誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

藤原氏によって改竄された日本書紀

2017-01-07 20:20:19 | 古代史


①本項では、「乙巳の変(乙巳の変)」、「白村江の戦い」、「壬申の乱」という古代日本の重大事件を、各豪族の背景、関係を中心に描き、国史「日本書紀」の信憑性に疑問を投げかけます。

1、古代における天皇家と半島の関係 

②既に述べたように、海洋国家である日本には、太古よりシベリアはもとより操船技術によって太平洋、東南アジア、中東等から多くの民族が渡来しています。このため、日本民族の特徴は「海人民族性」にありますが、特に大和朝以降の古代史を語る上では、朝鮮半島との関わりは避けて通れません。

③まず、「スキタイ系騎馬民族」で古代ユダヤ十支族の秦氏は、秦朝滅亡後、中央アジアに「弓月」という国を作っていました。が、漢による万里の長城造営などの苦役を受けたため、これを逃れるため大和朝の半島国家「任那」の影響下にあった朝鮮半島に移住、日本の支国である「秦(辰)韓」を作ります。

④一方、半島進出を目論む「アーリア系騎馬民族」の漢による脅威に対処するための民族融和工作として、大和朝の孝昭天皇(縄文海人族)は、古代ユダヤ人海部(物部)氏と合族した海人族・安曇氏が作った九州の支国・倭国の姫を「任那」に派遣、秦氏らとの部族間交雑を図ります(第一次奉迎工作)。

⑤その結果生まれたのが、"任那族"の王子「イニエ」で、孝元天皇から息子・開化天皇の第一皇子として迎えられ、崇神天皇として即位します。

⑥同様に、「スキタイ系騎馬民族(扶余族)」の集結地だった豆満江河口付近の羅津には、孝元天皇の皇子「彦太(ヒコフトニ)」を派遣、同じく縄文海人族 とスキタイ系騎馬民族との交雑を図り、その結果生まれたのが"八幡(ヤハタ)族"で、数代後の「ホムダワケ」が応神天皇として迎えられます(第二次奉迎工作)。

⑦これらの"奉迎工作"には、スキタイ系騎馬民族の持つ優れた技術を取り入れる一方で、アーリア系騎馬民族に対抗できる海人族を育て「海人族の騎馬民族化」、また、 「カラ族」の子孫であるスキタイ族が各地の河口付近で集めたり、傭兵をやって稼いだ莫大な砂金を譲り受けるという目的もありました(後の"黄金の百合")。

⑧ちなみに、"八幡族"ホムダワケ(応神天皇)の数代後の「オホド」は、その後の高句麗の台頭によって南下、半島における大和朝最後の緩衝国家(前線基地)であった百済の「武寧王」になりますが、大和朝の後継者問題から急遽帰国、「継体天皇」となったことはすでに述べた通りです。
 
2、秦氏とは 

⑩既に一部紹介した古代ユダヤ十支族の「秦氏」ですが、改めてその事跡と政治的な関わりについてその詳細を述べると、まず、最初に渡来した九州の「豊国秦氏」は、人材確保のため高句麗、新羅、百済から多くの技術者を呼び、その結果、秦氏は国家財政を掌握、養蚕・紡績の技術も活用して産業振興に貢献し、各地に大型の古墳を造営します。

⑪また、秦氏の一部は山城国へ移住したため、丹波は養蚕や服飾の中心地となります。また、6世紀の「秦河勝」は聖徳太子や蘇我氏と密接になり仏教を推進しました。さらに、山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携して、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てます。

⑫ただし、秦氏の中央での政治的影響力は、海人系第二十四代武烈天皇の代に大きく後退、その後は、地方豪族として産業振興に専念し、古代の華僑としての手腕を発揮します。というのは、海人族・橘氏に支援された「彦太尊(ヒコフトニ)」が、第二十五代「継体天皇」となったためです。

⑬その後、継体崩御から4代後の欽明天皇の即位に至るまで、朝鮮半島政策を巡って全国的な内乱が続きます。その最大のものが645年の「乙巳の変(大化の改新)」で、これを契機に百済色が大和朝廷に浸透、それが天智天皇まで続きます。

3、聖徳太子の実像と蘇我氏の謎

⑭次に、「乙巳の変(大化の改新)」への伏線となる「聖徳太子」と「蘇我氏」の実像に迫ります。

⑮日本書記の論理では、「"聖者"聖徳太子が進めようとした律令制等の諸改革に抵抗し、太子の子である山背大兄(やましろのおおえの)王ら一族を殺害した悪人・蘇我一族を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足こそが古代日本の英雄である」というものです。

⑯まず、聖徳太子ですが、その実在性を含め、「厩戸(うまやどの)皇子」=「蘇我馬(うま)子」=「キリスト(我、馬小屋で蘇る)」等の奇説もあります。一方、日本書紀には、用明天皇と穴穂部間人皇女(蘇我稲目の孫)との間の子と書かれていますが、推古天皇の子「竹田皇子」という説も有力です。

⑰中には、「聖徳太子不存在説」などの邪説もありますが、蘇我馬子が建てた元興寺(飛鳥寺)の「元興寺縁起」にも、「推古天皇は池辺天皇の子・等与刀弥弥大王(聖徳太子)、および蘇我馬子に仏法の興盛を促し…、元興を建てさせた」とあることから実在したことは確実です。

⑱ところで、聖徳太子が"聖者"とされた理由は、「律令制」「冠位十二階制」「十七条憲法」「仏教の国教化」「随との国交樹立」等が偉業とされるためです。「律令制」は、各豪族から領地を取り上げ一旦朝廷のものとし、その見返りに「冠位十二階」を授け、「十七条憲法」で天皇を最高の地位に位置づけ、

⑲アジア情勢の不安定化に対応できる強固な國體を作る。一方で、当時、国際教養として広がりつつあった「仏教」の普及を通じて各地の豪族の融和を図りながら、最大の脅威であった「随との国交」を平和裏に樹立することでした。

⑳が、これらの偉業は聖徳太子自身によって成し遂げられたものではなく、外交は小野妹子、経済は秦河勝、内政は蘇我馬子らによるものです。ただし、明治維新の際の「廃藩置県」に匹敵し、有力豪族の抵抗が強かった「律令制」については未完成のままでした。

㉑にもかかわらず、日本書紀で聖徳太子の存在が過剰なまでに"カリスマ化"されているのは、「だから太子の一族を滅ぼした蘇我入鹿は悪人で、それを討った中大兄皇子と中臣鎌足は英雄だ」と誘導したい、編纂者の思惑が透けて見えてきます。

㉒ちなみに、聖徳太子に関して語るとき、太子の建てた法隆寺の「再建・非再建論争」が有名です。非再建説は、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っているという主張。

㉓これに対し再建説は、「日本書紀・天智9年(670年)4月30日条」にある「夜半之後、法隆寺に災けり、一屋も余ること無し」との記述等を根拠にし、さらに哲学者の梅原猛は「聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏が、その怨念を恐れて供養のために再建した鎮魂の寺(隠された十字架)」と述べています。

㉔が、平成16年に国立奈良文化財研究所は、金堂の屋根裏に使われている木材をデジタルカメラで撮影し、そこから建立年輪年代を測定。それによると、部材が650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀がいう炎上の670年よりも前の伐採だと発表。ここでも日本書紀の矛盾が指摘されました。

㉕一方、聖徳太子の子であることが"常識"とされている悲劇の"聖者"山背大兄王ですが、実は、日本書紀を含め太子の子だったという記録はなく、まためぼしい業績も残っておらず、さらに聖徳太子が作った法隆寺にも祀った形跡がなく、果たして日本書紀が持ち上げる程の"聖者”だったのか疑問です。

㉖それどころか、「上宮記」「法王帝説」によると、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘・「刀自古郎女」とあります。

