誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

台頭し始めた”英米派”

2017-01-09 09:53:54 | 現代


大戦の敗因を探る、6

1)満州鉄道を巡る日米の駆け引きと日韓併合

日露戦争で日本は勝利しましたが、ポーツマスでの講和条約で大幅な譲歩を迫られます。軍事的には敗北を認めていないロシアは強気で、朝鮮半島における日本の"優越権"と満州鉄道の権益、そして樺太の南半分の割譲を認めただけで、巨額の賠償金の支払いは拒否します。

このため、国内では、20万人の血を流した満州の地への拘りから、政府の軟弱姿勢を攻撃する暴動が起き、東京の7割以上の交番が襲撃される等の争乱となります。

ポーツマス会議を取りはからったのは米国大統領のセオドア・ルーズベルトでしたが、その真の狙いは、日本とロシアを戦わせて均衡を図り、自ら満州進出への足がかりを得る事でした。そのため、日本が満州で支配力を強めることを警戒し、日本に有利な条件を進めることはありませんでした。

その結果、満州鉄道の権益を手に入れたとはいえ、その運営資金がない日本に対し米国の鉄道王・ハリマン(ユダヤ人)が来日、鉄道の買収を提案し、英米派の元老・井上と財界の大物・渋沢栄一などの推しもあって一旦は覚書を交わします。

が、帰国して来た外務大臣・小村寿太郎が激怒。覚書は撤回され、逆に「フリピンにおける米国の優越権を承認する代わりに日本の朝鮮半島での優越権を承認させ、また、第二次日英同盟締結の際、英国に対し、日本が「朝鮮を指導、監理、保護すること」を承認させ、「日韓併合」を行ないます。

が、これを境に、満州、そして支那大陸での支配権を強化、拡大しつつある日本に対し米国の警戒感が高まり、太平洋における対日「オレンジ計画」が立案されます。そして、一連の仕事を終えた桂太郎内閣は明治39年12月に総辞職し、"英米派"西園寺公望が組閣します。

2)無益な軍備増強を始めた山本権兵衛

ところで、日本を仮想敵国にした「オレンジ計画」を策定した米国ですが、これはあくまで支那大陸での日本の勢力拡大を警戒するもので、太平洋での日米直接対決を想定したものではありませんでした。したがって、米国は、日米開戦後に成立させた「両洋艦隊法」まで海軍の増強はしません。

一方、日本では、日露戦争で傾いた国家財政を立て直すため、参謀総長になった児玉源太郎が、将来予想されるロシアとの最終決戦を想定した装備の近代化による、それまでの歩兵中心だった師団数の大幅削減計画を提案します。

が、海軍の山本権兵衛はこれに猛反対。亜細亜を舞台にしたロシアとの決戦構想では海軍の出番がなくなり、陸軍予算の縮小とのバランス論からの海軍予算の削減を警戒、「統帥権の独立」要求と同じ"縄張り意識"が再び頭をもたげます。

そして、児玉の急逝後、これを奇貨とした山本は「第1次対米戦備増強計画」を要求、明治40年4月には「帝国国防方針」で米国を仮想敵国とした大規模な軍備増強を図る「八八艦隊計画」を認めさせます。この結果、海軍予算が国家予算の34%にも達します。

3)屈辱のワシントン、ロンドン軍縮会議

この後、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発します。日本を利用して帝政ロシアを叩き、革命にも成功した英米は、今度は亜細亜において山東半島に利権を持つドイツを追い出すため日本に参戦させます。が、大戦後は利用価値のなくなった日英同盟を破棄します。

それどころか、日本の海軍力の増強を警戒した英米は、大正10年(1922年)のワシントン会議で米英日の主力艦比率を、昭和5年(1930年)のロンドン会議では補助艦比率をそれぞれ5・5・3にするよう要求します。

これに対し、当時の濱口内閣は放漫財政再建を掲げ、さらに日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控えていたこともあって軍事費の削減を実現する条約案の受け入れに積極的でした。また、外相の幣原喜重郎や外務次官の吉田茂らも"英米協調路線"の立場から推進します。

このため、条約は10月には批准されますが、海軍内部では条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立が生まれます。また、濱口内閣の蔵相の井上準之助も緊縮財政を進め、海軍の予算を大幅に削ったことも艦隊派の不満を高めます。

「条約派」の主な人物は、加藤友三郎、岡田啓介、財部彪らでしたが、幣原喜重郎や吉田茂も含め、"英米派の黒幕"西園寺公望の息のかかった勢力でした。が、元を質せば、英米の警戒感を買う大建艦計画を推進したのは山本権兵衛でしたので、いずれの立場が良かったかは一概には断じ得ません。

が、これをきっかけに「統帥権干犯」問題などが起き軍部内に不満が募ります。また井上順之助は、緊縮財政の一方で、第一次大戦後起きた世界大恐慌からの経済回復を貿易拡大で図ろうと「金解禁」を断行します。

「金解禁」とは、「金貨」ないし金と交換できる「兌換紙幣」を発行、流通させる政策で、円の国際信用力を高め、海外取引を活発化させようとの狙いで行なわれました。が、急速な円高になって物価は下がり続け、デフレ進行で不況が深刻化します。また、貴重な金貨が大量に海外に流失します。

にも拘らず、三井、三菱、住友などの財閥は投機によって莫大な利ざやを稼ぎます。この結果、軍部の他に国民や右翼の間にも不満が鬱積し、「3月事件」や「11月事件」「血盟団事件」「5・15事件」「2・26事件」などが起こり、それが最終的には「大東亜戦争」の原因にもなるのです。

