誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

日米開戦と国際金融資本

2017-01-09 10:12:10 | 現代


1)対米開戦回避に尽力した東條首相

開戦への機運が強まる中、木戸幸一内相は、政権を投げ出した近衛の後任として昭和天皇に東條英機を推挙、承認を得ます。その狙いは、「鬼畜米英!」で息上がる軍部を抑えられるのは東條しかなく、また東條は開戦回避の意向だった天皇の意志を絶対視する人物として適任と考えたからです。

木戸日誌によると、「あの期に陸軍を押えられるとすれば東條しかいない。東條はお上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった」と述べています。天皇も東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ずだね」と答えました。

皇居での任命式で、天皇から対米戦回避に尽力するように指示された東條は、それまでの開戦姿勢を改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え開戦計画を撤回します。この時、陸軍省に戻って来た東條は「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞ」と叫びながら歩いたといいます。

また、対米交渉の最大の難問であった支那大陸からの徹兵要求については、すぐにということではなく、支那国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示します。

が、11月末、米国側は「ハル・ノート」を提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の支那大陸からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという強硬案を通告してきます。

そこで東條内閣は交渉継続を最終的に断念、対米開戦を決断します。対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びたといいます。

2)二つあった「ハルノート」原案

ちなみに、「ハルノート」の原案は二つありました。一つはハル国務長官の書いたインドシナ撤退だけの穏健な妥協案。もう一つはハリー・ホワイトの書いた支那大陸、インドシナからの完全撤退を要求する強硬案。チャーチルと蒋介石には前者が、日本には後者が通知されたため開戦に至ります。

なぜこのようなことが行なわれたのか背景を探ると、まず1941年11月17日、財務副長官だったハリー・ホワイトの書いた原案の一つ「日米間の緊張除去に関する提案(「ホワイト試案」)」が、財務長官ヘンリー・モーゲンソーを通じてルーズべルトとコーデル・ハル国務長官に提出されます。

これに対しハル長官は、穏健な内容のもう一つの原案「ハル試案」を提示します。が、25日にルーズベルトの厳命によりハル長官は「ハル試案」を断念。結局、対日強硬案の「ホワイト試案」にそった「ハル・ノート」が日本に提示されます。

ところで、戦後の1948年の夏、米国下院非米活動委員会において、ウィテカー・チェンバースとエリザベス・ベントリーが、ハリー・ホワイトがソ連のKGBの前身NKGB(国家保安人民委員部)の在米責任者ボリス・ブコフの指揮下にいたスパイだったことを証言。この三日後、ハリー・ホワイトは自殺します。

また、戦後、ルーズベルトの政敵のハミルトン・フィッシャー共和党党首もハルノートを研究した結果、日米開戦当時、米国政府内にソ連のスパイが300人もいたことを発見しました。これはCIAのHPに掲載されています。

例えば、ハリー・ホワイト以外のルーズベルトの側近としては、マンデル・ハウス、ルイス・ハウ、ハリー・ホプキンス、フランク・ファーター、バーナード・バルーク、それにエレノア夫人がいますが、彼らは全員社会主義者でユダヤ系です。ちなみにルーズベルトのユダヤ名は「ローゼンベルト」です。

まず、マンデル・ハウスは、ロスチャイルド家の代理人として金融業に携わった後、ウィルソン、ルーズベルトという二人の大統領の側近になります。その最大の功績はシフ家、ウォーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家、モルガン家を纏めて「連邦準備銀行」を設立したことです。

次に挙げられる有力な側近はフランク・ファーターです。オーストリア移民のファーターは、ブランダイスに続いてユダヤ人で二人目の最高裁判所判事に任命されます。ルーズベルトに事実上の社会主義政策である「ニューディル政策」を助言し、各種関連法案に対し合憲判決を出すという構図を作ります。

ただし、ホワイトにしてもファーターにしても本当の黒幕ではありません。第一次大戦終了後の1921年、ベルサイユ会議で、エドモンド・ロスチャイルドは国際的課題を事実上決める民間シンクタンク「国際問題研究所」の設立を提案、その米国支部が「CFR(外交問題協議会)」です。

「CFR」の設立にはマンデル・ハウス、バーナード・バルークの他、ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シフ、アベレル・ハリマン、ウォルター・リップマン、ダレス兄弟(後の国務長官、CIA長官)、J・P・モルガン、ジョン・D・ロックフェラーが関わります。

3)英米は支那大陸で経済的支配を確立

以上のようにして、ルーズベルトは日本に厳しい回答を示し日米開戦を仕掛けます。それは日本を日米戦争に引きずり込んで戦力を分散させ、支那へのコミンテルンによる「共産主義の浸透」と、英米による「経済的支配」の確立を容易にしたかったからです。

「英米による経済的支配」の象徴が中国における「幣制改革」です。これは、民衆の持つ銀と国民党政府が発行する紙幣を交換させるもので、1935年11月に英国政府経済顧問のリース・ロスの指導によって実行されます。

紙幣の発行は、上海に進出していた英国のサッスーン財閥と国民等政府が合同で設立した「中国農工銀行」を通じて行なわれました。獲得した銀は8倍の価格で英国市場で売却され、サッスーン財閥と蒋介石は巨額の富を得ます。このこともあって国民党政府は財政難に陥り、蒋介石は民衆の支持を失い始めます。

また、「幣制改革」には、米国の大富豪で世界の銀の3分の1を保有するバーナード・バルークも関わっていました。というのは、1933年1月、米国議会はバルークの提案によって、市場価格の2倍で銀を買い入れる法案を制定、この結果、銀の国際価格は急騰し、バルークも巨利を得ます。

このような「幣制改革」の目的は英米資本家たちを肥えさすだけではありません。もし満州に続いて華北が独立し、国民党政府の支配が及ばなくなると発行した紙幣は紙くずになります。このことを利用して華北の独立を封じる国民党政府の狙いもありました。

4)「国際金融資本」という欧米の支配者

世界一の金融大国で、資本主義国の頂点に立つ米国、そしてその大統領ら政府中枢が「社会主義者(=共産主義者)」だったなどというと、多くの人は驚かれると思います。が、実はここが戦前、そして今も続く「国際情勢や国際戦略」を読み解く最大の鍵なのです。

実は彼らの背後には、大戦中、連合国にも枢軸国にもソ連にも金を貸した「国際金融資本」がいて、彼らにとっては資本主義だろうが共産主義だろうが、金儲けができればばどっちでもいいのです。また彼らが拠点とする「国家」も一時の"隠れ家"に過ぎず、その都度、使い捨ててきました。

実際、彼らの活動が活発化した近代以降、世界を支配した覇権国は「英国」そして「米国」へと移行しました。そういう意味で、彼らは国境を越えた"国際派"であり、まさにユダヤ人の辿った歴史そのものです。

また、彼らの主張は「国際化」の他に「平和、人権、民主主義」などの"普遍性"に特徴があり、このような誰も反対できない"甘言"を弄して大衆を煽動します。また、近年は「反核」「反原発」などもこれらと同じ文脈で捉えることができます。

これにより、あるいは"民主化"の名の下に、先ずは欧州諸国の国家体制を崩壊させました。が、ロシア、支那、日本などの強固な君主制の国を解体するのは厄介でした。そのため「民主化→社会主義化」で徹底的に破壊、解体します。

そして、彼らが亜細亜支配を考えるとき中心となるのは支那でした。が、特に東亜細亜においては、世界一の歴史を誇る國體(天皇制を中核にした国家体制)を持つ日本が、国家存亡の危機を乗り越えるため「大亜細亜主義」を掲げて蒋介石と連携し、"自存自衛の戦い"を起こす可能性がありました。

この結果、邪魔な日本を叩くため北からソ連、南から英・蘭・仏、西から中国共産党(にコントロールされた蒋介石)、東から米国が、寄って集って日本を追い込みます。そういう意味で、大東亜戦争には「対欧米戦争」の側面と、「防共戦争」の二面性があったといえるのです。

5)マルクス主義の「二段階革命論」とは

ちなみに、紛らわしい「民主主義」や「社会主義」「共産主義」について簡単に整理しますと、これらは「マルクス・レーニン主義」で主張される「二段階革命論」で説明できます。

マルクス主義の唯物史観に基づく社会の発展形態観によると、まず封建制下では、新興階級であるブルジョワジー(資本家階級)が「ブルジョア民主主義革命」を起こして封建領主や絶対君主を打倒、資本主義的生産関係を確立した上で近代民主国家を成立させます(資本主義)。

次に、新たにブルジョワジー(資本家階級)と労働者階級の対立が生まれる中、労働者階級は「プロレタリア社会主義革命」を起こして生産関係を国有化(社会主義)し、最終的には「一党独裁」の下、私有財産制をなくします(共産主義)。

ただ、未だ封建的段階を脱していない社会や、外国に支配されている植民地である場合、革命の第一段階から、資本主義的生産関係を確立しない「プロレタリア社会主義革命」を起こします。例えば、ロシア革命では皇帝を追放した「二月革命」が「社会主義革命」、ボルシェビキ(強硬派)が権力掌握した「十月革命」が「共産主義革命」とされ、

中華革命では「辛亥革命」が「社会主義革命」、中国共産党が権力掌握した「国共内戦」が「共産主義革命」とされます。日本もこの二国と類似した「天皇制」を中核とした国家ですが、その強固な國體故に、敗戦にもかかわらずシナリオは実現せず、せいぜい"欧米流の憲法制定"による「資本主義的近代民主国家」が出現させられたに留まっています。




拡大する大陸進出の背景

2017-01-09 10:00:20 | 現代


大戦の敗因を探る、7

1)石原莞爾と満州事変

さて、昭和初期における大東亜戦争前の最大の紛争は「満州事変」です。が、「満州」といえば、必ず話題になるのが"天才戦略家"と言われた「石原莞爾」です。山形県出身の石原は、陸士、陸大を卒業後ドイツに留学、クラウンゼヴィッツやナポレオン、フリードリヒ大王の戦略論を学びます。

