ハニカム薔薇ノ神殿

西南戦争の現地記者の話他、幕末〜明治維新の歴史漫画を描いてます。歴史、美術史、ゲーム、特撮などの話も。

~遠近法の喪失~<その2>情報過多が背景を消す

2016年01月15日 | サブカル・同人誌関係
背景をきっちりしたパース技法で描いてない漫画はダメなのか?
前回のまとめは「一般向けでない場ではそれもアリで、
遠近法とは自分の意思で、
自分または登場人物がどこにいて、何を見ているのかを決め、他者に説明するもの」
というところでした。

では「何がなぜダメなのか」でなくて、本日はあえて、命題を疑うというタブーをやります。
「ダメとは何か」です。これって算数の文章題で「太郎さんはなぜ200円しか持ってないのか」って聞くみたいなのですが
人の尊厳の為にも、我々は一度も「ダメがダメである所以」を疑わないのはおかしい。そして面白くない。

その上で再び、本日は「背景が消失する謎」を見ていきたいです。


脳科学は専門ではないので、「違う」って方は教えて下さいね、と前置きしつつ


「意識のしくみを科学する」の著者である認知科学者、匠英一さんによりますと ※ 

うつ病患者の脳は、前頭葉の一部に活動が停止している部分が見られ、
特に不活性となっていたのは自分の意思で行動したり、その行動に伴って「はたらきかけ」の感覚を呼び起こしたりする部分で
外界で起こっている事に注意を向けたりする部分であった


と、あります。
これは非常に興味深いです。前頭葉の働きが鈍いと「遠近法」はめんどいのよ、めんどい。

そう、ぶっちゃけめんどいものはめんどいのです!
そこを「頑張って努力して技術を学ばないとダメダメダメ~」とか言うけど、
本当にめっちゃしんどい時は、デスノートの描き込まれた背景見るより、背景無し4コマの方が楽ってくらいよ。

つまり、前頭葉は日々、外界で起きた事、入ってきた情報を処理し続けている。
いろいろあるよね。テレビ、新聞、雑誌…高度に情報化した不幸。グローバリズム。
しかも、ウェブ2.0以降、ツイッターだのフェィスブックだので書きまくられる言いたい事の洪水、思想理想の洪水。
ネットなんて、正しいかどうかわかんない人の言う事のメガ盛りですから。


とにかく、多すぎる情報について
「自分の立ち位置はこれで、こう見えた…」というのを言おうとするや
「それは違う」「それでいいの?」「私はこうだけど」「勝手に決めんな」「お前偉そうに、何様だ」
なんての中にいれば「え…あ…すいませんクズで。違っててすいません」とか
必殺定冠詞「個人的には」を使うとかになりますよ。

多すぎる情報はストレスだし、情報が過多に入ってくるような真面目で賢い人、
相違、立場の違い等にストレスを感じやすい人ほど前頭葉が疲れる。

前回「断片化」の例として挙げたジョアン・ミロは鬱病を患っていました。
そして、断片化というとこれもかと思ったジャン・ミッシェル・バスキア



彼は鬱とドラッグで帰らぬ人となりました。

だからと言って、私は「社会的にぶっ壊れた鬱患者がやるのが現代アート」
みたいな事を安易に言いたくないです。
なんか、アール・ブリュットで
「社会的にはクズで役立たずでも絵を描いて仕事してるので社会的には役に立ってます」みたいな
お前はどこまでクソ共産主義者なんだ、というようなお役人見たのですが
そんな人に芸術がわかってたまるかとも。思ったよ。
ただ、哀しい正論だけがまかり通り、我々にもはや可能性は無いのだと
ちょっとボードリヤールっぽく絶望的に言うと、今ではアートも既に経済の支配下ですもんね。
チクショー。


でも、どうも前頭葉の働きが鈍化すると、もう外界の情報とか自分の意思がーとかどうもめんどくなって
断片化したり、遠近法が消えて自己世界の吐露になり、きちんとした起承転結を取る説明もそこで消える
というのは、間違い無いと思います。


遠近法には、パース以外に「空気遠近法」というのがありまして
漫画の背景は、わざときっちり「描かない」部分もあるのです。

人は案外、見えてそうで見えてないので、見えてない所はそれなりに描かない方がわかりやすい。
遠くの景色は空気で霞むので、しっかり描くと逆にうるさいのです。
これはある意味、意図的に情報を減らしていると言っていい技法だと思います。

情報を整理し、減らす事を意図的にやるのはデザインのジャンル。
パンフの背景はあえて白、あえて空間を意識するとか。
この「間」とかシンプルなものにするのは、世の中の空気によって左右はされるのでしょうね。


さてもう1つ、「なぜダメ」ではなく「ダメとは何か」
これを、バカバカしくも考えようと思います。優等生は考えるなよ!車輪の下敷きになるぞ。


アートとは、「一般常識がダメ扱いして疑わないものに、容赦なく疑問を投げかけ、抵抗する」
そういう特性を持つものだと私は思います。
芸術だけが、長い歴史を伴って「ダメとは何だ」「何故ダメなんだ」を問い続けてきたのではないか…と。
それをただのバカ貧民の暇つぶしと見るか、
近代文明は偏った価値観の不完全なものではあるので、何らかの可能性を探れないか
と見るかどうか。
その可能性や、違う価値観を見せる事は、民主主義を手に入れた今日、当然ながら非エリートである我々にも
もちろんサブカルチャーにも可能なはずです。



遠近法の喪失が、20世紀の絵画において特に顕著なのは何故なのか。
ミロにおける背景の喪失、デュシャンのレディメイド、
その裏に、我々には今、言いたくてもなかなか堂々と言えない、社会的閉塞感、近代文明と進化、啓蒙思想への疑問と怒り
そういうものがありました。
我々はただ、「ダメ」って言う人達に、非力さを感じて言い返せないだけなのです。


本日のまとめは

「情報過多で脳の前頭葉が疲れると、背景なんて描くのめんどくせえってなって消える」
「その前頭葉はあんまりにも情報過多になると疲れる」

情報過多の今日では、対象になる相手次第で背景の意図的ミニマル化、というのもアリには
なってくるんではないかなと思います。
自由な選択肢が増えるのであれば、それはけしてダメではありませんよね。



私、漫画の背景について考える中で
「藤子不二雄先生はやはりスゴい」と思ってしまいました。

うむ、スゴい。
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※参考
「意識のしくみを科学する」匠英一 PHP文庫 ISBN4-569-57912-4


「集合知とは何か ネット時代の『知』のゆくえ」西垣通 中公新書
「『空気』と『世間』」鴻上尚史 中公新書
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