渡部昇一氏の日本史(決定版)をゆっくり読む中にあって、宮崎正弘氏の書評で日中の視点の違いを学びたくなりました。同氏は他にも福島香織氏の『習近平王朝の危険な野望』、楊海英氏著『「中国」という神話――習近平「偉大なる中華民族」の』嘘』を紹介しています。(こちらもお薦めです)
徳川幕府による儒学重視と寺請制度による仏教の俗化は儒教の本家とは全く異なる果実を生み出した。昼は朱子学夜は行動重視の陽明学、山鹿素行の脱中華の流れ...。孔子が醢(ひしお)を食したことは日本人にとってショッキングな歴史的事実であっても、聖人の欺瞞とまでは言わないのが日本人の美風...。(笑)換骨奪胎ではなく長所を取り入れてきた絶妙なバランス感覚は我が国の深層意識として今も流れていると思います。
(以下メルマガより抜粋)
石平氏はまるで日本語を喋れないままに日本に留学してきた。神戸のレストランでアルバイトをしながら、ときに書店へ行くと、孔孟から韓非子、朱子学と漢著の翻訳が本棚に並んでいたのを見て驚いた。
李登輝閣下はかねて、「日本語の翻訳により知識を拡げ教養を高めることが出来た」と述懐されるが、日清戦争ののち、夥しい留学生が日本にきて、日本語を通じてルソー、サミエルソンや、デカルト、カントを知った。つまり日本はあらゆる思想、哲学、文学を翻訳し、咀嚼し、そこから独自の思想を形成してきた。
「江戸期以前の時代では、日本の代表的な思想家はほとんど仏教の世界の人間であるのに対し、江戸期に入ってからの代表的な思想家はほとんど儒学者だった」
「聖徳太子は仏教を国教にまでしたのは、中華から独立するため」であり、日本史は仏教を日本化することによって日本文明を独自なものとしたが、江戸時代には逆に儒教を官学の基礎においた。その徳川時代の儒学はと言えば、じつは朱子学であり、中国の儒学とは似ても似つかぬもので、他方で本居宣長など国学の台頭を生んだ。…
仏教は最澄と空海によって絶頂を極めて、以後、哲学的には衰退してゆく。そしてこの時代に『古事記』『日本書紀』が書かれ、『源氏物語』が書かれた。
「家康が天下統一したあと、推し進めたもう一つの仏教対策は、全国に『寺請制度(檀家制度)』を整えることだった」
つまり住居移転や結婚、旅行など檀那寺が発行する「寺請証文」が必要とされ、それは寺院の収入を安定させたものの、実質的に「葬式仏教」となってしまった。つまり「仏教は国家体制と政治権力にとって、無害にして有益なものとなっていった。(中略)思想史的にいえば、まさにこのプロセスにおいて、日本の仏教は思想としての創造力と影響力を失う」
だが儒教は官学でしかなく、「昼は朱子学、夜は陽明学」という佐藤一齋らが象徴するように官学と併行して日本では陽明学が読み込まれた。サムライの美意識に適合したからだろう。市井では本居宣長に代表される国学の意気軒昂たる復活があり、江戸前期には山鹿素行の『中朝事実』がでて、水戸学への驀進が始まる。これが『日本の思想』の中軸となる。
「西郷隆盛は日本の思想である」と江藤淳は書いた(『南洲残影』)。
石平氏の山鹿素行論は、従来の保守陣営の解釈とは趣きが異なり、次のような描き方となる。
「鎌倉時代末期の日本の神道思想の確立において、外来宗教の仏教に対する日本神道の優位性が主張された(中略)。山鹿素行は、天孫降臨以来の皇統と神道を中核とする日本の伝統に基づき、中国儒教に対する日本の優位性を強調して見せた。(中略)中国古来の『華夷秩序』の世界観を正反対に転倒させたのである」
江戸中期になると国学が日本の思想界を席巻し、「真淵は『日本の古道』を絶賛して、儒教と中国の『聖人』たちの欺瞞性を暴いた。そして宣長は、日本の精神と思想の世界から『漢意』(すなわち中華)というものを、きれいさっぱり洗い去ることによってこそ、日本は日本本来のすばらしさを取り戻すのだと説いた」
