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ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮、同人誌の話他

二次創作の「おそ松さん」に違和感の人がいるのは何故か

2016年02月05日 | サブカル・同人誌関係
流行ってますな。「おそ松さん」。
さて、チラチラとBLで長身、八頭身イケメンとか、自己流アレンジ二次創作のおそ松さんが流れてくる一方で
これは無い、やめてほしいという意見もまたチラチラお見受けいたします昨今です。

さて。
本日はなぜ、それを違和感と思う人がいるのかについてです。


ところで先日、テレビでは野々村議員の裁判の様子が報じられていました。
あの人なんかは、もう自分の生きている「世間」という限定的な空間の常識が、
一般社会とはズレていたからついやってしまった、悪いとそんなに思ってない、という悲劇なのでしょうか。
小保方さんにしろ、最近思いますのは、特に日本人は21世紀のツールをさずかったはいいが、
相変わらず、それぞれの閉鎖的な空間にいて、同族を待っているかと。
広い社会とつながるツール、
自分が何者で何をやっているのか説明するのではなく、
ただひたすら自分のテリトリー、つまり「場」において、その場にのみ理解される専門用語や
象徴、記号をぶら下げて、「交流」というより「同調」できる仲間を待っている。
そんなかんじの時、ありますね。


まるっきり異質な者を理解するには、理解力と説明が必要でして
それには遠近法や説明が必要であると、前の記事で考察いたしました。

でも、やっぱり違うものを考えて、受け入れる、あるいは理解されるようにプレゼンする、
というプロセスは、一苦労であり、ストレスではあるわけです。

しかし、同じものを共有する「輪」をどこまでも押し広げていけば、自分が理解しようとしなくても具合が良い。
布教が嫌われるのはここですが、世界中が自分と同じ感性であれば、世界は1つ、
違う事に悩まなくてすむものね。


さて、リツイートされてくるイラスト。
これ難しいですね。私は好きだと思っても、「おそ松さんクラスタ」限定のアカウントではないあたり。



「おそ松さん」で同人誌を描いたりしている人の中で
「こんなにも誰でも知っている大きなジャンルだから、皆知ってるだろうし
みんな喜んでくれる」とだけ思っている人がいた場合。

その「みんな」って誰。

そしてその画像を誰がどこで見るのかを意識しておらず
自分の周囲は全て、「おそ松さん」のファンで、これを見ればわかるはず、喜んでくれるはず
と、思い込んでいる閉鎖的な所にしかいない場合で、
「外」の認識とぶつかった場合、その違和感は起きるのではと思います。


同族で同じもののファンジャンル、つまり「身内」にあたる人の輪の中では、
いちいち「赤塚不二夫が描いた漫画が新しくアニメ化されましてね、その中に出てくる6つ子は
顔が同じだけど、性格が違ってます。そのキャラクターの1人にちょっと野獣的でナルシストな次男がいてね…」
という長々とした説明にはじまる、「なぜ自分はカラ松を八頭身で攻で描いたか」
にあたる説明部分は、知ってる人同士なら、やるだけ野暮です。

「そんなの、見りゃわかるじゃん」
「感覚的なものなんだよ」

という、「見りゃわかるだろ」「感覚でわかれ」という隠語の連鎖、それが記号化、象徴化だと思います。

記号論の話になって、難しいですが
美術史を見ても、その「わかる人にはわかるので、わかってくれる人を待つためのアイテム」
として、そこに至る説明を諦めた時、あるいは略した時、象徴記号は誕生するのだと思います。
「わかって下さるために」根気よく説明するスキルを用いて、起承転結だの「なぜ」だの
あるいは、先日ここでもやった「遠近法的立ち位置の説明」をするならば、
感覚では理解されなくても、人はその理由から、意を汲む事ぐらいはわかるでしょう。
しかし、完全な「記号」はおそらく、「潜伏化」を意味すると思います。
そこに一種、外の社会との断絶が見えるのは、もう必然的にそうなのかもしれません。


そんなわけで140字とイラストのツイッターは特に「なぜ」の部分はすっとばして、
シチュエーションのみパッ、とわかれば、後は感覚のみを享受、共有する。


感覚というのは、真に感覚的になればなるほど、異なる感覚を持つ者に対しての説明が難しいものです。
表現は自由に簡単になった。でも、そのせいで「楽」でも許してくれる空間もできた。
これ、19世紀末に批評家ラスキンが、現代画家の走りになったホイッスラーと戦った時も、
そこは1つのポイントだったのではと思います。
現代芸術は自由になったと同時に、ある独特でマニアックな空間に閉じ込められた。
自由であるので、何時間もかけて背景パースと、調べ上げた歴史的背景の細密描写なんてしなくてよくなった。
でも、その事で「誰にでもわかるような表現、より多くの人に理解させる」事をやめた。
それを狂気だと言わせず、尊厳を守ろうとしたゆえに、アメリカの批評家はわざわざ、
「わかる人にはわかるものは素晴らしい、わかりやすいものは下衆なもの」としたのかもしれません。


「なにゆえにカラ松が八頭身で…」を説明するには、ツイッターや1枚ぴらっとイラスト落書きでは短すぎる。
でも、そういうのやってる同士だと
「あっ、カッコいい~これってカラ松ですよね」ってわかるわけ。

ところが同じ感覚ではつながってない、外の人に対しては不親切すぎるわけです。


そして当然ながら、そのイラストを見る側というのも、これまたポーダーの曖昧な世界にいる。
…というか、システム上そうならざるを得ないのですが。


絵やイラストというのは、ある程度こちらは見ればわかるものと無意識にそう思っている。
文字をダラダラ読むよりは、さっとわかるものだと。
でも、その「見てわかる」には、あらかじめこちらで、ある程度イメージや感覚を用意しているものなのです。

その「見てわかる」ものが、アニメの「おそ松さん」でなくて元ネタの「おそ松くん」だった場合
見る側というのは、認識のベースとして、「赤塚不二夫のナンセンスギャグマンガ」
というのを持ってるわけです。記号そのものは「借り物」のパロディですからね…。
この、記号と意味のズレというのは、
出した側が意図するものと、見る側があらかじめ認識しているものの間のズレでおこりやすいです。
卍はナチスのマークでなくて、お寺の記号だったのに、なんて。

息子の大学で、軽い気持ちでデザインに「意味」のある記号を使って「かわいいと思いました♡」
といった女子学生を、「なんでそこまで」というくらい教授が叱り飛ばして半泣きにさせたそうな。
先生、叱りすぎかもしれないけど、こういう「認識のズレ」がとんでもない事に発展する時代は
シンボルの扱いには気をつけておかないと、という事なんでしょう。

こちらではエロ無しの明るい←厳密に言うとこれも結構、認識のズレで、赤塚漫画が全く道徳的に健全であるとは私は思いませんが…
子供が見るギャグアニメ、としか思ってなかった場合に
勝手に内輪の記号解釈を押しつけられて、そこに何の説明もない。そこが、違和感を生む原因なんでしょう。


でもね、少女同士はよくやるのよね。「あたしたちだけの秘密」の会話。
少女の世界ってのは、詩的でもあり、秘密結社的なんですよね。

どこまでが感覚で、どこまでが説明なのか
全ての人を同一空間に押し込めるのは、そりゃちょっと難しい。
ならば、どうせ理解なんかされないからと、同族言語を作り続けるのか。

これ、今のアメリカとかヨーロッパではどうなんだろう。




自分がリツイートするの時は充分に気をつけようと思います。

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年末にパァーッと処分しちゃった話

2016年01月20日 | サブカル・同人誌関係
いくらなんでも寒すぎて。
猫があったかい所を求めて移動するも、どこも寒いので「しまいにゃキレるわ」と飼い主の足を噛みます…

ちょっと本日は個人的なモノでもうしわけない。
ですので「テメエの語りや情報なんていらないから重要情報クレ」って人はお帰り下さい(´∀`*)ノシ バイバイ
ああなんて「世間」「空気」をスルーするのは楽なことであろうよ。


