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「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

「シラーの美の理論」

2013-01-03 17:21:16 | 「美は世界を救うか」『美は世界を救う』
「シラーの美の理論」P.35~36 (第二章 美は私に生命力を与えた)おわり

精神分析の 初期の発展のなかでの偉大なパイオニアである オットー-ランク(1884-1939) が、シラーを読んで、彼の遊び(プレイ)の考え方は、心理的に健康な人間を正確に記述している という結論に達したのも、こうした理由からなのです。
オットー-ランクの考えでは、サイコセラピーの目標は、クライエントが創造することができるように援助することなのです。
ランクは『芸術と芸術家』のなかに こう書いておりますーーー神経症的な人は、「アルティスト-マンケ」 つまり、なんの芸術も創造することのできなくなった芸術家なのだ、と。

人びとは だれでも、なんらかのかたちで 創造しようとしているのですが、芸術家は、この人生の仕事に成功した人なのです。
このようにして創造性は、フロイトが人生の二つの目的として要約したもの、すなわち 愛することと仕事をすること、とを結びつけるものなのです。
オットー-ランクは、この両者ーーー愛することと仕事をすることーーーは 創造性の局面なのだと指摘しているのですが、その点で フロイトより 一歩前進しているのです。

さて、美は 遊びから生み出されるという シラーの考え方は、人生の客観的な側面と主観的な側面を統合することになります。
ソクラテスが その祈りのなかで述べたように、内面的な人間と 外面的な人間が 一つになるのです。

このことはまた、サイコセラピーの目標をもあらわしております。
サイコセラピーのなかで 私たちがやろうとしていることは、ひとりひとりのクライエントが、彼または彼女自身のなかの分裂をなくし、それによって、ある統合性、ある全体性、ある美しさを保ちながら生きていくことができるように援助することなのです。

これが、シラーの言わんとしていることなのです。
シラーは、美の本質を 規定したばかりではなく、心理的な統合をもっている人間の像をも描いてみせるのです。
神経症の人は、それができない人なのです。

健康な人間は、その仕事においても、その愛においても、あるいはその人が 絵描きであろうと、教師であろうと、あるいは どんな職業の人であろうと、それができる人なのです。

ですから、統合性をもった人というのは、シラーが述べている意味で 遊ぶことのできる人なのです。

オットー-ランクは、シラーのエッセイのなかに心理的に健康な人間の像を見出したのです。
それは、創造すること……行為すること(creating, doing)によって、人生の矛盾を乗り越える人なのですーーーその行為が、丘の上のヒナゲシの花を 写生することであっても、あるいはまた人間を愛することであってもいいのです。

美は 私に生命力を与えた、と この章の冒頭に私が述べたのは、こうした意味であったのです…。

ロロ-メイ

(第二章ーーーおわり)

「シラーの美の理論」

2013-01-03 15:49:09 | 「美は世界を救うか」『美は世界を救う』
「シラーの美の理論」P.34~35

シラーの中心的な考え方ーーー私はむしろインスピレーションと言いたいのですがーーーは、美は 遊び(プレイ)のなかで 生まれるということです。
私が最初このことを読んだとき、それは 浮ついた考えだと思ったのです。
しかし その後 私は、モーツァルトやベートーベンがピアノを プ レ イ する(演奏する)と言っていることに 気がつきました、それは表面的なこととは、まさに反対の極なのです。
あるいは 私たちは、シェイクスピアの プ レ イ(演劇)とも言います。
このように、「プレイすること」は、すべての人間の活動の中で 最も深く、最も人間的なものを指していることに私も 賛同するようになったのです。

「プレイすること」は、内面のヴィジョンと 客観的な事実の結合が達成されるひとつの活動なのです。
そこから、美という 生の形式(living form)が生まれてくるのです。
この生の形式(フオーム)は、生命をもち、生き生きとしており、ダイナミックなものですが、それと同時に、例えば音楽におけるように、静かさとやすらぎを与えるのです。

遊び(プレイ)は、人間と個人的な想念という内面世界と、人間と自然の外部世界とを結合するものです。
シラーはこう主張しますーーー「ですから遊びの本能の目的は、一般的な記述にもあらわされておりますように、生の形式と名付けられるのにふさわしいのです。この言葉によって、もろもろの現象のあらゆる美的な性質が記述されますし、また、人びとが広い意味で 美(beauty)と名付けるものを 言いあらわすことができるのです」と。
「大理石のかたまりが、生命をもっていないにもかかわらず、建築家や彫刻家の手によって生ける形式となることができますが、ある人間は、生きていて、形式をもっているにもかかわらず、その意味では 生 き て い る 形式とはほど遠いものであり得るのです。
ーーーそうなり得るためには、その形式が生命でなければならず、その生命が形式でなければならないのです。その形式だけを考えている限り、それは生命のないもの、単なる抽象にすぎないのです。ーーーその形式が私たちの感情のなかに生き、その生命が私たちの理解のなかにあるときにのみ、その人は 生きている形式なのです。
そして、いつ、どこででも、私たちが ある人が美しいと判断するときには、かならず そうなのです」。

