたて、穏やかな顔で寝ている。
母にとっては、この状態は起きている時より、とても楽なのだ。
それならこのままの状態でもいいから、長く生きて欲しいと思った。
話ができなくても、何処かへ行く事ができなくても、母がいなくなる事に比べたら、ずっと幸せだ。ずっと母の寝顔を見ていられる。
なんて、また自分勝手な事を考えてしまった。
20時近くになると、母が起きそうな感じだったので、声をかけてみた。
「お母さん。」と、言うと、目を開けた。
「何処か痛いところはないかぃ?」「トイレは行きたくないかぃ?」等の質問に、きちんと答えてくれた。
「時間だから帰るよ。」と、言うと、「帰んなさい。」と、言いながら、いつもの様に握手をした。
母はしっかりしている。

12月14日(火)

2004-12-14 23:38:00 | 母の居る生活
今日は、食べられない対策として、IVHポートの処置がされた。
発病当初から、主治医の先生に勧められていたが、母が頑なに拒んできた処置だ。
しかし、これだけ食べられなくなると、点滴で高カロリーの栄養をいれるしかない。
普通の血管に点滴では限界がある。血管が弱ってしまうし、片手が使えないという不便さもある。
さすがの母も今回ばかりは抵抗できなかったらしい。
私もこの処置には不安があったので、母に絶対にしなさいとは強く言えなかったが、こんな事になるなら、もっと元気の良い時にやっておけばよかったと後悔している。
未だに不安は拭い去れないが、やるしかなかった…のかな。感染症とかにはならないものなのだろうか。

母が麻酔で眠っている間に、主治医の先生から胃カメラ検査の結果や、今後の事の話があった。
胃カメラ検査の結果、母の胃はとても綺麗だということが分かった。
母の腫瘍は大きくはなっているものの、幸か不幸か、他の臓器には転移していないらしい。
で、明日は黄疸を取るための、胆汁の流れを良くする処置をするとの事。
逆行性膵胆管造影(ERCP)をし、そのまま、ステントを慎重に通し、胆汁の道を作るという事をするそうだ。
これについては、管の形は人それぞれで、しかも腫瘍がかなり大きくなっているので、管が圧迫されうまく通らないかもしれないという第一の関門がある。
ステントを通せないと、体の外に管が出てしまうような処置になってしまう為、母は大変嫌がる事間違いない。
第二の関門として、例えうまく通ったとしても、急性膵炎等の合併症がおこる事がある。とにかく油断できない処置なのだ。
しかし、このままにしておけば、黄疸はどんどん進んでいくので、やるしかない。
ここは、先生に全てを任せるしかない。
私には、明日、うまくいくよう祈る事しかできない。

ところで、昨日もそうだったのだが、検査の後はどうもお腹が空くらしい。
「カレーライス、食べてみるかぃ?」の質問に、素直に「食べて見るかなぁ。」と、答えたので、早速父にカレーを買ってくるよう頼んだ。
ところがその間に病院食が出て母は「待ってられない。」と、言って食べてしまった。ほんの少しだけどいつもよりは食べた。
その後父がカレーライスを買ってきたのだが、もう食べられないだろうと思ったら、3分の1程食べたのには驚いた。
その後、お腹が活動したのか、腹痛と排便を繰り返していたが、大丈夫だろうか。いっぺんに食べ過ぎたかな。
とにかく、久々に3人でカレーライスを食べれた事がとても幸せに感じた。

12月13日(月)

2004-12-13 23:33:49 | 母の居る生活
今日は、胃カメラ検査。
麻酔のお陰で、母曰く、「寝てる間に終わってた。」
全く、苦しまずに検査が出来たようだ。
検査後は、とてもお腹が空いた様で、出された食事の半分位を食べたそうだ。
でも、その後やってくるのが、いつもの下痢。
何とかならないものだろうか。

母とちょっとした事で、喧嘩をしてしまった。
感情的になってしまい、口喧嘩しながら涙がポロポロこぼれてきた。
そのまま帰るのは、とても嫌だったので、謝った。
原因をおおまかに言うと、病気に対して弱気になっている母への苛立ち。
1番苦しいのは母なのに、つい感情的になってしまう私の悪い癖が出てしまった。
母とはもう喧嘩なんかしたくない。そう思っている癖に、我慢できないのだ。
謝る私に「inazo_の言う事はよくわかるよ。心配かけてご免ね。」と、母が言う。
握手をして帰ってきたが、かなり自己嫌悪。
家に帰っても気分が晴れず。

お母さん、本当にごめんね。

12月4日(土)