「REBORN美神のカルテ」終わったあたりに、オリジナルで描いていた方の続きが描きたくて
「スラック・ライン」で1話と2話とで、70枚?75枚かくらい描いて、同人誌でコミティア出てましたが
その後、どうしてもお金が欲しいのもあり、エージェントさん探したり仕事探してやったりしつつ…を
ダラダラしているうちに、2年くらいあっという間に過ぎました。

それがよ!どどどどうしたら、になっちまってんだぜよ。

ところで、その「スラック・ライン」は、当初
スラッカー・アートというのを視野に入れていまして、
まだ当時は、アール・ブリュットの活動はあまり知られておらず、ゆえに海外での定義をそのまま使っていたのです。


スラッカー・アートというのは、美術教育を受けていないアーティストによるものですが、
2012年のネームとか考えてた当時、海外では今の日本のように障害者アートに限定したものではなく、
黒人、貧困、ヤンキーの壁ラクガキアートであるグラフィティからオタクアートまで含めた、けっこう自由なものでした。

ところが、ここ2年ほどで、アールブリュットの団体ができまして、
私もそれに加入はして活動も視野には入れていたのですけど、
どうも、ここに来て、そもそもシュールやダダやポップ系が好きな私とは
ソリが合わなくなってまいりました。
ここの「なぜ」を書くと長くなりますが、「もともとオタク気質」だからとしか言いようがないです…。


といいますのは、ここ2年で日本の場合、厚生労働省と地方自治体による
「美術による障害者支援の慈善的社会活動」
こそが、アールブリュットである、と定義が変わってしまったのです。
それ自体はすばらしいことと思います。
ぜひ、おやりになっていただきいたいです。

でも、「定義が先に来る」というのは、今日ではけっこう痛いのです。
そうすると、まず定義による誤解を先に呼んでしまうではないですか。
困る。


作品は内容によって評価されるべきで、経歴、学歴、略歴や肩書きで評価されるべきではないのでは…


と、私は思っているので、

「偉いと決められた人が描いたからこそ高価」とか、作品を見ないうちに
「これは有名な○○先生の作品だから、無条件ですばらしい」
とする風潮にはノーと言いたかった。


ただ、社会活動であり、障害者のアートであるから無条件で評価しなければ「お前それでも人間か」
ってなりますと、これはちょっと違ってきます。設定にも関わっちゃうし。


それは芸術なのか、単なる社会事業としての「作業」なのか。
実際に取材した作品の中には、優れた物も多かったのですが、
正直「これは作業であって表現としての言葉は持ち得ない所に至ってしまってるのでは」というのもあったことは事実です。
それは「謎」でなくてはならない。美とは何か。美とは謎である、と美術史の教授の受け売りっすけど
「けしからん」と言われても、そう感じたものもあったのは、感性なので否定できない。
評価とは、そういうものだし、それでいいのだと思うのです。


でも、それでも「障害ある人が頑張って描いたものを、そんな風に言うのは酷い」
「前提として全て評価すべき」ということになりますと
それは
「権威ある画家様が描いて下さったものなのに、評価しないお前はバカだ」
という、「裸の王様」と同じになるではないですか。

そもそも全ての絵は無評価で楽しむもので、そのままであるべき…ならば
なんで18禁は本人がどんなにアートと言っても規制、逮捕されてしまうのよ。
都合のいい部分だけでキレイゴトを語るのなら、裏に福祉政策の税金目当てを勘ぐられても
多少は仕方無い所ではないのか、と思うんですよ。


ともかく、アール・ブリュットという言葉は、当初私が目指していた所とは、違う所で定着しはじめているわけで
このまま続けるのは、困難か、描き直すかのどちらかになるなあ、という所でした。
そんなに全面に出してる素材ではないので、外すパーツでもいいのですけど
そうするとちょっと他もいじりたくなるのでした。


それで、まあどうせこんな作品、売れるなんてことは理論的にあり得ないしなあ
最初から趣味だし、というわけで
年末の片付けついでに、全て在庫を処分、捨ててしまいました。
まあ、ちょっとスッキリいたしました。
時と場合とはこのことよ。
というか本は湿度の関係などで、保存が難しいのも難点。


もうちよっと短編にまとめて、アール。ブリュットの文句は使わないでとか
オチまでまとめたい気はあります。
まだ流動的な点もあり、動きもあるかもしれないので、
もうちょっとなんとかしてみたいなと希望は捨てられないところでもあります。
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~遠近法の喪失~<その4>まとめ

2016年01月18日 | サブカル・同人誌関係
断片化、というのは多分、「特定または想定される相手に対して投げかける言葉」
「訴えかけ」ではなくて、自分の感覚をダラダラ呟くようなものではないかと思います。

これを、ウェブの発達による時代的変化であると捉えた本からヒントを得て考えてみたので、
若い世代批判に見えなくもない部分もあったかと思います。
世代にも時代にも関わらず、断片化は存在したのではないか、
という意味で、20世紀の美術からは、ダダやシュールレアリズムを
それ以前では象徴派を挙げておきたいと思います。

17世紀のデカルトの啓蒙思想以前にも、そういうものはあったのか?
というと、ちょっとわかりかねます。
もしかしたら、平安時代の日本は、この断片化とか遠近法とは無関係の所にあったかもしれません。

限られた場所であった同人誌は、今や巨大な産業、市場になりました。
かつて、80年代後半というのは、商業コミックというのは同人誌とは切り離されていまして、
先輩の先生方には、「同人誌なんかと一緒にしないでほしい」「同人誌上がりは来ないでほしい」
という方もいらっしゃいました。

感覚的である事がどこまでも許される世界というのは
「たのしい」「しんどい」「萌え~」「笑える」といった、例えばLINEの顔文字スタンプの羅列のようなものです。
一般的にそれを公開する場合、「理解」を求めるならば、どういった人物が、なぜどのようにしてそうなったか
という説明、過程が必要でした。
でも、顔文字スタンプ使用している同士が、言わなくてもわかる関係なら、そういうものは省略し、感覚のみでも可になる
というわけです。
古典落語の世界で、起承転結無しに「つかれたー」「うふふ」なんてのをやった所で意味がわからないでしょうが
軽いノリで通じ合ってる友達に対して「今日は朝5時に起きたけど今からの予定と目的はこう…」と説明されたらどうか。
という所かもしれません。

人間関係が希薄になったというよりは、「情報が多すぎるのにいちいち聞く耳なくなった」のかもしれません。
もしかしたら、この変化はマンガを長編から、4コマや短編メインに向かわせるかもしれないなとも思います。

女性向けの場合は、感覚的である事はより重要になります。
というと最近はジェンダーの話が来てしまい、経済社会問題にすぐこじれてややこしいのですけど
とりあえず、ここでマイノリティ論議はしないので、あくまで通念的、一般論としてです。揚げ足取り禁止。

感覚的であるというのは、いわば詩のような世界です。



そう考えると、別にストーリーなんか無くて、
看板または合札となるキャラクター(一目でどういうタイプか説明しなくてもいい人物。眼鏡鬼畜攻などで記号化される)
同士が、そこそこの理由をつけてイチャイチャ、ラブラブで終了してもそれは成立する、
という所だと思います。

(余談ですが、「学園ハンサム」はこれを実に逆説的にパロディにしていて面白かったです)

必ずしも商業的でなくてもよい、という場で誕生した断片的なものが、
ブルジョワジーへの疑問を呈していた19世紀の詩や
帝国主義アンチで場を作ったダダとシュールの手法、
アメリカ資本主義から落ちこぼれたストリート出身の画家と妙に共通した特性を持つのは
非常に興味深いところであります。

世の中がどう変化して、そこで自分はどういう者であるのか
これも1つの遠近法ではあります。

その上であらためて、自分は何を選んでいくのか。
こういう事は、実はもう考える必用の無い世界になっているのかもしれません。

その世界では、悩む人、迷う人は、何故かという後ろ盾を失い、ただ迷い悩むキャラに他ならないのであり
それゆえに、人々はまた悩める者に対して、別の記号を付与して安心する。
「○○障害」「DQN」「廚二病」
必要なのは仕分けの為の定義であって、もはや定義の為、ジャンルの為、キャラの為に存在するようになるかもしれません。

そして、「それは人としてどうなのか」などという疑問を訴えれば、「うざい奴」
という定義がなされるだけ、なのでしょうね。
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~遠近法の喪失~<その3>陰影の喪失

2016年01月16日 | サブカル・同人誌関係
遠近法には、透視図法、空気遠近法の他にもう1つ、「明暗陰影法」というのがあります。

物は存在すれば影ができますので、自分の近くの物や人物に影をつけると、
より立体感が出るというものです。
漫画においては、4コマや1コマギャグにはデフォルメと記号化の手法を選択される事が多いです。
意図的にそれを外すのも、目的次第では面白いのでルールではないですが
一方、リアルな世界観を大事にする劇画系の漫画にはシャドウとハイライトは欠かせません。


絵的に見た場合のそのリアリズム、立体感というのは、おのずその手法を選択しているのだと思います。
その手法を意図的にすり替えてあげると、デペイズマンであり、二次創作パロディになります。
たとえば、デスノートを赤塚マンガの絵で描くとか…。誰かやってみるざんす!訴えられる恐怖と戦うざんす!

