熊本地震に先立つ4月1日に起きた三重県沖地震は「プレート境界地震だった」との地震調査委会の報告が産経新聞(関西版)で紹介されていました。南海トラフ地震への懸念も...が気になり昨年の11月11日に勉強会で取り上げたこの書籍を紹介します。
AMAZONで引くと、
豊臣政権を揺るがした二度の大地震、一七〇七年の宝永地震が招いた富士山噴火、
佐賀藩を「軍事大国」に変えた台風、森繁久彌が遭遇した大津波――。
史料に残された「災い」の記録をひもとくと、「もう一つの日本史」が見えてくる。
富士山の火山灰はどれほど降るのか、土砂崩れを知らせる「臭い」、そして津波から助かるための鉄則とは。
東日本大震災後に津波常襲地に移住した著者が伝える、災害から命を守る先人の知恵。と内容が紹介されています。
著者の磯田道史氏は「武士の家計簿」で古文書から新たな日本人・武士像を世に紹介しています。
書籍では地震以外にも多くの災害が日本各地を襲ったことが実感されます。書籍で取り上げられた被災地図を以下に紹介します。
章立ては以下の通りです。
第1章 秀吉と二つの地震
1 天正地震と戦国武将
2 伏見地震が終わらせた秀吉の天下
第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火
1 一七〇七年の富士山噴火に学ぶ
2 「岡本元朝日記」が伝える実態
3 高知種崎で被災した武士の証言
4 全国を襲った宝永津波
5 南海トラフはいつ動くのか
第3章 土砂崩れ・高潮と日本人
1 土砂崩れから逃れるために
2 高潮から逃れる江戸の知恵
第4章 災害が変えた幕末史
1 「軍事大国」佐賀藩を生んだシーボルト台風
2 文政京都地震の教訓
3 忍者で防災
第5章 津波から生きのびる知恵
1 母が生きのびた徳島の津波
2 地震の前兆をとらえよ
第6章 東日本大震災の教訓
1 南三陸町を歩いてわかったこと
2 大船渡小に学ぶ
3 村を救った、ある村長の記録
興味を引いたのは第1章 天正地震が結果的に家康に天下取りのための時間を与えたことや、明朝の使節団が入ってくる時期に起きた伏見地震が豊臣政権の衰退につながったとの指摘です。歴史の後解釈かもしれませんが、古来伝わるように天意が働いたのではと感じます。
秀吉は伏見自身の後、京の大仏に向かって弓矢を射ました。大仏が壊れたのは、秀吉が金をケチって金銅仏に造ってあげなかったためで、大仏のせいではありませんでした。後に秀頼が莫大な費用をかけて金銅仏を再建立しましたが「国家安康君臣豊楽」で家康に難癖をつけられたのは歴史の皮肉でしょうか。
日本史でも稀にみる様々な災害をもたらした宝永地震、時のトップはあの犬公方で名高い徳川綱吉でした。前半は昌平坂学問所を建てて安定した治世でしたが、地震のあった後半では東北の大飢饉のさなか「生類憐みの令」で庶民を苦しめ、政治においては、老中を置かずにお側用人を重用し、どちらかというと悪政に傾いたと考えられています。
ちなみに、静岡大学教授の小山真人氏によれば、富士山噴火と南海トラフ・相模トラフ大地震の記録をつきあわせた結果。九世紀以降、南海トラフと相模トラフの大地震は13回ほどおきているが、そのうち11回についてはトラフが動く前後で富士山の火山活動が活発化していたとのことである。
富士山噴火の四年前、一七〇三年に相模トラフが動き、元禄関東地震がありました。 この大地震以来「地震は、軽くはなれども(宝永噴火の)亥年まで、五年間、揺り止事がなかった」。富士山周辺では軽い地震が五年間続き、噴火直前、富士山では火山性地震が絶え間なく続いたそうです。余震が富士山噴火の引き金であったと推定されますが、東日本大地震の後、富士山近辺の地震で地震学者がざわついたのは、これらの歴史的事実が背景にあります。
関西の住人として気になるのは、南海地震と大阪の関係です。第2章から一部引用します。
大阪のことを書いておきたい。南海トラフで巨大地震がおきると、大阪にも津波がくる。ただ、大阪にくる津波は高かったり、低かったり、まちまちである。そのため、津波防災の意識が高まりにくい背景がある。