㉗むしろ、蘇我氏は、物部氏と同じ古代ユダヤ十支族である"海人族(出雲族=カラ族)"で、日本書紀の編纂者である藤原一族からは疎ましい一族だったと考えられます。ちなみに、「蘇我」は「宗我」ともいわれ、物部一族の「長宗我部」氏との関係も窺われます。 

4、日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体

㉘そして、645年、「乙巳の変(大化の改新)」が起こります。日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされていますが、これは後に日本書紀の編纂に関わった藤原不比等による改ざんの可能性があります。

㉙むしろ真実は、混乱が続く国内をまとめ、随(後に唐)などのアーリア系騎馬民族の脅威に対抗できる強固な國體を作るために、聖徳太子と蘇我馬子、秦河勝らが進めていた「十七条憲法制定」「律令制の導入」などの大改革に抵抗したのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の方だったという説があります。

㉚また、当時の日本と唐の国力比から言って勝ち目のない、したがって日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」に、"百済救援"という名目で、現代の人口比でいえば約200〜300万人にも上るという大軍を送ることを天智天皇に執拗に迫ったのは中臣鎌足でした。

㉛実は、その背景には鎌足の出自にまつわる謎があります。まず、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、660年9月に使者を立て、救援とともに「人質として日本に居た百済王子・豊章(ほうしょう)を召喚し王にしたい」との要請をします。

㉜豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い謀反の疑いで殺害。知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」とされています。一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が、日本書記から完全に欠落しています。

㉝このようなことを考えると、中臣(藤原)鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり、鎌足は"百済王・豊章"だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

㉞ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でした。が、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

㉟また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに、「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」と漏らしたとの記録があります。「韓人」とは「朝鮮半島地方の人」という意味があります。

㊱さらに、鎌足は「乙巳の変」などの一連の改革の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、不比等についても律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。これは「国籍条項」があったためと言われています。

㊲一時は、「壬申の乱」によって陰に追いやられ、鳴りを潜めていたた藤原氏でしたが、天武天皇の崩御後、不比等が復活します。そして、あれだけ抵抗していた律令制などの諸改革に対する姿勢も変え、「大宝律令」を発する等して完成させます。

㊳が、諸改革を実質的に成功させたのは天武天皇であり、流れに敏な不比等はその後「律令」の解釈権を独占。例えば、「皇后」の資格についても明確な規定がなかったため、それまでの「皇族から選ぶ」という慣習を無視して自家から輩出、"天皇家への浸透"を進めました。

㊴そしてその後、天武天皇系の「長屋王」、藤原氏に抵抗した聖武天皇の子「安積親王」を暗殺、藤原一族による横暴に危機感を抱き改革を進めていた「菅原道真」の追い落としなど、藤原一族は海人族の復権を阻止しながら朝廷内での絶対的な支配権を確立します。

㊵以上の経緯に鑑みるとき、日本の"名門一族"と称される一方で、巧に権力を掌握した狡猾な藤原一族は"百済人"であった可能性が見えてきます。なお、後年、藤原氏の末裔・近衛文麿(戦前のスパイ事件・ゾルゲ事件の中心人物)は、昭和天皇と会話するとき足を組んで椅子に座っていたといいます。

5、民衆から非難されていた天智天皇(中大兄皇子)

㊶最後に、中臣鎌足が担いだ「中大兄皇子」について考察しますと、実は「白村江の戦い」の前後、中大兄皇子に対する民衆の不満は頂点に達していたようです。

㊷当時の斉明天皇(女帝)は、飛鳥周辺で大規模な土木工事を開始。飛鳥の天香具山の西側から石上山(いそのかみやま)に至る長い水路を掘り、舟二百艘を使って石上山の石を積んで、宮の東の山に石垣を構築します。が、当時の実権は、すでに中大兄皇子と中臣鎌足に移っていました。

㊸中大兄皇子が飛鳥の東側に巨大な石垣を造ったのはもっぱら軍事目的で、それは中大兄皇子、中臣鎌足が目論む百済遠征中に飛鳥で不穏な事態が生じたときのための布石にほかなりませんでした。 

㊹民衆が不満を抱いたのも、中大兄皇子、中臣鎌足が進める"百済救援策”を無謀と判断していたからで、そのため、遷都や大土木工事も反発を招き、民衆は各地で暴徒と化したと言われています。

6、天武天皇と対立していた中臣鎌足

㊺加えて、「壬申の乱」の前後には、中臣鎌足と「大海人皇子(後の天武天皇)」との間にも確執があり、当時、天智天皇自身も、皇位を弟の大海人皇子ではなく、自分の子の大友皇子に譲りたいと思っていました。そして、鎌足も大海人皇子の即位を阻止するために暗躍していたようです。

㊻実際、漢詩集「懐風藻」によると、来日していた唐の劉徳高が夢を見て、大友皇子が皇位を継承しようとすると、邪魔者が横取りしてしまったと鎌足に話すと鎌足は、「天道親なし、ただ善をのみこれ輔(たす)く」といい、皇子が徳を修める限り、皇位はかならず転がり込むと、大友皇子を持ち上げています。

㊼そして、ここにいう邪魔者が大海人皇子であることからすると、鎌足が大海人皇子の廃太子を願っていたと考えることできます。鎌足は壬申の乱の直前に亡くなりますが、その子・藤原不比等も、父にならって大友皇子側についたため、敗戦の憂き目にあいます。

㊽事実、藤原不比等は天武天皇在位中は、まったく日の目を見ず、歴史に登場するのは天武天皇崩御後のことです。この間、不比等は朝廷から干されていた可能性が高く、とするならば、不比等が天武朝を美化するような歴史書・日本書紀の編纂をおもしろく思っていたはずはありません。

㊾逆に、天武天皇の存在を抹殺しようと企んだ疑いさえあり、日本書紀のなかで天武天皇の前半生がまったく空白なのはそのためだとも言われています。

7、「壬申の乱」へ

50,ともあれ、「乙巳の変(大化の改新)」により主導権を握った天智天皇は白村江へ派兵しますが大敗、日本は重大な危機に直面します。この事態を憂慮した尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら"縄文海人族"は「大海人皇子」を立て「壬申の乱」を起こします。                                           

51、その結果、東国方面の海人勢力に支援された大海人皇子が勝利、天智天皇派と中臣派(後の北朝皇統を形成)から主導権を取り戻し、東アジア情勢の不安定化に対応できる強力な"海人族中心"の天武政権を樹立します。

52,大海人皇子は「天武天皇」として即位(後の南朝皇統を形成)、「古事記」を編纂させて国家神道を立てます。ただ、教義の根本を"天孫史観(騎馬民族史観)"に置いたのは、身内同様の海部氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を基本にしつつも、他方で残存の天智系騎馬民族派との融和も図ったからと考えられます。

53,海人政権が復活した天武天皇以後、称徳天皇までが海人族の時代でした。が、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、その後、文武、聖武王朝などで百済色が復活し て海人勢力の後退が明らかになります。この間、かつて朝廷に影響力を持った秦氏に代わって藤原氏が再び暗躍し始めます。

8、日本書紀は”偽書"?