4)西園寺公望の正体

日露戦争まではなんとか乗り切って来た日本でしたが、大正時代以降は英米の圧力の下、様々な問題を抱え、徐徐に追い込まれて行きます。その背景には5〜6人の「元老」の存在があります。元老は主に首相の奏薦、開戦・講和、条約の締結等に関して事実上の決定権を持ちました。

当初は、"英米派(鹿鳴館派)"の井上馨、"欧州派(ドイツ派)"の伊藤博文らに対し、軍閥代表で"反英米志向"の山県有朋の3人が、均衡を図りながら国家運営が行いました。井上、伊藤亡き後は山県が権力を独占しましたが、児玉源太郎らの活躍により国家運営は安定していました。

が、とくに児玉、山県亡き後は軍部、政界にきしみが生まれ、不安定さを増してきます。その陰に、戦前の日本で事実上の首相決定権を持ち、後に様々な売国的行為を行なった海軍や外務大臣などを通じて大東亜戦争を敗北に追いやったと言っても良い最後の元老に"英米派の黒幕"西園寺公望の存在があります。

西園寺は公卿・徳大寺公純の二男に生まれ、明治3年、21歳のときフランスに留学しソルボンヌ大学で10年間、急進的社会主義者に師事、このときに欧米流の"民主主義?"を学び、"フリーメイソン"に入社したと言われています。

このような西園寺の影響下に置かれた人脈は、軍部(海軍)では斎藤実、岡田啓介、米内光政、山本五十六、政官界(外務省)では牧野伸顕、原敬、犬養毅、近衛文麿、幣原喜重郎、重光葵、吉田茂、財界では福沢諭吉の作った交詢社を中心に三井の池田成彬、住友吉佐衛門、五島慶太など多岐にわたります。

西園寺が、先ずその正体を現した出来事として、大正元年の「陸軍二個師団増設問題」があります。既に述べたように、児玉源太郎はロシアとの最終決戦を意識した陸軍の近代化と財政再建を念頭に大幅な軍縮を提案しますが急逝。その後、これを奇貨とした海軍の山本権兵衛が海軍の軍備増強を主張。

これに対抗して、陸軍でも上原勇作陸相(後の陸軍皇道派の巨魁)が、陸軍の二個師団増設を主張。が、西園寺は、山本らが要求する戦艦3隻分の予算600万円は認めたものの、二個師団増設予算200万円は拒否。このため、怒った上原は辞任、陸軍大臣を欠いて内閣も総辞職となります。

晩年の西園寺は、昭和15年に逝去するまで静岡県興津の「坐漁荘」に隠居した形を取りながら、側近の原田熊雄(祖父がミカエル・ベアというユダヤ系ドイツ人)を通じて各界の重要人物と接触、"院政"を引きます。この間、2・26事件でも暗殺の対象とされるなど、"国粋派"に睨まれます。

5)シベリア出兵の隠された目的

第一次世界大戦前後の触れておくべき出来事として「シベリア出兵」があります。大戦が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済も破綻、1917年2月に2月革命、11月には10月革命が起き、ロシア帝国は1918年に崩壊します。

革命政権は単独でドイツ帝国と講和条約を結んで戦争から離脱したため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは苦戦。連合国はドイツを再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図して開始されたのが「シベリア出兵」です。

出兵の大義名分は、「革命軍によって捕虜にされたチェコ兵士を救出する」ことでしたが、ウラジオストックに集めていたロシアの軍需物質や資産がドイツに渡るのを防ぐという目的もありました。

出兵の主力は、余裕のない英国・フランスに代わって日本とアメリカになります。1918年の夏に出兵された各国の兵力は、日本7万3,000人、アメリカ7,950人、イギリス1,500人、カナダ4,192人、イタリア1,400人でした。
日本側の目的としては、日露戦争後のポーツマス条約で失った利権を奪還すること、利権が絡んだ満州はロシアと国境を接していたこと、日本の天皇制とイデオロギー的に相容れない共産主義が同地域に波及することを阻止することなどが挙げられます。

一方、連合国、とくにフランスは、露亜銀行の保有する莫大な資産の保全をも目的とします。露亜銀行はロシア皇帝系資本の他、クレディ・リヨネ等のフランス資本の露清銀行を母体とし、1910年8月にソシエテ・ジェネラルの子会社の北方銀行と合併して設立されます。

その預かり資産はロシア皇室が持つ外債の他、シベリア最大のレンスキー金鉱山から採掘された黄金など莫大なものでした。が、ロシア革命により国立銀行に編入され、革命政権側に渡る危険があったため、資本金の一部を保有するフランスは死に物狂いになって資産保全を目論みます。

そんな中、圧倒的な数を誇る日本軍は、革命政権が組織した赤軍や労働者・農民から組織されたパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに進行、バイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大します。

ところが、1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって大戦が終結すると、連合国はシベリア出兵の大義を失ったたため、1920年には欧州勢から相次いで撤兵を始めます。日本の大陸進出を快く思っていない米国も、革命勢力の拡大に干渉しないよう撤兵します。

が、日本軍は、1920年(大正9年)3月から5月にかけて、共産パルチザンが黒竜江の河口にある尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)の日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人を虐殺した(尼港事件)こともあって駐留を継続します。

そして、日本にとってのシベリア出兵の隠された目的は、ロシア皇室が長年蓄積していた黄金などの莫大な財宝(その多くは前述の「露亜銀行」に保管)を"預かる"ことだったのです。このことと"黄金の百合"の関係についての詳細は別稿に譲ります。




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