一九四六(昭和二一)年に昭和南海地震がおきたが、その時、いま水族館のある大阪の天保山にきた津波の高さは七〇センチであった。それで、現在の大阪は津波の恐ろしさを実体験した人が少ない。これは恐ろしいことである。防災は前におきた災害の記憶に影響されてしまう。
たとえば、阪神大震災は早朝におきた。電車も新幹線もまだ過密ダイャで走っていない時間帯であったため、高架がやられても、かなり偶然が幸いして、被害を免れた面がある。これで「地震がおきても高架橋の上の乗り物は大丈夫である」との災害イメージが、なんとなく、我々に形成されているとしたら、まずい。
大阪における津波も同じである。前回、被害がなかったから、次も大丈夫とは限らない。大阪は土地が低い。名古屋大学減災連携研究センターの調査によれば、大阪府では標高五メートル未満の低地に約三〇六万人が暮らしている。
しかし、歴史的にみれば、大阪は常に津波に襲われてきた。江戸時代だけでも宝永地震(一七〇七年)と安政南海地震(一八五四年)の二度、津波の大きな被害をうけている。
過去に、大阪にきた津波の高さを復元するには「橋」の被害記録をみていけばよい。
江戸は八百八町、大阪は八百八橋というほど、橋が多い。江戸時代、道頓堀など、大坂の運河には、木造船が浮かんでいた。津波になると、これらの船が運河をさかのぼり、橋の橋脚を破壊しながら、町中になだれ込んできた。したがって、どの橋まで津波で破壊され「落橋」したかを調べれば、大坂にきた津波の高さがわかる。
安政南海津波の時には、道頓堀川でいえば、なんばの大黒橋の手前、金屋橋までが落橋している。この時の大阪における津波の波高は地震学者の羽鳥徳太郎氏によれば「二・五~三メートル」。最近の研究では標高二・九メートル地点までさかのぼったとされている(長尾武「宝永地震による大坂市中での津波遡上高」)。
一方、安政津波より約一五〇年前にきた宝永津波はさらに強力であった。西山昭仁「安政南海地震における大坂での震災対応」からその被害状況をみると、安政津波では残った大黒橋からさらに上流の、戎橋・相合橋などを落とし、日本橋がようやく残っている。安政津波よりも標高一メートル程度高いところの橋まで落としている。結局、宝永津波は標高三・六メートル地点までさかのぼり、大坂の町を海水に浸したとされる(前出、長尾による)。
宝永津波と同じ、標高三・六メートルまで遡上する津波が来るとすれば、現在の大阪は、どこまで津波の水をかぶるであろうか。国土交通省がネット上に公開している「地理院地図」で調べてみた。この場合、津波は堺筋の近鉄なんば日本橋駅を越え、国立文楽劇場の前を通り越して、生国魂神社の前の松屋町筋の道路まで冠水させることがわかった。
しかし、これで話はすまない。この宝永津波などよりも、もっと大きな津波が南北朝時代の一三六一(正平一六)年に大坂を襲っていた可能性がある。次に、中世の古文書をもとに、この大津波について調べてみよう。
大阪にきた五~六メートルの津波
大阪府は東日本大震災後、南海トラフで地震がおきた時に想定される津波の高さを二倍に引き上げた。宝永津波(一七〇七年)・安政津波(一八五四年)を参考に、従来三メートルとしていたものを、一気に六メートルとした。しかし歴史上、大阪を襲った「既往最大の津波」は高さ何メートルか。六メートル以上の津波が大阪湾に現実にきたことがあるのか。この問題は難しい。専門家の問でも明確な答えはでていない。
ただヒントになる古文書が残されている。奈良・法降寺で書かれた『嘉元記』だ。一三〇五~六四年の間、法隆寺の預職(執行役員)をつとめた僧侶が書き継いだ日記である。これに一三六一年に発生した正平津波が大阪を襲ったさまが記録されている。
「天王寺金堂が破れて倒れ、また安居殿御所西浦まで潮が満ちて、その間の在家(民屋)・人民が多く損失した」と記されている。天王寺は四天王寺のことで、このとき堂塔が倒壊し、寺内で五人が圧死した。安居殿御所は四天王寺の西五〇〇メートルにある安居(井)神社のことだろう。この安居神社の西の浦まで津波がきて家屋・人命が多く失われたというのである。
