心配になるイラン情勢...いぜん読んだ本「イラン人は面白すぎる」タレントのエマミ・シュン・サラミさん著にざっと目を通したら、スンニ派に比べシーア派の方が教義を柔軟(いい加減?)に解釈している点がとても面白かったことを思い出しました。おしんの視聴率が90%近くになるイランンの庶民は日本人がアルカイダとごっちゃにされることを悲しんでるとの言葉はちょっち胸に刺さります。以下の会話は似たようなことが日常茶飯だそうです。適当すぎるけど愛すべき民族だと思いますす。トランプ大統領は統幕議長が提案した選択肢の中から一番極端なアイデアを選んでしまった...。なんだか悲しくなってきます。
はじめに
第1章 陽気なイスラム教
第2章 豚肉とラマダン
第3章 すべてはバザールと食卓にある
第4章 中東の恋愛不毛地帯
第5章 イランの罪と罰
第6章 学校という名の階層社会
第7章 アラブの中のイラン
おわりに
日本で暮らすイラン人としていつも悲しく思うのは、イスラムに対する日本人の過剰な拒絶反応だ。過激な反政府デモや核開発疑惑などから、イランといえば「危険なテロリスト国家」というイメージが染みついてしまっている。でも、イラン人はみんな日本が大好き。
そんな「片想い」を少しでも「両想い」に近づけたい、本書はそんなキューピッド的発想から生まれた。陽気なイラン人たちが織りなす数々の珍エピソードを通して、本当のイスラム文化を知っていただけるはずだ。
イスラムといえばアルカイダのように髭面の怖い連中というステレオ・タイプのイメージが強い。過激な大統領の発言を耳にするとイランとアルカイダの繋がりを連想してしまうが実は違う。
そもそも、ペルシャは旧約聖書にでてくるハム族、いわゆるアーリアン系民族(インド・ヨーロッパ語族 白人系)で、セム族のアラビア人とは人種が異なる。
世俗に対して穏健とされるシーア派に対して、教義の縛りが強いスンニ派のビンラディンは明確な敵である。(事実、イランを邪教の国扱いにしていた)
おしんの視聴率が90%を誇るイラン人は、日本人がごっちゃにする認識しか持っていなと耳にすれば、さぞがっかりするだろう。(オサマラディンはイランを地上から抹殺したいと呪ってた...)
イスラム教の五大義務の中から
【喜捨】
喜捨(サダカ)とは、わかりやすくいえば寄付、または施しであり、「富める者は慈悲の心を以て貧しい者に与えよ」というアラーの教えである。
僕もイランにいた頃は、喜捨は素晴らしい行為だから進んで行うようにと教えられた。
戦争で負傷して働くことのままならない人々や、戦災孤児、難民など貧しい人々が道端で「お恵み」を求めており、実際に、そこそこの身なりの人が彼らにお金を渡す光景をイランではよく見かける。
日本でも、東日本大震災で被災した方々のために国民全員がひとつとなってチャリティー活動をする気運が高まっているが、イランを含めた中東諸国は、宗教的道徳によって、心や身体に傷を負った人々と1000年以上も向き合ってきたのである。
また、イスラム諸国の喜捨精神にはさまざまなバターンがあり、配慮の深さを感じさせる。
僕の父は、閉店間際のバン屋で売れ残りの商品を全部買い上げ、路上で夜を明かす子どもたちに与えていた。これは、パン屋と貧しい子どもたちの両者への喜捨で、僕は父のこの行為を<恵みのダブルブッキング>と呼んでいる。
また、路上生活者はボロボロの服を身につけた者だけでなく、よい身なりをした者もいる。 もし、両者に同時に出会ったとしたら、みなさんならどうするだろうか。おそらく僕と同じだと思うが、ボロボロの身なりの者のほうにより多く喜捨したいと思うだろう。
しかし、イスラム教国の人間は、よい身なりの物乞いのほうにより多く与える者が多い。
これは、ボロボロの服を着た貧しすぎる物乞いよりも、よい身なりの物乞いのほうが生活にお金がかかるだろうという理屈による。要は、やせた人と太った人なら、太った人にはより多くの食べ物を与えなくては満足できないだろう、といったことか。
「だったら、同じ物乞いなら贅沢したほうが勝ちじやん」
そう思った方、まったくその通りなのだ。
物乞いにとって、イランは天国のような国。首都テヘランには月収14万円近く稼いでいる物乞いがさらにいる。これは、イランのサラリーマンの最低賃金の5倍にあたる額だ。
労働者が汗水たらして稼いだナケナシの金で豪遊する物乞い……。まさに、悪夢の下剋上である。そして、通行人から喜捨をせびり、1日1万円以上、つまり月収30万円以上も稼ぐカリスマまでいるというのだ!