2004-12-04 23:28:04 | 母の居る生活
昨日、回復してきたかなと思っていたのに、今日会いに行くと、また、前の様になってしまっていた。昨日、お父さんと私の帰宅後、点滴をしたら、また吐き気の症状が出て、具合が悪くて眠れなかったらしい。
病院食も食べるというよりは、スプーン2、3杯口をつける程度。
家にいた時は、大分食べれるようになっていたのに、とても心配だ。
食べないとどんどん体力が落ちて、免疫力も下がってしまう。
「自分でお腹を開いて、全部きれいに切ってしまおうかな。」
「死んだら検体してもらって、全部とってもらおうかな。」
こんな事を言っていた。
どうにかしてやりたい。
昨日の日記で、抗がん剤を再開するというような事を書いたけど、違った。
鎖骨付近の静脈に管を入れる事を許可しただけだった。
お母さんの意思は固い。

年賀状を買った。
お父さんは、「お母さんがどうなるか分からないから…。」と、言っていたが、私は、どうしても買いたかった。
絶対に、お正月を家族3人で迎えたい。
先生の話を聞いてから、お父さんが弱気な発言をするので、たまに喝を入れる。
お願いだから、お母さんが元気になる事を信じて祈って欲しい。

12月3日(金)

2004-12-03 23:25:10 | 母の居る生活
会社帰りに病室に寄る。

今日はお父さんが付き添いだ。
母はベットに横になっていたが、昨日よりも楽なようで、意識もしっかりしていた。
会話もできるし、食事も少し摂れた様だ。
丁度夕食の時間でお腹が空いていたので、残りは私が食べた。(笑)
まだまだ、体調が悪いようだったが、起き上がって話をしたので、少し安心した。
昨日までは存在していないかのように置かれていたラジオも、今日は大活躍。そんな余裕もできたようだ。
色々話を聞くと、ついに抗がん剤の治療を受ける決心がついたようだ。(ブツブツ文句を言っていたが…笑)
手を拭いて、足の裏のツボを押して、「おやすみ。」と、言って、家に帰った。

お母さん、がんばれっ!

12月2日(木)

2004-12-02 23:23:09 | 母の居る生活
今日は会社を休んで、お母さんの付き添い。

と、言っても、お母さんは寝ていて、何もする事ができなかった。
たまに起きて私に話かけるのだが、睡眠薬の点滴をしていたので、意識が朦朧としていて、会話にならない事しばしば。

昼に先生に呼ばれて、仕事を中抜けしてきた父と話を聞く。
この前入院した時のCTを見せられた。
6月のものと比較すると、腫瘍マーカー値は2倍弱だったが、実際の腫瘍の大きさは、それどころじゃなかった。
先生も、「もう限界にきています。」と、言っていたが、びっくりする程の大きさだった。
これから先の治療は、
①痛みを取り除く為だけの治療をし、自然な形で死を待つ。
②少しの望みにかけて、抗がん剤を投与する。
この、二者択一。
先生は、お母さんの意見を尊重したいと言っているが、できれば抗がん剤投与をしたいらしい。
ずっと抗がん剤を拒否してきたお母さんを、何度も説得しようと治療してきた先生は、まだ諦めていないらしい。
私も、抗がん剤には疑問があったが、この2つから選べと言われたら、だまって死を待つなんて我慢できない。
しかし、これはあくまでも私の意見。病気になっているのはお母さんだ。

お父さんが先生に余命を聞いた。私はそんな事聞きたくなかったのだが、「春先までもちますか?」の質問に「持ちません。」
一か月単位で死が近づいているようだ。
お父さんは、相当落ち込んでいたが、私は、気にしていない。あくまでもなんの治療もしなかった時の話だし、死期なんて、誰にも分からないからだ。

その後、8時まで母の付き添いをし、家に帰った。
今の私にできる事は何か。
祈る事と絶対に諦めない事だ。

12月1日(水)

2004-12-01 23:18:40 | 母の居る生活
12月が始まったばかりだというのに、お母さんがまた入院。

前日から、またお腹が張ってきて、体調が悪かったのだ。
病院に行くと、この前抜いたばかりの腹水が、また溜まっていて、即入院となった。

会社帰りに病室に寄ると、今まで見たことのないお母さんの姿が…。

普段我慢強い母が、ベッドの上で「痛い、痛い…。」と、叫んでいる。
こんな姿は初めてだ。
母が口に出して痛みを訴えているのだから、よほどの痛みなのだろう。

腹水が溜まって気分が悪く、口から物をいれると吐いてしまう。痛み止めも飲めない。
今まで、痛みを感じずに、「痛み止め飲まなくていいかな。」なんて、言っていたけど、普通に生活していたのは、やはり、薬のお陰だったのだろう。

後ろ髪をひかれながらも、看護婦さんに任せて帰ってきた。