これをどう解釈するか。安居神社は上町断層がつくった上町台地の断層崖の上に鎮座する。崖下の神社の階段の一段目が標高五メートル。階段を上りきった社殿のある地盤が標高一二メートルである。安居神社から海まで現在では五キロあるが一三六一年頃の海岸線は今よりもずっと内陸にあった。現在の阪神高速一五号線~なにわ筋のあたりであったろう。一三六一年に津波がきた当時、安居神社から海までは二キロほど。海に向かって平野がひろがっており、人家もあって今宮の庄(津江庄)とよばれていた。『嘉元記』が「安居殿御所西浦」とょよんでいるのは、安居神社の西にあった浦=今宮の庄のことをさす。
当時、今宮の庄の中心集落は現在の今宮戎神社(えべっさん)から広田神社(大阪市浪速区日本橋西二丁目)付近にあったと考えられる。現在、その付近の標高は三メートル前後。津波当時は海岸から一キロの距離。ここが津波で大被害をうけて人家が流失、死者も出たということは、五~六メートル級の津波の来襲を考えねばならない。
....大阪府が津波高さ想定を六メートルに引き上げたことは、古文書の断片的な証拠に照らして、妥当である。それどころかそれらしい津波が六五〇年前にきていた可能性が指摘できるのである。
五~六メートル級の津波がくれば、低地がひろがる大阪は大変なことになる。しかし津波到達まで約二時間の猶予があるから、その間に、水門を閉めたり、高い建物に上ったり、減災・避難行動をとれば、人的被害はかなり防げるはずである。ただ、こんな津波がくる時は地震の揺れも震度六を覚悟しなくてはならず、軟弱地盤の上に立つ水門や海岸の堤防がすべて壊れずに機能するか心配が残る。元来、大阪では三メートル津波の想定で海岸堤防も造られてきたわけだから六メートルの津波には完璧とはいえまい。今後、多重防御の考えを入れ、水門・堤防の整備点検をすすめて町を守っていかねばなるまい。
(引用は以上)
今のままで南海地震が起きたと考えると少し背筋が凍る思いがします。
地元にかかわることばかりになりますが、この兵庫県の”ため池”は日本でもダントツの一位ですが、このため池の被害についても第4章で言及しているのでこちらも紹介したいと思います。
以下に引用します。
ぺリー来航の翌年、一八五四(安政元)年は近畿地方で大地震が連発した。六月一五日に伊賀上野地震が、一一月四日に安政大地震がおきた。私が調査に入った甲南町新治は江戸時代には新宮上野村とよばれたところで、高四〇〇石ほどの小さな村である。そのうちの一軒が岸和田藩の甲賀衆を勤めているのだが、普段は農耕に従事している。甲賀衆は安政の大地震で破壊された灌概設備の復旧を領主に訴えていた。「溜池三ヶ所。 大地震で堤が崩れた。この儀は公儀表(幕府)に寅の大地震後にお届けした。人足飯米を少しでもくださればありがたい」。
新宮上野村は時期によって違うが、幕府領、近江大森藩領(最上氏)、旗本最上氏領・旗本美濃部氏領と、四つの領主に分割支配されていた。一つの村が複数の領主に分与されている「相給」の村だ。
美濃部氏は、もともとこの甲賀の豪族で徳川家康が浜松城にいた頃から徳川家に仕え、長久手の合戦で首を一つ討ち取った。のち家康が駿府城に隠居すると、甲賀から年に百日、駿府に詰めて家康の身辺を固めた家である。甲賀衆は「最上様よりは金子六十両下されたので(美濃部の)殿様も溜池(復旧工事の)人足飯米を少々なりともくださいますよう」と願っていた。
私が驚いたのは、甲賀の小村でため池が三つも決壊していることだった。古文書を読み終え、私はいった。「これは大切な防災情報です。地震の時に、ため池が決壊することがある。今は、ため池の下にまで新しい住宅が建て込んでいるんじゃないでしょうか」。すると、その場にいた甲賀忍者の子孫たちが顔を見合わせた。「ほんまや。今は、このあたりでもあっちゃ、こっちゃに、ため池の下にまで家を建てとる」。思い当たるところがあるようであった。「忍者の古文書は防災にも役立つ」という話になった。
(引用は以上)
ため池にも耐震診断が必要との指摘には大いに頷けます。
災害対策への公共投資を積極的に進めなければならないのに、安倍政権は2015年度の公的資本形成(いわゆる公共投資)を削りました。アメノミクスは当初積極的な公共投資との表現を現在は機動的な公共投資という言葉に変更しています。公共投資は民間では行えない長期の事業で、バラマキとは一線を画するものです。