ところで、日露戦争で勝利した日本は、国際法に基づきロシアから南満州鉄道の経営権とその守備駐屯地権等を譲り受け、またこれについては清国との間でも取り決めを交わしています。

こうして日本が進出した満州の治安と経済は顕著な進歩を遂げます。大不況下にあった本国からは渡航者が殺到、華北地方からも漢人がやってきて、昭和5年の満州の人口は、日露戦直後22年で70%増加します。産業面でも、例えば大豆は5倍に、石炭生産は6倍に達します。

当初、日本は満州軍閥・張作霖に満州の統治をさせようとします。が、張作霖配下の郭松齢がソ連に買収されて反乱を起こしたため関東軍が出動し平定、その後も日本は引き続き張作霖を支援します。ところが、1928年(昭和3年)6月4日、張作霖は奉天近郊を列車で移動中、爆殺されます。

この事件に関しては、これまで犯人は日本軍の河本大佐ではないと言われてきました。が、当日の現場には張作霖の通過ということから、申し出により日本軍に代わって奉天軍50人が護衛に着いていたこと、列車が現場に近づいたときだけ時速10キロ程度に落としていたこと、回収した破片から爆弾がロシア製だったこと等から疑問が持たれてきました。

実際、張作霖爆殺事件は、「スターリンの命令にもとづいてロシア人・ナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」とロシアの歴史作家・ドミトリー・プロホロフが語っており、また2005年に邦訳が出版された「誰も知らなかった毛沢東(ユン・チアン)」でも紹介されています。

ところが、この事件をきっかけに、父・張作霖との関係がうまくいっていなかった息子の張学良がソ連の支援の下、激しい排日運動を展開。このため、軍部は満州及び関東軍の建て直しを図るべく昭和4年に石原を特務参謀として送り込みます。

が、激しくなる排日運動の中、国際法によって認められた在留邦人の生活が脅かされ、内地に帰る者も続出するに至ります。石原は「やはりこの満蒙は支那人では駄目だ。彼らには国作りの理想もなくソ連の思うツボ。ここは日本が軍政を布いて治安を維持し、産業を発展させる必要がある」と確信。

本国に四個師団の増派を要請しますが、ソ連を刺激したくない軍中央は増派を承認しません。そんな折「万宝山事件」「鉄道併行線建設問題」「中村震太郎大尉殺害事件」が起きます。

が、張側が曖昧な対応に終始したため、板垣征四郎参謀張、本庄繁関東軍司令官と共に単独行動を決断。

昭和6年9月18日、柳条湖付近の線路を爆破し、これをきっかけに張学良軍22万人を、わずか1万2千人の兵力で撃破、満州各地の軍閥を3ヶ月で平定します。

この後石原は「新国家建設論」を発表。「八紘一宇」の精神を背景にした「王道楽土」「五族協和」をスローガンとして、満蒙領有論から満蒙独立論を主張。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだといい、日本及び中国を父母とした「満州合衆国(東洋のアメリカ)」の建国を目指します。

ちなみに、1912年に成立した中華民国の理念でもあった「五族協和」の「五族」とは、東亜細亜の古代の歴史や各民族のルーツに鑑み、一般には日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指すと言われきました。が、世界最古の歴史書「竹内文書」などに登場する「五色人」を表しているという説があります。

それによると、「五色人」とは「黄金人」である日本人から分かれた「黄人」「白人」「黒人」「赤人(ユダヤ人)」「青人(スカンジナビア人)」を意味し、「黄金人」である日本の古代天皇が世界を統治していた(万国天皇)としています。これを縮図化し再現するのが理想の国"満州国"だったのです。

新国家・満州国のリーダーには清朝末裔の宣統帝溥儀が担がれますが、治安維持など問題山積の状態に本国からの干渉が激しくなり、石原は日本に返されます。が、本国で「満蒙開拓移民計画」を立て、日産の鮎川義介を説得して「満州重工業開発計画」の実現や「建国大学」の創立に奔走。



2)「八紘一宇」とは何だったか

ここで、石原らの根本思想にあった「八紘一宇」について説明しますと、「八紘」は「すべての方向」「世界全体」を意味し、「一宇」は「一つの屋根」「一つの家」で、「八紘一宇」は「天皇家の下、世界全体を一つにまとめる」という意味を持ったスローガンです。

原典は「日本書紀」(巻の三)の「六合を兼ねて以って都を開き、八紘を掩いて而して宇と為す」で、大正時代に日蓮宗系国柱会を興した田中智学の造語と言われています。

まず八紘一宇を理解するには「皇国史観」を知らなければいけませんが、これは日本の歴史を國軆の発展としてとらえる史観で、1930年半ばごろから確立されます。その内容は(1)日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅を奉じ、三種の神器を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとします。

(2)また、日本国民は臣民として、古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきたとし、(3)こうした国柄の精華は、日本だけにとどめておくのではなく全世界にあまねく及ばされなければならない(神武東征の天業恢弘…てんぎょうかいこう)、とします。

田中は『日本国体の研究』で、「人種も風俗も一つにするのではなく、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文はそのままで国家も領土も民族も人種も、各々その所で各自の特色を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰し統一する」としています。これを一言で言うと、「違いを認めて一つに帰る(差異と帰一性の共創原理)です。

田中は大正12年、立憲養正會を創設し各種選挙に候補を擁立、「天皇の大命を拝し、合法的に国体主義の政治を興立する」ことを目標とし、一時は地方議会を合わせて100人を超す議員が所属しました。が、新体制運動や大政翼賛会を批判していたため昭和18年3月に解散に追い込まれます。

ちなみに、昭和11年に発生した二・二六事件では、反乱部隊がしたためた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに、我が神洲たる所以は、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ、遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。

此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とあります。この事件に参加した皇道派は粛清されますが、日露戦争以降の「興亜論」から発展した「アジア・モンロー主義」を進める当時の日本政府の政策標語として使用されるようになります。

ちなみに、「アジア・モンロー主義」とは、亜細亜主義の一種で、米国のモンロー主義のように、アジアにおける排他的な覇権(自給自足圏)を確立することによって、亜細亜諸国の独立と日本の経済的自立を図ろうとするものを指し、「東亜新秩序・大東亜共栄圏」の基礎となります。

それは、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が提唱した「人種平等法案」が否決され、また1924年(大正13年)に「排日移民法案」が米国議会を通過したことで湧き上がった「亜細亜同盟で米英に対処すべし」との国民世論を背景にした考え方です。

さらに、1924年11月には、孫文が神戸で「大亜細亜主義」の講義を行ったことで新しい展開が生まれ、英国によるインドへの圧政に対する反発と、その後の欧米列強による「ブロック経済」による日本への圧迫が、「八紘一宇」の思想を具現化させた「アジア・モンロー主義」を誕生させました。

3)石原莞爾と「世界最終戦争論」

そうした中、昭和11年2月、「2・26事件」の反乱軍鎮圧司令部の任に巻き込まれて、これを不満とした石原は進退伺いを出して自宅に閉じこもってしまいます。この間、「東亜連盟」を結成、全国で持論を展開。人類の最終戦争は米国と日本による総力戦になると説きます(世界最終戦争論)。

即ち、「最終戦争では航空機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施されることになる。戦う国としては欧州、ソビエト連邦、東亜連盟、南北アメリカ連合だ。日本の天皇を盟主とする東亜連盟と、ヒトラーを中心とした欧州対南北アメリカ連合と、中立のようだがアメリカ寄りのソ連の対立となる。

が、欧州は諸国が密集しているためまとまらず、ソ連はスターリンの死後は内部崩壊する。その結果、東亜連盟と南北アメリカ連合の決戦となり、この「世界最終戦争」に勝った国を中心に世界はまとまる。これは東洋の王道と西洋の覇道のどちらが世界統一原理となるか決定する戦争となる」と。

そのため石原は、不必要な戦線の拡大に反対し(「十年不戦論」)、また「日満重要産業五ヵ年計画」を進めて満州を基盤にして国力を養い、軍備を強化するべきだと主張します。

ところが、昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋で、ソ連の支援を受けた中国共産党の工作による日本軍と支那軍との軍事衝突が起こります。当時、参謀本部作戦部長であった石原はもちろん戦線不拡大方針でした。

理由は、日露戦争には勝ったもののとても勝利と言えるものではなく、ソ連(ロシア)との最終決着は未だついておらず、「新五カ年計画」で国力を増強したソ連は再び南侵してくるとの確信がありました。そのため、今、支那との戦線を拡大するのは得策ではない。

また来るべき世界最終戦争では、支那と協力して米国と対抗しなければならないと考えていたからです。また蒋介石自身も、元々、日本と戦う気はなく、ソ連の息のかかった中国共産党への危機感を募らせていました。実際、孫文も「満州は日本に譲る」といっています。

が、現地部隊は、満州事変が3ヵ月で終わった経緯から短期間で中国全土を制圧でき、命令に反しても結果さえ良ければ処罰されないと考え、また蒋介石も「西安事件」で毛沢東に拉致され、やむなく「国共合作」で日本と戦うことを約束させられます。この結果、事変は全面戦争へと拡大します。

そんな中、石原は昭和15年7月の大阪会議で陸相の東条と激突。海軍の南進にあわせて陸軍を派遣するという計画に「まだ支那事変が解決していないのに戦局を広げるとは何事か、先ず蒋介石と講和してからだ」と噛み付いたため、昭和16年3月、石原は60歳の定年を前に52歳で軍を追われます。

終戦後は、既に引退していたとはいえ石原も例に漏れず東京裁判の証人となります。が、「ペリーを呼べ」「トルーマンこそが第1級の戦犯である」等と証言、一切連合国に媚びず、逆に糾弾します。そのためか、マッカーサーも世界的に名の知れた石原を戦犯にできませんでした。

4)なぜ満州で油田を発見できなかったのか

ところで、「満州」といえば、多くの資源が埋蔵され、実際、戦後「大慶油田」「遼河油田」などが開発されています。したがって、これらを戦前の段階で発見、開発していれば、南方の資源地帯確保を目的にした「大東亜戦争」も起こす必要はなかったはずです。

