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「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

【失うものは何もない】最後の質問 01

2013-01-05 23:40:52 | OSHOの講話
(最後の質問)P.82~

愛する Osho,
私は、山中の岩の欠片です。私には、それすら認める勇気がありません。
認めるどころか、夢を見ています。Osho、なぜ私に、川や 海や 空のことを話してくださったのですか。
どうして 私などに、サニヤスをくださったのですか。
私は 山中の岩の欠片なのです。


誰もが皆、岩の欠片だ。
究極の栄光を手にしない限り、岩の欠片でいるしかない。
だが、岩の欠片であることは、悪いことではない。
岩の欠片は、ぐっすり眠って、いびきを かいている神以外の何ものでもない。
それは 眠れる神だ。
岩の欠片に、悪いところはない。が、目覚めなければならない。
だから、あなたに サニヤスを与えた。

あなたは、「どうして 私などに、サニヤスをくださったのですか」と尋ねている。
サニヤスとは、あくまでも あなたを目覚めさせようとする、あなたを揺り動かそうとする、あなたを はっと気づかせようとする努力だ。
サニヤスとは、まさしく 目覚まし時計だ。

「それすら」ーーーあなたが 山中の岩の欠片であるということーーー「認める勇気がありません。認めるどころか夢を見ています」

そうやって、夢を見て、岩は 自分の成長を避ける、自分の未来を避ける。
夢見は、障害だ。
夢を見て 私たちは、現実を避ける、真実を避ける。
それが 私たちの逃げ方、他にはない。
夢見、これが唯一の 逃げ道だ。

私の 話を聞いているときでも、あなたは 夢を見ている。
ここに 座っているときでも、あなたの マインドの中で、千と一つの思いが 駆けずり回っている。
過去と未来に 思いを馳せたり、私の言うことに 賛成したり、反対したり、自分の中で議論したり。
だが、あなたは 私から離れている。
私は 事実としてここにいる。
ここで 夢を見る必要はない、あなたは ここで、私とともにいられる。
その成果は、計り知れないものとなるだろう。

だが、私たちは 夢を見続ける。人々は 夢想家であり、夢想するのが その生き方だ。
女性と 愛を交わすとき、人々は 夢を見ている。
食べているときも、夢を見ている。
道を 歩いているときもーーー散歩に出かける、陽が昇った、すばらしい天気だ、皆が 起きだす、生が再び戻って来るーーー人々は夢を見ている。何も 見ていない。

私たちは 夢を見続ける。夢見は 目隠しとなる。私たちは 現実を見ずにいる。

「Osho、なぜ私に、川や海や空のことを話してくださったのですか」

なぜなら、それが あなたの 可能性だからだ。
岩は 飛ぶことができる、羽を 生やすことができる。
私自身、かつては岩だった。
それから羽が生えだした。だから、私は 知っている。
あなたは 知らないかもしれないが、私は あなたの可能性を知っている。
だから、川や海や空のことを話したのだ。
岩は 花になり得る、川になり得る、海になり得る、空になり得る。
あなたの 可能性は無限だ!
それは 神の可能性に等しい。
あなたには 多種多様の 可能性がある。

だから、私は 川や 海や 空のことを語り続ける。

(…つづく)

【失うものは何もない】第八の質問 04

2013-01-05 21:55:41 | OSHOの講話
(P.79~)(…チンマヤが送ってくれた、見事なジョークだ!)

海兵隊員が、前哨基地のある遠くの島に派遣された。
そこには女性が一人もいなかったが、猿がたくさんいた。
彼は、仲間の海兵隊員 全員が、猿たちと愛の行為に及ぶという事態を目の当たりにしてショックを受けた。
そして仲間に、自分は、そんな はしたない真似は 絶対にしないと誓った。
仲間は、頑なに なるなよと言った。
しかし、何ヶ月か過ぎると、その海兵隊員は もう我慢ができなくなり、最初に捕まえることのできた猿と行為に及んだ。
だが、その現場を見られてしまい、見ていた仲間に 大笑いされた。