なんだかカリスマホストみたいに書いてしまったが、やっていることはホスト以上にスゴイ。このカリスマ物乞いは何人もの金持ちの常連(よく施しをくれる人)を持っており、常連たちの出勤時間や食事に出かける時間、その場所などをすべて把握している。そして、偶然出くわしたような態度をとっては喜捨をせびるのだ。
【礼拝】
礼拝(サラート)とは簡単にいえばお祈りのことで、基本的に一日五回(夜明け、正午、午後、日没、夜)行わなくてはいけないとされている。ちなみに、イラン人の大多数を占めるシーア派は、1日3回(夜明け、正午、夜)でよい。
たとえば、お祈りができない状況下であれば怠っても罪にはならないと、イスラム法の規定にある。瀕死の状態で体を動かすこともままならないときのような特殊な例外を指しているはずなのだが、イラン人は勝手にこの「特殊な例外」の幅を広げてしまう。
僕の父は「私は今非常に体調が悪い、こんな体調で神に祈るのは逆に失礼だ」といつも神様に仮病を使っていたし、「アラーは常に私の心の中にある。だから私は今、心の中でお祈りをしたよ」という人、「私は地面アレルギーだから、お祈りは治ってからにする」というヤツまでいた。
このギャグが面白い
イラン人同士がこんな口ゲン力をしている光景も、よく目にした。
男1「お前のその態度はアラーの意志によるものかっ!?」
男2「その通りだ」
男1「だったら、オレはアラーの意志でお前を殴る」
男2「じやあ、オレもアラーの意志でお前を殴り返す」
僕の友人の母と家政婦の会話。
家「奥様、申し訳ございません。奥様が大事にしていた指輪をなくしてしまいました」
奥「なんですって! 謝ってすむことじやないわよ!!」
家「しかし奧様、昨日まではあったのに今日にはなくなっているなんて、これはきっと
アラーが消してしまったからですわ」
奧「ちょっとあなた、その薬指の指輪は何よ?それ、私のじゃないの」
家「気がついたら指にはまってました。きっと悲しみに暮れていた私を勇気づけようと、
アラーがプレゼントしてくれたんですわ」
アラーの御慈悲が彼の国に及びますように。
はじめに
第1章 陽気なイスラム教
第2章 豚肉とラマダン
第3章 すべてはバザールと食卓にある
第4章 中東の恋愛不毛地帯
第5章 イランの罪と罰
第6章 学校という名の階層社会
第7章 アラブの中のイラン
おわりに
日本で暮らすイラン人としていつも悲しく思うのは、イスラムに対する日本人の過剰な拒絶反応だ。過激な反政府デモや核開発疑惑などから、イランといえば「危険なテロリスト国家」というイメージが染みついてしまっている。でも、イラン人はみんな日本が大好き。
そんな「片想い」を少しでも「両想い」に近づけたい、本書はそんなキューピッド的発想から生まれた。陽気なイラン人たちが織りなす数々の珍エピソードを通して、本当のイスラム文化を知っていただけるはずだ。
イスラムといえばアルカイダのように髭面の怖い連中というステレオ・タイプのイメージが強い。過激な大統領の発言を耳にするとイランとアルカイダの繋がりを連想してしまうが実は違う。
そもそも、ペルシャは旧約聖書にでてくるハム族、いわゆるアーリアン系民族(インド・ヨーロッパ語族 白人系)で、セム族のアラビア人とは人種が異なる。
世俗に対して穏健とされるシーア派に対して、教義の縛りが強いスンニ派のビンラディンは明確な敵である。(事実、イランを邪教の国扱いにしていた)
おしんの視聴率が90%を誇るイラン人は、日本人がごっちゃにする認識しか持っていなと耳にすれば、さぞがっかりするだろう。(オサマラディンはイランを地上から抹殺したいと呪ってた...)