実際、戦前の日本は、昭和7年の満州国建国以前に少なくとも2回、建国後にも4回、ソ満国境に近い満州東南部のジャライノールと満州南部の「阜新」で石油探査を行っています。とくに「阜新」は、戦後発見された「遼河油田」から山ひとつ越えたところにあったため、

昭和12年11月からボーリング調査が始まり、昭和15年5月には深度100mほどのところで約20ℓほどの石油が出ています。また、その約1年の間に、ロータリー式で11坑、綱式掘削機で17抗、ダイヤモンドボーリングで18抗の合計47抗程度の試掘を行いました。

が、この結果がどうであったのかは秘密のまま、昭和16年以降、開戦により南方資源地帯確保ができたためか、なぜか突然、満州での探鉱作業は全て中止されます。

もし技術的な問題があったのだとすれば、開戦前に米国の専門会社に依頼して「遼河油田」でボーリング調査をしていたら、昭和16年前半までに本格生産が始まっていた可能性があり、また時期がずれたとしても、少なくとも南方と繋がる制海権を失ってからも安定した石油供給を確保できたはずです。

一方、日本と同じく資源小国だったドイツは、第二次大戦を石炭からの合成ガソリンという「代替燃料」で戦います。この石炭から合成ガソリンを作る精製技術「FT法」は、日本へも1939年に米国スタンダード石油のロックフェラ―からライセンス供与されています。

が、問題は、精製の核心技術はライセンスして貰えなかったのと、当時の日本の技術者が、革新技術の存在に気付かなかった点にあります。もしこの事に気づけば、日本人の技術力で開発に成功していた可能性は高いといわれていますが、ライセンスされなかったことの背景にはもちろん米国政府による妨害があったことは想像するに難くありません。

が、問題はそれだけにとどまらず、背後に満州での石油開発を中止させることで、日本を対米開戦に追い込みたい勢力の存在とその意図が透けて見えてきます。

5)密かに進められた日本の原爆開発

さて、戦前の満州では最先端の科学研究が行われていました。もちろん、その多くは兵器開発を最終目的にしたものですが、当時の最先端の秘密兵器といえば「原子爆弾(以下、原爆)」でした。

戦時中、理化研の仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎博士らが、六フッ化ウランの製造、ウラン235の臨界量の計算、熱拡散法によるウラン235の分離装置の開発に成功していました(二号計画)。が、遡る1924年に東大の長岡半太郎博士、1934年には東北大の彦坂忠義博士によって、世界で初めて「原爆の原理」が発明されていました。
 
しかし、その後、原爆開発は、「こんな悲惨な兵器は作ってはならぬ」という昭和天皇の命令で一旦中止され、技術はナチスドイツに譲渡されたことになっていました。が、米国のマンハッタン計画を知り、焦った陸軍の杉山元・参謀総長は原爆開発を理化学研究所に依頼し、密かに再開されます。

一方、海軍も京大の荒勝文策博士に依頼(F計画)、その証拠に、ウラン濃縮に使うための遠心分離機の図面が関係者の遺品から発見されています。

その図面は、荒勝教授が独自に設計したものと、制作を依頼された東京計器制作所が作ったものの2点で、このうち東京計器制作所が作った図面には、終戦の4日後の「昭和20年8月19日完成」という字が明記されています。

この結果、原爆製造の技術は完成しましたが、燃料の濃縮ウランやプルトニュウムがありませんでした。 そこで軍部は、ドイツに依頼してウランを入手しようと計画、2隻の潜水艦がウランを積んでドイツから日本に向け出向しますが、1隻はマレー沖で米軍に撃沈され、残る1隻は消息不明とされます。

が、児玉機関の創設者・岩田幸雄氏の証言によると、不明の1隻は無事呉軍港に到着していました。 岩田氏が杉山陸軍大臣に報告すると狂喜乱舞して喜び、「航空機搭載可能なイ400型潜水艦を使ってハワイに投下し戦局の逆転を図る」と告げたといいます。 

ところが、このことを知った昭和天皇は、東條首相と杉山陸相を呼び、「数か国が開発を競っているということだが、日本が最初に開発し使用すれば、他国も全力を挙げ開発し使ってくるだろう。それは全人類を滅亡させることになりかねないが、それでは日本が人類滅亡の悪の宗家になるではないか。」

「またハワイに投下する計画ということだが、ハワイには日本人の同胞が多く移住し、現地人と共に苦労し今日を築きあげたところである。そんな所に原爆を使うことは許さぬ!」 と厳命したと言います。

昭和天皇のこの発言によって、「陛下の意思を無視することはできない」という東条首相と、「敗戦となっては日本は滅びて元も子もなくなるから使用すべきだ」という杉山陸相が対立。が、結局、杉山陸相は陸相を辞任し野に下ります。 

ところが、昭和19年7月、東条内閣が総辞職すると杉山は再び陸相として復活、自分の責任で原爆開発を進めさせます。今回は長距離噴進砲(ロケット)に搭載しての使用を考え進めますが、その燃料製造過程で誤爆事故が発生して再び昭和天皇が知るところとなり、天皇は激怒、「まだやっていたのか!」と怒りを顕わにしたといいます。 

そんな中、日本での開発が遅れた原爆を世界で一番早く完成させたのは、日本の技術をベースにしたドイツでした。が、英米と内通していたと言われ、実際、「ヒトラー暗殺計画未遂事件」で処刑された"反ヒトラー派"のロンメル将軍の裏切りによって米軍の手に渡り、皮肉にも広島、長崎に使用されたと言われています。

この広島、長崎への原爆投下を受け、焦った日本も米国への報復を示唆するため、陸軍が終戦の3日前の昭和20年8月12日、現在の北朝鮮・金策市(当時の名称は城津)で日本初の原爆実験を行ったと思われる人工地震の記録が、米国公文書に残っています。

6)完成していた日本の原爆

さて、話を戦後に進めますが、北朝鮮の「金策市」に残された日本軍の"置き土産"ともいうべき技術が、現在の北の核開発のベースにもなっています。ちなみに、「金策」とは、金日成と並び称される抗日戦線の英雄にして金正日の本当の父親であり、本名・「畑中理」という名の中野学校出身の日本人の陸軍大尉です。



また、金日成は4人いて、最初の3人はそれぞれ「金成柱」「金聖柱」「金一星」という日本陸軍が送り込んだ工作員で、彼らが抗日戦線の英雄となれたのは、日本の陸軍士官学校や陸軍中野学校を卒業し、日本軍の戦術を熟知していたためでした。が、公式には3人とも抗日戦で戦死し、金策も朝鮮戦争で戦死したこととされていますが、奥の深い話なので詳細は後述します。

一方、日本国内での核開発の方も戦後、密かに継続されます。また54基の原発(軽水炉)を20年近く稼働させると結果的に核兵器燃料であるプルトニウムは勿論、濃縮度が違うだけの濃縮ウランもできてしまうわけです。原発には軽水炉以外にもありますが、軽水炉が普及したのはウラン濃縮とプルトニウム生成が可能だからです。

その結果、日本の核開発もその後進行し、1996年、フランスに委託した仏領ポリネシアでの核実験を最後に最終段階を迎え、更には、すでに核兵器は完成しており、「日米原子力委員会」でも日本の中距離核ミサイルに限っては保有が認められていると仄聞しています。

実際、日本には核爆弾の運搬手段である長距離ミサイル転用可能な世界最高レベルの「MV」もあり、また「激光XⅡ」という核融合装置もあるため、コンピュータによる模擬実験も可能です。 

また、米国マサチューセッツ工科大学での原子力の学位を持つ大前研一氏も、2005年2月25日、韓国のマスコミからの「北朝鮮の核保有が最終確認された場合、日本も核武装に動くのか」という質問に対して、「その可能性は大きい。日本はその気になれば90日以内に核爆弾を製造し、ミサイルに搭載できる技術的能力を持っている。」

「我々はすでに大陸間弾道弾(ICBM)水準のミサイル(ロケット)も保有しており、核爆弾2,000基を製造できる分量に相当する50トン以上のプルトニウムを備蓄している。」と語っています。

ところで、原爆の他、戦前、すでに開発されていた秘密兵器に「電磁波兵器」があります。敵のレーダーを使用不能にすることを目的に、甘粕機関下の神坂新太郎博士とドイツのラインホルト博士が満州で共同開発していました。戦後も国内でさらなる開発が進められ、現在は「HAARP(統合地球物理学兵器)」と呼ばれ、世界に7か所、日本にも滋賀、長野、青森に施設が置かれています。

「HAARP」は、地球上空に向けて照射された電磁波を、電離層で反射させて地上に戻し、電子レンジに似た原理で地殻深部にある水分子を振動させ、温度を急上昇させることで地下水を一気に膨張させ爆発力を生み出す兵器で、その威力は、例えば、電子レンジで加熱した銀杏を見れば明らかです。




7)撃墜された「日航123便」

戦後、原子力発電所を含む日本の核開発は、公式には昭和40年代から着手されますが、"脱石油"を目指し、これを進めた田中角栄は米国の逆鱗に触れ、ロッキード事件で失脚させられます。が、もう一人の推進者だった中曽根康弘は米国に協力したため逃げ切ります。

ところで、1985年8月に「日航123便・御巣鷹山事故」がありました。墜落原因について、一般報道では「圧力隔壁のボルトが緩んで…」などと言っていますが、実際は、韓国から飛来しボディを黒く塗りつぶした、当時最新鋭の熱探知ミサイルを搭載した米空軍F-106による撃墜だという説があります。

実際、これを裏付けるように、近年では雨で浸食された墜落現場の一角から、米軍パイロットの腕時計が発見されています。公式には、「123便は医療用アイソトープを運搬していた」ということになっていますが、わざわざ旅客機を使ったこと、自衛隊出身の機長を使ったことなどから、様々な憶測が流れて来ました。

