「シラーの美の理論」P.35~36 (第二章 美は私に生命力を与えた)おわり
精神分析の 初期の発展のなかでの偉大なパイオニアである オットー-ランク(1884-1939) が、シラーを読んで、彼の遊び(プレイ)の考え方は、心理的に健康な人間を正確に記述している という結論に達したのも、こうした理由からなのです。
オットー-ランクの考えでは、サイコセラピーの目標は、クライエントが創造することができるように援助することなのです。
ランクは『芸術と芸術家』のなかに こう書いておりますーーー神経症的な人は、「アルティスト-マンケ」 つまり、なんの芸術も創造することのできなくなった芸術家なのだ、と。
人びとは だれでも、なんらかのかたちで 創造しようとしているのですが、芸術家は、この人生の仕事に成功した人なのです。
このようにして創造性は、フロイトが人生の二つの目的として要約したもの、すなわち 愛することと仕事をすること、とを結びつけるものなのです。
オットー-ランクは、この両者ーーー愛することと仕事をすることーーーは 創造性の局面なのだと指摘しているのですが、その点で フロイトより 一歩前進しているのです。
さて、美は 遊びから生み出されるという シラーの考え方は、人生の客観的な側面と主観的な側面を統合することになります。
ソクラテスが その祈りのなかで述べたように、内面的な人間と 外面的な人間が 一つになるのです。
このことはまた、サイコセラピーの目標をもあらわしております。
サイコセラピーのなかで 私たちがやろうとしていることは、ひとりひとりのクライエントが、彼または彼女自身のなかの分裂をなくし、それによって、ある統合性、ある全体性、ある美しさを保ちながら生きていくことができるように援助することなのです。
これが、シラーの言わんとしていることなのです。
シラーは、美の本質を 規定したばかりではなく、心理的な統合をもっている人間の像をも描いてみせるのです。
神経症の人は、それができない人なのです。
健康な人間は、その仕事においても、その愛においても、あるいはその人が 絵描きであろうと、教師であろうと、あるいは どんな職業の人であろうと、それができる人なのです。
ですから、統合性をもった人というのは、シラーが述べている意味で 遊ぶことのできる人なのです。
オットー-ランクは、シラーのエッセイのなかに心理的に健康な人間の像を見出したのです。
それは、創造すること……行為すること(creating, doing)によって、人生の矛盾を乗り越える人なのですーーーその行為が、丘の上のヒナゲシの花を 写生することであっても、あるいはまた人間を愛することであってもいいのです。
美は 私に生命力を与えた、と この章の冒頭に私が述べたのは、こうした意味であったのです…。
ロロ-メイ
(第二章ーーーおわり)
精神分析の 初期の発展のなかでの偉大なパイオニアである オットー-ランク(1884-1939) が、シラーを読んで、彼の遊び(プレイ)の考え方は、心理的に健康な人間を正確に記述している という結論に達したのも、こうした理由からなのです。
オットー-ランクの考えでは、サイコセラピーの目標は、クライエントが創造することができるように援助することなのです。
ランクは『芸術と芸術家』のなかに こう書いておりますーーー神経症的な人は、「アルティスト-マンケ」 つまり、なんの芸術も創造することのできなくなった芸術家なのだ、と。
人びとは だれでも、なんらかのかたちで 創造しようとしているのですが、芸術家は、この人生の仕事に成功した人なのです。
このようにして創造性は、フロイトが人生の二つの目的として要約したもの、すなわち 愛することと仕事をすること、とを結びつけるものなのです。
オットー-ランクは、この両者ーーー愛することと仕事をすることーーーは 創造性の局面なのだと指摘しているのですが、その点で フロイトより 一歩前進しているのです。
さて、美は 遊びから生み出されるという シラーの考え方は、人生の客観的な側面と主観的な側面を統合することになります。
ソクラテスが その祈りのなかで述べたように、内面的な人間と 外面的な人間が 一つになるのです。
このことはまた、サイコセラピーの目標をもあらわしております。
サイコセラピーのなかで 私たちがやろうとしていることは、ひとりひとりのクライエントが、彼または彼女自身のなかの分裂をなくし、それによって、ある統合性、ある全体性、ある美しさを保ちながら生きていくことができるように援助することなのです。
これが、シラーの言わんとしていることなのです。
シラーは、美の本質を 規定したばかりではなく、心理的な統合をもっている人間の像をも描いてみせるのです。
神経症の人は、それができない人なのです。
健康な人間は、その仕事においても、その愛においても、あるいはその人が 絵描きであろうと、教師であろうと、あるいは どんな職業の人であろうと、それができる人なのです。
ですから、統合性をもった人というのは、シラーが述べている意味で 遊ぶことのできる人なのです。
オットー-ランクは、シラーのエッセイのなかに心理的に健康な人間の像を見出したのです。
それは、創造すること……行為すること(creating, doing)によって、人生の矛盾を乗り越える人なのですーーーその行為が、丘の上のヒナゲシの花を 写生することであっても、あるいはまた人間を愛することであってもいいのです。
美は 私に生命力を与えた、と この章の冒頭に私が述べたのは、こうした意味であったのです…。
ロロ-メイ
(第二章ーーーおわり)