びっくりして、彼は言った、「どうして笑うんだ。君らが、いつも やれって言ってたことじゃないか」

仲間が 答えた、「ああ。でもね、一番醜いやつと やることはないだろう」


抑圧すれば、一番醜い生を選びかねない。
すると、あなたは熱にうなされ意識の中にいなくなる。
そうなったら、神経症に かかったも同然だ。
抑圧が そこまでひどくならないうちに、くつろいで生の中へ入っていきなさい。
それは あなたの生だ!
罪悪感を抱いてはいけない。
生きるべき、愛すべき、理解すべき、ありのままであるべき、あなたの生だ。
どんな 衝動であれ、与えるのは神、それらは、あなたが どこへ行くべきか、どこで 探すべきか、どこで成就すべきかを 暗に知らせるものに他ならない。

私は、この生が すべてではないことを知っている。
大きな生が その背後に隠れている。隠れているのは この生の 背後。
だから、この生に 逆らって 大きな生を見出すことは できない。
あなたは、あくまでも、この生に 深く浸って 大きな生を探さなくてはならない
海には波がある。海は 波の背後に隠れている。
もし、荒れ狂う波を見て それを避けるとすれば、海と その深みをも避けることになる。
飛び込みなさい、波は海の一部だ。
深く潜れば波は消え、深みと 海の絶対的な静寂が現れる。

それが質問者への 私のアドバイスだ。
あなたは 長い間 待ち続けた、もういい。もう充分だ。

(次回の質問につづく)

【失うものは何もない】第八の質問 03

2013-01-05 19:23:00 | OSHOの講話
(P.78~)

瞑想するたびに、死が漂っていることに 気づくだろう。
愛、オーガズム、あらゆる美的体験、音楽、歌、詩、踊り、そのさ中にあるときーーーあなたがと自我を失うとき、常に そこには死がある。

一つ言わせてほしい。生を 恐れるのは、死を 恐れるからだ。
死の恐怖をすべて振り払えるよう、死に方を教えたいと思う。
死の恐怖が失せたとき、あなたは 生きられるようになる。

私は、生に反することは話してはいない。
生に反することなど どうして言えよう。
私は 生の熟愛者だ。生を 熟愛しているからこそ、死も 愛しているのだ。
死は 生の一部。
生を愛し切っているのに、死を 避けることなどできるだろうか。
死も 愛さざるを得ない。

花を深く 愛していれば、花の朽ちていく様をも愛する。
女性を深く 愛していれば、その老いていく姿をも愛する。
いつの日か訪れる、その死をも愛する。
それは、その女性に 不可欠のものだ。
老いは、外からは来ない。内からやって来る。
今では 美しい顔に皺ができてしまった。
あなたは その皺をも愛する。それは、愛するひとの一部だ。

あなたは 男性を愛する、彼の髪は 白くなってしまった。
あなたは その髪をも愛する。白髪は、外から来るのではない、偶然のものではない。
生は開かれている。今では黒髪がなくなり白髪になってしまった。
あなたは 拒まない、あなたは 愛する。
そうしたものも その人の一部だ。あなたの 愛するひとは、年老いて弱くなる。あなたは それをも愛する。
いつの日か その男性は死ぬ。あなたは それをも愛する。

愛は すべてのものを愛する。愛は 愛以外のものを知らない。
だから私は、死を 愛しなさいと言う。
死を 愛することができれば、生を愛するのは とても簡単になる。
死さえも 愛せるようになれば、問題は なくなる。

問題が生じるのは、質問者が生を恐れ、何かを 抑圧してしてきたからに違いない。
抑圧は 危険な結果を招くことがある。
抑圧に継ぐ抑圧を 続けていれば、いつか、美的感覚を すっかりなくしてしまうだろう。
美しさ、優雅さ、神聖さに対する感覚を すべて失うだろう。
すると、醜悪なことでも 何でもしかねないような、病的興奮状態に陥る。

あなたに すてきな話をしてあげよう。
チンマヤ(弟子)が、送ってくれた、見事な ジョークだ!