「シラーの美の理論」

2013-01-03 10:56:23 | 「美は世界を救うか」『美は世界を救う』
「シラーの美の理論」P.32~34

さて、人間存在の極端に不統合な状態は、美の力によって 一時的ながら統合をなし遂げることができるのです。

アンジェラスの鐘の音のなかに 天使の歌を聴き、少しのあいだ頭を下げて 無限なるものと交流をするのですが、すぐにまた、畠に鍬を入れて じゃがいもを掘るのです。

このように私たちは、どんなに人間の二重性に抵抗してみても、あるいは宗教的または哲学的な一元論の偽装のもとにその矛盾を避けようとしてみても、気がついてみれば私たちは、西欧世界のコツコツ働く労働者のままでいるのです。
現代の金銭中心の文化の奴隷になっているために 私たちは、美に対する飢えを抑圧し、統合を体験する機会を 失っているのですーーー(略)

このディレンマから、一時的ながら純粋に解放される道は、美のなかにあるのです。
美は、慰めと静寂の心を与える普遍的な言葉なのです。
美は 私たちの内面に統合の感覚を与えるのですが、それは一時的ではあっても、人生の きびしい矛盾を超越させてくれるのです。
シラーも こう述べています。
「人間性という概念を 完全なものにするには、ただ、現実と形式の統合、偶然性と必然性の統合、受動的状態と自由の統合だけなのです」と。
シラーは こうも書いております。
「理性が<人間性を存在せしめよ>という命令を発するやいなや、同時に<美をあらしめよ>という法律も公布されたことになるのです」と。

こうした人間の二重性を受け入れまいとする人びとに対してシラーは、こう言うのです。
「そうした考え方ほど 不当で矛盾しているものはないのです。なぜなら、物質と形式、能動と受動、感情と思考、こうしたものの対立は 永 久 的 な ものであって、どんなことをしても和解させることができないからです」 と。

一方だけをとることは、生きることに失敗することだ、と彼は言っているのです。
人間は 固く縛られていると同時に 自由なのだ、ということに 気づいていなければならないのです。

美は、このディレンマを 消し去る方法なのではなくて、私たちが それに対処する道なのです。
美は、まさにこの主観性と客観性という性質に対処することによって、大きな福音を与えるのです。というのは、美なるものは、この二方向の性質をひとしく活気づけるとともに、それを和らげるはずですし、そしてまた、その二つをひとしく緩和しながら、同時にまたそれらを活気づけるものなのです。
私たちは、そのいずれか一方に心を傾けることによってそのパラドックスを回避しようとするのですーーー精神的な人間は、感覚的なものを回避することができた という幻想をもち、感覚的な人間はその精神を犠牲にしているのです。
しかし、シラーが官能的な現代文化を見たら、「あなたの形式(フオーム)に、あなたの精神に顔を向けなさい」と言ってそれを非難することでしょう。
「豊かな思索によって元気をとりもどしなさい!」と彼が言っているような気がするのです。
そして、精神的な人間に対しては、「感覚の世界の豊かさを忘れてはなりません。そこからすべてが始まるのですから」と叫んでいるのです。
というのは、美は、私たちの 第二の創造主だからなのです。
彼はこう言います。
「またこのことは、彼女(美)が、人間性(ヒューマニティ)に到達し、人間性を実現することを可能にするという事実と矛盾するものではありません。ーー」というのは、こうすることによって美は、第一の創造主、すなわち大自然とともどもに、人間性を実現する というこの何よりも偉大な能力を私たちに与えるばかりではなく、その能力の使用を、私たち自身の意志による決定に委ねてくれているのです」。

「シラーの美の理論」

2013-01-03 09:11:16 | 「美は世界を救うか」『美は世界を救う』
【第二章 美は私に生命力を与えた】P.30~32
「シラーの美の理論」

私を含めて多くの人びとがそう思っているのですが、現代の西欧文化のなかで、美についての最も偉大で最も豊かな理論は、ちょうど紀元千八百年直前に、フリードリッヒ-フォン-シラーによって書かれたものです。
彼は才能豊かな劇作家であったのですが、また、ゲーテがその交友を非常に大事にしていた哲学者でもあったのです。
シラーは彼の論文に、『人間の美的教育に関する書簡』(1795) という長い名前をつけています。このなかには、美の意味についての、おどろくほどに深い洞察が書かれております。
多くの人がシラーを読んだことがないと思いますので、彼の代わりにここに少し書き述べてみたいと思います。

「美だけがすべての人に幸福を与えることができます。そしてその力によって人は、自分の限界を忘れてしまうのです」。シラーは直ぐ こう付け加えます。
「しかし この忘れるというのも一時的なものです。 というのは、この限界があるという感覚は、私たちが美を創造するのに非常に大切なものだからです」 と。

私たちは確かに、一方においては自由、他方においては運命、この両者の矛盾を調整しようという努力から美を創り出すのです。
人間の限界は、ーーー人間が 同時に自然であり精神であるということ、有限であり無限であるということ、客観であり主観であるということーーーから来るものなのです。

