誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

「田布施システム論」のデタラメ

2017-01-08 21:50:53 | 近代


1、鬼塚英昭の正体

 以上見て来たように、明治維新の目的は単なる倒幕だけでなく、「皇統二元体制」を敷くことで、❶南朝皇統の復活(政体化)、❷國體の強化、❸欧州王族間通婚への対応、❹南朝系海人族(縄文海人族+物部氏ら)政権の樹立、❺皇位継承者バンクの設立、などです。

 が、 このような深慮を知る事もなく、一部の反日勢力が「田布施システム論」と称して、「明治天皇すり替え」だとか「明治天皇は朝鮮人である田布施出身だ」 とか、果ては「安倍晋三総理も田布施出身だ」とか、根拠のない捏造話を拡散していますが、その"反知性主義"には呆れるばかりです。

 私も山口県出身ですが、「田布施は朝鮮」などという話は子供の頃から聞いた事がなく、また従兄弟は山口県の職員で田布施支所に長年勤務していましたが、同じく「そんな話は耳にした事がない!」と呆れていました。

そこで、「田布施システム論」なる捏造話の出元であるノンフィクション作家・鬼塚英昭について明らかにすると、大分県別府市生まれ、大分県立鶴見ヶ丘高校卒業後、中央大学法学部に入学するが学費が払えず中退。故郷の別府で家業の竹細工職人となる。2016年1月25日に78歳で没。

鬼塚の代表作「天皇のロザリオ」を読んだ感想は、❶史料の中から自説に都合良い部分だけ引用している、❷総じて、歴史的事実と妄想、願望的記述が混在している、❸「天皇教」などという違和感のある用語を何度も使用している、❸司馬遼太郎を熱烈な天皇教徒とレッテル貼りしている、

❹共産主義者だったハーバート・ノーマンの文書からの引用が多い、❺「不敬罪はけしからん」、「治安維持法は国民を弾圧するためにあったから廃止されて良かった」、「共産党は合法でなければならない」と共産党を擁護している。

❻天皇が日本人女性を売春婦として海外に輸出して暴利を貪った、❼天皇が金儲けのために大東亜戦争を起こしたなど、とても正気の沙汰とは思えない内容です。

結論として、鬼塚本人はノンフィクション作家のつもりでいますが、著作は歴史書としての要件を満たしていないばかりか、それ以前に鬼塚自身、所詮"竹細工職人”の域を脱しておらず、到底”作家”というレベルに達していない唯の反日思想の共産主義者である可能性が高いと言えます。

また、「DVD『鬼塚英昭が発見した日本の秘密』成甲書房」の内容を引用し分析すると、鬼塚は「2006年の10月、山口県の柳井市にいる松重楊江という人を訪ねて行きました。松重は「ここのそばの田布施川を渡って、山の向こうから大室近佑という老人が野菜を売りに来ていた。

ところが時々『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うんです。それで萩の郷土史家を連れてきて調査し、彼とともに山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。そしたら、それを読んだ鹿島昇という弁護士が訪ねて来て、

『私は大室近佑の言う話を信じるから、二人(鹿島と松重)で本を出そうじゃないか』言った。それから私も彼らの本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を引用する形で出版したわけです。

田布施という町ははっきり申しますと朝鮮です。なぜかと言いますと、歴史的に山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。大内家は本人たちも言ってますが朝鮮人です。ところが、毛利が侵入して負けたため家臣たちが散って民にされるわけです。

この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中に書いています。また、2006年10月6日か8日号の週刊朝日に李策(イ・チャク)という記者が書いた『家政婦は見た!安倍晋太郎研究』という記事で、

岸と佐藤栄作の直系の一族安倍晋三の父の晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をやっていた久米うめという女性が『死ぬ時初めて分ったが日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。晋太郎は生前いつも”俺は朝鮮人だ”と私に言ってた』と書いている」と。

が、まず、安倍晋三総理の実家は田布施とは反対の山陰側にある旧大津郡日置村にあります。その出自は物部氏(南朝系)の流れを汲む安倍晴明の子孫・貞任が、 平安中期の「前九年の役」で敗れ肥前国(佐賀)に流罪となり、その子・季任は「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任として平家で活躍。

その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を免れる為に安倍姓を名乗り長門国に落ち、旧大津郡日置村(現在の長門市湯谷町)で家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

また、安倍総理の直系の祖父・安倍寛氏は旧大津郡日置村の村長をして、"昭和の今松蔭"と伝えられた程のカリスマで、農村改革や山林事業など数々の改革を実行、噂を聞き付けた岸信介(当時、東条内閣の商工大臣)が面会に来た位の有名な人物でした。

ちなみに、安倍寛氏の妻は西南戦争で活躍した大島義昌陸軍大将の孫娘でしたが、奢侈なため「家風に合わん」と実家に帰され、実家にいても退屈な息子の晋太郎氏は、夏休みで帰省した際には我が家に遊びに来ていたような関係から、我が家も安倍家とは先祖代々のお付合いです。

なお、「日置村」の名称の由来は古代にまで遡り、当時としては「暦」という最重要国家機密に関わっていた豪族「日置氏」からきたもので、鹿児島県や和歌山県にもあるようです。が、長門国の日置が最も重要視されたのは、朝鮮半島や北方騎馬民族の動静を探り得る地政学的意味があったからで、また「長門国」の「長門」も「長生きへの門」から由来し、実際、秦の始皇帝が"不死の薬"を求めて「徐福」を日本に派遣したときの寄港地だったと言われています。
 