また、2010年5月16日には、江戸東京博物館で「御巣鷹山事件・真相解明シンポジウム」が開催され、❶民間現場到着第一号の方の貴重な目撃証言、❷この戦闘行為の目的、❸123便の飛行計画、❹123便搭乗者の内訳(日独のドル切下げ反対論者)、❺123便の積載物と現場の核反応、❻事件後に現場に出来た揚水ダムと東電疑惑、❼御巣鷹山事故後に急転直下のプラザ合意(ドル大幅切り下げ)がなされたこと、❽中曽根康弘と瀬島龍三(伊藤忠商事会長)、などが紹介され、結論として、「123便には、核兵器(或いはその燃料)が積載されていた」とされました

ところで、現在の中国の発展の背景には、田中内閣以来の経済・技術援助にあるとされていますが、123便が搭載した"荷物"も、最終的には中国に運ぶ予定になっていたとされます。また、1970年の「よど号ハイジャック事件」も、日航機に積載した核爆弾原料を北朝鮮経由で中国に渡す為だったという説もあります。

確かにこの時期、白血病で亡くなった女優・夏目雅子らが、人気TV番組「西遊記」の撮影を、核実験が頻繁に行われたゴビ砂漠で長期間にわたり行っていたことからも、中国が原爆開発を最重要課題にしていたことが窺われます。

御巣鷹山上空では、米軍と自衛隊が交戦し、米軍はグァムから偵察機も飛ばしていたようですが、日本の核開発に関して、正反対の利害関係を持つ勢力が背景にいたことを物語っているようです。そしてひょっとしたら「3・11(フクシマ)」も、こうした大きな枠組みの中で起きた事件として捉えることが出来るかもしれません。

8)本格的な日中戦争へ

ところで、満州国建国については、国際連盟から派遣されたリットン調査団によって、「日本軍の行動は自衛的行為とは言い難く、満州国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い」と発表します。が、同時に「満州に日本が持つ条約に基づく権益、居住権は尊重されるべきで、

居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよく、日支両国は不可侵条約、通商条約を結ぶべき」としたため、これを受けた日支両国は昭和7年(1933年)5月、「塘沽停戦協定」を締結。列車相互乗入れや郵便事業などを開始して、蒋介石政権は事実上満州国を承認します。

この結果、日支間の満州問題を決着させた蒋介石は「共産党殲滅作戦」を本格化したため、支那共産党は「長征」と称して辺境の地・延安に後退、兵力も21万人から7万人にまで減少した上、支配地域も陝西省・甘粛省の2省に追い詰められます。

そして1936年10月、蒋介石は共産党との決着を付けるべくその根拠地に対する総攻撃を決意、張学良に攻撃を命じますがなかなか攻撃を始めません。このため蒋介石は、督戦するため12月4日に西安を訪れます。が、死亡した張作霖と不仲だった張学良は、父と違って日本に対して敵対的でした。

それどころか裏で共産党と繫がり蒋介石を逮捕・監禁してしまいます。そして、釈放の条件として中国共産党と共に抗日戦線を結成することを合意させます(西安事件)。このため蒋介石(国民党軍)は、日本と戦わざるをを得ない立場に置かされるのです。

この事件は、抗日戦線の形成に成功した共産党勢力が、さらに進んで蒋介石と日本とを全面的に武力衝突させ、"漁父の利"を得ようという陰謀だったのです。実際、ソ連およびコミンテルンも、「局地解決を避け、日中の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令を発していました。

そして、昭和12年(1938年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に支那側から不法射撃が浴びせられます(盧溝橋事件)。

当時、北京郊外には、日本軍のほかに米国、英国、フランス、イタリアの軍隊が駐屯していました。というのは、1901年の義和団事件で清国軍が在留外国人を襲撃した事件があったことから、「北京議定書」によって各国とも自国民保護のために自国軍を駐屯する権利を認められていたからです。

支那共産党は、当初「盧溝橋で最初に発砲したのは日本軍だ」と主張しましたが、戦後になって「7・7事変(盧溝橋事件)」は、劉少奇同志(後の支那国家主席)の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以て党中央の指令を実行したもの」と公式表明しています。

そのため、一時は国民党政府と華北にあった地方政府・冀察政務委員会が日本側と本格的に講和しようとしましたが、支那共産党は7月23日、「第二次宣言」を発して日本提出の講和三条件の拒否を発表、抗日戦争の徹底を国民党政府に改めて強く迫ります。

そしてその後、停戦協定が何度結ばれても支那側の発砲で破られ武力衝突が頻発。さらに「通州事件」では民間人である日本人男女223人が惨殺されたことから、戦線不拡大方針だった日本政府もついに増援軍の派遣を決断、支那共産党の思惑通り、日本と蒋介石(国民党政府)は全面戦争に突入します。

ちなみに、7月27日におこったこの「通州事件」でも、支那共産党が盧溝橋事件で日本軍と衝突した国民党第29軍と冀東防共自治政府保安隊に張慶餘と張硯田などの抗日分子を浸透させていたことから、中共の謀略である可能性が高いと言われています。


9)「2・26事件」の背景と陸軍皇道派と統制派

ところで、ここで国内に目を転じますと、昭和初期においては海軍の「艦隊派」と「条約派」と似た対立が陸軍内部にも生まれます。これが「皇道派」と「統制派」の対立で、2・26事件等の思想的、力学的背景となります。

「皇道派」は「天皇親政」による国家改造を求め、上原勇作などの反長州の流れを汲んで、荒木貞夫や真崎甚三郎をリーダーとして青年将校たちに支持されます。これに対し陸軍省や参謀本部の非長州の幕僚将校たちは「統制派」を形成、軍中央の一元的統制の下に「国家総力戦体制」の構築を目指します。

皇道派の思想的背景には、戦争の現場で命を賭ける以上、天皇への一体的、絶対的な信仰が必要だとの考えと、また、貧困にあえぐ農村出身の下士官兵などからわき上がる軍閥、政治家、財閥、元老などへの不満があったと言われています。

「皇道派」と「統制派」の思想的対立は「天皇機関説問題」に表れます。「天皇機関説」とは、明治憲法下で確立された学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として内閣等の他の機関からの輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使するという説で、美濃部達吉らが主張しました。

これに対し、青年将校ら皇道派は、国家主権たる統治権は天皇にあるとの「天皇主権説」を唱えました。このため、軍の統帥権も天皇に直属し、国事においては軍事が優先されるべきで、予算削減などの他の国家機関からの干渉は受けないと主張します。

ただ、天皇機関説においても、現憲法下での国会と同様の国家意思の最高決定権としての主権は天皇にあると考えており、天皇の政治上の権限が否定されているわけではありません。

が、こういった天皇さえ憲法の下に拘束されるという「立憲君主制」の考え方は大衆には浸透せず、一連の騒動以後は天皇主権説が有力になり、その論者は「立憲君主制は西洋由来の学説の無批判な受け入れであると断じました(「國體の本義」)。

ちなみに、昭和天皇自身は天皇機関説に賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていました。このような「国体明徴運動」に対しては軍部に不信感を持ち、「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていました(「本庄繁日記」)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話しています。

「主權が君主にあるか国家にあるかを論ずるならばまだ事が判るけど、ただ機關説がよいとか悪いとかいう論議をすることは頗る無茶な話である。自分からいえば寧ろそれよりも国家主權の方がよいと思うが、日本の様な君国同一の国ならどうでもよいじゃないか(「西園寺公と政局」)」

このような対立の中、昭和11年2月に「2・26事件」が勃発します。磯部浅一元中尉らは、統制派の渡辺教育総監の他に、海軍出身の斎藤実や岡田 啓介、政治家では牧野伸顕、幣原喜重郎、若槻礼次郎、財界では池田成彬(三井)、岩崎小弥太(三菱)、そして英米派の黒幕・西園寺公望を狙います。

当初は、川島陸相、香椎戒厳司令官らも皇道派だったため決起部隊の行動を認める様な反応をします。が、昭和天皇が「決起部隊は叛乱部隊」としたことで決着。

この背景として、昭和天皇はこの時期すでに英米派の西園寺ら"君側の奸"に囲まれ、感化されていたことが考えられます。

この結果、「満州以外の支那大陸には戦線を拡大させずに戦力を温存し、北のソ連との決戦に備えるべき」とする皇道派は一掃され、「支那戦線の拡大と、さらに南方資源地帯への進出を図り、米英との戦いも辞さない」とする東條英機ら統制派が実権を握ります。

なお、よく「薩長が軍部を支配、主導して日本を戦争に追い込み破滅させた」などという俗説がありますが、以上の経緯を見てわかるように、大東亜戦争当時の軍中枢からは薩長の有力軍閥は一掃されており、中枢を占めていたのは旧佐幕派の"東北、北陸出身者"だったことを附言しておきます。




台頭し始めた”英米派”

2017-01-09 09:53:54 | 現代


大戦の敗因を探る、6

1)満州鉄道を巡る日米の駆け引きと日韓併合

日露戦争で日本は勝利しましたが、ポーツマスでの講和条約で大幅な譲歩を迫られます。軍事的には敗北を認めていないロシアは強気で、朝鮮半島における日本の"優越権"と満州鉄道の権益、そして樺太の南半分の割譲を認めただけで、巨額の賠償金の支払いは拒否します。

このため、国内では、20万人の血を流した満州の地への拘りから、政府の軟弱姿勢を攻撃する暴動が起き、東京の7割以上の交番が襲撃される等の争乱となります。

ポーツマス会議を取りはからったのは米国大統領のセオドア・ルーズベルトでしたが、その真の狙いは、日本とロシアを戦わせて均衡を図り、自ら満州進出への足がかりを得る事でした。そのため、日本が満州で支配力を強めることを警戒し、日本に有利な条件を進めることはありませんでした。

その結果、満州鉄道の権益を手に入れたとはいえ、その運営資金がない日本に対し米国の鉄道王・ハリマン(ユダヤ人)が来日、鉄道の買収を提案し、英米派の元老・井上と財界の大物・渋沢栄一などの推しもあって一旦は覚書を交わします。