佐賀藩の少年藩主・斉正は緊縮財政を敷きながら、一八二八年のシーボルト台風の被害から立ち直るために、佐賀務に西洋文明を重視する改革派勢力を重用しました。制度も改められ、日本国内に佐賀藩というミニ西洋工業国家を誕生させました。のちに東芝の元祖となる田中久重(からくり儀衛門)を雇い、大砲製造を命じるなどあらゆる西洋文物の国産化が試されました。
過去から学ぶべきことはたくさんあります。
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富士山の火山灰はどれほど降るのか、土砂崩れを知らせる「臭い」、そして津波から助かるための鉄則とは。
東日本大震災後に津波常襲地に移住した著者が伝える、災害から命を守る先人の知恵。と内容が紹介されています。
著者の磯田道史氏は「武士の家計簿」で古文書から新たな日本人・武士像を世に紹介しています。
書籍では地震以外にも多くの災害が日本各地を襲ったことが実感されます。書籍で取り上げられた被災地図を以下に紹介します。
章立ては以下の通りです。
第1章 秀吉と二つの地震
1 天正地震と戦国武将
2 伏見地震が終わらせた秀吉の天下
第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火
1 一七〇七年の富士山噴火に学ぶ
2 「岡本元朝日記」が伝える実態
3 高知種崎で被災した武士の証言
4 全国を襲った宝永津波
5 南海トラフはいつ動くのか
第3章 土砂崩れ・高潮と日本人
1 土砂崩れから逃れるために
2 高潮から逃れる江戸の知恵
第4章 災害が変えた幕末史
1 「軍事大国」佐賀藩を生んだシーボルト台風
2 文政京都地震の教訓
3 忍者で防災
第5章 津波から生きのびる知恵
1 母が生きのびた徳島の津波
2 地震の前兆をとらえよ
第6章 東日本大震災の教訓
1 南三陸町を歩いてわかったこと
2 大船渡小に学ぶ
3 村を救った、ある村長の記録
興味を引いたのは第1章 天正地震が結果的に家康に天下取りのための時間を与えたことや、明朝の使節団が入ってくる時期に起きた伏見地震が豊臣政権の衰退につながったとの指摘です。歴史の後解釈かもしれませんが、古来伝わるように天意が働いたのではと感じます。
秀吉は伏見自身の後、京の大仏に向かって弓矢を射ました。大仏が壊れたのは、秀吉が金をケチって金銅仏に造ってあげなかったためで、大仏のせいではありませんでした。後に秀頼が莫大な費用をかけて金銅仏を再建立しましたが「国家安康君臣豊楽」で家康に難癖をつけられたのは歴史の皮肉でしょうか。
日本史でも稀にみる様々な災害をもたらした宝永地震、時のトップはあの犬公方で名高い徳川綱吉でした。前半は昌平坂学問所を建てて安定した治世でしたが、地震のあった後半では東北の大飢饉のさなか「生類憐みの令」で庶民を苦しめ、政治においては、老中を置かずにお側用人を重用し、どちらかというと悪政に傾いたと考えられています。
ちなみに、静岡大学教授の小山真人氏によれば、富士山噴火と南海トラフ・相模トラフ大地震の記録をつきあわせた結果。九世紀以降、南海トラフと相模トラフの大地震は13回ほどおきているが、そのうち11回についてはトラフが動く前後で富士山の火山活動が活発化していたとのことである。
富士山噴火の四年前、一七〇三年に相模トラフが動き、元禄関東地震がありました。 この大地震以来「地震は、軽くはなれども(宝永噴火の)亥年まで、五年間、揺り止事がなかった」。富士山周辺では軽い地震が五年間続き、噴火直前、富士山では火山性地震が絶え間なく続いたそうです。余震が富士山噴火の引き金であったと推定されますが、東日本大地震の後、富士山近辺の地震で地震学者がざわついたのは、これらの歴史的事実が背景にあります。
関西の住人として気になるのは、南海地震と大阪の関係です。第2章から一部引用します。
大阪のことを書いておきたい。南海トラフで巨大地震がおきると、大阪にも津波がくる。ただ、大阪にくる津波は高かったり、低かったり、まちまちである。そのため、津波防災の意識が高まりにくい背景がある。