一方、安倍総理の母方の祖父・岸氏の実家である佐藤家は、室町時代に百済系大内家の動きを監視するために京都から派遣された佐藤甚平(平清盛の親友でもあった西行法師こと佐藤義清の後裔)の直系であることは、京都皇統に保管された「月読暦(裏の皇統譜)」に記されていると落合莞爾氏の著作でも紹介されています。

ちなみに、大内氏は、大内義隆のときイエズス会宣教師・ザビエルを山口に招聘してキリスト教の布教を許したことから朝廷の逆鱗に触れたため、朝廷の意を受けた毛利元就によって滅ぼされます(防長経略)。

さて、この佐藤甚平の後裔が、佐藤市郎海軍中将、佐藤(岸)信介、佐藤栄作の三兄弟で、佐藤栄作の話では「私達三兄弟は、頭の良さは上からだよ」と言わせたほどの秀才だった佐藤市郎は海軍兵学校、海軍大学校ともに首席で卒業しましたが、

同じ首席でも過去に例を見ない高得点であったと伝えられています。佐藤中将と海軍兵学校36期の同期生には沢本 頼雄、塚原二四三、南雲忠一の三人の海軍大将がいましたが、頭の良さは佐藤中将が抜きん出ていたことは衆目の認めるところだったといわれています。

最後に、家政婦の証言についてですが、骨格学の専門家のような知識を持っていることに違和感があり、さらに、同記事には「総理大臣候補といわれながら早逝した晋太郎氏について岸氏が『惜しいことだ』と語ったとされていますが、岸氏は晋太郎氏よりも10年以上前に他界しています。

ちなみに、山口県出身で総理大臣をやった全人物の出身地はというと、岸(旧姓・佐藤)信介と佐藤栄作は田布施出身ですが、それ以外では伊藤博文が光市、山県有朋と桂太郎、田中義一は萩市、寺内正毅は山口市、陸軍の重鎮では乃木希典が江戸の長州藩邸で生まれ下関市で育ち、児玉源太郎が周南市出身など田布施以外が圧倒的に多いです。
 
2、松重楊江の正体

この中に出てくる松重楊江の正体については、大正14年3月30日、山口県に生まれる。小学校5年生時から松重○ナ宅で暮らすようになり柳井商業学校卒業後、1944年12月、陸軍西部第九部隊師団通信隊に入隊。中支前線に派遣後1946年3月、上海から復員し1947年、日本共産党に入党。

1948年、岩国市に移転し岩国税務署管内の農民3500人を動員して税金闘争を起こし、「六ヶ条の約定書」を取る。このあと東部地区委員長になり、労、農、商人、在日朝鮮人などの組織を作る。その後、日本共産党・県委員、県常任委員、中国地方委員候補となり「共産党大学」第一期生に。

1952年、柳井市山根西の松重家に帰り、近所から事業所の再建を頼まれ商道に入る。社名を改めて株式会社にし、事業に取り組んだところ年商7億円、社員200名になった。1968年、退職し、この頃から歴史の研究にも熱が入るようになり、平成15年「日本史のタブーに挑んだ男」発刊。

松重は『昭和天皇の母・貞明皇后の本当の名前は朱貞明』。田布施村人脈によって樹立された明治・大正・昭和・平成王朝は朝鮮王朝である。伊藤博文らが職を失った旗本の娘の中から美女を城内に入れて「遊郭」をつくり、そこに朱貞明がやってきて大正天皇の妃になった』としています。

が、しかし、この論理では、昭和天皇以降の出自を説明できても、明治天皇、大正天皇が朝鮮人であるという説明にはなっておらず、江戸の旗本が全員朝鮮人だとでもいうのでしょうか?ましてや山口県熊毛郡田布施村が朝鮮であることの論拠にもなっていません。
 
3、宮崎鉄雄の妄言

この他、松重、鹿島と共著した「明治維新の生贄」の三人目の人物に宮崎鉄雄という音楽家がいます。宮崎氏は、「父親の和泉国伯太藩主で大坂定番だった渡辺章綱が、一橋慶喜から孝明天皇暗殺の疑いを調べるように命じられた結果、岩倉具視と伊藤博文によって暗殺されたことを突き止めた。

この傍証として、維新後、長崎に帰った渡辺章綱(平左衛門)は長崎県稲左で渡辺青年学校を設立、生徒達に一連の成り行きを話していたところ、伊藤の知るところとなって刺客を送られ、兄・渡辺魁とともに襲撃され重傷を負うも助かり、この話を父から伝え聞いたことを挙げられる」としています。

が、落合莞爾氏(「ワンワールドと明治日本」)によると、兄とする渡辺魁という人物は島原藩士で、和泉国伯太藩主・渡辺章綱とは何の関係もないことが大分地裁・家裁判事の浅見宣義氏のHPに記載されているとのこと。

また、平成7年に落合氏が宮崎氏と面談したところ、宮崎氏は「自分は90歳を過ぎている」と自称していたが、実に若々しく見え、とても90過ぎには見えなかったのは同席した水谷民彦ダイエー最高顧問と馬野周二工学博士も確認しているとも。

さらに、宮崎氏は、明治38年に男爵家の宮崎敬治の養子となり宮崎姓になったと自称しているが、「宮崎」という男爵家はないということなどから判断すると、宮崎鉄雄の父からの身の上話は”妄言”に過ぎないのではないかとの憶測に至ります。

