誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

明治新政府を巡る暗闘

2017-01-09 01:11:30 | 近代


大戦の敗因を探る、4

1)新政府の最大の課題は「版籍奉還、廃藩置県」だった

さて、維新直後の政府(政体政府)は明治天皇を奉じて、"前期元勲"といわれる岩倉具視、木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通を中心に運営されます。

これに対し裏の「國體政府」は、落合莞爾氏の説によると、孝明天皇とその子・睦仁親王が裏明治天皇として、三条実美ら京都に残留した公家を中心に始動します。が、後に木戸孝允、西郷隆盛が加わり、伊達宗正とその子・睦奥宗光を通じて「版籍奉還、廃藩置県」の断行を後押しします。

というのも、版籍奉還、廃藩置県は、迫り来る欧米列強や北からのロシアの脅威への対応として、天皇中心の強固な國體を形成する上で不可欠な政治課題だったからです。

当時、これを実現する上での目先の障害は、旧態依然とした幕府と西国雄藩が乱立する江戸末期の徳川幕藩体制でした。この事態を憂慮した朝廷および西国雄藩は倒幕運動を始め、戊辰戦争で徳川幕府を倒します。が、実は、「皇統二元体制の確立」とともに、

「戊辰戦争」自体、最後の将軍・徳川慶喜自身も了解の上で行なわれた"出来レース"だったと言われています。その理由は、武士階級が廃藩置県によって身分を失うことへ強い抵抗を示していたからです。それで、まず幕府側の武士社会を崩壊させるため戊辰戦争を起こします。

また、慶喜の出身母体である徳川家・水戸藩は、「大名貸(金融業)」を通じた"皇室資金(黄金の百合)"約三百万両の借り入れがあったことも、"出来レース"加担への理由とされています。

が、最大の問題は、勝利した官軍側の西国雄藩の武士勢力の存在でした。「自分たちは勝者なんだから、報償にありつけて当たり前。版籍奉還、廃藩置県など以ての外」とばかりに不満が募り、西国各地で反乱が起こります。その最大のものが明治10年の「西南の役」です。

勿論、これも"出来レース"の一つで、不満武士のリーダーを演じた西郷は掃討戦終了後その役割を終え、欧州に出国?。またこの直前に病死したとされる木戸、さらに暗殺されたとされる大久保も、戊辰戦争で負け組をこなした側とのバランスをとるため表舞台から引退、國體政府の中核に入ります。

なお、維新の立役者の一人・坂本龍馬についてですが、幕末、フリーメーソンであるグラバーの館に頻繁に出入りしていたこと、また同じ土佐出身のジョン万次郎と緊密な関係だったことから、フリーメーソンだったのではないかという説があり、坂本を接点にして明治新政府の中心人脈が形成されます。

実際、伊藤博文、井上薫は欧州に、薩摩の寺島宗則、五代友厚、森有礼も英国留学をしフリーメーソンの影響を受けたのではといわれており、これが後に"英米派"といわれる人脈形成に繋がり、とくに最後の元老・西園寺公望や近衛文麿、吉田茂らの外務省関係、さらに海軍の中心は英米派が多くなります。


2)「征韓論」とは何だったか

さて、ここで西郷らが下野するきっかけになった「征韓論」ですが、明治6年6月、対朝鮮外交問題が取り上げられ、参議である板垣退助は失業士族の救済のために、居留民保護を建前として派兵を主張。西郷は始めは派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張、後藤、江藤らもこれに賛成しました。

この「征韓論」は、江戸時代後期の国学や水戸学、吉田松陰らの思想を背景にしており、「古代日本が朝鮮半島に支配権を持ち、高句麗、新羅、百済は日本の支国だった」との古事記、日本書紀の記述を論拠として唱えられました。

例えば、佐藤信淵は「満州、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を皇国の郡県となす」とし、吉田松陰は「朝鮮を攻めて質を納れ、貢を奉ずること古の盛時の如くし、北は満州の地を、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」と獄中から弟子たちに書き送りました。

ところが、9月に欧州視察から帰国した岩倉、木戸、大久保らは、欧州の進んだ文明、技術などに圧倒され、「国内の近代化と体制固めを優先すべきで、征韓論は時期早尚である」として反対します。

この結果、政府は真っ二つに分かれ激しく対立、最終的には朝鮮へ使節派遣は取りやめになったため、西郷や板垣らの征韓派は一斉に政府から去り(明治六年政変)、明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動のきっかけとなります。