(…つづく)

【失うものは何もない】第八の質問 02

2013-01-05 18:12:16 | OSHOの講話
(P.76~)
人々は、死への恐れから 生を恐れるようになった…

人々が生を 生きないのは、生の頂点、絶頂では、常に死が浸透しているからだ。
こんな現象に 注目したことがあるだろうか。
大多数の女性が 不感症なのだ。
女性は、オーガズム、エネルギーの激しい爆発を 恐れている。
長きに亘って、性的快感を得られずに、オーガズムを知らずにいる。

また、大多数の男性も、その恐怖に苛まれている。95%の男性は、早漏のために問題を抱えている。
オーガズムに対する大きな恐れから、何とか 早くオーガズムを終わらせよう、オーガズムから脱しようとする。

男性は、何度も性行為をしようとするが、恐れを抱いている。
女性は 感じない。
男性も怖くて オーガズムの状態に留まっていられない。
他ならぬその恐怖が、男性を 自然な状態よりも 早く射精させる。
女性は 不感症で、閉じて自分にしがみつく。
その恐れのために、もはやこの世からオーガズムが 消えてしまった。
深いオーガズムのときには、死が入り込む。死んでしまうように感じる。
オーガズムに達すると、女性はもだえ、大きなうめき声を出す。
「死んじゃう、殺さないで!」と言うこともある。実際にあることだ。
女性は、オーガズムに達するとあえぎだす。「死んじゃう、殺さないで。やめて!」と声をだす。
自我が 存在できない 深いオーガズムがやって来ると、死が入り込む。
だが、それが オーガズムの すばらしいところだ。

人々は 愛を 恐れるようになった。
なぜなら、愛には 死が浸透しているからだ。
恋人同士が、話もせず、深い愛に包まれ、仲良く寄り添っているとすればーーーおしゃべりは逃避、愛からの逃避だ。
恋人同士が おしゃべりをするのは、睦まじくなろうとする兆候に他ならない。
仲介者としての言葉は隔たりを作る。言葉がなければ隔たりは消え、死が現れる。
沈黙の中に死は沈むーーー美しい現象だ。
けれども人々は恐れて、必要のあるなしに関わらず話し続ける。
ありとあらゆる事柄について話し続ける。沈黙は保てない。

恋人同士が 静かに座っていると、突然死が二人を包む。また、沈黙している二人を見れば、幸福とともに悲しみがあるのがわかるだろう。
生の絶頂ゆえの幸福であり、生の絶頂において進入してくる死ゆえの悲しみだ。沈黙するたびに、あなたは一種の悲しみを覚える。
薔薇の花を見ているときでさえ、花のことは何も言わず ただ見ていれば、沈黙の中で、突然そこに死を感じる。
あなたはその花が枯れ、もうすぐなくなってしまうことを、永遠に消えてしまうことを知る。
何と美しく、何と はかないのだろう!
何と美しく、何と かよわいのだろう!
何という美しさ、何という奇跡、それがもうすぐ消え、二度と蘇ることはないのだ。
あなたは 突然悲しくなる。

(…つづく)

【失うものは何もない】第八の質問 01

2013-01-05 16:23:08 | OSHOの講話
(P.75~)
第八の質問

愛するOsho,
あなたが 死について話をすればするほど、私の 生に対する渇望が大きくなります。
私は、自分が本当には 生きていないことを知りました。
生と死が ともに来るのは理解できますが、私の内部には、生、愛、激情への熱望があるのです。
私は、満たされない欲望を 捨てようとして悩んでいる自分を発見しました。
手にしたことのないものを 諦めることなど、できるのでしょうか。
私は、再び肉体に戻れさえすれば良いと思っています。
幻想にしろ何にしろ、未だに欲望があり、自分でも驚いているのですが、その欲望が かつてないほどのものになっていることを認めざるを得ません。


私が「死ぬ」 と言う場合、真の眼目は「強烈に生きる」 ということにある。
本当に 言いたいのは、情熱的に生きなさい ということだ。
生を 全うしてもいないのに、死ねるはずがない。
完全な生の中にこそ、死はある。そして その死は美しい。
情熱的に、強烈に生きれば、死は 自ずとやって来るーーー沈黙として、深甚なる至福として。
私が「死ぬ」 と言う場合、生に反することは 一切意図されていない。
あなたが 死を恐れているとすれば、実のところ、生も 恐れている。
それが、質問者に起こっていることだ。

生は 死を運ぶ、だから 死を恐れる者は 生をも恐れる。
敵を 恐れればドアを閉ざす、そうすると友も入って来られなくなる。

敵を恐れて ドアを閉ざす、敵が 入って来るかもしれないと、友が入って来るドアをも閉ざす。
ひどく恐れているために、友に対しても開くことができない。
友が 敵に変わらないとも限らないーーーそれは 誰にもわからない。そうでなくとも、ドアを 開けておけば 敵が入って来るだろう。

人々は、死への恐れから 生を恐れるようになった…

(…つづく)