が、帰国して来た外務大臣・小村寿太郎が激怒。覚書は撤回され、逆に「フリピンにおける米国の優越権を承認する代わりに日本の朝鮮半島での優越権を承認させ、また、第二次日英同盟締結の際、英国に対し、日本が「朝鮮を指導、監理、保護すること」を承認させ、「日韓併合」を行ないます。

が、これを境に、満州、そして支那大陸での支配権を強化、拡大しつつある日本に対し米国の警戒感が高まり、太平洋における対日「オレンジ計画」が立案されます。そして、一連の仕事を終えた桂太郎内閣は明治39年12月に総辞職し、"英米派"西園寺公望が組閣します。

2)無益な軍備増強を始めた山本権兵衛

ところで、日本を仮想敵国にした「オレンジ計画」を策定した米国ですが、これはあくまで支那大陸での日本の勢力拡大を警戒するもので、太平洋での日米直接対決を想定したものではありませんでした。したがって、米国は、日米開戦後に成立させた「両洋艦隊法」まで海軍の増強はしません。

一方、日本では、日露戦争で傾いた国家財政を立て直すため、参謀総長になった児玉源太郎が、将来予想されるロシアとの最終決戦を想定した装備の近代化による、それまでの歩兵中心だった師団数の大幅削減計画を提案します。

が、海軍の山本権兵衛はこれに猛反対。亜細亜を舞台にしたロシアとの決戦構想では海軍の出番がなくなり、陸軍予算の縮小とのバランス論からの海軍予算の削減を警戒、「統帥権の独立」要求と同じ"縄張り意識"が再び頭をもたげます。

そして、児玉の急逝後、これを奇貨とした山本は「第1次対米戦備増強計画」を要求、明治40年4月には「帝国国防方針」で米国を仮想敵国とした大規模な軍備増強を図る「八八艦隊計画」を認めさせます。この結果、海軍予算が国家予算の34%にも達します。

3)屈辱のワシントン、ロンドン軍縮会議

この後、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発します。日本を利用して帝政ロシアを叩き、革命にも成功した英米は、今度は亜細亜において山東半島に利権を持つドイツを追い出すため日本に参戦させます。が、大戦後は利用価値のなくなった日英同盟を破棄します。

それどころか、日本の海軍力の増強を警戒した英米は、大正10年(1922年)のワシントン会議で米英日の主力艦比率を、昭和5年(1930年)のロンドン会議では補助艦比率をそれぞれ5・5・3にするよう要求します。

これに対し、当時の濱口内閣は放漫財政再建を掲げ、さらに日露戦争の際に発行した国債の借換え時期を控えていたこともあって軍事費の削減を実現する条約案の受け入れに積極的でした。また、外相の幣原喜重郎や外務次官の吉田茂らも"英米協調路線"の立場から推進します。

このため、条約は10月には批准されますが、海軍内部では条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立が生まれます。また、濱口内閣の蔵相の井上準之助も緊縮財政を進め、海軍の予算を大幅に削ったことも艦隊派の不満を高めます。

「条約派」の主な人物は、加藤友三郎、岡田啓介、財部彪らでしたが、幣原喜重郎や吉田茂も含め、"英米派の黒幕"西園寺公望の息のかかった勢力でした。が、元を質せば、英米の警戒感を買う大建艦計画を推進したのは山本権兵衛でしたので、いずれの立場が良かったかは一概には断じ得ません。

が、これをきっかけに「統帥権干犯」問題などが起き軍部内に不満が募ります。また井上順之助は、緊縮財政の一方で、第一次大戦後起きた世界大恐慌からの経済回復を貿易拡大で図ろうと「金解禁」を断行します。

「金解禁」とは、「金貨」ないし金と交換できる「兌換紙幣」を発行、流通させる政策で、円の国際信用力を高め、海外取引を活発化させようとの狙いで行なわれました。が、急速な円高になって物価は下がり続け、デフレ進行で不況が深刻化します。また、貴重な金貨が大量に海外に流失します。

にも拘らず、三井、三菱、住友などの財閥は投機によって莫大な利ざやを稼ぎます。この結果、軍部の他に国民や右翼の間にも不満が鬱積し、「3月事件」や「11月事件」「血盟団事件」「5・15事件」「2・26事件」などが起こり、それが最終的には「大東亜戦争」の原因にもなるのです。

4)西園寺公望の正体

日露戦争まではなんとか乗り切って来た日本でしたが、大正時代以降は英米の圧力の下、様々な問題を抱え、徐徐に追い込まれて行きます。その背景には5〜6人の「元老」の存在があります。元老は主に首相の奏薦、開戦・講和、条約の締結等に関して事実上の決定権を持ちました。

当初は、"英米派(鹿鳴館派)"の井上馨、"欧州派(ドイツ派)"の伊藤博文らに対し、軍閥代表で"反英米志向"の山県有朋の3人が、均衡を図りながら国家運営が行いました。井上、伊藤亡き後は山県が権力を独占しましたが、児玉源太郎らの活躍により国家運営は安定していました。

が、とくに児玉、山県亡き後は軍部、政界にきしみが生まれ、不安定さを増してきます。その陰に、戦前の日本で事実上の首相決定権を持ち、後に様々な売国的行為を行なった海軍や外務大臣などを通じて大東亜戦争を敗北に追いやったと言っても良い最後の元老に"英米派の黒幕"西園寺公望の存在があります。

西園寺は公卿・徳大寺公純の二男に生まれ、明治3年、21歳のときフランスに留学しソルボンヌ大学で10年間、急進的社会主義者に師事、このときに欧米流の"民主主義?"を学び、"フリーメイソン"に入社したと言われています。

このような西園寺の影響下に置かれた人脈は、軍部(海軍)では斎藤実、岡田啓介、米内光政、山本五十六、政官界(外務省)では牧野伸顕、原敬、犬養毅、近衛文麿、幣原喜重郎、重光葵、吉田茂、財界では福沢諭吉の作った交詢社を中心に三井の池田成彬、住友吉佐衛門、五島慶太など多岐にわたります。

西園寺が、先ずその正体を現した出来事として、大正元年の「陸軍二個師団増設問題」があります。既に述べたように、児玉源太郎はロシアとの最終決戦を意識した陸軍の近代化と財政再建を念頭に大幅な軍縮を提案しますが急逝。その後、これを奇貨とした海軍の山本権兵衛が海軍の軍備増強を主張。

これに対抗して、陸軍でも上原勇作陸相(後の陸軍皇道派の巨魁)が、陸軍の二個師団増設を主張。が、西園寺は、山本らが要求する戦艦3隻分の予算600万円は認めたものの、二個師団増設予算200万円は拒否。このため、怒った上原は辞任、陸軍大臣を欠いて内閣も総辞職となります。

晩年の西園寺は、昭和15年に逝去するまで静岡県興津の「坐漁荘」に隠居した形を取りながら、側近の原田熊雄(祖父がミカエル・ベアというユダヤ系ドイツ人)を通じて各界の重要人物と接触、"院政"を引きます。この間、2・26事件でも暗殺の対象とされるなど、"国粋派"に睨まれます。

5)シベリア出兵の隠された目的

第一次世界大戦前後の触れておくべき出来事として「シベリア出兵」があります。大戦が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済も破綻、1917年2月に2月革命、11月には10月革命が起き、ロシア帝国は1918年に崩壊します。

革命政権は単独でドイツ帝国と講和条約を結んで戦争から離脱したため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは苦戦。連合国はドイツを再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図して開始されたのが「シベリア出兵」です。

出兵の大義名分は、「革命軍によって捕虜にされたチェコ兵士を救出する」ことでしたが、ウラジオストックに集めていたロシアの軍需物質や資産がドイツに渡るのを防ぐという目的もありました。

出兵の主力は、余裕のない英国・フランスに代わって日本とアメリカになります。1918年の夏に出兵された各国の兵力は、日本7万3,000人、アメリカ7,950人、イギリス1,500人、カナダ4,192人、イタリア1,400人でした。
日本側の目的としては、日露戦争後のポーツマス条約で失った利権を奪還すること、利権が絡んだ満州はロシアと国境を接していたこと、日本の天皇制とイデオロギー的に相容れない共産主義が同地域に波及することを阻止することなどが挙げられます。

一方、連合国、とくにフランスは、露亜銀行の保有する莫大な資産の保全をも目的とします。露亜銀行はロシア皇帝系資本の他、クレディ・リヨネ等のフランス資本の露清銀行を母体とし、1910年8月にソシエテ・ジェネラルの子会社の北方銀行と合併して設立されます。

その預かり資産はロシア皇室が持つ外債の他、シベリア最大のレンスキー金鉱山から採掘された黄金など莫大なものでした。が、ロシア革命により国立銀行に編入され、革命政権側に渡る危険があったため、資本金の一部を保有するフランスは死に物狂いになって資産保全を目論みます。

そんな中、圧倒的な数を誇る日本軍は、革命政権が組織した赤軍や労働者・農民から組織されたパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに進行、バイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大します。

ところが、1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって大戦が終結すると、連合国はシベリア出兵の大義を失ったたため、1920年には欧州勢から相次いで撤兵を始めます。日本の大陸進出を快く思っていない米国も、革命勢力の拡大に干渉しないよう撤兵します。

が、日本軍は、1920年(大正9年)3月から5月にかけて、共産パルチザンが黒竜江の河口にある尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)の日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人を虐殺した(尼港事件)こともあって駐留を継続します。

そして、日本にとってのシベリア出兵の隠された目的は、ロシア皇室が長年蓄積していた黄金などの莫大な財宝(その多くは前述の「露亜銀行」に保管)を"預かる"ことだったのです。このことと"黄金の百合"の関係についての詳細は別稿に譲ります。




日露戦争とその真相

2017-01-09 01:21:43 | 近代


大戦の敗因を探る、5

1)日英同盟とユダヤ資本

さらに、列強の草狩り場と化した支那では、清朝政府のていたらくに怒った民衆が各地で「義和団事件」を起こします。これに対し、権益保護を名目にしたロシアは満州に大軍を進めて占領してしまい、朝鮮半島への侵攻が時間の問題となります。