54、以上見てきたところからすると、日本書紀の内容には疑問が持たれます。正式な国史書となると、時の権力を掌握する者にとって執政の有力な武器となります。実際、洋の東西を問わず、時の権力者が自らに都合良く編纂、改ざんするのが世の常です。

55、例えば、「白山菊理(ククリ)姫」は、大和王朝の三代前の「白山王朝」の祖神ですが、「古事記」にはいっさい登場せず、また「日本書紀」でも、伊奘諾(イザナギ)が黄泉の国で見てはならない伊邪那美(イザナミ)の姿を見て揉めた時、菊理媛が伊奘諾に言葉をかけて収める話に僅かに現われるだけです。

56、日本書紀の編纂者にとっては都合の悪い存在、あるいは夫婦喧嘩を仲裁してしまうぐらいの上位の神だったのではないかと推測される所以です。

57、この他、平清盛の時代に、常陸国から「第三次修正日本書紀」という勧学院派の九世紀のものが多賀城にあったと献納にきた者がいました。が、それば藤原氏を"天孫族"とし、唐や朝鮮からの大陸人を"良"とし、それ以外は"賎"としていたため清盛は激怒、

58、その者を斬首にした上で書き直し、「天(あま)とは、古代アラブの水の意味で、大船団で熊野に入ってきた平家一門こそ、天の一門なり」とさせて、第三次日本書紀を焚書した事は、兵庫県西宮の荒深道太郎氏が「綜合古事記純正講本」で発表しています。

59、さらに、この清盛によって改められた第四次日本書紀は、「壇の浦合戦」で安徳天皇の御座船にあったのを梶原源太が入手して北条政子に奉ったところ、旧平家でも新平家でなく、紀元前から漂着していた古平家の系統にある政子が、改めて「古平家日本書紀」として大江広元に編纂させましたが、「元寇」の際、異国を刺激する危険性があるとして焚書されました。

60、結論として、「日本書紀」は幾度となく時の権力者によって内容が改変されたことが窺われ、例えば、「大化の"改新"」と称して、蘇我入鹿を倒した天智天皇、中臣(藤原)鎌足を英雄扱いし、他方で「壬申の"乱"」と称して、天武天皇を大きくは扱っていないなど、真実を歪曲した”偽書"である可能性が出てきます。


古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!

2017-01-07 20:17:06 | 古代史


<古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!>

1、「半島騎馬民族説」のデタラメ 

①ここで改めて、「日本人や天皇家の起源は朝鮮半島だ」とする"半島騎馬民族説”の怪しさを、北方アジアの諸民族との関係で精査します。まず「騎馬民族」ですが、一般的にはユーラシア内陸部で馬を飼育し、衣食住ばかりでなく、対外的な活動の主体とした"遊牧民"をいい、

②中央アジアの「スキタイ人」に始まるとされます。この「騎馬民族」について、東アジアでは具体的には匈奴、高車、突厥や後のモンゴル(蒙古)などの種族を指します。これは、支那古代の「北狄」を意識したものです。

③この北狄の東南の森林地帯にいた「東夷」と称した「ツングース系」については、一部に騎馬民族的な者も含まれていましたが、"半猟半農"の色彩が強かった事を考えると厳密な「騎馬民族」とは異なるようです。

④江上波夫(東京大学)は、「朝鮮半島の騎馬民族が日本にやってきて大和朝廷を開いた」などと馬鹿げたことを言っています。が、まず「新羅」ですが、建国にはツングース系の「非騎馬民族」が関係したとみられ、組織的な騎馬隊が来たという書伝はなく、ましてやそれより南方の海を馬で渡って、日本に騎馬隊が来るとは考えられません。

⑤そもそも日本では、5500年前の三内丸山遺跡、それより4000年古い鹿児島の上野原遺跡が発見され、弥生式土器に似た「壺型土器」も作られていたことが確認されています。一方、朝鮮半島は緯度でいうと日本の近畿地方以北に位置している寒冷地であったため、5千年以前に人が住んだ遺跡がなく、

不毛の地だった所に縄文人が移住し開拓しました。が、徐々に南下してきたツングース系、更には支那方面から来た呉人・越人と共に、主に半島南部に「馬韓」「辰韓」「弁韓」を作って緩やかな農耕村社会を形成していました。これが後の日本領「任那(伽耶・伽羅)」です。

⑥が、その後、既に満州地域に展開していたスキタイ系扶余族がさみだれ式に南下してきて、半島北部に高句麗(貊…はく)、西南部に百済(濊…わい)を建てました。なお、秦朝(支那)滅亡後、その末裔の「秦氏」が合流した辰韓は"秦韓"ともいわれています。


2、朝鮮半島の正史「三国史記」

⑦ところで、半島の正史「三国史記・新羅本紀」によれば、新羅王家には朴氏・昔氏・金氏の三王統があり、この間で王朝交代が起き、朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(第17代奈勿尼師今~)と呼び、それぞれに始祖説話があります。

⑧まず、朴氏初代の「朴赫居世」では、辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があり、卵を割ると中から幼児が出てきたので育て、10歳を越える頃には人柄が優れていたことから、六村の人たちは彼を王位につけたと。

⑨また、卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。一方、建国時に海を渡って来た倭人がいて、腰に瓠をぶら下げていたため瓠公と称し、大輔という役職名の重臣になったともあることから、この瓠公と朴赫居世を同一人物と考えられます。

⑩朴赫居世は、紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐としました。赫居世の次男「アメノヒボコ」は本州(日本?)に居住して暮らしたとあります。
⑬最後に、金氏始祖の「金閼智」では、脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。

⑭そこで、小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした、と。

⑪次に、昔氏初代の「昔脱解」では、倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側)の王妃が妊娠ののち、7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流されたが、辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

⑫箱が流れ着いたときに鵲(かささぎ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とし、長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた、と。

⑮以上、新羅建国の特徴をみると、複数の王統を持ち、建国初期に倭人との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは少し異なっている事が分かります。


3、日本の文献にある新羅の記録

⑯日本側の文献でも、新羅建国にまつわる話を調べてみると、「稲飯命」と「天之日矛(アメノヒボコ)」の記録があり、「新撰姓氏録」では、新羅の祖は鵜草葺不合天皇の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしています。

⑰一方、「天之日矛」は、記紀や風土記によると、新羅の王子だったが、王位を弟の「知古」に譲って日本に帰化し、最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着、三宅連氏の祖先となったとあります。

⑱が、「天之日矛」という名は、新羅風の名前でなく純然たる"和風"の名前なので、そのルーツを調べてみると、日本側の伝承によれば、日本から渡った稲飯命が開いた新羅王朝家の子孫ということです。

⑲だとすると、新羅王「昔脱解」は船で渡った倭人と見られ、その出生地は日本の但馬、丹波、肥後のいずれかとされますが、但馬(兵庫県北部)と推定する説が多く、「天之日矛」が祭られる豊岡と一致し、豊岡から半島へ、そして半島から豊岡へ移動したと考えられます。(次回に続く…)

4、百済も日本が作った

⑳なお、桓武天皇の生母・高野新笠が、人質として来日していた百済の「武寧王」の子孫だという記録があり(続日本紀)、これを根拠にした今上天皇による、日韓融和のためのリップサービスのための「半島所縁発言(平成13年12月18日)」が行われ、内外に波紋を呼びました。

㉑が、武寧王は、北方民族対策としての民族交雑を進める"第二次奉迎工作”で、豆満江河口付近の羅津に渡った孝元天皇の皇子・彦太の後裔•オホドで、その後、皇位継承者不在となった日本に帰国、「継体天皇」を"兼任"したのが真相です。今上天皇の発言自体は間違っていませんが、この前提が省略されたため誤解を生みました。

㉒しかも、「日本書紀・雄略紀」によると、武寧王の父・東城王も、「百済の文斤王がなくなったので、天皇は昆支王の五人の子の中で二番目の末多王が聡明なので、内裏へ呼んで親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし武器を与え、筑紫国の兵五百人を付けて百済に遣わした。これが東城王である。」とあります。


5、「日本は朝鮮から文化を学んだ」の嘘 

㉓一方、支那の「宋書」では、四百五十一年に倭王済(允恭天皇)を、四百七十八年に倭王武(雄略天皇) を、「使持節都督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓の軍事安東将軍として認める」とし、「梁書」「南史」でも日本の半島南部の支配を公式に認めています。

㉔また、高句麗第十九代・広開土王(好太王)の業績を称えた石碑「広開土王碑」には、新羅の奈勿王の子・未斯欣と、百済の阿莘王の子・腆支を、
人質として日本に差し出したことが書かれており、「三国史記・新羅本紀、百済本紀」の記述とも一致しています。

㉕さらに、鎌倉時代に編纂された「八幡愚童訓」と、室町時代に足利義教が誉田八幡宮に奉納した「神功皇后縁起絵巻」によると、神功皇后が三韓征伐で高句麗、 新羅、百済を制圧したとき、「我ら日本国の犬となり日本を守護します」と誓ったと書かれており、この名残が「狛(高麗)犬…こまいぬ」です。