まあ、シリアスなストーリーというのは、よりリアルに世界観と主人公の心理を描き出すから面白いのですし、
逆に影ある人生だが周囲と関わり、精神的に成長するとかではない「主人公の影」とか別にいらんマンガもある。



小田切博さんの「キャラクターとは何か」にはこんな風にあります。 ※

小説家のフォースターは、ディケンズの小説の登場人物のような類型化された「キャラクター」を
1927年に出版された「小説の諸相」(中野康司訳、みすず書房、1994年)の中で
「平面的人物(フラット・キャラクター)」と呼び、
「内面」を持ち劇中で性格付け自体が変化していくような登場人物(ラウンド・キャラクター)」と区別している。

日本のマンガのキャラクターでいうなら「ドラえもん」のドラえもんやのび太は「フラットキャラクター」、
「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈は典型的な「ラウンドキャラクター」ということになる。



「っていうか別に熱血主人公に同調して一緒にトップ目指して戦わなくてもいいので、
なんかマッタリ楽しみながら、ダラダラ友人と過ごしていたい」
というのも、その世代が素直にそう感じたならば
「なぜラウンドに生きないんだ、親友なら心から打ち解けあって熱い涙と鼻水で海に向かって青春を叫ぶべきだ」
とは言えませんよ。

岩波ブックレットの「キャラ化する/される子どもたち」という同人誌並みに薄い本があります。
が、この土井隆義さんの著書は、現代におけるコミュニケーションの変容と
人間関係のフラット化、キャラ化について、ベージ数の割にかなり充実した良書です。
これと、さきほどの小田切さんの本のキャラクターコンテンツ市場も考えますと

人もキャラクターも、おそらくどこかバーチャルで、より記号化され、
わかりやすく値札をつけているが、共に心の成長まで見守る、
相手との距離や位相を意識し、切磋琢磨して努力し合う、影は心の影である、みたいなのも喪失して
単に「面白いか面白くないか」「役立つか役に立たないか」
あたりに人間関係が帰結していってるのかなと思います。

「この人物はいつも明るくふるまっている、けれど時々暗い表情になる」

というキャラがいた場合「どうしてだろう、何かあったんだろうか、何かが起きるんだ」
これが、ラウンドで陰影がある状態です。
フラットになると同じキャラクターに対して
「ふーん、そーなんだ、あ、二重人格とかかな?」
となります。

人間関係の希薄さや、想像力の欠如こそが陰影を消し
記号化された人間像、キャラクター像がまず商業的である事優先に存在するようになっている


…ってことなんでしょうかねえ…。



私の場合は「絵柄は作者に選択されるべくして選択されている」
という考え方をしてます。

もし、フラットである事を自ら意図し、計算して描いただのではなくて
「なんとなくめんどかった」でも、それはそれで言葉ではあり得る。

「相手に不親切」ではあるでしょうけど。


遠近法、背景の無い漫画
それは同時に、社会によって記号化、フラット化されていくものの象徴でもあるのかもしれません。
情報の洪水の中で、何を簡略化し、何を拾って表現とするのか、でしょう。
その全てにおいて、消費されなければ無意味なものであるのか、
それとも市場の外側にも、表現といっていいものが存在して
それはそれで価値があるのか、

そこに今すぐ私が結論づける事はできないので
ただ信じる所は信じて、やってってるだけですけどね。


私としては、あらゆる表現とその手法はありのまま、存在してくれたが面白いと思います。
ちなみに「ワンパンマン」は、描き直さない方が面白かったと思う方です。

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~遠近法の喪失~<その2>情報過多が背景を消す

2016年01月15日 | サブカル・同人誌関係
背景をきっちりしたパース技法で描いてない漫画はダメなのか?
前回のまとめは「一般向けでない場ではそれもアリで、
遠近法とは自分の意思で、
自分または登場人物がどこにいて、何を見ているのかを決め、他者に説明するもの」
というところでした。

では「何がなぜダメなのか」でなくて、本日はあえて、命題を疑うというタブーをやります。
「ダメとは何か」です。これって算数の文章題で「太郎さんはなぜ200円しか持ってないのか」って聞くみたいなのですが
人の尊厳の為にも、我々は一度も「ダメがダメである所以」を疑わないのはおかしい。そして面白くない。

その上で再び、本日は「背景が消失する謎」を見ていきたいです。


脳科学は専門ではないので、「違う」って方は教えて下さいね、と前置きしつつ


「意識のしくみを科学する」の著者である認知科学者、匠英一さんによりますと ※ 

うつ病患者の脳は、前頭葉の一部に活動が停止している部分が見られ、
特に不活性となっていたのは自分の意思で行動したり、その行動に伴って「はたらきかけ」の感覚を呼び起こしたりする部分で
外界で起こっている事に注意を向けたりする部分であった


と、あります。
これは非常に興味深いです。前頭葉の働きが鈍いと「遠近法」はめんどいのよ、めんどい。

そう、ぶっちゃけめんどいものはめんどいのです!
そこを「頑張って努力して技術を学ばないとダメダメダメ~」とか言うけど、
本当にめっちゃしんどい時は、デスノートの描き込まれた背景見るより、背景無し4コマの方が楽ってくらいよ。

つまり、前頭葉は日々、外界で起きた事、入ってきた情報を処理し続けている。
いろいろあるよね。テレビ、新聞、雑誌…高度に情報化した不幸。グローバリズム。
しかも、ウェブ2.0以降、ツイッターだのフェィスブックだので書きまくられる言いたい事の洪水、思想理想の洪水。
ネットなんて、正しいかどうかわかんない人の言う事のメガ盛りですから。


とにかく、多すぎる情報について
「自分の立ち位置はこれで、こう見えた…」というのを言おうとするや
「それは違う」「それでいいの?」「私はこうだけど」「勝手に決めんな」「お前偉そうに、何様だ」
なんての中にいれば「え…あ…すいませんクズで。違っててすいません」とか
必殺定冠詞「個人的には」を使うとかになりますよ。

多すぎる情報はストレスだし、情報が過多に入ってくるような真面目で賢い人、
相違、立場の違い等にストレスを感じやすい人ほど前頭葉が疲れる。

前回「断片化」の例として挙げたジョアン・ミロは鬱病を患っていました。
そして、断片化というとこれもかと思ったジャン・ミッシェル・バスキア



彼は鬱とドラッグで帰らぬ人となりました。

だからと言って、私は「社会的にぶっ壊れた鬱患者がやるのが現代アート」
みたいな事を安易に言いたくないです。
なんか、アール・ブリュットで
「社会的にはクズで役立たずでも絵を描いて仕事してるので社会的には役に立ってます」みたいな
お前はどこまでクソ共産主義者なんだ、というようなお役人見たのですが
そんな人に芸術がわかってたまるかとも。思ったよ。
ただ、哀しい正論だけがまかり通り、我々にもはや可能性は無いのだと
ちょっとボードリヤールっぽく絶望的に言うと、今ではアートも既に経済の支配下ですもんね。
チクショー。


でも、どうも前頭葉の働きが鈍化すると、もう外界の情報とか自分の意思がーとかどうもめんどくなって
断片化したり、遠近法が消えて自己世界の吐露になり、きちんとした起承転結を取る説明もそこで消える
というのは、間違い無いと思います。


