ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮、同人誌の話他

~遠近法の喪失~<その1>背景無し漫画は本当にダメなのか?

2016年01月13日 | サブカル・同人誌関係
昨年11月頃でしたか、ある漫画講師の先生が、顔だけ羅列で背景の無い漫画は「ダメ」と言ったとかで
ツイッターでまわっておりました。
この「リアルな背景」につきものなのが、パース。「遠近法」です。

今回は、先に挙げました幻冬舎新書「子供のまま中年化する若者たち」鍋田恭孝さんの指摘
1980年代にはあった、子供の絵から、背景が消失して断片化した事にヒントを得まして、
美術史、社会学、脳科学、心理学など幅広く取り入れながら

「遠近法とは何か」
「背景、遠近法の喪失とコミュニケーション」
そして「背景無しの漫画は本当にダメなのか?」「ではなぜダメなのか」

あたりを探っててこうという試みであります。


さて、上記の、「断片化」というのはちょっとわかりにくいと思います。
が、著書の画像をそのまま上げるのは違法ですので、参考にしつつ私が小学生になったつもりで描きました。
ここでは説明ですのでそれぞれ代表的にこうかな、というものをあげておきますが、
著書には1981年の小学6年男子の絵2枚、1997年6年男子の絵2枚をあげてあります。

まず、「遠近法のある絵」とはこういうものです。
「人と木と家を描きなさい」と言った時


「家から犬を追いかけて飛び出してきた僕、家の前には木があって、ようしゴールはそこだぞ、
遠くには山があって変電所が見えてるんだ…」というような、周囲と自分を関連づける物語が存在する。

次に、「断片化」というのはこういうかんじです。



「家」「人」「木」は記号が浮かんでいて、それぞれが無関係。バラバラです。
そこにつながり、意味、物語はありません。

でも、これって…と、ふと思い出したものがありますので、
以下は美術史の中から「遠近法」と「断片化」について見ていきましょう。


まず、断片化であげたいのが、20世紀スペインの画家、ミロです。

すんません、ネットからの拝借ですが、これを上げていた人もそうお書きになっていたので…。
ミロはシュールレアリストである詩人のツァラやブルトンとも交流がありました。
そんな彼ですが、最初っからこんな絵ではありませんでした。
もともとはこんな絵も…。遠近法を示すのには丁度いいかと思います。




では、遠近法をきちんと示すものは…といいますと、だいたい遠近法のテキストには、
「最後の晩餐」でキリストに消失点が集まるとか、
「そもそも遠近法とは、ルネサンス期に建築家のブルネレスキ、アルベルティにより考案され、
絵画においてはダ・ヴィンチが~」とか書いてあると思います。
が、ここでは「物語性」を説明するのに、日本人に馴染み薄い聖書を持ち出すよりは
一目瞭然のものがありますので、19世紀英国の画家、ウィリアム・パウエル・フリスの絵をあげます。



この絵は「どんな運命になろうと末永く」というタイトル。
花嫁と花婿が新婚旅行に出かけるところ。馬車が待ち、通行人が見守る。
米とスリッパが慣例として巻かれ、バルコニーから見送る貴婦人、
野次馬、手紙を出しにいく途中の庶民の娘、整理する警官、道の端には最下層の貧民。

1枚の絵を読み取るだけで、2時間分の映画ストーリーが出来上がりそう。
そして、日本人はだいたいこういうイラスト的「説明絵」「物語絵」は大好きです。
逆に、ミロだのポロックだのは「ちょっと私には何描いてあるかわからない」と言い、不人気です。


さて、話を戻しまして。
なんでミロが、最初は遠近のあるものを描いていたのに、断片化したのか?
ここはもう少し調べたいのですけど、やっぱり詩人のツァラと出会った事は大きいのではと思います。
トリスタン・ツァラというと、その詩法において、
「新聞記事を切り抜いて、バラバラにして袋に入れ、ランダムに選んで羅列」するとできるという、
ダダイズム的詩法、というのをやった人ですから。
ダダとシュールは、現実を超えてより感覚的であろうとした人達。
その時代背景に、ファシズムと、イデオロギーとプロパガンダによる「意味」の意図的利用
とかもあったりします。


ルネサンス時期、人類が最初にグローバル化を体験する事になるその時代に
より多くの人に、よりリアルに、画家はその人は誰で、どこにいて、まさに今何が起きているのかを伝える必要があった。
つまり、それは絵を見ている者と、描かれる対象の立ち位置を、
描く側である画家が意思や理由を持って決定する
というものです。

遠近法における消失点、アイレベルとは
漫画、映画やドラマにおけるカメラ位置にあたります。
視点はどこかを作者が決める事で、位置関係や物の大きさが明確になります。
漫画や映画なんてものは、まさにその視点を、客観的に世界を見ている我々にしたり、
主人公の視点に移したりしながら進めていくものだと思います。

つまり! 遠近法とは、まず個人の「感覚」はおいといて、←私が寂しいだの恋してるだのはどーでもいいので
どなたがいつ、どこにいるかの、位置関係を示すものです。←今とりまどこにいるのか教えろよと

しかもそれは「単なる位置関係の配置」になるのではなく、
人はその位置を見る事で、その状況下でのドラマや
人間関係上下まで見えてしまうかもしれない。

よって、「より多くの人に、何がどうなってるのかを説明したい場合」には、
遠近法は表現に不可欠な要素となると思います。



これに対して。
では逆に「より多くの人に説明などするものなどない」とか
「言わなくてもわかってもらえる人にだけ見せる」だとか
「何が正しいか意味ある事をしっかりと伝える事で、人は銃を手にして敵を殺せと言うようになる」
「状況説明や舞台がどうのという以前に、私個人は感覚を持って存在している」
「いや、感想とかでなくてただ描きたいだけなんで」

…だったらどうなるの、という所。

漫画学校の講師というのは、「プロとして一般読者を対象に、漫画技術でメシを食う人を育てる」のでしょう。
そんな所で「好き勝手に感覚次第で描いてもいいのですよ」とは言わんよそら。

ただし、「全ての漫画が」「全ての作品が」とキャパ広げるならば、ちょっと待ってちょと待てお兄さん。
「かなり限られた、説明せずとも理解される空間で、わかる人同士が金目的も抜きにして、囁き合うように交わす感覚メインの表現」
である場合は、「必ず遠近法を取らねばならない」というものでもないのかもしれない。

「リアルな遠近法の写実的背景が必要であるかどうかは、絵画の表現目的によって変化する」

これが私の思うところです。
ただし、ミロやカンディンスキーの絵画を本当に楽しむならば、
客観的に「これは何を描いた絵でどういう説明がつくんですか?」と聞かない事です。
絵の中、できれば作者の感覚の中に「波長を合わせて」飛び込んで、共に意味の無い世界で感覚に遊ぶ事です。

そんなマジキチな世界はゴメンなので…という人もいるでしょう。
けれど、そんなマジキチなものも芸術として存在します。
もし、どこぞに
「そんな社会的に何の役にも立たない、意味も無いムダな絵は必要無い」
とでも言う方がいらっしゃったなら、
「昔、あなたと同じ事を叫んだ独裁者がドイツにいました」と言ってあげなさい。

そ、ダメってわけではなく、感覚的か合理的か
シンボルか、リアルか
どういうものを選択するかは、自分で自分にオトシマエつけられていたらそれでいいのでは。
もちろん、それがどうにもイヤならパースを学んで描くしかないけど。

それは個々で選んでもよいのでは。

この話、引き続き関係性の変化と合わせて
もう少し深めてまいりたいと思います。
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