㉖このような記録からすると、古代7世紀まで朝鮮半島は日本の支配地だったことがわかり、先進的な文化や文物は日本から朝鮮半島へと伝播したのが真実だと考えられます。

㉗例えば、韓国の古墳から見つかった王冠には、日本の糸魚川でしか採れない原石でできた硬玉製勾玉が埋め込まれており、また。宋山里古墳群で発見された武寧王の棺材は、日本にしか自生しないコウヤマキで作られ、慶尚南道金海では日本製の銅矛、弥生時代後期に製作された日本製の銅鏡が発見されています。

㉘また、「後漢書・東夷伝」によると、「倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨」という記述が見られ、倭人が朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、半島に行って鉄を貨幣のように用いて交易していたと、

㉙さらに、「隋書・列傳第四十六。東夷・倭國」によると、「新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。」と記録しています。

㉚また「記紀」には、「王仁(和邇吉師)」が百済から日本に来て、「千字文」や「論語」を伝えたと書かれています。が、朝鮮史には「王仁」の記録はなく、日本書紀には「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と記されており、当時は半島になかった一文字の姓から支那人という説もありますが、「和邇氏」は日本のシュメール系海人族です。

㉛さらに、日本書紀には、欽明天皇の時代に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や仏経典を献上したと記されています。が、実は聖徳太子の時代に小野妹子が隋からもたらしたのが真相で、それも四天王寺などに見られる毘沙門天(多聞天)を主神とする「マニ教」だったことが近年明らかになっています。

㉜ちなみに、マニ教は、ペルシャのゾロアスター教から派生した宗教で、古代エジプトで流行した「グノーシス主義」と同じく「善悪二元論(多神教)」に立ちつつ、厳しい戒律の下、個人の悟りによって悪を乗り越えるとしたため、一神教のユダヤ・キリスト教からは排撃されますが、アジアでは仏教に吸収される形で消滅します。

そして後年、江戸時代に入ってから朝鮮通信使として来日した金仁謙(1763~1764)の記録・「日東壮遊歌」を見ても、❶大阪については、「三神山の金闕銀台とはまことこの地のことであろう。人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国の中心部)の壮麗さもこの地には及ばない。」 

❷名古屋については、「山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである。」 

❸江戸について、「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様子、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える。」とあり、日本の社会、文化の方がかなり進んでいたことが窺われます。 


6、日本人と韓国人の遺伝子の違い

最後に、日本人と韓国人の遺伝子研究の結果を見てみると、韓国人の遺伝子の中には、日本人固有のYAPハプロD1b (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約32%存在)は2%しか確認されていません。

が、韓国人の母系に限ってみると、琉球諸島周辺で発生し沖縄から九州へ入ってきたとされる縄文系(港川人)のハプロM7a (mtDNA)が3%弱確認されています。が、これは紀元前5千年以前は無人の地だった朝鮮半島に、縄文時代後期、日本から開拓に渡った縄文人の影響と考えられています。

ところが、韓国人の男系に日本人との共通性が確認されないのは、その後の北方民族や漢民族の侵入、侵略の定めなのか、侵略者によって男子は根絶やしにされたが、女子は生かされたためと考えられています。

以上の結果、カトリック医科大学のキム・ドンウック教授、慶應大学の岡本真一郎教授、徳島大学の佐藤陽一準教授らがHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と韓国人のDNAには遺伝子的な共通性が低いという結論が出ています。

また、大阪医科大学の松本秀雄教授は、「日本人は何処から来たか…血液型遺伝子から解く」で、朝鮮民族は、相互移民や侵入などによって漢民族などの影響(混血)を受けているとし、実際、HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国華北の漢民族に近いことが確認されています。


日本人のルーツと超古代文明

2017-01-07 20:14:44 | 古代史


<日本人のルーツと超古代文明>

①終戦後、GHQに阿(おもね)る曲学阿世の歴史学者が「朝鮮半島騎馬民族説」などという邪説を流布し、「日本の歴史は中韓より短く、文化は中韓より学んだ」などとし、多くの日本人が洗脳されたままなので、真の日本人のルーツと古代日本に超高度文明があったことを紹介します。

1、日本人の起源

②もとより日本人のルーツに関しては諸説ありますが、一般的な説では、生物学的な意味での人類は10万年単位を一つの区切りにして「原人」→「旧人」→「新人」と区分されます。

③私たち現代人はこのうちの「新人」に属し、そのルーツは20万年前の北アフリカだとされています。そこから人類は中東を経て中央アジア(メソポタミア=シュメール)辺りに移動、さらに二手に分かれ、西は欧州、東は東方アジアへと分布したというのが有力説です。

④このうち、日本人のルーツは、太古、宗谷海峡が繋がっていたことからシベリア経由でやってきた「アイヌ系狩労民族」と、インドや東南アジアを経てやってきた「沿岸海洋民族」が中心とされてきました。

⑤さらに、年代の流れにしたがって詳しくみてみると、「縄文人」→「弥生人」→「古墳人」となります。まず「縄文人」は、1)太平洋系海人族・安曇氏、2)シュメール系海人族・橘氏(和田、楠、葛城、尾張、犬養、春日、小野)、平氏、3)北方アイヌ人(蝦夷)からなります。

⑥海人族・安曇氏は、山口県下関市彦島の杉田丘陵や角島、玄界灘にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島沖と類似する神殿跡やペトログラフ(岩絵文字)があることから、主に北部九州から近畿にかけて分布した海洋民族「
メネフネ族」と考えられます。

⑦なお、これらと同形のペトログラフは、韓国、台湾、中国では全く見つかっておらず、特に朝鮮半島では5000年以前には人が居住した遺跡が存在しません。またメネフネ族とは別に、同じく海人系ミクロネシア人の「熊襲」あるいは「隼人」は南九州、南四国に分布しました。

⑧一方、シュメール系・橘氏ですが、アッカド人に国を追われ各地に分散した一派が、海路から和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として後に物部氏とともに蘇我氏と争って下野したため、脚光を浴びることがありませんでした。

⑨が、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名です。皇室の警察犬を使う犬養氏、葛城氏も同族で、橘氏は和田氏、楠氏につながります。平氏の起源も、平清盛の話によるとペルシャ方面にあるということです。

⑩他方、アイヌですが、カムチャッカ半島など北シベリア方面に分布していたスーセン族と、サハリンからアムール川周辺地域など東シベリア方面に分布していたギリヤーク族(ニブヒ族)からなり、前者「阿蘇辺族」は主に北海道東部に居住し、後者「津保化族」は本州にも居住、後に「荒覇覇吐王国」を作りました。

⑪次に「弥生人」は、1)古代ユダヤ10支族・海部氏(物部氏)、2)支那大陸華南地域から来た「倭族」からなります。このうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏(物部氏)で、秦の始皇帝の側近・徐福によって連れてこられた数十万人の古代ユダヤ人の一団という説もあります。
 
⑫なお、海部氏が社家となる丹波地方にある籠神社では、「アマテルとニギハヤヒの両神は同体なり」として、海部氏と物部氏の合族を伝えています。

⑬最後に「古墳人」は、1)崇神天皇の時代にやってきた突蕨系の「土師(はじ)氏」、「西文氏」、2)応神天皇の時代にやってきたツングース系の「越氏」、古代ユダヤ10支族でスキタイ+アーリア系の「秦氏」からなります。
 
⑭土師氏は半島由来の騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も、土地を与えられない"非定着漂流民”という意味での蔑称から来ていると言われています。
 
⑮西文氏は北陸に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、漂着する渡来民を引き受け労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”でした。ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に定着しました。尚、秦氏は100万人規模の大集団でやってきたとされていますが詳細は別項で述べます。
 