遠近法には、パース以外に「空気遠近法」というのがありまして
漫画の背景は、わざときっちり「描かない」部分もあるのです。

人は案外、見えてそうで見えてないので、見えてない所はそれなりに描かない方がわかりやすい。
遠くの景色は空気で霞むので、しっかり描くと逆にうるさいのです。
これはある意味、意図的に情報を減らしていると言っていい技法だと思います。

情報を整理し、減らす事を意図的にやるのはデザインのジャンル。
パンフの背景はあえて白、あえて空間を意識するとか。
この「間」とかシンプルなものにするのは、世の中の空気によって左右はされるのでしょうね。


さてもう1つ、「なぜダメ」ではなく「ダメとは何か」
これを、バカバカしくも考えようと思います。優等生は考えるなよ!車輪の下敷きになるぞ。


アートとは、「一般常識がダメ扱いして疑わないものに、容赦なく疑問を投げかけ、抵抗する」
そういう特性を持つものだと私は思います。
芸術だけが、長い歴史を伴って「ダメとは何だ」「何故ダメなんだ」を問い続けてきたのではないか…と。
それをただのバカ貧民の暇つぶしと見るか、
近代文明は偏った価値観の不完全なものではあるので、何らかの可能性を探れないか
と見るかどうか。
その可能性や、違う価値観を見せる事は、民主主義を手に入れた今日、当然ながら非エリートである我々にも
もちろんサブカルチャーにも可能なはずです。



遠近法の喪失が、20世紀の絵画において特に顕著なのは何故なのか。
ミロにおける背景の喪失、デュシャンのレディメイド、
その裏に、我々には今、言いたくてもなかなか堂々と言えない、社会的閉塞感、近代文明と進化、啓蒙思想への疑問と怒り
そういうものがありました。
我々はただ、「ダメ」って言う人達に、非力さを感じて言い返せないだけなのです。


本日のまとめは

「情報過多で脳の前頭葉が疲れると、背景なんて描くのめんどくせえってなって消える」
「その前頭葉はあんまりにも情報過多になると疲れる」

情報過多の今日では、対象になる相手次第で背景の意図的ミニマル化、というのもアリには
なってくるんではないかなと思います。
自由な選択肢が増えるのであれば、それはけしてダメではありませんよね。



私、漫画の背景について考える中で
「藤子不二雄先生はやはりスゴい」と思ってしまいました。

うむ、スゴい。
------------
※参考
「意識のしくみを科学する」匠英一 PHP文庫 ISBN4-569-57912-4


「集合知とは何か ネット時代の『知』のゆくえ」西垣通 中公新書
「『空気』と『世間』」鴻上尚史 中公新書
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~遠近法の喪失~<その1>背景無し漫画は本当にダメなのか?

2016年01月13日 | サブカル・同人誌関係
昨年11月頃でしたか、ある漫画講師の先生が、顔だけ羅列で背景の無い漫画は「ダメ」と言ったとかで
ツイッターでまわっておりました。
この「リアルな背景」につきものなのが、パース。「遠近法」です。

今回は、先に挙げました幻冬舎新書「子供のまま中年化する若者たち」鍋田恭孝さんの指摘
1980年代にはあった、子供の絵から、背景が消失して断片化した事にヒントを得まして、
美術史、社会学、脳科学、心理学など幅広く取り入れながら

「遠近法とは何か」
「背景、遠近法の喪失とコミュニケーション」
そして「背景無しの漫画は本当にダメなのか?」「ではなぜダメなのか」

あたりを探っててこうという試みであります。


さて、上記の、「断片化」というのはちょっとわかりにくいと思います。
が、著書の画像をそのまま上げるのは違法ですので、参考にしつつ私が小学生になったつもりで描きました。
ここでは説明ですのでそれぞれ代表的にこうかな、というものをあげておきますが、
著書には1981年の小学6年男子の絵2枚、1997年6年男子の絵2枚をあげてあります。

まず、「遠近法のある絵」とはこういうものです。
「人と木と家を描きなさい」と言った時


「家から犬を追いかけて飛び出してきた僕、家の前には木があって、ようしゴールはそこだぞ、
遠くには山があって変電所が見えてるんだ…」というような、周囲と自分を関連づける物語が存在する。

次に、「断片化」というのはこういうかんじです。



「家」「人」「木」は記号が浮かんでいて、それぞれが無関係。バラバラです。
そこにつながり、意味、物語はありません。

でも、これって…と、ふと思い出したものがありますので、
以下は美術史の中から「遠近法」と「断片化」について見ていきましょう。


まず、断片化であげたいのが、20世紀スペインの画家、ミロです。

すんません、ネットからの拝借ですが、これを上げていた人もそうお書きになっていたので…。
ミロはシュールレアリストである詩人のツァラやブルトンとも交流がありました。
そんな彼ですが、最初っからこんな絵ではありませんでした。
もともとはこんな絵も…。遠近法を示すのには丁度いいかと思います。




では、遠近法をきちんと示すものは…といいますと、だいたい遠近法のテキストには、
「最後の晩餐」でキリストに消失点が集まるとか、
「そもそも遠近法とは、ルネサンス期に建築家のブルネレスキ、アルベルティにより考案され、
絵画においてはダ・ヴィンチが~」とか書いてあると思います。
が、ここでは「物語性」を説明するのに、日本人に馴染み薄い聖書を持ち出すよりは
一目瞭然のものがありますので、19世紀英国の画家、ウィリアム・パウエル・フリスの絵をあげます。



この絵は「どんな運命になろうと末永く」というタイトル。
花嫁と花婿が新婚旅行に出かけるところ。馬車が待ち、通行人が見守る。
米とスリッパが慣例として巻かれ、バルコニーから見送る貴婦人、
野次馬、手紙を出しにいく途中の庶民の娘、整理する警官、道の端には最下層の貧民。

1枚の絵を読み取るだけで、2時間分の映画ストーリーが出来上がりそう。
そして、日本人はだいたいこういうイラスト的「説明絵」「物語絵」は大好きです。
逆に、ミロだのポロックだのは「ちょっと私には何描いてあるかわからない」と言い、不人気です。


さて、話を戻しまして。
なんでミロが、最初は遠近のあるものを描いていたのに、断片化したのか?
ここはもう少し調べたいのですけど、やっぱり詩人のツァラと出会った事は大きいのではと思います。
トリスタン・ツァラというと、その詩法において、
「新聞記事を切り抜いて、バラバラにして袋に入れ、ランダムに選んで羅列」するとできるという、
ダダイズム的詩法、というのをやった人ですから。
ダダとシュールは、現実を超えてより感覚的であろうとした人達。
その時代背景に、ファシズムと、イデオロギーとプロパガンダによる「意味」の意図的利用
とかもあったりします。


ルネサンス時期、人類が最初にグローバル化を体験する事になるその時代に
より多くの人に、よりリアルに、画家はその人は誰で、どこにいて、まさに今何が起きているのかを伝える必要があった。
つまり、それは絵を見ている者と、描かれる対象の立ち位置を、
描く側である画家が意思や理由を持って決定する
というものです。

遠近法における消失点、アイレベルとは
漫画、映画やドラマにおけるカメラ位置にあたります。
視点はどこかを作者が決める事で、位置関係や物の大きさが明確になります。
漫画や映画なんてものは、まさにその視点を、客観的に世界を見ている我々にしたり、
主人公の視点に移したりしながら進めていくものだと思います。

つまり! 遠近法とは、まず個人の「感覚」はおいといて、←私が寂しいだの恋してるだのはどーでもいいので
どなたがいつ、どこにいるかの、位置関係を示すものです。←今とりまどこにいるのか教えろよと

しかもそれは「単なる位置関係の配置」になるのではなく、
人はその位置を見る事で、その状況下でのドラマや
人間関係上下まで見えてしまうかもしれない。

よって、「より多くの人に、何がどうなってるのかを説明したい場合」には、
遠近法は表現に不可欠な要素となると思います。



これに対して。
では逆に「より多くの人に説明などするものなどない」とか
「言わなくてもわかってもらえる人にだけ見せる」だとか
「何が正しいか意味ある事をしっかりと伝える事で、人は銃を手にして敵を殺せと言うようになる」
「状況説明や舞台がどうのという以前に、私個人は感覚を持って存在している」
「いや、感想とかでなくてただ描きたいだけなんで」