ここで日本政府は、英国と手を結んでロシアに対抗すべしとする山県(陸軍参謀総長)や桂太郎(総理大臣)と、GDP比で8対1の大国ロシアと戦う自信のない伊藤、井上らの二派に割れます。

が、軍事大国ロシアの南下政策は、インドを植民地とし揚子江一帯に権益を持っていた英国にとっても脅威で、日本と英国は利害を共通にしていました。そのため、山県らは、過去一度も外国との同盟を結んだことがない英国と、ロシアを仮想敵国とする軍事同盟「日英同盟」を締結します。

ただ、開戦に際しての大きな懸案は、巨額の軍事費をどう捻出するかでした。世界最強のロシア軍と戦うには、英国製の最新の軍艦から大砲、弾薬まで大量に調達する必要があります。が、当時の日本銀行の金庫にはわずか1億円しかありませんでした。

そこで、日銀副総裁の高橋是清が外債発行のため急遽、英国、米国に赴きロスチャイルド、クーン・ローブらユダヤ系巨大財閥から8億円の調達に成功します。この背景には日本にロシアを攻撃させることによって帝政ロシアを倒し、迫害されていたユダヤ人を救い出す目的がありました。


2)ロスチャイルドの影響を受けた日銀設立

ところで、日本の中央銀行は日本銀行ですが、明治新政府は当初、経済活性化のため欧米流の金融制度を導入しようとして明治5年に国立銀行を設立、金、銀との交換ができない「不換紙幣」の発行権限を与えます。が、明治9年には急速なインフレが加速したため、

明治15年10月に国立銀行を廃止して日本銀行を設立、銀との交換ができる「兌換紙幣」の発行権限を集中させます。ただ、そこに至るには"国際金融王”ロスチャイルドの影響がありました。

ロスチャイルドは三井の大番頭・三野村利左衛門や渋沢栄一と接点があり、渋沢は26歳のときフランスに渡って、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの配下にある銀行家のフリュリ・エラールから近代の金融業というものを学び、第一国立銀行(のちの日本銀行)を拠点に約500の会社を作ります。

また、日本銀行を正式に創設したのは大蔵卿だった松方正義(薩摩)ですが、松方も明治10年に渡欧して、アルフォンス・ド・ロスチャイルドの使用人だった仏蔵相レオン・セーから金融制度を学びます。

その中で学んだ欧米の金融制度の特徴は、中央銀行の「信用創造」にありました。例えば、民間銀行が日銀に預ける準備金が1億円あり準備率を1%としたときに、その銀行は100倍である100億円の貸し出しができるという手品のような"裏技"です。

このカラクリは、1844年の「イングランド銀行設立特許状の修正法」や、1913年の「米国連邦準備法」による連邦準備銀行(FRB)設立でも採用されますが、その狙いは通貨の裏付けである「金」が枯渇しても通貨を発行できるようにするためです。(金融の仕組;https://www.youtube.com/watch?v=WGH65g-KDIQ )

ところで、世界大戦の際には、ユダヤ国際金融資本はクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフを通じて、欧米だけでなく敵対するドイツにも戦費を貸し、それ以前にはレーニンやトロツキーなどの国際コミンテルンにも金融支援をし、相争わせることによって"漁父の利"を得てきたのです。

このような事情からか、現在の千円札にある湖面に映った山はイスラエルのシナイ山、また不釣り合いな程大きい野口秀雄の左目は、ドル札のピラミッドにあ る"プロビデンスの目"と同じという説もあります。なお高橋是清もジェイコブ・シフと、井上準之助もモルガン商会のトマス・ラモントと懇意でした

ただ誤解が多いのは、日銀は株式会社ではなく日銀法によって設立された行政庁の認可法人です。出資総額は1億円で、日銀法では政府の出資は5500万円を下回ってはならないと決められ、残りの45%は民間からの出資ですが議決権はなく、出資証券はジャスダック市場に上場されています。


3)縄張り意識を持ち始めた海軍

ところで、日清戦争に勝利した海軍は、それまで一つの大本営の下、「参謀総長(山県有朋)」が陸海両軍の統帥権を握っていたことに不満を表明、海軍大臣の山本権兵衛(薩摩)は、海軍の統帥権の分離独立を主張し始めます。理由は、それまでの"陸主海従"を打破したかったからです。

が、これでは国家戦略に基づいた軍部の統一行動がとれません。"陸主海従"に問題があるなら、自衛隊のように「統合幕僚本部」の設置を求めるべきです。が、人材不足の海軍からは「統幕本部長」が選ばれる可能性が低く、結局、"陸主海従"が変わらないことからあくまで「統帥権の独立」を主張します。

この背景には、来たるべきロシアとの決戦は大陸の「満州」が主戦場になり、よって海軍は存在感を示せず、予算獲得などでも後塵を拝する結果になることが予想されたからです。つまり、国益よりも海軍の権益が優先されたのです。これが後の大東亜戦争に大きな禍根を残すことになります。

実際、大東亜戦争の後半でも、戦局が悪化する中、東條英機首相(陸相)から陸海軍の連携強化のために「統合幕僚本部」の設置と海軍からの本部長就任が提案されます。が、海軍大臣・永野修身は「海軍からは本部長は出せない」と拒否し、バラバラな陸海軍による敗北の一因を作ります。

ともあれ、海軍の統帥権の独立の件は、日清戦争を勝利に導いた実績を持つ参謀本部次長の川上操六によって、一旦、葬り去られます。そして日露決戦を前に、大本営参謀本部は「日露決戦は満州で」との方針を立てますが、これに対し海軍は案の定、猛反発。

なんと「大陸も半島も捨てて、日本本土を取り巻く海で海軍が決着を付ける」と言い出します。が、日露戦争初戦において、ウラジオストックにいたたった3隻のロシアの巡洋艦に対馬海峡や東京湾周辺の兵站(通商)線を妨害された経緯に鑑みれば、如何に非現実的で無謀な戦略だったかは明らかでした。

この直後、戦略立案の中心人物の川上が急逝。代わって急遽、すでに陸軍大臣、内務大臣、台湾総督などを歴任している大物・児玉源太郎(長州)が参謀本部次長に就任、政治家としての優れた統括能力を発揮します。

児玉は、「昨今の時局は実に国家の大事なり。対ロ作戦計画において、我が陸海軍の共合の緊要なること今日において急なるはなし。これがためには些々たる意気地の如きは放擲し、大局において帝国を危急の中に救い、終局の大功を収むるにあり。この旨を諒とせられよ」として、

陸軍内部からの不満を抑え、「旅順はロシアの軍港だから陸軍は手を出すな」という海軍の主張と予算面での優遇に同意した上で海軍の統帥権独立を承認、これと引き換えに、海軍による本土と大陸間の海上輸送の確保を取り付け、明治37年(1904年)2月6日に日露国交断絶、戦端を開きます。



4)「日本海海戦」の勝利をもたらした「旅順攻略」

日露戦争における各戦闘の詳細は割愛し、本稿では日本の勝利を決定づけた「日本海海戦」が、巷間いわれて来たような海軍や東郷平八郎によってもたらされた偉業だったかについて、その前提になる「旅順攻略戦」や「明石元二郎による調略戦」から紐解き、疑問を呈します。

当時、世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦の勝因は、一般的には敵艦隊の目前で一斉にターンしてT字型の陣形をとる東郷平八郎が採用した"トーゴーターン"といわれてきました。この結果、東郷元帥は、旅順攻略戦で八方塞がりになった乃木希典大将とともに神格化されました。

この「T字戦法」は、一見すると敵に横っ腹を晒すリスクがありますが、タイミングさえ巧く行けば、敵からの攻撃は先頭を行く一部艦船からのものに限られ、逆に、こちらからはほぼ全艦からの先頭艦への攻撃が可能となる有効な戦法です。

実際、この戦法でバルチック艦隊は大混乱、壊滅しました。が、「T字戦法」はあくまで"戦術"であって"戦略"ではありません。日本海海戦での勝利の背景には、陸軍によってもたらされた二つの大きな戦略的勝利がありました。

一つが、「旅順攻略戦」での勝利です。開戦当時、旅順港にはロシアの旅順艦隊がおり、日本本土から大陸への兵員、物資の輸送にとって脅威となっていました。海軍は、すでに遼東半島に上陸していた陸軍第二軍による陸路からの支援攻撃を断り、ロシア艦隊の攻撃を試みます。

が、ロシア艦隊は天然の要害でもある旅順港に引きこもってしまったため、港内に封じ込めようと老朽化した民間船を港口に沈める「閉塞作戦」を三次にわたって試みますが失敗。逆に、要塞砲による攻撃で主力戦艦「初瀬」「八島」を失い万策尽きます。

この頃、欧州から「バルチック艦隊が援軍に来る」との情報がもたらされます。さすがの海軍・山本権兵衛も、事ここに至って陸軍への援軍要請、乃木希典を総大将にした第三軍が編成、派遣されます。が、既に十分語られているように、単純な白兵攻撃を繰り返していただけの第三軍も旅順攻略に大苦戦。

そこで、一足先に満州軍総参謀長に赴任していた児玉が再び登場し作戦を大幅変更、当時、世界最新の24サンチ榴弾砲を持ち込み、203高地へ砲弾を集中する事で見事攻略。高台に設置した観測所からの湾内情報を元に正確な砲撃を行い、ロシア旅順艦隊を殲滅したのでした。

ちなみに、日露戦争での陸軍の軍神としては乃木ばかりが注目されてきました。が、同じく長州人だった児玉と比較すると、乃木が「一途で実直な古武士」であったのに対し、児玉は政略、軍略に長けた「合理主義者」だったと評されています。

それを伺わせるエピソードとして、幕末の長州藩で「佐幕派」と目されていた児玉の父は、ある日自宅で襲撃され惨殺されます。外出から帰って来た若干12歳の児玉は、茫然自失の母を横目に淡々と父の遺体を片付けたと伝えられています。