2、「日本人は農耕民族」の誤り
⑯ところで、よく「狩猟民族と農耕民族」という区分けとともに、「縄文人が元々日本列島に居住していた土着民(農耕民族?)で、弥生人は大陸ないし半島から来た征服民族で抑圧的だ(狩猟民族?)」などの俗説がありますが、全くの誤りです。

 
⑰恐らく、このような俗説が囁かれる背景には、明治維新以降、隅に追いやられた感のある東日本を中心とした旧幕藩体制での支配階級だった人々が、天皇制を頂点とする明治以降の体制への不満の論拠としたいとの思いがあるものと推測されます。

⑱例えば、誤解が多い説として、和辻哲郎は「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」と分類します。「農耕民族」は稲作による定住生活を常とし、一方の「狩猟民族」は当初は海山での狩り、そして時代を経た後は組織的な遊牧、牧畜へと発展して行きます。
⑲ただよく考えてみると、人類はその誕生期において、石器時代に見られるように、狩猟を生活の手段にしている点では共通しており、牧畜、農耕は人類文化の発展とともに生まれた合理的な生活様式であると考えられます。

⑳だとすれば、「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」という図式は、時代の流れを無視した分類と言わざるを得ず、時代の流れに沿えば、「縄文人が狩猟民族」で「弥生人が農耕民族」というのが自然です。実際、縄文人の顎は肉食に適して発達しており、弥生人はノッペリしています。

㉑また、「倭族」が大陸から稲作を持ってやって来たなどともいわれていますが、「倭族」とは古代日本人の呼称です。これは「大陸と一部陸続きだった氷河期に、日本から大陸に人々(カラ族)が移動し、その後里帰りしたのが真実で、加えて日本には「縄文稲作」がありましたが、詳細は別項に譲ります。

㉒さて、以上のように考えると、弥生人は農耕民族であるが故に性格は穏やか。他方、アイヌ含む縄文人には、海洋民族とシベリア、更にはポーラ化粧品のDNA研究の結果、東欧等からもやって来た狩猟、遊牧民族も含まれることが分かっており、性格は荒っぽい、ということができます。


3、古代の太平洋上に高度文明?

㉓ところで、縄文以前の石器時代には主に南九州、四国、紀伊半島に海洋民族が居住していました。これが「港川人」で、沖縄で人骨が発見されており北京原人よりも古いことが証明されています。このことを根拠に、かつて太平洋上に文明が存在し、活発な交流があったのではないかという説があります。

㉔この点、「竹内文書」によると、大和先行王朝である「鵜芽葺不合朝」第六十九代・神足別豊鋤天皇の時代に、太平洋上には「ミヨイ」、「タミアラ」という大陸があり、五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人がいたが、天変地異で水没しため日本に避難したとされています。

㉕また、出口王仁三郎も、米国考古学者・チャーチワードが「失われたムー大陸」を発表する9年前の1922年に、『霊界物語』第9巻で、「太平洋の真中に縦が二千と七百浬、横が三千一百浬の黄泉(よもつ)の島がある」として、太平洋に巨大な大陸があったことを発表しています。

㉖このようにみてみると、日本人のルーツは「ユーラシア大陸系(狩猟、農耕、騎馬民)」と「太平洋系(海洋民)」であると言えます。これを時代区分に対応させると、狩猟民、沿岸民、海洋民が「縄文時代」以前、農耕民が「弥生時代」、騎馬民が「古墳時代」以降ということになります。

㉗が、昭和24年に、天才物理学者の楢崎皐月(ならさきこうげつ)が、日本には縄文時代以前の石器時代に、「カタカムナ文明」という超高度文明があったことを発見しています。その傍証として、岩手県金取遺跡からは9万年前の足跡、島根県砂原遺跡からは12万年前の打製石器、

㉘また、東京都栗原遺跡や千葉県三里塚など、秋田県から奄美大島まで全国135カ所から、これまで世界最古とされてきたオーストラリアの2万9千年前を遥かに凌駕する3〜4万年前の磨製石器、青森県大平山元遺跡からは、世界最古とされる石器時代1万5〜6千年前の「無文土器」や「石の矢じり」が発見されています。

㉙さらに、熊本県の弊立神宮にある「日文石板」は、炭素放射線測定の結果20〜30万年前のものと証明されており、そこには「豊国文字」を使った古代天皇の名で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。


4、兵庫県にあった世界最古のカタカムナ文明

㉚さて、楢崎皐月は戦前、満州に渡り、石原莞爾、辻正信、服部卓四郎らとともに満州の発展に寄与、特に当時世界一の製薬会社だった「星製薬(現在は品川)」の星一と「植物波農法」などの植物研究に取り組み、モルヒネなどの研究開発にも関わります

㉛そんな中、楢崎が吉林にある道院を訪ねた際、廟の道士である蘆有三から瞬間沸騰する茶釜を見せられ、「上古代の日本には"アシア族"といって、八鏡文字を編み出し、特殊な鉄の鋳造技術等の高度文明を持つ人々がいて、それが中華文明の基礎になった」という古伝を聞かされます。

㉜謎を抱えたまま終戦で帰国、星製薬で大気電気の研究を続けていた楢崎は、昭和24年、兵庫県六甲山でカタカムナ神社の宮司・平十字(ひらとうじ)に遭遇、「カタカムナ文献」を見せられました。そこには「宇宙の構造」や「生命体の本質」など、最先端の科学、哲学が記されていたのです。

㉝このような文献が見つかるところからすると、人類学的な人間の起源は別として、日本が文明社会の起源だった可能性が出てきます。では、なぜ超古代の日本にこのような高度な文明が存在したのか?鍵は、いわゆる"天孫降臨神話"にありますが、この点については「ムー大陸」伝承にも関わるテーマなので別項に譲ります。


古代天皇が世界を統治した!

2017-01-07 20:10:40 | 古代史


第四章 古代天皇が世界を統治した!

一、偽書「続日本紀」

日露戦争当時、満州に派遣されて川村景明陸軍中将と、その参謀だった浜名寛祐は、ラマ教寺院で古代に存在した契丹国の史書「契丹古伝」を発見、これがきっかけで明治政府も東アジアの古代史研究に着手します。
 ただ、東アジアの古代史については、日本にも日本書紀の"ウラ本"と言われる「続日本紀(しょくにほんぎ)」という平安時代初期に編纂された勅撰史書があります。

 その「続日本紀」によると、古代、はじめ朝鮮と満州、さらには日本海方面全域を支配した高句麗という国があったが、白村江の戦いの後、高句麗は崩壊、代わって唐が支配した。が、その後、高句麗最後の宝蔵王の息子(天武天皇)が抵抗運動を展開し都を平壌から飛鳥に移転(壬申の乱)、さらにその後、天武天皇は満州の独立を目指し大伴氏を大陸に派遣、渤海国を建国し、大伴氏は渤海国の王・大氏となって日本の天皇に忠誠を誓いたびたび使者を送ってきた。そういう経緯から、日本と渤海国は兄弟関係の国であると結論づけています。

 ところで、この「続日本紀」は、はじめは文武天皇元年(六九七年)から天平宝字元年(七五七年)、孝謙天皇の治世までを扱う三十巻の曹案として作られました。

 が、内容に疑義があるとして光仁天皇が修正を石川名足らに命じましたが、天平宝字元年紀を紛失し、未遂に終わったとされています。しかし、この前後には政争事件も多かったため、意見を纏めることが出来ずに"紛失"という事にしたとする説もある怪しい文書です。

 現に、平安時代初期は、”天孫族(騎馬民族秦氏系、藤原氏系)"の影響力が拡大しつつある時期で、漢字使用の強要と神代文字の封印、古事記・日本書紀以前の古史古伝の焚書、日本の支那化政策に抵抗した菅原道真(後の南朝系海人族)の太宰府左遷等が起きた時期でもありました。

