東條英機 歴史の証言
東京裁判宣誓供述書を読みとく 祥伝社黄金文庫
「彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」マッカーサーのアメリカ上院での証言は、東條英機が、東京裁判で供述した論旨とまったく同じだった!埋もれていた、第一級史料に眠る「歴史の真実」に迫る。
第1章 昭和十五年の日本と世界
第2章 三国同盟
第3章 日米交渉と南部仏印進駐
第4章 第三次近衛内閣と日米交渉決裂
第5章 東條内閣成立
第6章 開戦
第7章 俘虜取扱いに関する問題について
第8章 大東亜会議
第9章 敗戦の責任
子供の頃極東裁判の記録映画を観た。ウェブ裁判長が冷たくデスバイハンギングと絞首刑を言い渡すのを聴いて寒気を催したのを覚えている。判決を聴いた後淡々と頭を下げた東條さんの涼しげな顔が不思議でならなかった。死ぬことはは怖いはずなのに...頭がおかしくなった誰かさんは裁判中に東條さんの頭を後ろから叩いた。東條さんは振り返ってにっこり笑っていた。原文を読むと東條さんの息遣いが伝わってくる。
国会の安全保障法制の審議を聴いて東條さんは切歯扼腕しているに違いない。
出版後1カ月も経たないうちにGHQは発禁処分をした。
日本が侵略したのではないことは既にマッカーサ自身が1951年の5月3日に上院軍事外交合同委員会で認めた。村山談話の撤回はこれで十分だと思う。
以下同書より引用
日本は絹産業〔蚕〕以外には固有の産物はほとんど何もないのです。 彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。したがって、らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
(小堀桂一郎編『東京裁判日本の弁明』講談社学術文庫564、565ぺージ。傍点渡部)
この傍点の部分は特に重要なので、英文でも示しておきたい。
Their〔The Japanese People’s〕Purpose therefore, in going to War was largely dictated by security.
「ブレトンウッズ体制は、連合軍が勝利したあとの、戦後の世界を見据え、世界銀行をつくり、のちのガット体制のようなものを構築して貿易障壁をなくそうというものでした。まさに彼らが推し進めてきたアウタルキー*とは正反対の考え方で、これが戦争の原因だということを、彼らが知っていた何よりの証拠です。」と渡部さんは指摘している。米国主導の自由貿易体制が揺れている今まさに自由貿易の重要性を肝に銘じなければならない。米国太平洋艦隊の司令長官が使命は航行の自由を守ることだとの発言もこの延長線上にある。(*自給自足)
第8章 大東亜会議、第9章 敗戦の責任を原文で読み込んだ。
タイ元首相の『日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができる のは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない。』との発言を支えたのは日本の本気度であったと東條さんが懸命に主張している、領土的野心などあればこんなことをするはずがない..。
東南アジア諸国の声に耳を傾け独立を承認し、中国との不平等条約を改正し、タイには英国から奪われた州を取り返した。国際法違反ではないかとの検察の追及に、カイロ会議やヤルタ協定を持ち出して鋭く反論した。そもそも条約を破って侵略してきたのは英米に押されたソ連ではないか。痛快である。戦争は受け身で受けて立たざるを得なかったが、アジアを人種差別から救う日本の志は明確であった。
陸軍が恐れたのはソ連の侵略と赤化であったとも供述書で述べられている。破壊工作を恐れたから治安維持法を制定したが、同時に普通選挙法も設定した。渡部さんは死刑も実行されなかったと指摘する。反共を共有するバチカンは日本に協力せよと指示している。國神社がドッグレース場にならなかったのもカソリック神父のお蔭である。
外国の判事が理解に苦しんだのは統帥権干犯問題により国務と統帥権が分断され、東條さんが調整に苦しんだとの主張である。統帥権と国務の頂点にある天皇陛下は立憲君主の立場を堅持されたから、責任をとれるリーダーがいないまま戦争をしていたなどとは言い逃れにしか聞こえなかったであろう。これで思いだすのは河合隼雄さんの日本人論、場の空気を読みすぎて中心に空気しかないドーナツの譬えは言い得て妙である。
マーシャル諸島で1万人が玉砕せざるを得なかった作戦を東條さんは知らされていなかった。
「訴追では、日本政府の共同謀議は昭和三年から始まったことになっていますが、その当時は政友会の田中義一内閣でした。しかし、すぐその後に反対政党である浜口雄幸の民政党政権ができるわけで、その後も、まったく一貫性がなく、共同謀議などできるわけがありません。」と渡部さんは指摘している。
過ちを繰り返してはならないのは原爆を落とした方であり、日本人は責任の所在を曖昧にする悪い癖こそ反省すべきではないか。沖縄を巡る某国の工作もこの点を突いてきていることを忘れてはならない。