以上からして、結論として言えることは、鬼塚らが流した「明治天皇暗殺説」や「田布施システム論」なる話は、「従軍慰安婦」や「南京虐殺」と同じ文脈の、日本國體や皇統を貶めるための捏造記事の可能性が高いといえます。

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

2017-01-08 21:48:27 | 近代


大戦の敗因を探る、2

明治維新によって東京皇統と京都皇統の「皇統二元体制」へ

1)明治維新の目的

明治維新の目的は、欧米列強からの開国圧力にさらされた幕末において、強固な国家体制(國體)を再構築することにありました。そのためには、諸藩が半独立状態だった徳川幕藩体制を終わらせ、廃藩置県などによって天皇を中心とした中央集権国家を作り上げることが不可欠でした。

ただ、問題はこれだけでは終わらず、皇室、皇統のありかたについても大幅な改革が必要でした。というのは、南北朝の動乱が終って「明徳の和約」がなされたものの、「両統迭立(たすきがけ擁立)」がなされず、以降一貫して「北朝(持明院統)」によって占められて来たからです。

とくに"表の天皇(政体天皇)”は、幕末の孝明天皇に至るまでほぼ北朝系(持明院統)によって占められ、南朝系(大覚寺統)は"裏の天皇(國體天皇)"とされてきました。このため、国学者や水戸学派、吉田松陰らも疑問を持ち、南朝皇統の表舞台への復帰が主張されます(南朝正統論)。

もう一つの皇室、皇統のありかたに関する問題は、国際化に伴う欧州王室連合との王族間通婚への対応です。通婚により、皇統に外国王室の血脈が入ると、白山王朝以来三万年以上続く世界で最も古い皇統と國體が毀損する虞れがありました。

そこで、皇統の万世一系性(血脈又は霊脈としての)と國體(国家としての霊脈)を維持するため二つの皇統を正式に定め、政体(東京)皇統ではなく、國體(京都)皇統をもって王族間通婚に対応することを決めます。

具体的には、幕末の"裏天皇"伏見宮・邦家親王が、子の山階宮・晃親王、中川宮・朝彦親王、岩倉具視らと謀って孝明天皇の崩御を演出、その子・睦仁親王とともに堀川通りにある本圀寺内の堀川御所に隠棲し、以降はシャーマンとして國體の安寧を祈りながら外交、金融等を担当する”裏天皇”になり、

一方では長州・大室寅之祐が明治天皇として即位、政府と軍を統帥する"表天皇”となり、南北両統が迭立して「東京皇統」と「京都皇統」が併存する正式な「皇統二元体制」を敷くことを決めます。

そういう意味で、南朝皇統復活(政体化)の目的は、南北朝時代の一時期を除いて鎌倉時代以来幕末まで続いた大陸経由の"後期出戻り日本人"である北朝系(秦・藤原体制=騎馬民族)主導の体制を覆し、"先住居残り日本人"である南朝系(縄文海洋民族+物部氏)を復活させることだったともいえるのです。


2)長州・大室寅之祐は南朝系の人だった

ところで、大室寅之祐の出自ですが、月読歴(真の皇統譜)よると、後醍醐天皇の第一子・護良(もりなが)親王の子・興良(おきなが)親王の後裔である「大室家」というのが山口県熊毛郡田布施村にあって、周防国の守護だった大内氏、さらに毛利氏の各時代を

領主が天下を取った時の”南朝系隠し種”として匿われてきました。一方、同じ田布施にある南朝系鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之祐が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之祐」とします。

ところで、時代は前後しますが、室町時代に日明貿易で財を成した大内氏(百済系?)に明国や高麗の背景のもと、分離独立を画策する動きが噂されます。これを牽制するため、南朝皇統は護良親王の末裔・興良親王を、

また足利幕府も、"西行法師"こと佐藤義清の後裔・佐藤甚兵衛を、秦・藤原体制に不満を持って諸国に散らばった南朝海人系物部氏の隠れ里「田布施」に派遣、大内氏の野望画策を監視します。

大室寅之祐が護良親王の後裔である話は吉田松陰も記録しており、松蔭が天皇としての英才教育をしていたとしています。また梨本宮守正の娘で李王朝に嫁いだ李方子も「明治帝は南朝の人」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の甥・興光も「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」と証言しています。

なお、「梨本宮家」といえば、近年、北朝鮮による拉致問題で取り沙汰されている横田めぐみさんの母・横田早紀江さんに繋がる血筋で、方子(まさこ)が李王朝に嫁いだことも含め拉致問題の核心に関わる重要ポイントですが、古代史の謎も含め、大きな背景を持っているので「大東亜戦争の目的」の章で詳述します。
 
3)「後南朝七家」とは

なお、大室寅之助と似た事例はこの他にもあり、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを、各地の雄藩が天下を取ったときに担ぎ上げる"隠し玉"として匿っていました("後南朝七家")。

このうち、愛知県の熊沢宏道は、熊沢家が後醍醐天皇六代目の信雅王の末裔であると明治帝に訴えたとき、明治帝は「南朝が正系である」と認め、「公平に扱うように」と下命されました。が、その後具体的は進展は見られず明治天皇の崩御とともに立ち消えになります。
 