5)「日本海海戦」のもう一つの勝因

バルチック艦隊がリバウ泊地を出港したのは、日本海海戦に先立つ明治37年10月15日ですが、当時、ロシアでは革命が進行しつつありました。また第1回の革命秘密集会がパリで行なわれ、各革命グループが統一行動に出て、各地でデモやストライキが起きます。

そんな中、陸軍の明石元二郎大佐が革命グループのリーダー・シリアスクと接点を持ち、「銃5万丁あれば一斉蜂起できるんだが」との要望を受けます。これを日本の参謀総長・山県に伝えて現金45万円を送金させ、スイスで銃2万4500丁を調達、革命グループに提供、各地で争乱が勃発します。

「戦艦ポチョムキンの反乱」が起こったのもこの頃で、バルチック艦隊の乗組員の中にも革命分子が少なからず紛れ込み、各停泊地で最新の情報を得た上で艦内でも破壊活動が行なわれ、艦隊は1日に平均4回、機関のトラブルなどで進行を停止しなければならなくなります。

また、英国領の寄港地では入港や物資の補給を拒否され、長期の航海で船底に海藻や牡蠣などが付着して速度も落ちてきます。加えて、既に旅順艦隊が壊滅し、単独で戦わなければならないことを知る等して、乗組員の士気も日に日に落ちていました。

そして、明治38年5月27日未明、長崎県五島列島沖で哨戒艦・信濃丸から「敵艦見ゆ!」の無電が発信されます。このとき信濃丸はバルチック艦隊のまっただ中にいましたが、哨戒に当たる乗組員が疲労困憊だったため見落とします。

また、バルチック艦隊側は、先に信濃丸からの無電を傍受したにもかかわらず、ロジェストウェンスキー提督の命により電波妨害活動を行いませんでした。この結果、日本海海戦は日本の大勝利となったのです。

が、この結果を、「自分たちだけによってもたらされた」と勘違いした海軍は、「陸海軍統合戦略無視」、「情報収集・分析(索敵)軽視」、「艦隊決戦優先(大艦巨砲主義)による兵站破壊戦(通商破壊戦)無視」の体質に陥り、後の大東亜戦争敗北に繫がる大きな禍根を残すことになるのです。


明治新政府を巡る暗闘

2017-01-09 01:11:30 | 近代


大戦の敗因を探る、4

1)新政府の最大の課題は「版籍奉還、廃藩置県」だった

さて、維新直後の政府(政体政府)は明治天皇を奉じて、"前期元勲"といわれる岩倉具視、木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通を中心に運営されます。

これに対し裏の「國體政府」は、落合莞爾氏の説によると、孝明天皇とその子・睦仁親王が裏明治天皇として、三条実美ら京都に残留した公家を中心に始動します。が、後に木戸孝允、西郷隆盛が加わり、伊達宗正とその子・睦奥宗光を通じて「版籍奉還、廃藩置県」の断行を後押しします。

というのも、版籍奉還、廃藩置県は、迫り来る欧米列強や北からのロシアの脅威への対応として、天皇中心の強固な國體を形成する上で不可欠な政治課題だったからです。

当時、これを実現する上での目先の障害は、旧態依然とした幕府と西国雄藩が乱立する江戸末期の徳川幕藩体制でした。この事態を憂慮した朝廷および西国雄藩は倒幕運動を始め、戊辰戦争で徳川幕府を倒します。が、実は、「皇統二元体制の確立」とともに、

「戊辰戦争」自体、最後の将軍・徳川慶喜自身も了解の上で行なわれた"出来レース"だったと言われています。その理由は、武士階級が廃藩置県によって身分を失うことへ強い抵抗を示していたからです。それで、まず幕府側の武士社会を崩壊させるため戊辰戦争を起こします。

また、慶喜の出身母体である徳川家・水戸藩は、「大名貸(金融業)」を通じた"皇室資金(黄金の百合)"約三百万両の借り入れがあったことも、"出来レース"加担への理由とされています。

が、最大の問題は、勝利した官軍側の西国雄藩の武士勢力の存在でした。「自分たちは勝者なんだから、報償にありつけて当たり前。版籍奉還、廃藩置県など以ての外」とばかりに不満が募り、西国各地で反乱が起こります。その最大のものが明治10年の「西南の役」です。

勿論、これも"出来レース"の一つで、不満武士のリーダーを演じた西郷は掃討戦終了後その役割を終え、欧州に出国?。またこの直前に病死したとされる木戸、さらに暗殺されたとされる大久保も、戊辰戦争で負け組をこなした側とのバランスをとるため表舞台から引退、國體政府の中核に入ります。

なお、維新の立役者の一人・坂本龍馬についてですが、幕末、フリーメーソンであるグラバーの館に頻繁に出入りしていたこと、また同じ土佐出身のジョン万次郎と緊密な関係だったことから、フリーメーソンだったのではないかという説があり、坂本を接点にして明治新政府の中心人脈が形成されます。

実際、伊藤博文、井上薫は欧州に、薩摩の寺島宗則、五代友厚、森有礼も英国留学をしフリーメーソンの影響を受けたのではといわれており、これが後に"英米派"といわれる人脈形成に繋がり、とくに最後の元老・西園寺公望や近衛文麿、吉田茂らの外務省関係、さらに海軍の中心は英米派が多くなります。


2)「征韓論」とは何だったか

さて、ここで西郷らが下野するきっかけになった「征韓論」ですが、明治6年6月、対朝鮮外交問題が取り上げられ、参議である板垣退助は失業士族の救済のために、居留民保護を建前として派兵を主張。西郷は始めは派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張、後藤、江藤らもこれに賛成しました。

この「征韓論」は、江戸時代後期の国学や水戸学、吉田松陰らの思想を背景にしており、「古代日本が朝鮮半島に支配権を持ち、高句麗、新羅、百済は日本の支国だった」との古事記、日本書紀の記述を論拠として唱えられました。

例えば、佐藤信淵は「満州、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を皇国の郡県となす」とし、吉田松陰は「朝鮮を攻めて質を納れ、貢を奉ずること古の盛時の如くし、北は満州の地を、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」と獄中から弟子たちに書き送りました。

ところが、9月に欧州視察から帰国した岩倉、木戸、大久保らは、欧州の進んだ文明、技術などに圧倒され、「国内の近代化と体制固めを優先すべきで、征韓論は時期早尚である」として反対します。

この結果、政府は真っ二つに分かれ激しく対立、最終的には朝鮮へ使節派遣は取りやめになったため、西郷や板垣らの征韓派は一斉に政府から去り(明治六年政変)、明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動のきっかけとなります。

確かに、戦後の世界の常識からいったら、「征韓論」は"侵略論"にしか見えません。が、当時は世界中が侵略合戦の中にあり、特に日本は、朝鮮半島への侵略の野心を強めるロシアの脅威に直面し、朝鮮半島や満州に防波堤を築かなければ侵略されて植民地にされるという状況下にありました。

勿論、朝鮮や清がしっかりした独立国としてロシアと渡り合ってくれれば、日本にとっても安上がりで済みました。実際、当初はその方針で、日本政府も朝鮮と平和的に話を進めていました。が、鎖国中の朝鮮は国際情勢を理解できません。

また、当時の朝鮮は傾きかけた"老大国"清の属国だったため、やむなく日本は朝鮮を力ずくで開国させます(日朝修好条約)。が、相変わらず国際情勢に疎く、清に従う「事大主義」を続けたため「それなら日本が朝鮮をまともにするしかない」というのが征韓論で、後の日清、日露戦争の背景にもなります

が、「征韓論」をきっかけにした西郷らの反乱とその鎮圧は、国内的には「不平士族の一掃による廃藩置県の完成」という、隠された目的がありました。西郷らが率いた士族たちには「自分たちは幕府を倒した勝者なのに、なぜ身分や土地を失うのか」という不満がありました。

ところで、日本史上の大改革には、明治維新の他に「大化の改新」「建武の新政」があります。が、その最大の目的は「豪族や武士が所有する土地を一旦取り上げ、天皇を中心とする中央集権国家のものとする」ということでした。「建武の新政」は頓挫しますが「大化の改新」の後「律令制」は完成します。

大化の改新のときは「唐の脅威」、建武の新政のときは「蒙古の脅威」があったように、ロシアの脅威に晒された国際環境の下、旧官軍といえども士族たちの不満を認めていると旧来の藩閥が温存され、天皇を中心にした強力な中央集権国家が作れません。そのために反乱士族らは一掃されたのでした。

尚、福沢諭吉については、戊辰戦争にも参加せず、明治政府にも入らなかったためか、現実感覚のなさからロシアの脅威を前にしても「脱亞入欧」を主張。中国の脅威を前にした「九条信者」と同じ"評論家”、あるいは、後に日本を敗北へと導いた"英米派"の嚆矢いわれてもやむを得ません。

3)「脱亜論(脱亜入欧)」とは何だったか

❶大亜細亜主義と脱亜論

福沢諭吉は明治十五年(一八八二年)に訪日した朝鮮独立運動のリーダー金玉均・朴泳孝らと親交を深め、朝鮮問題に強い関心を抱くようになります。福沢は日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、欧米列強の侵略から亜細亜諸国を保護し、そのためには日本が朝鮮の近代化を指導する必要があると考えます(大亜細亜主義)。

これを受け、金玉均らの独立党(開化派)は、一八八四年十二月四日に政府要人を襲撃するクーデターを起こします。が、清への服属を良しとする事大党(守旧派)の援軍要請を受けた清朝がすぐに袁世凱を派遣したため、新政府軍はあっけなく敗れてしまいます。

かくして、支那、朝鮮の旧態依然たる体制と欧米列強に対する危機感のなさに幻滅した日本は国防上の理由、とりわけロシアの脅威に対処するため、「東亜細亜諸国との連帯」を諦めて「脱亜入欧(脱亜論)」を掲げます。つまり、欧米列強のように朝鮮半島・支那大陸に進出することで、日本の防衛戦を拡張しようとします。