…だったらどうなるの、という所。

漫画学校の講師というのは、「プロとして一般読者を対象に、漫画技術でメシを食う人を育てる」のでしょう。
そんな所で「好き勝手に感覚次第で描いてもいいのですよ」とは言わんよそら。

ただし、「全ての漫画が」「全ての作品が」とキャパ広げるならば、ちょっと待ってちょと待てお兄さん。
「かなり限られた、説明せずとも理解される空間で、わかる人同士が金目的も抜きにして、囁き合うように交わす感覚メインの表現」
である場合は、「必ず遠近法を取らねばならない」というものでもないのかもしれない。

「リアルな遠近法の写実的背景が必要であるかどうかは、絵画の表現目的によって変化する」

これが私の思うところです。
ただし、ミロやカンディンスキーの絵画を本当に楽しむならば、
客観的に「これは何を描いた絵でどういう説明がつくんですか?」と聞かない事です。
絵の中、できれば作者の感覚の中に「波長を合わせて」飛び込んで、共に意味の無い世界で感覚に遊ぶ事です。

そんなマジキチな世界はゴメンなので…という人もいるでしょう。
けれど、そんなマジキチなものも芸術として存在します。
もし、どこぞに
「そんな社会的に何の役にも立たない、意味も無いムダな絵は必要無い」
とでも言う方がいらっしゃったなら、
「昔、あなたと同じ事を叫んだ独裁者がドイツにいました」と言ってあげなさい。

そ、ダメってわけではなく、感覚的か合理的か
シンボルか、リアルか
どういうものを選択するかは、自分で自分にオトシマエつけられていたらそれでいいのでは。
もちろん、それがどうにもイヤならパースを学んで描くしかないけど。

それは個々で選んでもよいのでは。

この話、引き続き関係性の変化と合わせて
もう少し深めてまいりたいと思います。
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まんがの「裏技」テクニックと横着の歴史

2015年10月01日 | サブカル・同人誌関係
漫画、といってもとにかく幅は広いのがこの世界。
4コマ背景無しからデスノートやAKIRAのように全コマ背景まで描き込んでも良し
それはそれで、自分の目的が果たされればそれでよいわけです。

漫画をやりたい人、
…まあ、プロとして商業的な活動をするしないに関わらず、ぜひ陥っていただきたくない状態、というのはあります。
それは、とても頑張っている方ほど陥りやすい罠なんですが、「視野が狭くなってしまう」事です。
特にスキルの向上に関して。

それは、悪しき学校教育、偏差値教育のミスと偏重からはじまります。
まず「努力しなくてはいけない」と思い込む事。努力はしなきゃいけない場合はありますよ当然。しないよりしたがいい。
ここで言うのは「全ての人が同じ努力をしなければならない」と思う事。これは間違いです。
漫画は、個々の才能の世界です。努力してできる人、努力しなくてもできる人、努力なんかしないで他の方法を考える人、
真面目にコツコツ努力していく人、色々いて当たり前です。要するに面白いとか、要するに上手くやれてりゃそれでもよし。
仕事にするかしないかは、その時の経済状態やメンタルや人生、編集や読者が選ぶかどうか程度の問題です。

ただし、自分でもし「ああ、下手だな、こういうのが描きたいのに」と思ったら
そこに到達するまでは努力しなきゃいけないかも。
誰かより格上だの格下だの、学校のあの「努力して成績を上げる、やればできる」を思い込みすぎると
鬱になってつぶれる事もありますよ。
それより、漫画というのは結局「締切までにそこそこの品質を維持し、自分も納得できる状態で作品を仕上げる」闘いだと思うので
「そこそこに横着もすること」
ズルも考えておくべきなんでは。と、思います。

今日は、そんな「努力家」と「テクニック的裏技、横着」の歴史です。

その昔、スクリーントーンは高価でした。柄もアミくらいしか出ておらず。
昔の漫画は今ならトーンという部分をカケアミで処理していたり、点描でやっていたので
当然、アシスタントはカケアミが上手く描けないとダメでした。
カケアミとは、美術で言うハッチングの漫画用語で、一定間隔の線の掛け合わせで空間を埋めていくものです。
ところが、しばらくして「この人やたらカケアミ上手い」と思ったら、そういうスクリーントーンが出たとかで。
同人誌文化が発達すると共に、トーンの種類も増えて安くなっていき、
「面倒な部分はトーン」でもう、なんとかできるようになったもんです。
今では、デジタルトーンになり、トーンを自作したりタダで使い放題だったり
こういう進化はいい横着の進化だと思います。合理的というのですよ。

背景もそうで、昔背景を描く時
パースの2点消失、3点消失の消失点を取るのに、紙をマスキングテープで貼付けて、延長して線を引いて
消失点を取ったりしてました。
ところが意外にも…全コマにこれをやっているわけではなかったのですよ。
とある漫画家さんが「消失点なんて目の錯覚で補正されるから」と
原稿用紙の端の方に「嘘の消失点」を取っても、不自然に思われなければいいとか
上から俯瞰の場合は長方形のテーブルを描いてもいいとか
なんかそういう「横着」を知りました。
それから、ツールズが発売していた「パース定規」というかなり便利なものや
今は不自然にならない程度に気をつけつつコミスタやCSPの定規も使ってますけど
ここで肝心なのは、「定規を信じる」とか「努力してパースを正確に」ではなくて

1.日頃から背景スケッチもやっとくか、よく観察←イザという時ごまかし嘘パースが取れるように
2.変でないならそれもアリにする
3.それでもムリなら何か別の方法に


です。
「NANA」は場所によって写真をコピーしたものを小物や背景に使ってましたが
都会の奇妙さとコラージュの持つ奇妙さが妙にマッチして、逆にいい雰囲気を作っています。
ああ、こういうのをやれるのが漫画、ポップだよなあと感心したもんでした。

ベタのお話。
これ、今から20年ちょっと前には
「ベタは必ず黒い墨汁でやる」でした。安かったというのとかあるのかな。ただ乾きが遅い。
同人誌世代は上の24年組世代に反発してベタをマーカーやマジックで塗ったりしてまして
何故か上の世代にそれはダメ、って方もいらっしゃいました。
理由は何だったか色々あったと思うけど忘れた。
マーカーに並んでダメ扱いされたのが、ロットリングとか細いラインペンです。万年筆もダメ。
これは当時ロットリングがお高い商品の割にぶっこわれる代物だった事と
ラインペンの質も悪くて、印刷では薄墨になりやすかったからもありますが
文具メーカーの努力によって随分良くなりました。
コピックライナーや、その後万年筆タイプのラインペンも出たり。

この業界
「ツールの進歩によって改善されるだろうものを真剣に努力してはいけない」のかもしれませんね。

それより「後で修正しようと思っていたのにすっかり忘れてそのまま入稿してしまった」
努力のするしない、描ける描けない問題より、こっちの方が怖い。

自分で気付かず後で気付いて硬直
自分で気付かんのに読者さんや隣サークルさんが気付いて「うぎゃひゃあああああ!」
印刷所が気付いて慌てて修正←セーフ
担当すら気付かなかったのにクライアントは気付いた←な、なんという…オイ

色々あります。
横着するのは合理的である事を目指すだけであって
その分、集中力、集約力ってのが必要になってくるんでしょう。
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全くの初心者におけるCSPの落とし穴

2015年07月20日 | サブカル・同人誌関係
この夏、息子がクリップスタジオペイントに初トライ。
トライな夏期講習ドンミスイッ。講師は私の個人指導。

は、いいのですが、もう初日から文句タラタラです。
息子はどちらかというと、3D作画畑の者。
MayaとCADの世界の民だもんね。イラストはイラストレーターとフォトショップ。畑が違う。