確かに、戦後の世界の常識からいったら、「征韓論」は"侵略論"にしか見えません。が、当時は世界中が侵略合戦の中にあり、特に日本は、朝鮮半島への侵略の野心を強めるロシアの脅威に直面し、朝鮮半島や満州に防波堤を築かなければ侵略されて植民地にされるという状況下にありました。

勿論、朝鮮や清がしっかりした独立国としてロシアと渡り合ってくれれば、日本にとっても安上がりで済みました。実際、当初はその方針で、日本政府も朝鮮と平和的に話を進めていました。が、鎖国中の朝鮮は国際情勢を理解できません。

また、当時の朝鮮は傾きかけた"老大国"清の属国だったため、やむなく日本は朝鮮を力ずくで開国させます(日朝修好条約)。が、相変わらず国際情勢に疎く、清に従う「事大主義」を続けたため「それなら日本が朝鮮をまともにするしかない」というのが征韓論で、後の日清、日露戦争の背景にもなります

が、「征韓論」をきっかけにした西郷らの反乱とその鎮圧は、国内的には「不平士族の一掃による廃藩置県の完成」という、隠された目的がありました。西郷らが率いた士族たちには「自分たちは幕府を倒した勝者なのに、なぜ身分や土地を失うのか」という不満がありました。

ところで、日本史上の大改革には、明治維新の他に「大化の改新」「建武の新政」があります。が、その最大の目的は「豪族や武士が所有する土地を一旦取り上げ、天皇を中心とする中央集権国家のものとする」ということでした。「建武の新政」は頓挫しますが「大化の改新」の後「律令制」は完成します。

大化の改新のときは「唐の脅威」、建武の新政のときは「蒙古の脅威」があったように、ロシアの脅威に晒された国際環境の下、旧官軍といえども士族たちの不満を認めていると旧来の藩閥が温存され、天皇を中心にした強力な中央集権国家が作れません。そのために反乱士族らは一掃されたのでした。

尚、福沢諭吉については、戊辰戦争にも参加せず、明治政府にも入らなかったためか、現実感覚のなさからロシアの脅威を前にしても「脱亞入欧」を主張。中国の脅威を前にした「九条信者」と同じ"評論家”、あるいは、後に日本を敗北へと導いた"英米派"の嚆矢いわれてもやむを得ません。

3)「脱亜論(脱亜入欧)」とは何だったか

❶大亜細亜主義と脱亜論

福沢諭吉は明治十五年(一八八二年)に訪日した朝鮮独立運動のリーダー金玉均・朴泳孝らと親交を深め、朝鮮問題に強い関心を抱くようになります。福沢は日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、欧米列強の侵略から亜細亜諸国を保護し、そのためには日本が朝鮮の近代化を指導する必要があると考えます(大亜細亜主義)。

これを受け、金玉均らの独立党(開化派)は、一八八四年十二月四日に政府要人を襲撃するクーデターを起こします。が、清への服属を良しとする事大党(守旧派)の援軍要請を受けた清朝がすぐに袁世凱を派遣したため、新政府軍はあっけなく敗れてしまいます。

かくして、支那、朝鮮の旧態依然たる体制と欧米列強に対する危機感のなさに幻滅した日本は国防上の理由、とりわけロシアの脅威に対処するため、「東亜細亜諸国との連帯」を諦めて「脱亜入欧(脱亜論)」を掲げます。つまり、欧米列強のように朝鮮半島・支那大陸に進出することで、日本の防衛戦を拡張しようとします。

福沢も一八九〇年代から、朝鮮半島を文明化・近代化するという大義名分を掲げた「朝鮮改造論」を主張するようになります。が、福沢の「朝鮮改造論」が、堀川辰吉郎や頭山満らの「大亜細亜主義」と異なっていた点は、無知で野蛮な民族に欧米の文明を伝導するという「カトリシズム(キリスト教布教)」に根ざしていた点です。


❷ユニテリアンとフリーメイソン

ここで、福沢諭吉とキリスト教、更にフリーメイソンの関係について触れますと、明治の啓蒙思想家(リベラル派)であった福沢は、国家と個人の"独立自尊"という欧米思想を掲げ、「ユニテリアン」という、キリスト教・プロテスタントの宗派と深い関係を築いていました。 

まず、ユニテリアンとは、信仰の中心を「理性」に置き、理性はやがて神になり(理神論)、それも唯一の神(unity)となるため、理性で説明できない、あるいは唯一神ではないカトリックの「三位一体説」を否定します。この結果ユニテリアンは、ローマカトリックのほか英国国教会、長老派などと対立します。