二、「日本民族半島起源説」は誤り

 が、近代に入ってからも「ロシアへの対抗」という狙いでしたが、「満鮮経略」という日本国の国是として、漢族、朝鮮族、満州族、蒙古族の融和を目指す「五族協和」による「大亜細亜主義」が説かれました。が、近年の遺伝子研究の結果、日本人と朝鮮族、漢族の共通性は薄いことは、「古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!」のところで詳述します。

 ともあれ、そういう意味で、古代の満州、朝鮮北部に存在した「渤海国」、さらにその後成立した「契丹国」との関わりは否定できませんが、この点に関して支那の戦国時代の史書「山海経」によると、「平壌あたりにあった『蓋国』は倭人の国であり、朝鮮半島には元々、倭人(日本人)が住んでいた」と書かれています。

 だとすれば、江上波夫(東京大学)の唱えた「日本人や天皇家の起源は朝鮮半島にある」という「半島騎馬民族説」は誤りで、逆に、元々日本人が朝鮮半島にいた。が、その後、支那の力を背景にした朝鮮族の祖先であるツングース系扶余族に押され半島から撤退した、という説が説得力を帯びてくるのです。

 これを裏付けるように、支那の他の史書「史記」や「漢書」「後漢書」「三国志」には、朝鮮半島南部は倭人が治め、朝鮮半島史「三国遺事」では、スサノオを神とする「辰王(=秦氏?)」とその宗主下にある「月支国」「日華国」は倭国に帰ってしまったと記されています。

 さらに、支那の西安郊外に碑林というところがあって、そこには漢字の発明者といわれている「蒼頡(そうきつ)」という人物が残した碑文があり、未だ未解読のままですが、なんと日本の神代文字である「アイヌ文字」と「豊国文字」で解読できることから、蒼頡は日本人だった可能性も考えられます。 

三、「契丹古伝」にみる世界の超古代史

 そこで、カギを握るのが冒頭に挙げた「契丹古伝」になってきます。以下では「日本探検協会・高橋良典氏」の仮説や、「藤原氏の正体(関裕二氏)」を参照しながら説明します。

 さて、古代日本に「カタカムナ文字」など、五十三種類に上る独自の「神代文字」があったことはすでに明らかにしましたが、いわゆる"古代史の権威"が、口をそろえてこれを否定し、これまで定説とならなかったのはなぜでしょうか。

 それは、約千三百年前、満州と朝鮮半島、日本海周辺域に台頭していた唐の軍隊が、新羅と連合して「白村江の戦い(六六三年)」で勝利した結果、日本の国政に干渉し、日本にあった固有の文字文化や、古代天皇家の記憶を消し去ってしまったからなのです。

 実際、古代日本が白村江の戦いに敗れ、唐に事実上占領されたことは、「日本書紀」の天智天皇の条のなかに記されています。すなわち、天智四(六六五)年、日本へやってきた唐の使節団の人数が二五四人だったのが、同八年と九年には二千人にふくれあがったとされています。

 また、天智六(六六七)年の記事によれば、この年に九州の太宰府が「筑紫都督府」という呼び名に変わっていますが、この"都督府"という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」とした例をみてもわかるように、唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしています。

 したがって、九州の太宰府が六六七年以降、唐による日本占領支紀の拠点となっていたと推測できます。さらに、天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出しています。

 秦・漢帝国以来の支那の諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、支那の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、秦の始皇帝による"焚書坑儒"など、支那の史書に他の王家の記録を没収した記事がたびたび登場することをみても明らかです。

 これまで私たち日本人は、「支那の漢字文化や律令制度を積極的に取り入れることによって、古代の日本が開明化した」などと教えこまれてきましたが、それは事実ではないようです。

 これを裏付けるように、唐による日本の占領支配の実態には目にあまるものがあったようで、後年、「壬申の乱」に勝利して、唐による日本占領支配に終止符を打ち、独立を取り戻した古代の英雄「天武天皇」も、日本国内を跋扈する唐人に憤慨し、以下のように述べています。「汝らのやからは、もとより七つの悪しきことを犯せり、…常に汝らは謀りごとをもって事わざとなす (「日本書紀・天武六(六七七)年の条」)。」

四、古代支那においても歴史の改ざんが

 ここで、話を「白村江の戦い」以前に戻して事実を究明していくと、古代においては支那による日本支配どころか、漢字の発明者といわれている「蒼頡」が日本人だった可能性も含め、むしろ逆に古代の日本人である「倭人」が支那大陸に先住していた可能性すら見えてきます。

 というのは、支那においても、「史記」以前の歴史のすり替えが行なわれた形跡が窺われるからです。すなわち、漢の武帝が司馬遷に書かせた「史記」は"偽書"であり、司馬遷は「史記」の執筆中、獄につながれ、完成後には殺されてしまったことがこれを物語っています。

 これはちょうど、古事記の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり古事記完成後に殺されたという事実と共通しており、この点に鑑みると、日本と支那両国の真の古代史を抹殺しようとした勢力がいたことが推測されます。それは"西から来た勢力"?

 ここで、「契丹古伝」を引用しますと、「その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変わってしまった。

 この異変で地軸が傾いた結果、大地は支那の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆起)、南東部で引き裂かれて沈没した(フィリピン海溝の形成)。尭・舜の時代に地球の全土は戦火に包まれ、禹(う)は洪水の後始末に追われた。

 ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、「人身牛首」の神を祀る者、「蛇身人首の鬼」を祀る者が、西から次々とやって来て、我らの地に住みついた…」。

 「彼らは自らを我ら"東大古族"の神の子孫と偽ったばかりでなく、伏犠(ふくぎ)や神農(しんのう)、黄帝(こうてい)、少昊(しょうこう)なる人物を、我らの王の祖先に仕立てあげ、その系図に自分たちの祖先を繋げ、これら偽りの神と王に対する崇拝を我らに強制して、自らを聖帝の子孫なりと語っている」と。

 だとすれば、通説では、漢民族が支那五千年の歴史の先住者であったかのように説いていますがこれ事実ではなく、「東大古族」といわれていた倭人(日本人)と契丹人の共通の祖先が先住者だと考えられます。ところが、"西から来た人々"によって事実が書き換えられてしまった可能性が出てくるのです。

 そして、史記にある先住者である「禹」は、大洪水を生きのびた「東大国(ティルムン)」の王「スサダミコ」をさしており、「禹」の治めた地域は、息子のギルガメシュが活躍したメソポタミアだけでなく、全世界に及んだと書かれています。だとすると、「スサダミコ」とは"スサノオ"をさしていると考えられます。

 以上は「西族の伝承」と記されたものですが、ここでいう「西族」とは、支那大陸に西から侵入した「アーリア人(漢人…あやひと)」を指し、「伝承」とは、現在のイラク近辺で発見された粘土板に登場するスサダミコが残した「シュメール伝説」をさしていると推測されます。      

 ちなみに、日本のスメラミコト(天皇)は、シュメール語で「シュメールの王」を意味しています。
 そして、決定的なのは、「人身牛首の神を祀る者、蛇身人首の鬼を祀る者が西からやってきた」とありますが、「牛」を神とし、「蛇(龍)」を鬼(悪魔)と考えるのは典型的な欧米思想であり、その淵源は「アーリア人=アッシリア人=アトランティス人」だと考えられるからです。

五、世界王朝だった「鵜芽葺不合朝」 

 また、「契丹古伝」には「耶摩駘記」の他「秘府録」という書があり、そこには「東大国(ティルムン)の王スサダミコは、アジア、アフリカの他、豪州、南北米大陸を五つに分け、"高天使鶏(こまかけ)"とう乗り物に乗って統治していたと記されています。

 この記述は、「古事記」「日本書紀」以前に書かれた「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」「上記」「和田家文書」「安倍文書」等に書かれた、「日本のスメラミコト(天皇)が、"天之浮船"を使って世界を統治していた」との記述に符合するものです。

 例えば、神武天皇が大和朝を開く以前の王朝として「鵜芽葺不合(うがやふきあえず)朝」がしばしば登場します。「宮下文書」によれば、この「不合朝」を開いた「鵜芽天皇」は、スサダミコ(ホホデミ天皇)の息子とされ、旧約聖書のヨセフの息子エフライムだったようです。