福沢も一八九〇年代から、朝鮮半島を文明化・近代化するという大義名分を掲げた「朝鮮改造論」を主張するようになります。が、福沢の「朝鮮改造論」が、堀川辰吉郎や頭山満らの「大亜細亜主義」と異なっていた点は、無知で野蛮な民族に欧米の文明を伝導するという「カトリシズム(キリスト教布教)」に根ざしていた点です。


❷ユニテリアンとフリーメイソン

ここで、福沢諭吉とキリスト教、更にフリーメイソンの関係について触れますと、明治の啓蒙思想家(リベラル派)であった福沢は、国家と個人の"独立自尊"という欧米思想を掲げ、「ユニテリアン」という、キリスト教・プロテスタントの宗派と深い関係を築いていました。 

まず、ユニテリアンとは、信仰の中心を「理性」に置き、理性はやがて神になり(理神論)、それも唯一の神(unity)となるため、理性で説明できない、あるいは唯一神ではないカトリックの「三位一体説」を否定します。この結果ユニテリアンは、ローマカトリックのほか英国国教会、長老派などと対立します。

が、同じく英国国教会などから迫害され、しかも強い信仰箇条を持たない「クエーカー教」とは親和性を持つこととなりますが、クエーカーについては、特に終戦後、日本の政財界、更には皇室へも浸透したことを別項で詳述します。

一方、フリーメーソンの起源は十四世紀とされ、中世ヨーロッパの城や教会や諸都市の建物を建築して回った石工(メイソン)たちの互助組織であり、それがヨーロッパ全体広がり、さらにローマ教会の権威から逃れて自由を得るため北米にもでき、一七七六年、彼らの力によって米国が独立します。

ロンドンのフリーメーソン大ロッジの名誉議長となったクリストファー・レーン卿は、「フリーメーソンリーは、もはや自然の石から教会堂を建てるのではなくて、理性である精神から神殿を建てるのである。理性なる神の知恵の導きによって、人間の粗野な理性が照らされ研がれて神的になり、自らが神殿とならなければならない」と。

ここに「理性」を共通の価値としたユニテリアンとフリーメイソンの連携が可能になり、「ユニテリアン=フリーメイソン」の構図が出来上がるのです。


❸福沢諭吉とフリーメイソン

一方、福沢はキリスト教の排斥者として知られていますが、欧米啓蒙思想家の例に漏れず、彼が攻撃の対象としたのは権威主義的なカトリックでした。その証拠に福沢は生涯でカトリック以外の英国人十二人、米国人七人の宣教師と関わっています。

特に英国国教会高教会派の牧師で外交官(情報将校)のA・C・ショーを自分の子女のための住み込み家庭教師として雇い、また、慶應義塾の倫理学教授の職を与えて聖書を教える事を許し、信仰を持った学生たちへの洗礼まで認めています。

この結果、三女の俊(とし)、四女の滝(たき)、孫の清岡暎一などもショーが建てた聖アンデレ教会で洗礼を受け、クリスチャンとなります。が、福沢の本音としては、当時、アジア諸国を植民地化していた英国に好感を持っていませんでした。

そこで福沢は、自由と民主主義が全開した、よりリベラルに見えた新興国家の米国に関心を向けます。実際、明治八(一八七五)年に出版した『文明論の概略』の中で「英人が東印度を支配するに、その処置の無情残刻なる、実にいうに忍びざるものあり」と書いています。

そして福沢は、英国人ではない、米国人のユニテリアン宣教師でもある学者たちを、ユニテリアン教会の修道院として始まったハーヴァード大学から日本に招きます。

福沢とユニテリアンとの出会いは、福沢が腸チフスに罹った明治三(一八七〇)年で、この時、彼を救ったのがユニテリアンであったドクトル・シモンズ医師です。これがきっかけで福沢とシモンズは親交を深め、明治十六(一八八三)年、息子の一太郎と捨次郎を米国留学させるに当たり、シモンズに息子の後見人を頼み、

シモンズは一太郎を自宅に下宿させるほどの関係を築きます。このことは、「シモンズを外国人中の最親友」と『福沢諭吉全集』 にも記述しています。この結果、福沢の息子たちはシモンズ夫妻のユニテリアンのサークルに溶け込み、一太郎は父に宛てた手紙で「ユニテリアン教を慶応義塾に広めた方が良いでしょう」と提案しています(『ユニテリアンと福沢諭吉』)。

ユニテリアンへの接近は明治政府も行い、特に伊藤博文と金子堅太郎(セオドア・ルーズベルトの学友)、森有礼(駐米国大使)もユニテリアン宣教師の招聘に動きます。

が、英国から独立した民主主義国家の米国も、形は変えたとはいえ「理性」という価値によって結びついたキリスト教の一派であるユニテリアン、あるいはクウェーカー、さらには欧米グローバリストの秘密結社フリーメイソンのネットワークの中にあり、これに気づけなかった福沢ら日本の啓蒙思想家(英米派)は、日本のメイソン化(キリスト教化)に利用されたのでした。


❹脱亜論の真意

以上見てきたように、「大亜細亜主義」にせよ、「カトリシズム(キリスト教布教)」にせよ、「脱亜入欧(脱亜論)」の真意は、アジア、そして朝鮮半島に対し無関心になれというのではなく、「欧米列強に対抗するためにはアジアの前近代的な文化、社会、政治システムを脱し、欧米的な近代化を取り入れるべき」という点にあります。

その証に、福沢も、明治二十七年(一八九四年)三月、日本亡命中の金玉均が暗殺される事件に対してその死を悼み、相識の僧に法名と位牌を作らせて自家の仏壇に安置します。また同年4月、東学党の乱を理由に清が再び朝鮮出兵を開始すると日本も出兵、戦争となりますが、福沢は終始、政府と軍を支持しアジア解放戦争を支持します。

ただ、堀川辰吉郎や頭山満ら國體派(国粋派)の信奉する「大亜細亜主義」と、福沢諭吉や伊藤博文ら開明派(国際派)が主張する「カトリシズム」の違いは、前者が「精神文化はアジア的多神教」を維持するのに対し、後者は「精神文化についても欧米流一神教文化が流入することもやむを得ない」とする点にあります。

そして、この両派の微妙な違いが後々国論の分断をもたらし、日本を敗戦に導く外務省や海軍内に巣食った"英米派"の暗躍、そして戦後の高松宮と三笠宮を中心にした皇室内対立の遠因となります。ちなみに、"戦後英米派"の中心人物でクリスチャンの吉田茂の愛読書は「福翁自伝」だったそうです。

ともあれ、このように、「脱亜論」の目指すものは「欧米列強からのアジア解放」であり、やがてこの思想は「八紘一宇」に収斂し、朝鮮併合、満州国建国(満鮮経略)という形で結実しますが、いずれにせよ昨今、「脱亜論」という言葉がその地政学的意味を等閑視した形で一人歩きしていることは残念なことです。


4)「開明派」と「国粋派」

その後、版籍奉還、廃藩置県を成し遂げ、治安の回復を図った明治政府は、進んだ欧米文化を積極的に取り入れるべきとする「開明派(欧米派)」と、東洋的な道義国家像を理想とする「国粋派(国権派、亜細亜派)」の2大勢力に分かれます。

開明派の中でもより欧米化を進めていたのが大隈、井上、伊藤ら("後期元勲")でした。ただ、開明派(=欧米派)といっても、伊藤の場合はウィーンに留学、L・シュタインからドイツ憲法とビスマルク流の政治学を学んだことから、後の"英米派"とは若干スタンスを異にします。

これに対し国粋派には、明治六年政変で下野した西郷、後藤象二郎、江藤新平らの流れを汲む板垣退助、山県有朋らがいました。板垣退助はその後"反体制色"を強めて「自由民権運動」を起こし、後に最後の元老で"黒幕"的存在になった西園寺公望ら"英米派(民主派?)"に影響を及ぼします。

一方の山県は、"前期元勲"らが去った後、本格的に陸軍を編成し、文官試験制度の創設などで陸軍と官僚の頂点に立ちます。が、欧州留学経験がなかったため、議会、政党の意向には耳を貸さない"国権派"ともいうべき「超然主義」の立場を貫きますが、背後には西郷隆盛がいたと言われています。


4)日清戦争と三国干渉

さて、日本は朝鮮を開国させた後、朝鮮の近代化を目指し、日本、支那と三国で連携して亜細亜の衰運を挽回するべきだとした親日派の金玉均を支援します。が、「甲申事変」が失敗に終わり、初めは改革に理解を示していた李王朝も土壇場になり清への服従を選びます。

こうした朝鮮の体たらくによって自主的な近代化の可能性がついえます。かつて元寇の際、「元」は朝鮮半島(高麗)支配の後に日本侵略を計画、実行しましたが、日本にとっては、日に日に当時、世界最大の軍事国家であったロシアの脅威が現実味を増してきます。

そこで遂に、明治27年8月、日本は朝鮮の宗主国で、半島に大軍を派遣していた清に宣戦布告し先手を打ちます。そして、第一軍司令官・山県有朋らの活躍で平壌、黄海で勝利し清を屈服させます。その結果、下関条約で朝鮮半島から撤退させ、台湾と遼東半島を獲得します。

ところで、日本の背後には中国大陸に利権を持ち、日本と同じくロシアの南下政策に危機感を持っていた英国がいました。実際、駐清英公使のウェードは、「日本は台湾ではなく朝鮮に進出せよ。そうすれば欧州各国は日本を支持し、英国は日本を援助する」と発言しています。

ところが、下関条約後の明治28年4月、ドイツ、フランス、ロシアによる「三国干渉」が行なわれ、血を流して獲得した遼東半島を返還させられます。英国は表には出てきませんでしたが、日本はロシアを除く欧州列強にまんまと利用され、日清戦争を戦ったのでした。

実際、この後、列強は戦争で体力の劣った清にハゲタカのように襲いかかり、ドイツは膠州湾、フランスは雲南省、英国は威海衛の権益を手に入れ、本来の敵であるロシアまで出てきて、旅順、大連から満州にかけての南満州鉄道の権益を握ります。