が、同じく英国国教会などから迫害され、しかも強い信仰箇条を持たない「クエーカー教」とは親和性を持つこととなりますが、クエーカーについては、特に終戦後、日本の政財界、更には皇室へも浸透したことを別項で詳述します。

一方、フリーメーソンの起源は十四世紀とされ、中世ヨーロッパの城や教会や諸都市の建物を建築して回った石工(メイソン)たちの互助組織であり、それがヨーロッパ全体広がり、さらにローマ教会の権威から逃れて自由を得るため北米にもでき、一七七六年、彼らの力によって米国が独立します。

ロンドンのフリーメーソン大ロッジの名誉議長となったクリストファー・レーン卿は、「フリーメーソンリーは、もはや自然の石から教会堂を建てるのではなくて、理性である精神から神殿を建てるのである。理性なる神の知恵の導きによって、人間の粗野な理性が照らされ研がれて神的になり、自らが神殿とならなければならない」と。

ここに「理性」を共通の価値としたユニテリアンとフリーメイソンの連携が可能になり、「ユニテリアン=フリーメイソン」の構図が出来上がるのです。


❸福沢諭吉とフリーメイソン

一方、福沢はキリスト教の排斥者として知られていますが、欧米啓蒙思想家の例に漏れず、彼が攻撃の対象としたのは権威主義的なカトリックでした。その証拠に福沢は生涯でカトリック以外の英国人十二人、米国人七人の宣教師と関わっています。

特に英国国教会高教会派の牧師で外交官(情報将校)のA・C・ショーを自分の子女のための住み込み家庭教師として雇い、また、慶應義塾の倫理学教授の職を与えて聖書を教える事を許し、信仰を持った学生たちへの洗礼まで認めています。

この結果、三女の俊(とし)、四女の滝(たき)、孫の清岡暎一などもショーが建てた聖アンデレ教会で洗礼を受け、クリスチャンとなります。が、福沢の本音としては、当時、アジア諸国を植民地化していた英国に好感を持っていませんでした。

そこで福沢は、自由と民主主義が全開した、よりリベラルに見えた新興国家の米国に関心を向けます。実際、明治八(一八七五)年に出版した『文明論の概略』の中で「英人が東印度を支配するに、その処置の無情残刻なる、実にいうに忍びざるものあり」と書いています。

そして福沢は、英国人ではない、米国人のユニテリアン宣教師でもある学者たちを、ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学から日本に招きます。

福沢とユニテリアンとの出会いは、福沢が腸チフスに罹った明治三(一八七〇)年で、この時、彼を救ったのがユニテリアンであったドクトル・シモンズ医師です。これがきっかけで福沢とシモンズは親交を深め、明治十六(一八八三)年、息子の一太郎と捨次郎を米国留学させるに当たり、シモンズに息子の後見人を頼み、

シモンズは一太郎を自宅に下宿させるほどの関係を築きます。このことは、「シモンズを外国人中の最親友」と『福沢諭吉全集』 にも記述しています。この結果、福沢の息子たちはシモンズ夫妻のユニテリアンのサークルに溶け込み、一太郎は父に宛てた手紙で「ユニテリアン教を慶応義塾に広めた方が良いでしょう」と提案しています(『ユニテリアンと福沢諭吉』)。

ユニテリアンへの接近は明治政府も行い、特に伊藤博文と金子堅太郎(セオドア・ルーズベルトの学友)、森有礼(駐米国大使)もユニテリアン宣教師の招聘に動きます。

が、英国から独立した民主主義国家の米国も、形は変えたとはいえ「理性」という価値によって結びついたキリスト教の一派であるユニテリアン、あるいはクウェーカー、さらには欧米グローバリストの秘密結社フリーメイソンのネットワークの中にあり、これに気づけなかった福沢ら日本の啓蒙思想家(英米派)は、日本のメイソン化(キリスト教化)に利用されたのでした。


❹脱亜論の真意

以上見てきたように、「大亜細亜主義」にせよ、「カトリシズム(キリスト教布教)」にせよ、「脱亜入欧(脱亜論)」の真意は、アジア、そして朝鮮半島に対し無関心になれというのではなく、「欧米列強に対抗するためにはアジアの前近代的な文化、社会、政治システムを脱し、欧米的な近代化を取り入れるべき」という点にあります。

その証に、福沢も、明治二十七年(一八九四年)三月、日本亡命中の金玉均が暗殺される事件に対してその死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置します。また同年4月、東学党の乱を理由に清が再び朝鮮出兵を開始すると日本も出兵、戦争となりますが、福沢は終始、政府と軍を支持しアジア解放戦争を支持します。