芸術家ほど この闘争をよく知っている人はいないでしょう。
ーーー画家であろうと、音楽家であろうと、彫刻家であろうと、舞踊家であろうとーーーあるいは芸術にたずさわるどんな人であろうともーーー。

芸術家は、その内面の主観的なヴィジョンを 客観的なものにするために運命と戦うのです。

……(略)……

こうした闘争のなかから、素晴らしいギリシャ彫刻の頭の像(ハイゲイア) が生まれてきたのです。 それは、私の机の向こうから 静かに私を見つめています。
芸術家はいずれにせよ失敗する運命にあるのです。しかし、あの シュースポスのような努力によって彼らは、純粋に美しい彫刻や、絵画や、音楽を生み出すのです。
それは、世界への贈り物なのです。

有限でありながら無限であるが故にーーーシラーはその矛盾をこう述べたのですがーーー人間の想像力は、天空の星のあいだにまで飛び上がるのですが、それと同時にまた、私たちの足は地球の泥沼のなかに突っ込んでいるのです。
人間の生活に こうした限界が なければ、美もまた なかったでしょう。
オリュンポス山の彫刻家ほど偉大な彫刻家の話を聞いたことはありません。
それは、プロメテウス(Prometheus)なのです。人間の芸術の父なのですが、彼はオリュンポスの山から追放された神なのです。

さてーーー

第二章 美は私に生命力を与えた…より抜粋、

2013-01-02 19:46:05 | 「美は世界を救うか」『美は世界を救う』
【美は世界を救う ロロ-メイ】
P.28~30
……(略) 五世紀のギリシャに起こった創造の大爆発は、私たちに無限に豊かな 美の鉱床を残してくれました。
その中で 私たちは、偉大な精神を友としながら 何時間でも何日でも すばらしい時間を過ごすことができるのです。
ギリシャの人びとは、美のためには喜んで生き、喜んで死のうとしたのです。そのことについては、また第九章で述べたいと思います。

多くの科学者たちが、ギリシャ時代からずっと、美の感覚を生かしつづけてきたことは見事なほどです。
ドイツの天文学者 ケプラー(1571-1630)は、自分の発見は 直接にピタゴラスにつながるものだと信じており、遊星が太陽のまわりを回転するさまは、ヴァイオリンの弓の絃の振動が美しいのと同じ意味で美しい、と述べております。
彼が「天体の調和」を語ったとき、「創造の神よ、あなたの創造の仕事のなかに 美を見せていただいたことを感謝します」と、喜んで叫んだというのも、ふしぎなことではありません。

ケプラーはまた、「数学はこの世の美の原型なのです」と書いております。

以上の引用のいくつかは、ウェルナー-ハイゼンベルグ(1901ー1976)の書いたものから借用しました。彼自身、彼が発見した現代物理学における「不確定性原理」の 中心に美があるのだ、と言っております。
ノーベル物理学賞受賞者であるハイゼンベルグは、物理学研究者は すばらしい美に打たれて真理を発見するのだ、と指摘しております。

美は 受身的なものだと、私たちは間違って考えてしまいます。それは疑いもなく、美の能動的な力に耳を傾ける時間のない現代文化の影響なのです。
しかし、耳を傾けることは、能動的なプロセスなのです。
プラトン以来、美は、感受性豊かな人びとによって 能動的な働きとして経験されてきたのです。
美は 真理の輝きのしるしなのであり、その輝きをとおして美は、数学者や、物理学者や、また辛抱強く耳を傾けることのできるすべての人に語りかけるのです。
ピタゴラスが 二千年も前に述べたように、「私たちが 聴く耳さえもっていれば、天の星は音楽を奏でているのです」。

プラトンの イデアの世界という考え方は、直感的なものであり、半ば無意識的な暗示なのであり、それは、聴く耳をもつ人にのみ歌いかけるのです。
私がスケッチした、野原の中に咲いていた一群のヒナゲシから、この輝きが 私に語りかけてきたのだ、とさえ私は言いたいのです。
この輝きに もっと何度も耳を傾けることができるならば、私たちは なんと美しい世界に住むことができるでしょうか!

現代の偉大な数学者である ポアンカレ(1854ー1912)は、数学上の新発見が どのように生まれてくるかと自問したとき、プラトンのような答えをしております。
彼の答えはこうですーーー。
【有用な結合というものは、まさに最も美しいものなのです。つまり、すべての数学者が知っているこの特殊な感性を、最もよく魅きつけるような結合なのです……】

彼は、無意識の深層から湧き上がってくる数学理論について述べつづけるのですが、こう付け加えております。
【その多くは、数学者の美的感性にひびいてきません。「しかし、そのあるものだけが調和をもっており、その結果、それは有用であると同時に 美しいのです」】と。
そして、こうしたものが、数学や物理学という科学のなかで、貴重なすぐれた発見となるのです。

(次回の【シラーの美の理論】につづく…)