また、同じく愛知県の三浦芳聖も、後醍醐帝第二子尊良親王の子・基良親王の直系だという家系図を当時の宮内大臣・田中光顕に申し立て、田中は「明治帝は後醍醐天皇第11番目の満良親王末裔で長州がご守護申し上げてきた」と証言しています。

これを受け、明治44年2月4日、第二次桂内閣は帝国議会において「皇統は南朝をもって正統と為す」との決議を行い、これにより20年にわたる「南北朝正閏論」が決着します。

実は、このような事例は過去にも存在し、継体天皇の他に藤原氏の百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と後光厳天皇など、時の覇者が天皇の即位、譲位を左右しています。

ちなみに、仙台藩に匿われていた小野寺天皇は、幕末の戊辰戦争の際、西軍側に対抗するため"東部皇帝"として「奥羽列藩同盟」に担がれました。その背景には東北地方で産出された豊かな金塊があります。東軍側はこれを元に、欧米列強から銃器を購入しますが、

西軍有利とみた欧米は、あえて射程の短い旧式の銃を売りつけ、しかも代金だけ受け取ってまともに納品することもなかったため、東軍側は無念にも敗退します。


欧米のグローバリズムに敗れた日本

2017-01-08 21:44:34 | 近代


大戦の敗因を探る、1

はじめに…欧米のグローバリズムに敗れた日本

江戸時代の日本の人口はわずか3000万人に満たないものでした。飢饉が起きたときには一揆も起きましたが、それなりの循環型システムの中で、日本は鎖国政策をとって自立してきました。

が、黒船の襲来により欧米列強から開国を迫られます。また、彼らに逆らった支那が列強の草狩り場とされている現状を、長州の高杉晋作が目の当たりにします。一方、薩英戦争で叩きのめされた薩摩も、近代的な欧米列強の強さを思い知らされます。

それで、薩長が中心になって明治維新を起こし、旧態依然たる徳川幕府を倒して強力な近代国家を作り上げます。文明開化とともに人口も増え続け、また北からはロシアの脅威に晒されたため日清戦争、日露戦争を勝ち抜いた日本は、米国、ドイツとならぶ「三大強国」と呼ばれるまでになります。

その後、人口はさらに増え続け、昭和初期には1億人近くになりました。が、1億人の国民を近代的な文化の下で食べさせるためには、日本列島の4つの島で生産される食料、石油などの資源だけでは足りません。このため日本は海外との貿易を活発にし、海外進出を始めます。

また、北からは、改めてロシア革命で成立した社会主義国・ソビエト連邦がモンゴル人民共和国の建国を後押したことで分るようにその脅威を増大させ、亜細亜への進出が遅れた米国は支那大陸進出への野心を強めるなどしたため、日本は国防上の理由もあって満州国の建国を図ります。

が、次第に日本と利害がぶつかり合う欧米からの圧迫が日に日に強まり、「ABCD包囲網」などの経済封鎖を受けて国民は餓死寸前に追い込まれます。その結果、大東亜戦争に打って出るしかなくなりますが、対米戦争で叩きのめされ日本は一旦滅亡します。

ところが、この結果、戦前50カ国に過ぎなかった独立国が200カ国に増え、欧米の植民地を中心にしたブロック経済圏は崩壊、新しい自由貿易の時代が始まり、東南アジア諸国はもちろん日本も奇跡的な経済成長を実現します。

一方、7つの海を支配した英国に残されたのは2つの島だけになり、フィリピンを起点に中国大陸への野心を持ち続けて来た米国も駆逐され、フランスはインドシナ半島から、オランダはインドネシアから追い出されます。

ところで、ドイツの戦略家クラウンゼヴィッツは、「戦争は戦争だけをとりあげて論じてみても意味がない。過去から現在に至る政治的な歴史の流れの中で論じてこそ意味を持つ」と語っています。

一方、近代ドイツの哲学者・ヘーゲルの「観念論的弁証法」によると、歴史とは、「矛盾」をきっかけにして生まれる「相生、相克(止揚)」が、人間の意識を「感覚知」から「絶対知」に昇華させるプロセスであると規定します。

この観点からすると、世界の歴史は「グローバリズム(国際派)」と「ナショナリズム(国粋派)」の対生滅とみなすことができ、また時間的に見れば、過去と未来も「相似象」なしています。そして、「グローバリズム」の起源は、ユダヤ人の被害妄想信仰、すなわち「ディアスポラ(民族離散)シンドローム」です。

ただし、歴史的にはユダヤ人は積極的に世界に進出し、各国市場に入り込み、あるいは国家を乗っ取り、 「ロスチャイルド」や「サスーン」財閥などになります。さらに現代に至ってはメディアにも入り込み、芸術、文化にまで影響力を及ぼしています。

また、各国中央銀行やBIS等の国際金融機関を牛耳る"国際金融資本"として、米国の「ニュー・ディール政策」で社会主義を実験し、二度の世界大戦では連合国と枢軸国の双方に融資し、さらにはソビエト連邦や中国共産党をも支援してきました。

彼等にとっては「資本の論理」が全てで、主義、思想、国家、民族といったものはどうでもいいもの、時には邪魔なものに過ぎません。そういう意味で、「コミュニズム(共産主義)」もユダヤ的グローバリズムの一形態なのです。実際、マルクスは、ロスチャイルドの依頼で「資本論」を書きました。