 また「竹内文書」によると、「日本神話のイザナギ天皇は、アッシリアの王女イザナミとエルサレム郊外ゲラサに避難した。この事を知ったヨモツクニ(欧州)の白人王はイザナギを追い返せと二人を追ってきたが、イザナギとイザナミは逃げ道に桃を高く積み上げ、追っ手をかわし、その後、イザナギ天皇は、白人王に『汝をローマ国王に任ず。ネゴイ山の王城に居るべし』と告げたところ、白人王は受け入れた」とあります。

六、世界各地で発見された日本の神代文字

 この傍証として、アルプスのチロル地方に「竹内文書」で"カムナ(神字)"と呼ばれるのと同じ名称をもつエトルリア系の「カムナ族」がおり、かつて古代日本のアイヌ文字を使っていたことが、カモニカ渓谷やピネローロの谷にある遺跡から明らかになっています。

 また、愛媛県越智郡の樹ノ本古墳から出土した漢代の鏡と、国立博物館にある漢代の「単圏銘帯鏡」にある漢字を出雲文字や豊国文字で解読したところ、「ニニギキヲタタエマツル」と「ヒツキヲアタエム」と読め、「ニニギ」とは「ニニギノミコト(=天皇)」であり、「ヒツキ」とは王権を表していると考えられます。

 さらに、三千年以上前の支那・殷の甲骨文字と「阿比留草(アヒルクサ)文字」には四十四の類似文字があり、「阿比留草文字」が三万年前の文字である事からして、甲骨文字は「阿比留草文字」の草書体であると結論づけています。

 これらに関してはすでに述べたように、「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。

 インドでも日本の神代文字が見つかっています。インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印を豊国文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読め、"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字を発見、風化が激しい中「マツラバヤ(祭らばや)」と。

 更に驚くべきことに、"現代の書聖"といわれる神代文字研究家の安藤妍雪氏によると、「地球上の一切の文字の源はカタカナで、神の御働きに由来する象神名をアイウエオ、カキクケコなどのカタカナ(カタナムナ文字)で表したものを、後年、弘法大師空海が四十八の平仮名に表現し今日に至っている」。

 さらに、「キリストが日本で習得し故国に持ち帰ったのが「イスキリ文字」、釈迦が持ち帰ったのが「梵字」、それが「サンスクリット語」となり、さらに「ローマ字」になった」と研究成果を発表しています。

七、抹殺されてきた祖先「カラ族」の歴史

 以上の内容は、平安時代に編纂された日本の氏族の系譜を記した「新撰姓氏録」にもあり、「カラ(クル)族が日本人の祖先であり、支那、インド、中東、アフリカまで進出、活躍していた」としています。

 また、インドの古典「マハーバラータ」でも、太古、デカン高原に「カラ族の宮殿」があったが、アーリア人の侵略で廃墟と化したとされ、実際、モヘンジョダロは核戦争でもあったのではないかと思わせるほどの廃墟と化していることは有名です。

 このように、「契丹古伝」が伝える超古代日本と世界の歴史は、その内容があまりにも通説とかけ離れているため、これまで欧米や支那の学者たちが流布してきた世界史の常識からは"トンデモ話"に思えます。

 が、「契丹古伝」によれぱ、日本人と契丹人の共通の祖先である「カラ族(クル族=シウカラ)」の歴史は、エジプト、シュメール、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアッシリア人、つまり、支那で漢人(あやひと)として知られる欧米系アーリア人の手で抹殺、改ざんされてきたと考えられます。

 私たちがこれまで学校で習ってきた古代の歴史、すなわち、支那人、欧米人が流布してきた世界史(=西大国史観)は、秦・漢帝国、ローマ帝国時代以前に、私たち日本人の祖先「カラ族」が、世界各地で文明を築いた事実を封印するための"虚構"であるというのが、「契丹古伝」に貫かれたテーマとなっています。

 ところで、「カラ族」の起源は「ムー大陸」にあったという説もあります。一方、これと並んで、一万二千年前には大西洋上に「アトランティス大陸」があったとプラトンが唱えており、後年、ヒトラーも「ゲルマン民族はアトランティスを起源とするアーリア人である」と語っています。

 ただ、もし「ムー大陸」と「アトランティス大陸」が同時期に消滅し、「ムー人」がユーラシア大陸の東に上陸して西に移動、他方、「アトランティス人」はユーラシア大陸の西(ヨーロッパ)に上陸して東に移動したとすると、カラ族による「東大国(ティルムン)」が世界統治していた事と矛盾します。

 が、ムーはアトランティスより早く沈んだと考えると、ムー人を起源とするカラ族が世界展開の後、アトランティスの消滅でアーリア人がヨーロッパ方面から東に展開して「西大国」を作り、追われたカラ族は最終的に九州に都を置く「東大国(鵜芽葺不合朝)」を作ったとすると整合性が取れます。

 が、「まえがき」でも簡単に述べたように、「天孫降臨」は日本で行われ、日本が世界文明の起源」となって、「カタカムナ人」という神人が超古代の源流日本人(港川人)と融合(DNA操作?)して、ユーラシア大陸とムー大陸を中心に東西に分かれ、西に展開した部族を「カラ族」、東に展開した部族を「クル族」と考えることで、竹内文書にある「天皇が十六カ国に皇子を派遣していた」との記述にも符合します。

 ともあれ、以上のように考えると、私たちの祖先・カラ(クル)族が、かつて「一つの世界(王道のワンワールド)」として築き上げてきた壮大な歴史は、アトランティス人の末裔であるアーリア人(アッシリヤ人、漢人)の手で隠蔽され、捏造の歴史が流布されてきたという仮説が成り立つのです。





ムー大陸と日本

2017-01-07 20:06:08 | 古代史


<ムー大陸と日本>

1、チャーチワードなどの"ムー大陸"伝承

①イギリス出身のアメリカ人・チャーチワードは、1868年、英軍兵士としてインド赴任中、ヒンドゥー教寺院で「ナーカル粘度板文書」を発見しました。そこには、約7万年以上前から、人口6400万人を擁し、

②太陽神の化身ラ・ムーを帝王にいただく理想郷的大帝国があったが、約12000年前、突然の天変地異に見舞われ、一夜にして太平洋に没したと記されていたということです。

③また、同じくアメリカ人鉱物学者のウイリアム・ニーヴンは、1921年、メキシコシティ郊外で、2600枚近い安山岩製石板「ニーヴン石板文書」を発見、そこには古代ウイグル語で、同じく太平洋上に巨大な大陸と文明があったことが記されていたそうです。

④が、実はさらに遡る19世紀、フランスの大修道院長で中南米専門の考古学者のシャルル・プラスールが、ユカタン半島でマヤ文明が遺した「トロの絵文書」を発見、マヤ語のアルファベットを使って解読したところ、「太古、ムー大陸が天変地異で大海に没した」との記述を発見していました。

⑤この他、ムー大陸とその文明の存在を窺わせる傍証としては、ニュージーランド北方のポナペにある、1万2千年前の「ナンマドルの海底神殿遺跡」です。またハワイやイースター島でも同様の古代遺跡が発見されています。

⑥イースター島の南東部・ラノララクという火山の麓にあるモアイ像の背中には、ペトログラフ(岩絵文字)が書かれていますが、それを日本の神代文字で読むと「我はカムイ(神)なり」と読めるそうです。

2、インドネシアでも24000年前の「グヌンパダン遺跡」を発見

⑦そして2012年、インドネシア・ジャワ島の、地元のスンダ族が聖地として崇めているグヌンパダンで大規模な遺跡(メガリス遺跡)が発見され、ユドヨノ大統領の音頭のもと、本格的な考古学的調査が始まりました。