イスラム教の五大義務の中から
【喜捨】
喜捨(サダカ)とは、わかりやすくいえば寄付、または施しであり、「富める者は慈悲の心を以て貧しい者に与えよ」というアラーの教えである。
僕もイランにいた頃は、喜捨は素晴らしい行為だから進んで行うようにと教えられた。
戦争で負傷して働くことのままならない人々や、戦災孤児、難民など貧しい人々が道端で「お恵み」を求めており、実際に、そこそこの身なりの人が彼らにお金を渡す光景をイランではよく見かける。
日本でも、東日本大震災で被災した方々のために国民全員がひとつとなってチャリティー活動をする気運が高まっているが、イランを含めた中東諸国は、宗教的道徳によって、心や身体に傷を負った人々と1000年以上も向き合ってきたのである。
また、イスラム諸国の喜捨精神にはさまざまなバターンがあり、配慮の深さを感じさせる。
僕の父は、閉店間際のバン屋で売れ残りの商品を全部買い上げ、路上で夜を明かす子どもたちに与えていた。これは、パン屋と貧しい子どもたちの両者への喜捨で、僕は父のこの行為を<恵みのダブルブッキング>と呼んでいる。
また、路上生活者はボロボロの服を身につけた者だけでなく、よい身なりをした者もいる。 もし、両者に同時に出会ったとしたら、みなさんならどうするだろうか。おそらく僕と同じだと思うが、ボロボロの身なりの者のほうにより多く喜捨したいと思うだろう。
しかし、イスラム教国の人間は、よい身なりの物乞いのほうにより多く与える者が多い。
これは、ボロボロの服を着た貧しすぎる物乞いよりも、よい身なりの物乞いのほうが生活にお金がかかるだろうという理屈による。要は、やせた人と太った人なら、太った人にはより多くの食べ物を与えなくては満足できないだろう、といったことか。
「だったら、同じ物乞いなら贅沢したほうが勝ちじやん」
そう思った方、まったくその通りなのだ。
物乞いにとって、イランは天国のような国。首都テヘランには月収14万円近く稼いでいる物乞いがさらにいる。これは、イランのサラリーマンの最低賃金の5倍にあたる額だ。
労働者が汗水たらして稼いだナケナシの金で豪遊する物乞い……。まさに、悪夢の下剋上である。そして、通行人から喜捨をせびり、1日1万円以上、つまり月収30万円以上も稼ぐカリスマまでいるというのだ!
なんだかカリスマホストみたいに書いてしまったが、やっていることはホスト以上にスゴイ。このカリスマ物乞いは何人もの金持ちの常連(よく施しをくれる人)を持っており、常連たちの出勤時間や食事に出かける時間、その場所などをすべて把握している。そして、偶然出くわしたような態度をとっては喜捨をせびるのだ。
【礼拝】
礼拝(サラート)とは簡単にいえばお祈りのことで、基本的に一日五回(夜明け、正午、午後、日没、夜)行わなくてはいけないとされている。ちなみに、イラン人の大多数を占めるシーア派は、1日3回(夜明け、正午、夜)でよい。
たとえば、お祈りができない状況下であれば怠っても罪にはならないと、イスラム法の規定にある。瀕死の状態で体を動かすこともままならないときのような特殊な例外を指しているはずなのだが、イラン人は勝手にこの「特殊な例外」の幅を広げてしまう。
僕の父は「私は今非常に体調が悪い、こんな体調で神に祈るのは逆に失礼だ」といつも神様に仮病を使っていたし、「アラーは常に私の心の中にある。だから私は今、心の中でお祈りをしたよ」という人、「私は地面アレルギーだから、お祈りは治ってからにする」というヤツまでいた。
このギャグが面白い
イラン人同士がこんな口ゲン力をしている光景も、よく目にした。
男1「お前のその態度はアラーの意志によるものかっ!?」
男2「その通りだ」
男1「だったら、オレはアラーの意志でお前を殴る」
男2「じやあ、オレもアラーの意志でお前を殴り返す」
僕の友人の母と家政婦の会話。
家「奥様、申し訳ございません。奥様が大事にしていた指輪をなくしてしまいました」
奥「なんですって! 謝ってすむことじやないわよ!!」
家「しかし奧様、昨日まではあったのに今日にはなくなっているなんて、これはきっと
アラーが消してしまったからですわ」
奧「ちょっとあなた、その薬指の指輪は何よ?それ、私のじゃないの」
家「気がついたら指にはまってました。きっと悲しみに暮れていた私を勇気づけようと、
アラーがプレゼントしてくれたんですわ」
アラーの御慈悲が彼の国に及びますように。