一九四六(昭和二一)年に昭和南海地震がおきたが、その時、いま水族館のある大阪の天保山にきた津波の高さは七〇センチであった。それで、現在の大阪は津波の恐ろしさを実体験した人が少ない。これは恐ろしいことである。防災は前におきた災害の記憶に影響されてしまう。
たとえば、阪神大震災は早朝におきた。電車も新幹線もまだ過密ダイャで走っていない時間帯であったため、高架がやられても、かなり偶然が幸いして、被害を免れた面がある。これで「地震がおきても高架橋の上の乗り物は大丈夫である」との災害イメージが、なんとなく、我々に形成されているとしたら、まずい。
大阪における津波も同じである。前回、被害がなかったから、次も大丈夫とは限らない。大阪は土地が低い。名古屋大学減災連携研究センターの調査によれば、大阪府では標高五メートル未満の低地に約三〇六万人が暮らしている。
しかし、歴史的にみれば、大阪は常に津波に襲われてきた。江戸時代だけでも宝永地震(一七〇七年)と安政南海地震(一八五四年)の二度、津波の大きな被害をうけている。
過去に、大阪にきた津波の高さを復元するには「橋」の被害記録をみていけばよい。
江戸は八百八町、大阪は八百八橋というほど、橋が多い。江戸時代、道頓堀など、大坂の運河には、木造船が浮かんでいた。津波になると、これらの船が運河をさかのぼり、橋の橋脚を破壊しながら、町中になだれ込んできた。したがって、どの橋まで津波で破壊され「落橋」したかを調べれば、大坂にきた津波の高さがわかる。
安政南海津波の時には、道頓堀川でいえば、なんばの大黒橋の手前、金屋橋までが落橋している。この時の大阪における津波の波高は地震学者の羽鳥徳太郎氏によれば「二・五~三メートル」。最近の研究では標高二・九メートル地点までさかのぼったとされている(長尾武「宝永地震による大坂市中での津波遡上高」)。
一方、安政津波より約一五〇年前にきた宝永津波はさらに強力であった。西山昭仁「安政南海地震における大坂での震災対応」からその被害状況をみると、安政津波では残った大黒橋からさらに上流の、戎橋・相合橋などを落とし、日本橋がようやく残っている。安政津波よりも標高一メートル程度高いところの橋まで落としている。結局、宝永津波は標高三・六メートル地点までさかのぼり、大坂の町を海水に浸したとされる(前出、長尾による)。
宝永津波と同じ、標高三・六メートルまで遡上する津波が来るとすれば、現在の大阪は、どこまで津波の水をかぶるであろうか。国土交通省がネット上に公開している「地理院地図」で調べてみた。この場合、津波は堺筋の近鉄なんば日本橋駅を越え、国立文楽劇場の前を通り越して、生国魂神社の前の松屋町筋の道路まで冠水させることがわかった。
しかし、これで話はすまない。この宝永津波などよりも、もっと大きな津波が南北朝時代の一三六一(正平一六)年に大坂を襲っていた可能性がある。次に、中世の古文書をもとに、この大津波について調べてみよう。
大阪にきた五~六メートルの津波
大阪府は東日本大震災後、南海トラフで地震がおきた時に想定される津波の高さを二倍に引き上げた。宝永津波(一七〇七年)・安政津波(一八五四年)を参考に、従来三メートルとしていたものを、一気に六メートルとした。しかし歴史上、大阪を襲った「既往最大の津波」は高さ何メートルか。六メートル以上の津波が大阪湾に現実にきたことがあるのか。この問題は難しい。専門家の問でも明確な答えはでていない。
ただヒントになる古文書が残されている。奈良・法降寺で書かれた『嘉元記』だ。一三〇五~六四年の間、法隆寺の預職(執行役員)をつとめた僧侶が書き継いだ日記である。これに一三六一年に発生した正平津波が大阪を襲ったさまが記録されている。
「天王寺金堂が破れて倒れ、また安居殿御所西浦まで潮が満ちて、その間の在家(民屋)・人民が多く損失した」と記されている。天王寺は四天王寺のことで、このとき堂塔が倒壊し、寺内で五人が圧死した。安居殿御所は四天王寺の西五〇〇メートルにある安居(井)神社のことだろう。この安居神社の西の浦まで津波がきて家屋・人命が多く失われたというのである。