ところで、今世界は、プーチンや安倍晋三、イスラム世界の指導者たちなどの「ナショナリスト」と、世界を一元的に管理しようとする欧米の「グローバリスト」が対立しています。また一見対立しているように見える米中の背後にも国際金融資本が存在し、金融を通じて中国を管理しています。

「二度の世界大戦がなぜ起こされたのか」、「国共内戦でなぜ米国は国民党の勝利を望まなかったのか」、「朝鮮戦争でなぜ米国は決定的勝利を得ようとはしなかったのか」、「ベトナム戦争ではなぜ米国は勝てなかった(勝たなかった)のか」、そして「日本はなぜ戦争に追い込まれ、なぜ負けたのか」。

これらについて、明治維新以降の史実を追いつつ背景をなす人間関係を中心に分析し、大東亜戦争が欧米によって仕掛けられた罠だったこと、また軍部(とくに海軍)、政界、元老などに日本の分断、敗北を望んだ内通者がいたことを明らかにし、「矛盾」と「止揚」の対生滅が織り成す歴史の本質に迫っていきます。




江戸時代の日本

2017-01-08 21:40:38 | 近世


1、江戸時代の日本の経済力

①日本人の手先の器用さや神経の細やかさから、やたら”物づくり”だけが強調される日本だが、実は「ビジネスモデルの仕組づくり」にも優れた才能を持っていたことを明かすエピソードを紹介しよう。
 
②ナポレオン戦争を経て、半封建的国家から近代国民国家に変貌した欧州列強が、こぞって日本に開国を要求してきた理由は一通りではありません。だが、その中でも最も大きな理由は、日本が当時でも世界有数の経済大国だったということです。
 
③「そんな馬鹿な、日本は国土も狭く、明治維新までずっと貧乏国だったと聞いたぞ」という人が多いことでしょう。しかし、それは全くの誤解であり、洗脳です。
 
④淀屋辰五郎はもとより、紀伊国屋文左衛門、太鼓屋又兵衛、小谷検校などの江戸時代の豪商は、欧州富豪に先んじて世界経済史に登場し、淀屋辰五郎の資産は、ナポレオン戦争で濡れ手に粟を博する前のロスチャイルドやヘッセン侯をはるかに凌駕するものでした。
 
⑤その原動力になったのが、近代的市場取引制度や、「堂島米市」などの世界初の先物市場の創設にありました。略奪同然の植民地経営や奴隷貿易で”ボロ儲け”した欧米資本家たちとは明らかに異なる優れた商才を発揮したのです。

⑥加えて、淀屋辰五郎は、皇室資産"黄金の百合"の運用を任されていましたが、"黄金の百合"については、後述します。



2、世界最大の都市だった江戸

ところで「武」とは二つの「戈」を「止める」という意味であり、本来好戦的に戦うのではなく「戦わずして勝つ(自他不敗)」を最良とする平和の精神でもあります。徳川家康はこのことを日本の伝統的な「武学」を通じて学び、260年間にも及ぶ平和な時代の実現に成功しました

その家康が築いた、縄文時代と並んで、日本の歴史の中で最も良かったといわれている江戸時代。しかし、それがどんな時代だったか、その実相を知る人は多くないようです。

テレビの時代劇を見て育った今のわたしたちは、西洋の文物が流入する以前の江戸時代は、いたるところに悪代官や悪徳商人がいて、民衆はしいたげられていた野蛮な時代というようなイメージをもっているかもしれませんがこれは洗脳で、実際にはとても平和な時代だったようです。

江戸の人口は延享三年(1746)には120万人を超え、欧州最大の都市ロンドン(約70万人)やニューヨーク(約2万人)と比べても、世界最大の都市だったそうです。それでも自然と調和し、完全な循環型のリサイクル社会を築いていたのは、やはり日本人ならではのセンスではないでしょうか。

1690年から1692年にかけて日本に滞在したケンペル(ドイツ人)は「この民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、

国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」と記しています。

また、幕末に来日したアメリカの総領事タウンゼント・ハリスも「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった」と書き残しているように、長い間にわたってとても平和で文化的な時代が続いたようです。

災害や飢饉も多く一揆などもあったようですが、現代のように殺人事件や詐欺事件や企業戦争などはなく、人々のストレスも今よりはるかに少なくて、自殺、うつ病、引きこもりなどが社会問題になるようなこともなく、政治的混乱や環境問題などもなかったのでしょう。

当時の世論調査がないのでわかりませんが、江戸時代の日本人の幸福度は現代よりもかなり高かったのではないでしょうか?「物質的な豊かさ」ではなく「精神的な豊かさ」なら、現代よりもむしろ江戸時代に軍配が上がるような気もします。

生きていた護良親王と國體勢力>

2017-01-08 21:32:08 | 中世


<生きていた護良親王と國體勢力>

今から約1300年前、「騎馬民族系・天智天皇(の子・大友皇子)」と「海洋民族系・大海人皇子(天武天皇)」による天下分け目の戦い「壬申の乱」が起こったことは既に述べました。そして日本の歴史は、この「騎馬民族(北朝系)」と「海洋民族(南朝系)」を背景にした「南北朝の対立」を中心に展開しています。

また、このことは「明治維新」を起こす動機の一つにもなっています。そこで今回は、古代史と近代史を結ぶ、日本史の"臍(へそ)"ともいうべき「南北朝時代」とその動乱の真相について、落合莞爾氏の見解も参考にしながら明らかにします。