⑧その結果、頂上にサイズの異なるテラスが五段に連なり、高さが100メートル、安山岩ブロックを階段状に400段も積み重ねた石組み構造で、未知の接着剤で土砂を固めて造成された人工丘(メガリス人工丘)を確認したのです。

⑨何層にも重なった地層を、有機物サンプルのC14年代測定した結果、地下11・3メートル近辺の一番古いもので、エジプト文明よりもはるかに古い約24000年前のものと観測されたのでした。

⑩そして、ブラジル人核物理学者のアリシオ・サントス博士は、このインドネシアを始めとした東南アジアやフィリピン一帯がかつては陸続きで、近辺に文明が存在したとする「スンダランド文明説」を主張しています。

⑪さらに、この他の太平洋上の遺跡としては、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある「ナンマドール遺跡」があります。オレゴン大学の考古学調査によると、ここで使われている膨大な5~25トンもする玄武岩石材は、いったいどこから、どうやって運んできたのか説明不能とされています。

3 与那国島沖海底遺跡

⑫一方、日本近辺で近年、最も注目を集めているのが与那国島沖海底で発見された海底遺跡です。琉球大学名誉教授の木村政昭博士によると、大きさは東西方向に270メートル、幅は南北に120メートル、高さは最頂部で26メートルに及び、

⑬全体的には、広さも形も不規則な多数のひな壇と階段から構成され、基部の周辺には幅25メートルの道路が、外側の擁壁沿いに250メートル以上にわたって巡っており、頂部テラスには亀神殿、円形広場、三角ポールなどの構造体があります。

⑭この遺跡に付着しているサンゴ藻、石灰藻などの化石を炭素14年測定にかけたところ、建築年代は6000年前、表面付近の砂岩中のベリウム10で年代測定すると10000年前まで地上に存在していたことが判明しています。

⑮ところが、木村博士によると、チャーチワードなどの「ムー大陸説」は、太平洋海底の大部分を占める太平洋プレートが軟弱な海洋性地殻で、この上に大陸が存在したというのは現代のプレート理論から言って無理があるとしています。

⑯そして同博士は、かつて琉球列島は、大陸と"琉球古陸"と呼ばれる一連の陸橋で繋がれ、1万数千年前に突然地殻変動で分断され水没したという説を唱えています。実際、沖縄本島では、日本最古17000~18000年前の「港川人」の人骨が発見されており、海底遺跡との関連性が注目されています。

4、世界に分布する日本人の痕跡

⑰その他、日本の滋賀県安曇川町では「プリテニ文字」、沖縄本島では「ムーの石板十二枚」、熊本県人吉市では「サラムー(ムーの王)の磐座」が発見されています。

⑱また、岩手県金取遺跡からは9万年前の足跡、島根県砂原遺跡からは12万年前の打製石器、東京都栗原遺跡や千葉県三里塚など、秋田県から奄美大島まで全国135カ所から、これまで世界最古とされてきたオーストラリアの2万9千年前を超える3~4万年前の磨製石器が発見されています。

⑲さらに、日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人(海洋民族)がいて、約6500年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにそれはベーリング海を渡って北米にも拡大しているといいます。

⑳この説は、米国ブロンスウィック大学のレ・クイナー教授も唱えており、「アメリカインディアンが日本人と同じ習俗、語彙、顔を持つ事から、彼らの多くは太平洋の西からきたモンゴロイド海洋民族である」と主張。これには、スミソニアン博物館やハワイ大学等も同様の見解を発表しています。

㉑一方、スイスの考古学者デニケンがエクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「これなる金の板にイサクとヨゼフ記す。

㉒ここにわがクルの宝を集めしめ、後の世に伝えて礎たらしむ。ヤファウエを我らの神と崇めよ」となった事などから、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である可能性がある」と公表しています。ここにいう"ヤファウエ"とは、古代ユダヤ教の神でもあります。

5、依然、消えない"ムー大陸"説

㉓ところで「現代プレート理論」では、太平洋プレートは軟弱な海洋性地殻だからその上に大陸が存在することはありえないとしていますが、単純な話、どんな土壌でも何万年と言う長い年月水中に没していると軟弱になるのではないでしょうか?

㉕そこで、ムー大陸沈没の原因についてですが、地殻の下に溜った大量の水が地殻の重みに堪え兼ねてある日、地震や火山活動などによってできた地殻の割れ目(現在の海溝部分)から一気に吹き出してきたためとし、これが世界各地に伝わる「ノアの大洪水神話」の真相ではないか、などの説もあります。

㉖が、現在最も有力なのは、ムー大陸の大火山が噴火し、地下にあったガスの貯まっていた層に引火、さらなる大爆発が起こり、その層は中身が空になって崩れ、大規模な地盤沈下を起こしたという「ガス・チェンバー現象説」です。

㉗ちなみに、地球の地殻変動を想起させる痕跡として、南米アンデス山中の海抜4000メートルの高地には、ティアワナコという巨大な都の遺跡があります。現在では勿論、トウモロコシさえ育たない高地ですが、さらに高い標高6000メートルの高地には大規模な段々畑の跡があります。

㉘また、ティアワナコはかつて海岸線にあった港町で、チチカカ湖は入り江で湾になっていたという伝承があり、事実、チチカカ湖の水を調査すると塩水であることが明らかになっています。

㉙さらに、ダーウインも、アンデス山地の標高400メートルの高地で、何千年も前から生き続けている海の貝を発見、自身の進化論を疑ったそうです。

㉚一方、ヨーロッパのフランスでは、元々12000年前に地上で書かれた壁画のある海底洞窟が発見され、さらに、ブリテン島では、ケルト巨石文化のストーンサークルが半分断ち切られ、海底に消えていることが発見されています。

㉛これらの事実を考えると、かつて地球は何度も大規模な地殻変動を経験し、現在の陸地と海が正反対だった時期もあったのではないかという疑問がわいてきます。だとすれば、太平洋上に大陸があったとしてもあながち"トンでも話"と決めつけることはできないのではないでしょうか?

㉜実際、記紀(古事記・日本書紀)以前に書かれた「竹内文書」によると、大和先行王朝である「鵜芽葺不合朝」69代(約1万5千年前)・神足別豊鋤天皇の代に、太平洋上には「ミヨイ(ムー?)」「タミアラ(レムリア?)」という大陸があり、
㉝そこには五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人(天皇家に合流?)がいたが、天変地異で沈んだため日本などに避難したとされています。

㉞また、出口王仁三郎も、米国考古学者・チャーチワードが「失われたムー大陸」を発表する9年前の1922年に、『霊界物語』第9巻で「太平洋の真中に縦が二千と七百浬、横が三千一百浬の黄泉(よもつ)の島がある」として、太平洋に巨大な大陸があったことを発表しています。

例えば、沖縄では明治の中頃まで若い女性が入れ墨をする習慣があり、沖縄本島では14歳くらいから始め、少しづつ文様を増やしていったといいます。

文様には地域によって微妙な違いがあり、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていました。明治生まれで現代まで生きていた老婆の入れ墨には、ムー文明の文字「ハジチ」が刻まれていたそうです。

「ハジチ」は魔除けの意味を持っていて、左手の甲にはムーの文字が並び、右の肘には沖縄各地から出土した線刻石板に書かれたムーの絵文字そのものであったと。石版を解読すると琉球列島の水没を語るストーリーが表されており、沖縄はかつて広大な陸地であったが水没して島々になったと読み取れます。

一方、琉球王朝の王は「太陽の子"テダコ"」と呼ばれていました。石版の「キ」や「カ」に見える文字は聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれる琉球王朝最高の女神官を意味し、安泰な政治が行われ、平和な生活があったと伝えられています。

ちなみに、福岡県沖ノ島でも重要文化財12万点も見つかっており、海底には与那国島沖海底遺跡と類似した「沖ノ島神殿」という遺跡があり、直径8メートルの柱に螺旋階段が作られています。また遺跡からは神像も見つかっており、一つは両性具有、もう一体は女性。これらはムー文明の証と言われています。