これをどう解釈するか。安居神社は上町断層がつくった上町台地の断層崖の上に鎮座する。崖下の神社の階段の一段目が標高五メートル。階段を上りきった社殿のある地盤が標高一二メートルである。安居神社から海まで現在では五キロあるが一三六一年頃の海岸線は今よりもずっと内陸にあった。現在の阪神高速一五号線~なにわ筋のあたりであったろう。一三六一年に津波がきた当時、安居神社から海までは二キロほど。海に向かって平野がひろがっており、人家もあって今宮の庄(津江庄)とよばれていた。『嘉元記』が「安居殿御所西浦」とょよんでいるのは、安居神社の西にあった浦=今宮の庄のことをさす。
当時、今宮の庄の中心集落は現在の今宮戎神社(えべっさん)から広田神社(大阪市浪速区日本橋西二丁目)付近にあったと考えられる。現在、その付近の標高は三メートル前後。津波当時は海岸から一キロの距離。ここが津波で大被害をうけて人家が流失、死者も出たということは、五~六メートル級の津波の来襲を考えねばならない。
....大阪府が津波高さ想定を六メートルに引き上げたことは、古文書の断片的な証拠に照らして、妥当である。それどころかそれらしい津波が六五〇年前にきていた可能性が指摘できるのである。
五~六メートル級の津波がくれば、低地がひろがる大阪は大変なことになる。しかし津波到達まで約二時間の猶予があるから、その間に、水門を閉めたり、高い建物に上ったり、減災・避難行動をとれば、人的被害はかなり防げるはずである。ただ、こんな津波がくる時は地震の揺れも震度六を覚悟しなくてはならず、軟弱地盤の上に立つ水門や海岸の堤防がすべて壊れずに機能するか心配が残る。元来、大阪では三メートル津波の想定で海岸堤防も造られてきたわけだから六メートルの津波には完璧とはいえまい。今後、多重防御の考えを入れ、水門・堤防の整備点検をすすめて町を守っていかねばなるまい。
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地元にかかわることばかりになりますが、この兵庫県の”ため池”は日本でもダントツの一位ですが、このため池の被害についても第4章で言及しているのでこちらも紹介したいと思います。
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新宮上野村は時期によって違うが、幕府領、近江大森藩領(最上氏)、旗本最上氏領・旗本美濃部氏領と、四つの領主に分割支配されていた。一つの村が複数の領主に分与されている「相給」の村だ。
美濃部氏は、もともとこの甲賀の豪族で徳川家康が浜松城にいた頃から徳川家に仕え、長久手の合戦で首を一つ討ち取った。のち家康が駿府城に隠居すると、甲賀から年に百日、駿府に詰めて家康の身辺を固めた家である。甲賀衆は「最上様よりは金子六十両下されたので(美濃部の)殿様も溜池(復旧工事の)人足飯米を少々なりともくださいますよう」と願っていた。
私が驚いたのは、甲賀の小村でため池が三つも決壊していることだった。古文書を読み終え、私はいった。「これは大切な防災情報です。地震の時に、ため池が決壊することがある。今は、ため池の下にまで新しい住宅が建て込んでいるんじゃないでしょうか」。すると、その場にいた甲賀忍者の子孫たちが顔を見合わせた。「ほんまや。今は、このあたりでもあっちゃ、こっちゃに、ため池の下にまで家を建てとる」。思い当たるところがあるようであった。「忍者の古文書は防災にも役立つ」という話になった。
(引用は以上)
ため池にも耐震診断が必要との指摘には大いに頷けます。
災害対策への公共投資を積極的に進めなければならないのに、安倍政権は2015年度の公的資本形成(いわゆる公共投資)を削りました。アメノミクスは当初積極的な公共投資との表現を現在は機動的な公共投資という言葉に変更しています。公共投資は民間では行えない長期の事業で、バラマキとは一線を画するものです。
佐賀藩の少年藩主・斉正は緊縮財政を敷きながら、一八二八年のシーボルト台風の被害から立ち直るために、佐賀務に西洋文明を重視する改革派勢力を重用しました。制度も改められ、日本国内に佐賀藩というミニ西洋工業国家を誕生させました。のちに東芝の元祖となる田中久重(からくり儀衛門)を雇い、大砲製造を命じるなどあらゆる西洋文物の国産化が試されました。
過去から学ぶべきことはたくさんあります。