1、通説による南北朝動乱の経緯

さて、後醍醐天皇の第一皇子だった大塔宮・護良(もりなが)親王は、太平記では”悲劇の宮将軍”として、鎌倉の洞窟牢に幽閉されたのち、足利忠義によって殺されたことになっています。が、実はこの話は身分を隠すための”物語”で、実際は生き残り、南朝復興と國體の護持に務めていました。
 
建武元年、政権を樹立した後醍醐天皇は、寵姫の阿野廉子の子である幼い恒良親王を皇太子にします。このとき皇太子として最もふさわしいのは誰が見ても第一子で27歳の護良親王でした。
 
しかし、倒幕における勲功で自身と並ぶ足利尊氏と相いれず、その後も尊氏による武家政権樹立の動きを警戒する護良親王は、大和の国信貴山に拠点を設け、上洛せずに尊氏討伐を後醍醐天皇に申奏します。
 
そのため、尊氏討伐をためらう後醍醐天皇は、征夷大将軍職を望む尊氏に鎮守府将軍を与えただけで、護良親王を征夷大将軍につけ兵部卿を兼務とさせ、和泉守、紀伊守に任じます。が、護良親王は、尊氏の野心を警戒し陸奥将軍府を設置、弟の義良親王を長にして東国に軍事基盤を持つ尊氏を牽制します。
 
しかし、尊氏と密かに通じた後醍醐天皇の寵姫・阿野廉子に「大塔宮(護良)に皇位簒奪の企てあり」と讒言され、姦計を持って捕えられた結果、身柄を足利方に預けるため鎌倉に送られ、尊氏の弟・鎌倉将軍府執権・足利直義の監視下、二階堂が谷の東光寺に設けた土牢に幽閉されます。
 
建武二年、北条時行と残党が鎌倉に急迫したため(中先代の乱)、直義は鎌倉を離れるにあたり、北条軍が護良親王を担ぐ事態を懸念、淵辺義博に護良親王殺害を命じ、この件は緊急避難として認められ問責されることはありませんでした。以上、ここまでが、歴史の教科書で教えられている通説です。(次回に続く…)

2、"護良親王偽弑逆工作"
 
が、宮を憐れんだ淵辺義博は一命を救い、陸奥石巻へ落としたという説があります。「君命に背いたことで妻子に咎が及ぶのを恐れた義博は、その縁を切るため境川にかかる橋の袂の榎の下で妻子と分かれた」と伝えられており、その橋が東京町田市木曽町の中里橋で、榎は”縁切り榎”と言い継がれています。
 
また、沈着冷静で知られる知将・足利直義が、”大塔宮弑逆”のごとき末代まで怨みを買う暴挙を本当に実行したかは大いに疑問とされてきました。そして実は、そこには後醍醐天皇の側近・文観らによって謀られた政略があったという見方(落合莞爾)があります。
 
ここで、南北朝の対立を時系列的に俯瞰すると、文保元年(1317年)に伏見上皇が崩御すると、花園が上皇になり後醍醐が天皇に即位します。が、ここで皇太子を巡る両統の争いが激化したので、鎌倉幕府が仲裁に乗り出し、皇位継承に以下のような一定の基準を設けることを提案します(文保の和談)。
 
❶花園が皇太子尊治(後醍醐)に譲位すること
❷今後は在位を十年として両統が迭立(たすき掛け)すること
❸尊治の次の皇太子を邦良とし、その次を後伏見の皇子・量仁とすること
 
ところが、後醍醐即位から三年して突如、後宇多上皇が院政を辞め、治天の座を後醍醐に譲ります。後醍醐は天皇在位のまま”治天の君”となり、親政に移行します。
 
これを知った邦良皇太子は、皇位を自分に渡すよう要求しますが、後醍醐は応じません。後宇多上皇が崩御したのち邦良は鎌倉幕府に後醍醐の譲位を働きかけ、両統迭立を皇室操縦戦略と考える幕府もこれを受け、皇位継承を早めることを決めます(正中の変)。
 
一方、後醍醐はこれらの動きに激しく反発、倒幕を決意したたため南北朝の大動乱が始まります。尊氏に擁立された後光厳天皇は、傍流ながら「正平の一統」で崇光天皇が退位して絶えた北朝を再興して実力をつけ、わが子の後円融を皇位に付け、後小松、称光と四代にわたり北朝皇統を継承します。
 
一方の延元元年にはじまった南朝皇統は、明徳三年の”明徳の和約”により南朝・後亀山天皇が三種の神器を北朝・後小松天皇に引き渡して、南北朝が合一されたとして終わります。以降の皇統が北朝の血筋だということが天下の常識とされます。
 
実際、これ以降、江戸時代に入ってからも、本居宣長、平田篤胤などの国学者や、水戸学派の徳川光圀、吉田松陰らによって「南朝正閏(せいじゅん)論」「南朝復興論」というのが出てきては消え、日本史の中でくすぶり続けます。

3、「元寇」の真相

このような対立による混乱を収拾し、傾いた鎌倉幕府を倒して、更なる「元寇」に対応できる強固な國體を作るため、後醍醐天皇、側近の文観、足利直義らが考えたのが"護良親王偽弑逆工作"です。護良親王を表舞台から裏舞台に移して(裏天皇)、後継者バンクとしての第三皇統(伏見宮統)を作り、機を見ての両統迭立の解消を目指したのが真相です。