そうつまり、ヤツは「漫画」を描いた事が無い。
CSP以前の、コミックスタジオを知らない…は、おろか
ようするに、紙媒体で印刷所を通す漫画の規定を知らないのです。

漫画を描こうと思った時、はじめてそこに通じるコトバってあって
常識、知っててあたりまえと思っていた事も、違う業界から見たら…
知らない方が当たり前なんでは。

できないー、できないーとかちょっと苦労してました。

あのな…
最初からノウハウだけ覚えてツール買ったらなんでもできる魔法なんて、
ノウハウとツール無くなった時消えるんだよ。
初心者なのに、そんなに最初から何でもスラスラできなきゃ嫌か?
いいじゃないの失敗しても。ぼちぼちで。


ではいったいどこらへんが「高いハードル」なのか、具体的にきいてみました。

☆「輪郭の線を描くツールがたくさんあるんだけど、どれを使ってよいかわからない。
おまけにそれぞれの線の太さを調整できるようになってて、どの太さがよいのかわからない」

ほほう。まあそんなもの目指す絵柄にもよるけど
初心者は線に強弱出にくいペンの方が安定していいんじゃないの?
ペンでなくてマジックがあるじゃろ。カリグラフィーペンは素人にはキツいかも。
「やわらかくなるほど難しい」と覚えておいて。
太さはご自由に…普通は外側線太くて、細かい所は細い。逆に細かい所も太い線で描くと
画期的だけどうるさそう。


☆「レイヤーでのパターン塗りがないぞ!どこー?」

えーとこれがCSP


で、これがフォトショ


ほんまや無いわ。

これはね、レイヤーパターン塗りの操作でやらず、
「素材」のパレットを出して、そこでスクリーントーンの種類の中にパターンが入ってるので
そこから塗るというか、貼りなさいという事ですね。
CSPのレイヤー調整は確かにややショボいですが。他にする事あるからこんなものです。


その他、ビミョウにフォトショでできる事ができなかったり、
逆にもうコマ割してある原稿用紙を選択できたり
もうフキダシとか作ってあったり
さすがにセリフまではご用意してないかと思えば「ドカーン」とかのオノマトペくらいはある。

ただ、やっぱり1枚も紙での漫画を描いたことが無い人には、
漫画原稿用紙をキャンバス作成で選択した時に出るいろんな用語がね。
「ノンブルって何?」「隠しノンブルて何…」
うわっ、どうしよう、知らない言葉ばかりだ…できるのか?
ってなる…わなそりゃ。

で、まとめですけど

あくまで、CSPの漫画の作画機能というのは、コミスタを終了するので統合したというか
コミスタないしはアナログで、イラストではなくて「漫画」を描いていた人のものではないか
と、思うのです。

そういうのは、今は漫画を描いて発表するには単なる1手段にすぎませんし。
印刷しなくてもウェブで公開すればいいじゃん、と思ってる人は
四苦八苦してその新鮮なネタが腐敗し、「もういいや、そこまで覚えなきゃいけないなら」
となる以前に、「ムリしてそれらのツールを使わなくてもよい」と楽にしたがよいのでは。
まずはイラスト用のキャンバスを作って、コマを割りたいなら線のツールで引けば。


失敗したってドンマイ、わかる部分から楽しく触って
気楽に~くらいでいいのではと思います。
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フローとかゾーンとかいう状態のために

2013年06月08日 | サブカル・同人誌関係
フローとかゾーンというのがあります。

フロー理論はゲームで言うと「ハマる」ってやつで、
スキルとチャレンジ精神のバランスの取れた状態らしいです。

「人は同じことを、同じ水準で長時間行うことを、楽しむことはできない」ようですね。
「フロー体験 喜びの現象学」 チクセントミハイ著。

昨日、ヴィジュアル系2012総括のブログを読んでました。
実はもうヴィジュアル系というのはとっくに古くて、新しいものは出なくて、10年前の焼き直しにすぎず
メイクしてそれっぽいものをやればよいんだとばかり「系」という言葉でくくり、
前にならえなものをやった時点で、新しく開拓していた時代とは違う、面白いものは出ないと書かれてました。
シドとかけっこう若手が出たんですけど、それでも、それはラルクを超えるものでなく
言うなれば、「ラルク風のもの」という「保守的」なものではないかと。

ゴールデン・ボンバーは正当派ではないとか、エアギターなんてナメてんのかと言われつつ、支持されたのは
彼等だけが、先代の前にならえをやらなかった、だから「フロー状態」になれたのだという見解でございました。

これはそう思います。
じゃあ日本のJ-POPのパクリであるK-POPをなんで聴くのか、と言われますと
日本にまだ国産が無かった時、ブリティッシュハードロックやアメリカLAを見て、「こんなんあるんだ」とチャレンジした
それが、XJAPANあたりの世代でしたが
それと同じで、韓国に無かったものを自分等でやろう、という所には「チャレンジ精神」「フロンティア精神」があるのです。
今、K-POPもちょっと「保守」になりかかっております。
売れたグループの方程式を真似して、雨後のタケノコのように出してこられたところでなあ、と。

それがチャレンジなのか、保守なのかくらいは。わかりますよね。

フローはムーブメントを作り出します。
1人のフローはやがて大きなフローになり、大洪水になります。
もちろん、それが目的ではなくても、「ハマるものがある」というのはなんて楽しいことか。


ヴィジュアル系やアイドルだけではなく、何でも言える事ですが。

長くやってると、いややればやるほど、退屈してくるのは確かです。
ところが、割とこの国は「継続は力なり」ってのでまるめてしまう。
確かに、継続は力ですが、
それは例えば、サッカーだとすると、一生サッカーをやり続ける、サッカーに関わる事をやるという、大きな事であって
「一生リフティング練習しかしない」という継続ではないわけです。

という事でそこを無理矢理、私の場合は「創作活動」にもっていきますよ。
何かしらなんでもいいんでマンガを描くとか。

そうする場合、楽しくあり続けるにはどうしたらいいか。



そこで、フローのためにこう考える事にしました。

「外に出るのを恐れない」「スキルに見合うチャレンジ」
自分で大きな枠を捉えておき、その枠内ではできる限りチャレンジをする。

つまり、「枠」が広ければ広いほど楽しい事は多くなるという事です。
「こんなのでいいのか」でなく「こんなのもアリ、大有り」と思えないと
フローには制御がかかってしまうという事なんだなと思います。

しかもこういう閉塞的で、相対的になった状態では
周囲に対して「そういう考えやスタイルもあるんだから…納得いかないけどそれはそれで認めないといけないな」

ではなく、むしろ
「それはそうとしても、自分のスタイルも大有りだ!」は必要なんだなと思います。

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セリフをつめるテクニック

2013年05月06日 | サブカル・同人誌関係
企業さんからシナリオが届きます。
そして、これをこのページにおさめて下さい

「ならもう最初から文字だけでどうよ」

と、思うほど、セリフが長い…というのもあります。
そこをなんとかするために私がいるのね。

小説とマンガは違います。
決定的に何が違うか、というと

テキストの部分を絵で説明すればいいという所です。

そして、どうしても絵にならない部分はセリフやモノローグでもよい
という所でしょうか。

吹き出しの中に入る文字数は、けっこう限られてます。
映画と違って、セリフがあまり多いと絵を邪魔してしまう。

そこで必要なのは
「必要最低限、何を残すか」
というテキストの削りのテクニック。
削りすぎると伝わらないし、多すぎると面倒。

私、昔ちょっと「川柳」「狂句」をやってました。
狂句は熊本放送から表彰状をいただき、川柳は何度か読売に掲載されました。
いや、そんなドヤ事はどうでもいいんだ、あくまでマンガの話。

この、川柳とか狂句には、
5-7-5の限られた文字数内に、最良の言葉を選ぶという作業がありまして
たかが1文字でも違うと、随分とニュアンスが違ったりするのです。
これは川柳をやってて良かったなと思いました。

とにかくセリフをダラダラと読ませないといけない…
というのはなかなか難しいです。

ラジオやテレビである、通販のショッピング番組
あれって殆ど、商品の紹介カット、そしてだいたいはAとBの会話だけです。
「~って何なんですか?」
「~とは○○です」