ともかく脱中華が日本の独自の文化圏形成の原動力だったのである。
徳川幕府による儒学重視と寺請制度による仏教の俗化は儒教の本家とは全く異なる果実を生み出した。昼は朱子学夜は行動重視の陽明学、山鹿素行の脱中華の流れ...。孔子が醢(ひしお)を食したことは日本人にとってショッキングな歴史的事実であっても、聖人の欺瞞とまでは言わないのが日本人の美風...。(笑)換骨奪胎ではなく長所を取り入れてきた絶妙なバランス感覚は我が国の深層意識として今も流れていると思います。
(以下メルマガより抜粋)
石平氏はまるで日本語を喋れないままに日本に留学してきた。神戸のレストランでアルバイトをしながら、ときに書店へ行くと、孔孟から韓非子、朱子学と漢著の翻訳が本棚に並んでいたのを見て驚いた。
李登輝閣下はかねて、「日本語の翻訳により知識を拡げ教養を高めることが出来た」と述懐されるが、日清戦争ののち、夥しい留学生が日本にきて、日本語を通じてルソー、サミエルソンや、デカルト、カントを知った。つまり日本はあらゆる思想、哲学、文学を翻訳し、咀嚼し、そこから独自の思想を形成してきた。
「江戸期以前の時代では、日本の代表的な思想家はほとんど仏教の世界の人間であるのに対し、江戸期に入ってからの代表的な思想家はほとんど儒学者だった」
「聖徳太子は仏教を国教にまでしたのは、中華から独立するため」であり、日本史は仏教を日本化することによって日本文明を独自なものとしたが、江戸時代には逆に儒教を官学の基礎においた。その徳川時代の儒学はと言えば、じつは朱子学であり、中国の儒学とは似ても似つかぬもので、他方で本居宣長など国学の台頭を生んだ。…
仏教は最澄と空海によって絶頂を極めて、以後、哲学的には衰退してゆく。そしてこの時代に『古事記』『日本書紀』が書かれ、『源氏物語』が書かれた。
「家康が天下統一したあと、推し進めたもう一つの仏教対策は、全国に『寺請制度(檀家制度)』を整えることだった」
つまり住居移転や結婚、旅行など檀那寺が発行する「寺請証文」が必要とされ、それは寺院の収入を安定させたものの、実質的に「葬式仏教」となってしまった。つまり「仏教は国家体制と政治権力にとって、無害にして有益なものとなっていった。(中略)思想史的にいえば、まさにこのプロセスにおいて、日本の仏教は思想としての創造力と影響力を失う」
だが儒教は官学でしかなく、「昼は朱子学、夜は陽明学」という佐藤一齋らが象徴するように官学と併行して日本では陽明学が読み込まれた。サムライの美意識に適合したからだろう。市井では本居宣長に代表される国学の意気軒昂たる復活があり、江戸前期には山鹿素行の『中朝事実』がでて、水戸学への驀進が始まる。これが『日本の思想』の中軸となる。
「西郷隆盛は日本の思想である」と江藤淳は書いた(『南洲残影』)。
石平氏の山鹿素行論は、従来の保守陣営の解釈とは趣きが異なり、次のような描き方となる。
「鎌倉時代末期の日本の神道思想の確立において、外来宗教の仏教に対する日本神道の優位性が主張された(中略)。山鹿素行は、天孫降臨以来の皇統と神道を中核とする日本の伝統に基づき、中国儒教に対する日本の優位性を強調して見せた。(中略)中国古来の『華夷秩序』の世界観を正反対に転倒させたのである」
江戸中期になると国学が日本の思想界を席巻し、「真淵は『日本の古道』を絶賛して、儒教と中国の『聖人』たちの欺瞞性を暴いた。そして宣長は、日本の精神と思想の世界から『漢意』(すなわち中華)というものを、きれいさっぱり洗い去ることによってこそ、日本は日本本来のすばらしさを取り戻すのだと説いた」
ともかく脱中華が日本の独自の文化圏形成の原動力だったのである。