ちなみに、「元寇」といえば、鎌倉時代に誕生した新仏教宗派が中心になって、「自分たちには法力がある」とアピールするため"神風信仰"を作話したようです。が、実際は、肥前国(佐賀県)の「松浦党」というかつて平家に属していた水軍が、この時期の玄界灘の気象を知り尽くしており、海戦に不慣れな大陸勢力を海上に押し戻した上で、断続的なゲリラ戦を仕掛けたため圧勝につながったというのが真相です。

この点に関して、「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法(佐藤鉄太郎)」によると、「蒙古襲来絵詞」「大友頼奏覆勘状写」「福田兼重申状写」「日田記」が残っているが、いずれも博多湾周辺の赤坂、鳥飼潟、百道原など戦場にしたもので、どこにも日本軍が太宰府まで撤退したとの記述はなく、日本軍が優勢に戦っていたことを記しています。

また、「歴代皇紀」では、10月5日の元軍襲来以降、激戦が続き、10月20日に大宰府の兵船300余艘が出航して元艦隊を追ったとし、「菊池系圖」では、赤星有隆が壱岐、対馬での元軍追撃戦において武功をあげたとしています。

他にも、「松浦党大系圖」が、肥前の御家人である山代諧が「対馬で討ち死にした」としていますが、これは元軍に対する追撃戦で戦死したと考えられ、この結果、九州から壱岐へと逃げた元軍総司令官の忽敦は、高麗軍を率いる金方慶と協議の末、日本からの撤退を決断したようです。

4、ネットワークは欧州へも

話を戻しますが、東国を脱した護良親王は、大和国西大寺に入ります。その後は真言律宗僧・文観の協力もあって、全国に1500もあったという系列寺院を基盤に西大寺の財力も用いて、吉野から鎌倉に至る街道の要所に極楽寺を建ててネットワークを築きます。
 
極楽寺には「」という療養施設を設け、遺体より取り出した臓器や辰砂(しんしゃ=水銀)から薬を製造、大麻や罌粟(阿片)などとともに、近辺に参集した非農業民へ施しを行います。彼らは下民(シタダミ)や役民(エノタミ=エタ)と言われましたが、古代、主に古墳の造営のため朝鮮半島から渡来した農地を持たない、従って戸籍も持たない非農業民のことです。

彼らは、土木作業に従事、閑散期には非定住漂泊民化し、死体処理、、全国への行商、大道芸能、飛脚、運搬などにあたります。護良親王は、不安定な彼らの健康や生活の改善に尽力し、特筆すべきは癩病(ハンセン氏病)患者のケアをしたことです。彼らは我が国にはなかった疾病を抱えていたことが想像されます。

実際、大阪の天王寺、奈良の西大寺、全国の極楽寺近辺に多いとされていますが、一部は山間部に居住して"山窩(サンカ)"とよばれる山岳漂泊民になったと言われています。

一方で護良親王は、丹波国に「役行者(えんのぎょうじゃ)」を始祖とする「大江山衆」、山科に「勧修寺(かじゅうじ)衆」という修験者(霊媒衆)集団を組織し、朝廷忍者として各方面で情報収集などの工作活動をさせます。前者が"裏神道・八咫烏”、後者が"裏仏教・飛鳥”の始まりと言われています。

警戒した北朝側は、対抗して伊賀、甲賀に忍者組織を作ります。が、護良親王が"傑物"と言われる所以は、こうして作ったネットワークと財源を元に全国の港湾施設を整備、海運関係者も加える形で初期"倭冦"から日明貿易にまで携わって海外展開し、国際情勢の把握に努めます。

刮目すべきは、その海外ネットワークをアジアばかりでなく遠くオランダ、ベルギー、特にYAPハプロR系遺伝子が伝わるスコットランドにまで広げ、水銀などの「和方(日本式医療)」を用いて、「黒死病(ペスト)」によって崩壊の危機に直面していた欧州各国を救ったと仄聞しています。

そして、伏見殿を舞台にした”裏皇室(後の國體勢力・京都皇統)”は護良親王亡き後も存続し、後小松天皇(新北朝・持明院統)の後の皇位に護良親王の子の崇光天皇(後南朝・大覚寺統)を就かせます。

その後の"裏皇室"の刮目すべき事跡としては、戦国時代に入って日本に進出してきた「イエズス会(ローマカトリック)」による世界侵略計画を喝破、その布教を許した織田信長を明智光秀に殺害させたこと、また、朝鮮半島に拠点を移し支那への浸透を図ろうとした野心を阻止するため豊臣秀吉に朝鮮出兵をさせたこと、

さらには、明智光秀を南朝系の参謀僧"南光坊・天海”として送り込み、徳川家康をして関ヶ原の合戦によって西国に誕生していたキリシタン大名を消し去ったこと、徳川家光をして「島原の乱」を鎮定させ、日本国内からイエズス会の芽(覇道ワンワールド勢力)を一掃したこと、などがあります。

加えて、その影響力は明治維新にも及び、朝彦親王らによる南朝系明治天皇(大室寅之助)擁立にまで到ります。また、幕末の勘定奉行(財務大臣)に南朝系の小栗上野介忠順を送り込み、徳川家が全国の金山から採掘し貯蔵していた金塊を回収、後の「黄金の百合」の一部として浄土真宗法主・大谷光瑞らに運用させます。(次回に続く…)