そして、マンガで一番飽きられるのは、単調構図でAとBが会話してるだけ
だと思います。

そうなんです。最初から飽きられる、退屈される、というハンディを背負って
「それでも読ませたる」というわけのわからない何かと戦う
何と戦っているんだか。

今描いてる「スラック・ライン」もけっこうセリフ長いとこあって
絵とのバランスが難しいです。

絵だけで説明できるほどの表現力は無い
と、言われたらあいたたたた。


どうしてもセリフが長いやーという方
川柳や俳句はオススメです。






それと、ついでに。
今描いてる「スラック・ライン」
1話目、ルドンについて出てきます。
「ふん、どうせ西洋絵画なんて外国に行ける金持ちだけだろ?」
というものではありません。

日本国内のコレクションでご覧になれるものです。
巻末に所蔵美術館についても書いておきますね。







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新キャラについて

2013年04月29日 | サブカル・同人誌関係
新キャラは1話につき1人、メインなやつを追加しよっかなと。
他にもまだややこしい性格のがいろいろと。



いいのほっといてもう。ホントに。
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夢のある無いと才能と

2013年04月06日 | サブカル・同人誌関係
新学期がはじまり、合宿とガイダンスを終わって戻ってきて
いきなり聞かれたのが

「自分には才能あるんだろうか」

うっわー うっぜー
そんなの私が聞きたいわー。
てゆーか

クリエイターというのは、多かれ少なかれ誰でも一度は
いや、もしかしたら何度も、一生
その問題と戦うもんですよ。

なんでも、周囲はもうガチでその道を行く、絶対なってやるーと決めた人ばかり、
自分なんかついこないだまで、環境系目指してたんだし
話もやる事も無理です。というもの。

おお~。
私が入学した時もけっこうビビったよ。
自分、田舎では地方新聞に掲載されて原稿料もらってた、と、才能あるとか、
ちょとだけ自信はあり
いや、何より、
「憧れの小説書きになりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやる」でした。
それが、大学行ったらそんな自信吹っ飛んだもんね。

ロマン・ロランを全巻読破してるやつ
SF知識と科学知識を網羅して、私の知らん作家や作品の話しまくるSFオタク
習わなくても先生より古典に詳しい人
そして実際、制作して先生が指導しはじめると
心折れる事しかり。

こんな時、石川啄木なら花を買って妻とイチャイチャ
しまったそこが無いのか。いちゃつく相手のいない啄木か。爆死。


もし、この世に
「才能判断士」がいて、あなたにはある、あなたには無いと
過去のデータに基づいて人を判断なんかしはじめたら、
人類はもう、今より全く、何も、新しいものは作れなくなるでしょう。
何かを生み出すというのは、昨日は無かったものをこの世に送り出す「未来」に遊ぶ事でもあります。

そんなものが無いのは、そこにこそ夢があるからです。

人生は転がる石なんだぜ。万事塞翁が馬なんだぜ。
わかんねーんだぜ。カジノなんだぜ。
それを目指して、なれた人はとても幸せ。
食べていけるほど成功した人はもっと幸せ。
食べていけて、なおかつずっと続ける事ができるなら、もっと幸運だけど。

私は美術史研究を、誰に頼まれたわけでもなく、もう1つのライフワークとしてやっていこうと思いましたが

悩んでない画家なんかいないです。
躓くし、壁はあるし、現実は厳しいし、
誰が楽しい事だらけなもんですか。
それでもやめられず、血を吐く想いで「これでもか、これでもか」と戦ってんです。

そして、自分はそこまでできないや…というのなら
別にリタイアしたって誰も怒らんですよ。
それもそいつの人生枠です。

自分はそれでもこの道を行くしかないんだ、という高村光太郎のようでも
それもまた、そいつの人生ですよ。笑ったりなんかできない。


とりあえず
最初にやらなくちゃいけない事は、自分でこうだと思った何かを
周囲を気にせず、最後まで完成させる事でしょ。

その次に、やらなくちゃならない事は
期日の目標を決めて、その日までに投げ出さずに完成させる事でしょう。

それができたら、今度は誰かを喜ばせるでもいいし
もっと違う自分を試すでもいいし
新しい材料を探すでもいいし、とにかくいろんなものに好奇心を持って
そうする限り、自分を見放さないでおこうと思う事でしょう。

なんてね
なかなかそんな事はプロでも完全にはできない事はあるし
私も全然偉そうに言えない。
大成功している人はもっと別なマシな事言うんでない? 


もし自分に√がついて「無理数~」とか思うなら
もういっそ同じ分の無理数を重ねてしまえ。+なり×なり。
選んだ数字によっては、また無理になるのかもしれないけど
絶対に無理のままではないのですよ。
でも、殆ど何もしなかったら、多分この世の全てはどこまでも無理なんでないですかね。
相当な偶然か運かがない限りはね。

何かが、この世に産まれるという作業は
何かやって、そのために 無理だったものが絶対に無理という事ではなくなるという事、なんではないのかね。
そうやって試行錯誤していくうち、パッと√が外れたりすんだよ、きっと。


こんなご時世ですので、「将来」と「夢」は大変な課題ですが

「なんとかすればなんとかなる」ですよ。

そして
「まあこんなもんだ」と思いながら死んでいけるとしたら
充分幸せな事ではないですかね。

ぬるいかねぇ。
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雪佳と文学と村上隆と

2012年11月17日 | サブカル・同人誌関係
ちょいと講義を受けてきました。個人的に好きなとこだったので。

テーマは、明治・大正期の工芸家、神坂雪佳。
この人は、明治末期から昭和初期に京都で活動した工芸家で
琳派のデザインをこの時期の工芸品に取り入れたのです。
勧業博覧会の指導に来た岸光景の助手をつとめたことで、
工芸品に、古今和歌集や日本の物語を取り入れたと。

ところで今、日本のアニメや文化は世界でも注目され
マスコミがクール・ジャパンなんて言ってたりします。
村上隆さんの本とか読みますけど、どうも海外では誰も「クール・ジャパン」なんて言ってない?
でも、海外の人が日本の「ワンピース」や「NARUTO」「ポケモン」なんかが好きで、
コミケにもわざわざ遠い所からいらっしゃっているというのは、本当にこの目で見た事実。

村上隆は「日本のオタク文化」の型を使って、アメリカで成功し
それは、どこまでも「工房」的であり、世界戦略をきちんと考えたアート・ビジネス。
ここは、底辺のうちらがどんなに何か吠えた所で、まあそういう事実です。
村上さんの本で「作品とは仕事に他ならず、執念でやるもの」
というのも、プロ活動をする者としては本当に肝に命じておきたいところです。

が、その反面、私は半分は同人誌活動やってて、やっぱり育った地盤はオタクの園なので
村上さんのように、「オタクもダメ、そんなの閉鎖的な自慰行為」と斬ってしまえないものがあるのです。
で、その「正体」は何なのか、何故なのかをずっと考えていました。

雪佳の活動した時代というのは、1893~1914くらいで
この時代は本当に激動です。1900年ちょっとすぎくらいまではまだ19世紀のロマン派が、象徴主義あたりに引き継がれて残ってた。
それが、もうフォービズム。キュビズム、ドイツ表現主義、未来派ってのが出始めるもんで
急にアール・ヌーヴォーすら「ダサ!」になっていくのですよ。
1909年ですよ、ココ・シャネルが創立するの…
まあ、時代は20世紀、どんどん急進的になっていった。

ところでそういう激動の時代
雪佳は京都で、わざわざモダンな方向とは逆走して
工芸品の中に和歌的な要素を取り入れる。
しかも、工芸品の立体性を使って、3Dで春夏秋冬を作り出す。

20世紀以降の美の世界と、それ以前を分ける大きなものがあって、
ウィリアム・モリスはアーサー王伝説が好きだったように
やっぱり私、19世紀末くらいまでの非合理的なものは、「文学」と共存していたと思うのですよ。

そこであらためて、「文学とは何か」
て考えないといけないのですが…
これは難しいです。きっといろんな考え方があると思います。
私が考えるもんはというと、文学ってぇのは、「世間と上手くやっていける」人には無関係でいいんでないかと思うんです。
今、この世はお金で動いてる。人の気持ちがどうとか、愛がどうとか、そういう不確かなものを言ってみたところで
お金持ちにはかなわないし。
村上隆も、本の中で「萌え」とかそういうのは信じてないような事を言ってました。
職人、プロ、お金をもらってなんぼの社会人なら、やっぱり「萌えだ愛だ」と始終言ってる存在は
貧乏で自慰的で閉鎖的な、気の毒な人達に見えるに違いないです。

しかし…
「文学」ってのは、実はその頑是無きところから始まるのではないか、そしてそこに終わったりしないか?
とも、思うのですよ。
言ってみれば、「オタクで憂鬱」なかんじです。ごめん。
世間で上手くやっていけない、なんでなんだと自分を考え、思い悩み、
そして時に、人の事を思い、傷ついたり、あがいたり、喜んだり、恋したり
「春夏秋冬」時間の中で、感じていく。
それは、もしかしたらアメリカ美術的な「刺激」「インパクト」「爆発性」そういうものに欠けるかもしれません。
そして、そっと側に寄り添うような優しさや、つい吐露したため息のようなものや、
儚く消えてしまいそうな幻想を扱う「詩」の世界は
タフに執念で!作品を多くの労働者を使って作り上げ!ガンガン稼いでなんぼ!後世に残してなんぼ!