ただ、堀川辰吉郎や頭山満ら國體派(国粋派)の信奉する「大亜細亜主義」と、福沢諭吉や伊藤博文ら開明派(国際派)が主張する「カトリシズム」の違いは、前者が「精神文化はアジア的多神教」を維持するのに対し、後者は「精神文化についても欧米流一神教文化が流入することもやむを得ない」とする点にあります。

そして、この両派の微妙な違いが後々国論の分断をもたらし、日本を敗戦に導く外務省や海軍内に巣食った"英米派"の暗躍、そして戦後の高松宮と三笠宮を中心にした皇室内対立の遠因となります。ちなみに、"戦後英米派"の中心人物でクリスチャンの吉田茂の愛読書は「福翁自伝」だったそうです。

ともあれ、このように、「脱亜論」の目指すものは「欧米列強からのアジア解放」であり、やがてこの思想は「八紘一宇」に収斂し、朝鮮併合、満州国建国(満鮮経略)という形で結実しますが、いずれにせよ昨今、「脱亜論」という言葉がその地政学的意味を等閑視した形で一人歩きしていることは残念なことです。


4)「開明派」と「国粋派」

その後、版籍奉還、廃藩置県を成し遂げ、治安の回復を図った明治政府は、進んだ欧米文化を積極的に取り入れるべきとする「開明派(欧米派)」と、東洋的な道義国家像を理想とする「国粋派(国権派、亜細亜派)」の2大勢力に分かれます。

開明派の中でもより欧米化を進めていたのが大隈、井上、伊藤ら("後期元勲")でした。ただ、開明派(=欧米派)といっても、伊藤の場合はウィーンに留学、L・シュタインからドイツ憲法とビスマルク流の政治学を学んだことから、後の"英米派"とは若干スタンスを異にします。

これに対し国粋派には、明治六年政変で下野した西郷、後藤象二郎、江藤新平らの流れを汲む板垣退助、山県有朋らがいました。板垣退助はその後"反体制色"を強めて「自由民権運動」を起こし、後に最後の元老で"黒幕"的存在になった西園寺公望ら"英米派(民主派?)"に影響を及ぼします。

一方の山県は、"前期元勲"らが去った後、本格的に陸軍を編成し、文官試験制度の創設などで陸軍と官僚の頂点に立ちます。が、欧州留学経験がなかったため、議会、政党の意向には耳を貸さない"国権派"ともいうべき「超然主義」の立場を貫きますが、背後には西郷隆盛がいたと言われています。


4)日清戦争と三国干渉

さて、日本は朝鮮を開国させた後、朝鮮の近代化を目指し、日本、支那と三国で連携して亜細亜の衰運を挽回するべきだとした親日派の金玉均を支援します。が、「甲申事変」が失敗に終わり、初めは改革に理解を示していた李王朝も土壇場になり清への服従を選びます。

こうした朝鮮の体たらくによって自主的な近代化の可能性がついえます。かつて元寇の際、「元」は朝鮮半島(高麗)支配の後に日本侵略を計画、実行しましたが、日本にとっては、日に日に当時、世界最大の軍事国家であったロシアの脅威が現実味を増してきます。

そこで遂に、明治27年8月、日本は朝鮮の宗主国で、半島に大軍を派遣していた清に宣戦布告し先手を打ちます。そして、第一軍司令官・山県有朋らの活躍で平壌、黄海で勝利し清を屈服させます。その結果、下関条約で朝鮮半島から撤退させ、台湾と遼東半島を獲得します。

ところで、日本の背後には中国大陸に利権を持ち、日本と同じくロシアの南下政策に危機感を持っていた英国がいました。実際、駐清英公使のウェードは、「日本は台湾ではなく朝鮮に進出せよ。そうすれば欧州各国は日本を支持し、英国は日本を援助する」と発言しています。

ところが、下関条約後の明治28年4月、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」が行なわれ、血を流して獲得した遼東半島を返還させられます。英国は表には出てきませんでしたが、日本はロシアを除く欧州列強にまんまと利用され、日清戦争を戦ったのでした。

実際、この後、列強は戦争で体力の劣った清にハゲタカのように襲いかかり、ドイツは膠州湾、フランスは雲南省、英国は威海衛の権益を手に入れ、本来の敵であるロシアまで出てきて、旅順、大連から満州にかけての南満州鉄道の権益を握ります。

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