4、「朝鮮出兵」の目的と背景

1)秀吉は明を征服する気は無かった

この中で、護良親王の築いた国際的な情報網が日本を救った例として、「朝鮮出兵」の目的と背景について説明します。豊臣秀吉は、「文禄の役(1592~1593)」、「慶長の役(1597~1598)」と二度にわたって約16万の大軍を朝鮮半島に送ります。

通説では、「秀吉は晩年、痴呆になったかのように明国征服のための無謀な朝鮮出兵を行った」としていますが、これは全くの誤りです。そもそも、本気で明国を征服する気があったら、「倭寇」で鳴らした当時の日本の水軍力をもって、いきなり支那の沿岸部を攻撃したはずですが、そういう計画はありませんでした。

では、なぜ朝鮮出兵は行われたのか?この時代、世界の8割はスペインの植民地で、スペインはフィリピンのルソンに東アジア地域全体の戦略統合本郡を置いていました。そして当時、スペインによってまだ征服されていなかったのは、アジアでは明国と日本だけで、朝鮮半島は明の一地方である弱小国にすぎませんでした。

そして、天文18(1549)年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルらが、布教を建前にして日本へ偵察にやってきます。スペインは当初、中南米で行ったような武力による日本征服を考えていました。が、宣教師たちは、それが難しいことを痛感させられます。

というのは、これに先立つ1542~3年頃、ポルトガル人が種子島にやってきて「鉄砲」を伝えところ、日本人はたちまちこれをコピーした上で量産してしまい、日本は世界の鉄砲所持数の半数を保有していたからです。

ドン・ロドリゴ、フライ・ルイス・ソテロらがスペイン国王に送った書簡には、「国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。」と。

こうしてスペインは、日本でのキリスト教の布教活動にまず注力する一方、明国の征服を狙います。明国は鉄砲の保有数は少なかったのですが、とにかく広く、人も多いため手間がかかります。そこで、明国と日本の中間地点である朝鮮半島に狙いを定め、触手を伸ばします(実際、現代においても韓国人にクリスチャンが多いのはこの辺りに背景があるようです)。


2)日本軍の強さに驚愕したスペイン

この間、西洋の文物に魅了された織田信長以降、その知識や技術を取り込もうと日本は、キリスト教の布教活動を認めます。ところが、慶長元(1596)年、スペインの貨物船サン・フェリーペ号が遭難し、土佐の浦戸に漂着します。そこで、秀吉の五奉行・増田長盛が、救助した船員たちを取り調べた結果、驚愕します。

サン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送って信者に内応させ、その伝道地の国土を征服したためスペインは世界中にわたって領土を占領できた」と証言。これにより秀吉はキリスト教禁教令を出します。

加えて、日本側はすでに、護良親王が欧州に派遣して地盤を確立していた"南朝皇統の筋"から、スペインの誇る「無敵艦隊」が英国に破れ、海軍力を大幅に低下させているという情報を得ていました。

もちろん、当初、秀吉は、スペインと政治的交渉を行うため、天正18(1591)年9月、フィリピンのルソンにあるスペインの総督府に原田孫七郎を派遣し、国書を手渡します。大帝国のスペインに対し、「頭を下げて臣下の礼をとれ。それが嫌ならマニラに攻めこむぞ」と、口喧嘩をふっかけたのです。

そして、文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門が滞在していたマニラで、同じくスペインの意図を見抜いた明国から派遣されていた正規兵2千人が一斉蜂起してスペインの総督府を襲う事件が起こります。スペイン兵は応戦しますが歯が立たず、原田喜右衛門が手勢を率いて加勢、またたく間に明軍を全滅させてしまいます。

日本軍の強さを思い知らされたゴメス総督は、原田喜右衛門に感謝をするとともに、この勢いで日本が朝鮮、明国を征服するのは時間の問題。そうなれば、日本がアジアの最大国となるのは火を見るよりも明らかで、"モンゴル帝国の再来"となって欧州にとって脅威となるのは必定と考えました。

ちなみに、韓国では、李舜臣が日本の朝鮮半島への補給路を断ったため、日本軍は半島からの撤退を余儀なくされたとして英雄になっています。が、李舜臣は文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑みますが、あっさり敗退。そして、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦のときにあえなく戦死しています。

3)日本を救った護良親王

一方、日本側は、スペインが当時、すでに傾きかけていた明国を支配下におさめると、いかに数多くの鉄砲を持っているとはいえ、スペイン配下の明国の大軍が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできて"元寇の再来"となりかねないと考えます。そこで、スペインの野望を挫くため秀吉は朝鮮出兵を行います。

仮に明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことが日本の国防上有益で、「白村江の戦い」などの古代の歴史や、ロシアの南進を防ぐために明治政府が行なった「日韓併合」と共通の"満鮮計略"に基づいたものです。

が、日本が撤退したのは、護良親王が欧州に作った"南朝皇統の筋"からの情報に基づき、「無敵艦隊」の壊滅以来、スペインは英国やオランダに押されて国力も疲弊した結果、アジアから撤退する方針に変わりつつあったこと、明に代わって女真族の「清」が勢いを増しつつあったことを知っており、国内の安定化を優先したからです。

また、もう一つの「朝鮮出兵」の目的は、"戦国大名版刀狩り"にありました。つまり、戦国の世を終わらせるために、諸大名に金を使わせ、その力を削ぐことも狙いでした。事実、何一つ恩賞を得られなかった諸大名の不満は、秀吉の死によって爆発。その後の関ヶ原では、トドメを刺すようにキリシタン大名は一掃されました。