と、いう類いのものとは違うでしょう。

もちろん、考え方もやり方も1つでなくていいです。いろいろあっていい。
好きかどうかで決めたらいいかなと。


私はというと、もともとそんなに強いメンタルしてなくて…
つい、オタクで憂鬱になりがちなので
心が折れない所で仕事をしつつ、コソコソと同人誌もやりつつ。

マンガってやっぱり大変ですが
表現手段としてはスゴいもんだなと思います。
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CSPで水彩の滲みはどこまで可能か?~6~

2012年10月11日 | サブカル・同人誌関係
最終的にどの段階を、「完成」とするのかは個人の判断。
本当に「水彩画」になると、かなりリアルに描き込むものから、
あっさり塗っただけのものまで多様です。




もうちょっとだけ塗り足して…

これはこれで一応、完成って事にします。

筆の大きさはその都度、調整できるので
やっぱり自作した筆と、紙質強調を使いました。

しかし、ここでちょっと

「紙質」なんですけど、デフォの素材選択のまま
「マーメイド」を使うと、かなり細目のマーメイドかケント紙のかんじでした。

そこで…
ちょっとズルいんですけど、photoshopの「テクスチャーライザー」というフィルター機能を使い、
画面全体を選択してこれをかけます。
麻布の細かいのでやってみました。
粗めの画用紙をイメージ



テクスチャーは読み込めるので他に素材を追加したらもっといろいろできるかも。



で、よそのモニタでどの程度どうなっているのかわかりにくいのですが
こちらは、更に紙をワトソンみたいなオフホワイトにするため
薄くクリーム色のフィルタかけてみました。

滲み表現とは関係無いけどな。

そこそこ騙せる程度になったでしょうかね?

色々と応用していきたいと思います。


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「REBORN 美神のカルテ」のこぼれ話…

2012年10月10日 | サブカル・同人誌関係
今日は珍しく、自分の描いた
というか原作は倉科先生なので、その感想という事になります。
制作過程を通じて。

「大塚美容整形外科」のREBORN美神のカルテの、
大学病院の榎本教授が「整形する必要がない」と言ったあのややこしい患者さんです。

これ、倉科先生から設定をもらった段階では最初
(もうバラしちゃっていいよね?テヘペロ)

「整形しろと言ったので、整形したら違和感を覚え、こんなはずではなかった!として
裁判を起こした」

という話でした。それで、別に手術は失敗したのではなかったんだけど
患者さんの方がどーも、納得いってないというかんじで。
倉科先生の頭にはずっと、それでいきたいというイメージがあったと思います。

ところがね~
それだと、「整形は失敗する」というイメージを与えてしまうでしょ?
「広告」になんないじゃないですか!というのと、
「大学病院側が誤解されるようなものは、くれぐれも描かないで」というのがあったんですよ。

倉科先生というと、やっぱアンチ・エリート、反逆の世界の人で
私は非常にそういう所が好きなんですけど、仕事となるとね…
お金はどこから来るんだ?ああん? ←靴で…ぐりぐり
んなかんじすらあるよなあ。

まあそこで、随分最終回は悩まれたと思うんです。
結局、最終的に
「手術したけど気に入らんから元に戻して」というのが
「手術は行われなかったために、更に心を病んだ」になってました。

けっこう急な変化で「ええ?」というかんじだったんですけども(;´∀`)
これはこれでまとめられている!という事に驚きでした。
ただ、自分は設定のまま行くのかなと思ってあれこれ用意してた部分もあったので
戸惑いもありました。

ネームの主軸となるものが、
「この女性は、自分自身にコンプレックスを抱いてたから手術した。
しかし、違和感を覚えたという事は、結局は元の自分を愛していたのでは。ただ周囲の意見に揺れていただけでは」

というものから

「この女性は本当に自分の顔の一部が嫌いで、改善すれば解決すると、そのために変化を望んだ
しかし、周囲(価値を決める存在/大学病院)は、そのままでいいと言うので解決の前途が断たれた」

になりました。

さあ~もう大変でしたね。地殻変動。時間が欲しかったんですよ
そして ページ足らん。
予算の都合と時間の都合がそこにあるリアルです。
そこに、もう1本、榊自身の信念、というのも描かないといけなくて
そこんとこに広告としてクライアントさんが言いたい希望ってのもありまして。

今になって、足らなかったのは何か
というと、「どうして榊はそこまで、この患者さんの心に寄り添えたか」なのではと。
うう、わかってます…。
小さい時、オペで明るくなったおじさんを見たから、それもあると思うけど
本当はもう1つ、「これがあるから榊は、この患者さんを手術してくれ、と榎本に訴えた」
理由が必要だったんですよね…。

大学病院がいくらダメだと言っても、本人は「変わりたい」と望んでる
その気持ちを本当に理解できた理由。
…しかし、原作者とクライアントがそこにある…

「こうだ」と思うエピソードを追加する勇気も、ページ数も無いし
それより、よくまとめたなーという所が驚愕でもあります。
「ここはもう原作通りでいっかー♪」

てな所があってしまったのは…ごめんなさい反省します。

自分としては、ブスの患者さんが悩んでいたのは「でかいホクロ」で
それの位置の事とかで、占いの人にも何か言われ、不幸をもたらすと信じてしまってて
榎本教授は「そんなもの治療する価値も必要も無いのにアホかお前」
というかんじ

でも、これも具体的にするとけっこうゴチャゴチャです。
クライアントからの希望はあくまで「目」の手術、それと解説であってホクロではないですし

まあそれで…
自分で「こうしたい」と思うものを、クライアントも原作もなくやるには
地道にオリジナルで同人誌で活動するしか、もとから道は無いのかな…と思いまして…。

あで? なんかこれ、一度通った道やわ~
「アニパロ」行くのか他の商業誌行くのか、の時。
角川あたりに周囲で投稿とか持ち込みしてる人、親元で描いてたり、学生だったりしたんですよね…
それと同じレベルとペースで描け、とか…どんだけやねんて思いましたもん。ちょっと嫉妬あったです。

結局、あの時は「フルタイムでバイトしながらこの量は自分には無理」と思って…挫折。
いや、本格的に一本に絞れず、C翼同人誌もやっていた自分が悪いんすけど
「アニパロ」は載ったらすぐ反応来るし、毎号自分で買ってたので「とりあえず載れば本代が浮く」というセコすぎる考え
隔月刊行で、気の向いた時にやる気あったら別冊で描いてもよし?みたいないいかげんな編集部だったので…
楽な方に行ってしまいました。

あと、その時すでに他の商業誌って「大御所」の先生がおられて、やたら気つかうとか
アシに行ったら二次創作同人誌の奴をボロカス言うとか、マジであった時代なのですわ~。
「人のを真似して描いて恥ずかしくないの?」とかさ。
「恥ずかしくないです。好きだから」と言えるほど強くなくて
戦わずして逃げた、というのはあります。


そしてまた夢を追う貧乏生活になるんかも。
それでも、自分の信念はとか言うのかも私。
バカだなー

…あれ? これ誰かに似てないか?

榊翔吾  

お前かー!

コメント
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