明治大学生田キャンパスにて公開講座「知られざる『多摩』の歴史」のメモです。
配布資料を参考にして記述します。登戸研究所については研究所のパンフ、HPを参考にします。
講義は3つのテーマ構成。1)植物としての「麻」
2)地名としての「麻生」の由来
3)戦時日本を支えた生産物~麻文化
麻の主な種類は「亜麻(別名:リネン)」「苧麻(ちょま、別名:ラミー)」「ジュート麻」「マニラ麻」「サイザル麻」そして「大麻草(別名:ヘンプ)」がある。詳しくは日本麻紡績協会のHPが参考になる。
日本では縄文時代から大麻が繊維資源として使われていました。大麻で作られた縄は伸びにくく、弓の弦などに使われます。ほかにも古来より神聖な繊維として神社の鈴縄や注連縄など神事に使われていました。お盆の送り火では茄子や胡瓜に割り箸を刺して牛馬に見立てます。私が子供の頃は、今のような割り箸ではなく乾燥した茎を使っていました。これは大麻草の茎で「おがら」といいます。日常に入り込んでいた大麻草ですが栽培は許可制であり、生産量が限られることから「おがら」を目にする機会が少なくなっているのですね。
麻は丈夫な繊維であることから戦争を支える物資でした。日本が植民地・占領地から獲得した資源は鉄鉱石や石炭・石油、米・砂糖・とうもろこし等のほか、大麻、マニラ麻、ジュートなども現地で調達しました。戦争では麻を土嚢用麻袋・ロープ・網などを作るのに必要とされたのです。コンクリートで陣地を作るよりも土嚢なら簡単に手早くできることから土嚢は軍隊には必需品です。そのため、植民地・占領地では麻類に作付転換を強制しました。その結果、現地住民の食料危機・飢饉を招く一因になりました。
多摩周辺では麻に由来する地名が多くみられます。「多摩」の語源は「多麻」と表記されていたこともあります。万葉集に、
多麻川に晒す手作りさらさらに 何そこの児のここだ愛しき
とあります。
川崎市「麻生区」は「あそうく」、ではなく「あさおく」と読みます。この地域は、かつて麻生郷(1333[元弘3]年、足利尊氏の『所領目録』)と呼ばれていことに由来しますが、おそらくそれ以前から麻は自生していたと思われます。『日本書紀』持統天皇7年(693年)に「苧(からむし)」栽培を奨励したと書かれています。また多摩川を挟み調布市布田や世田谷区砧があり、武蔵国のこの一帯は繊維に絡む地名があります。大麻草と多摩とのつながりは遥か古代からのようです。
明治大学生田キャンパスは、終戦まで(1937~1945年)の陸軍登戸研究所跡地でした。更にそれ以前(1932~1937年)には満州開拓に政策転換されるまで、ブラジル移民を養成・訓練する日本高等拓殖学校がありました。登戸研究所は、主に電波兵器・無線機器・宣伝機器などを開発するための施設として始りましたが、風船爆弾、毒物・薬物・生物兵器、スパイ用品等の開発、偽札・偽造旅券製造が行われました。
資料館では、特別展示「ホンモノの偽札を見てみよう」(6月3日まで)が開催中でした。>http://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html
民衆の生活に深いかかわりがある大麻草が規制、取締になった歴史は1912(明治45)年の第1回国際アヘン会議での麻薬規制から始まり、1925(大正14)年の第2回国際アヘン会議で大麻も国際的規制されました。
1930(昭和5)年には大麻が麻薬指定された(麻薬取締規則の制定)。戦後1945(昭和20)年のGHQによる麻薬禁止令を経て、1948(昭和23)年の大麻取締法成立により、民間薬、漢方薬として使用されていた大麻草は栽培が制限され学術研究目的に限定されました。
大麻は民間薬として使われてもいましたが、麻薬指定されたのは戦時の健兵養成思想が背景にあったとのことです。健兵、つまり頑丈健康で戦闘可能な肉体であることが兵隊に求められるので、麻薬を遠ざけたのですね。
さまざまな視点から、麻にアプローチした講座を楽しみました。(2017-5-20)