突然の父の訃報で、急遽熊本に帰りまして
お葬式を済ませてきました。
父は満州鉄道に勤務していた祖父と
満州で従軍看護婦をしていた祖母との間に生まれ
祖母が京都の伏見の出身だったので、一時期京都にもいた様子です。
父は商大を出てブックセンターという
本の卸会社に勤務していて
母がブックセンターでバイトしていたので知り合ったようです。
実母は熊本の黒髪付近で、子飼商店街にある洋装店の娘でした。
路面電車の呉服町停留所近くにあった、昭和初期からの書店を引き継ぐ形で
「修文堂」という書店を家族経営していたんですが
母が他界した後、しばらくして時代の波で経営破綻しまして
学生時代は私も色々と苦労しました。
熊本にはまだ、継母が残っています。
私が大阪に出たのと入れ違いで堂々と家にインした感じで
別にそんなに私が継母を受け入れ無かったんではないですが
私だけには一切何の相談も無かったし、いきなりだったし
周囲が勝手に「あの子は受け入れない」とか勘違いしたり気を回したり
継母の方も「よかです(いらない気遣いしないでください)」と拒まれてきたんで
ずっと親子の感じはしてませんでしたが。
最近になってようやく理解してもらえました。
明治生まれの強烈な軍人思想と家父長制に育った祖父母に反して
サルトルやヴォーヴォワールなど共和的な思想を愛した「戦後」の父母
義理の母も含めて3人の母はそうした時代じゃないかと。
(戦後食糧難の時が子供時代)
その軋轢自体を私は見て知ってます。
継母は祖母にはいじめられてはいました。
なぜなら何度も、祖母は私に継母の愚痴をぶつけ
私は子供ながらに「相談役」をしなければならなかったから。
味噌汁の作り方が最悪だの、前の嫁は良かったのに、だの
そんな大したことではないのですが。
核家族では無かった時代、
明治と戦後を挟んでの劇的変化時代の
嫁姑のバトルはさぞかし大変だったと思います。
ここ最近、訃報続きで
誰も完全に「良い子」になれなくてもいずれ死ぬんだな
って思ってしまいました。
継母に関して施設はどうするかなどは、まだ今後の課題です。
今は令和。
今しかできない事を今、精一杯やって
自分はそうして生きていこうと思います。