いっちゃんのよもやまばなし

ユートピア活動勉強会で使用した政治・経済・歴史などの書籍やネット情報、感想などを中心に紹介します。

日本人ルーツの謎を解く―縄文人は日本人と韓国人の祖先だった! 長浜 浩明 著 

2016年05月13日 15時27分31秒 | 書籍の感想とその他
5月連休前にNHKスペシャル「アジア巨大遺跡」の第4集「縄文 奇跡の大集落~1万年持続の秘密~」】が再放送されました。縄文時代(文明)が15,000年前から続いたことに英米の考古学者が驚嘆していることに改めて感動しました。
それはそれとして、私が注目したのは弥生時代への移行にNHKがどのように言及するかでした。ほっとしたというのは大袈裟かもしれませんが、従来の渡来人説には言及しませんでした。

この著作で著者の長浜 浩明氏は最新の考古学の知見を引用しながら、縄文から弥生は連続していたと主張しています。同氏は東工大大学院修士課程環境工学専攻修了の考古学とは無縁の理系のビジネスマン(当時)方で、考古学が示す新たな知見に歴史学者がなかなか首肯しないとの著者の指摘は遡ればエドワード・モースにたどり着きますが...改めて古代の歴史にまで東京裁判史観が影響しているかもしれないと感じました。(同氏の主張はあくまで仮説ですが...喧々諤々の議論が広がることを願っています)



この書籍の筋立ては以下の通りです。

第1章 司馬遼太郎・山本七平の縄文・弥生観は失当だった
第2章 縄文時代から続く日本のコメづくり
第3章 縄文・弥生の年代決定に合理的根拠はあったのか
第4章 反面教師・NHK『日本人はるかな旅』に学ぶ
第5章 もはや古すぎる小山修三氏の「縄文人口推計」
第6章 机上の空論・埴原和郎氏の「二重構造モデル」
第7章 統計的「偽」・宝来聡氏の「DNA人類進化学」
第8章 為にする仮説・中橋孝博氏の「渡来人の人口爆発」
第9章 「Y染色体」が明かす真実
第10章 言語学から辿る日本人のルーツ



NHKスペシャルで紹介されたように、縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)も、縄文世界を次のように描いています。

「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。

聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。
先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。へビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアニミズム的な世界観を持っていた」(縄文学への道』NHKブックス1996)

稲作が弥生渡来人によってもたらされたとの定説を覆す発見は、昭和53年(1978)福岡県の板付遺跡において縄文士器だけが出土する地層から水田遺構の発掘、更に昭和55年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌概施設を伴う水田遺構の出土など、他にも多数挙げられています。

縄文後期から稲作が行われていたことを示したのが「プラントオパール分析法」でした。イネ科の植物には、宝石のオパールと同質のガラス質で被われ、特有の形をした40~50ミクロンの細胞化石が含まれているのです。

現在までに確認できた縄文稲作の痕跡は島根県や鹿児島県の遺跡など全国9ケ所。しかも縄文前期(6000~5000年前)以降、中期(5000~4000年前)、後期(4000~3000年前)とプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかっていることから、日本の米作りは太古6000年前から途切れることなく現在まで、連綿と続いていることも分かってきたのです。その後も30カ所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見され、稲作を含む「縄文農耕論」は、ほぼ確実な情勢となっています。

歴史学者の一部からは水田ではないことを依拠に縄文稲作説を否定の声がありますが、無理があるような気がします。

昭和53年(1978)、縄文晩期の標準的な士器とされる夜臼式土器だけが出土する地層から、一区画が400mもある立派な水田跡が発掘されています。つまり縄文晩期の人たちが水田耕作を行っていたことが明らかになっています。

残念なことに関係者は定説を覆すこの発掘に自信が持てなかったそうです。その2年後、菜畑遺跡において、夜臼式土器より古い、山の寺式土器だけが出土する地層から、灌概施設を伴った水田稲作跡も発見されています。

素人考えですが、寧ろイノベーションが九州地方で行われ、あの三内丸山遺跡で見られるように交易を通じて東方に伝播したと考えるのが自然だと思えます。

朝鮮半島では「青銅器時代前期以降」にイネが検出されています。半島南部での青銅器は西周後期から春秋前期、即ち紀元前770年頃が開始期とされるから、その頃には畑作物としてイネが栽培されていたことになります。要は今から約3千年前に畑作物として栽培され始めたということです。日本の陸稲は6千年前に栽培されていたことを思い起こすと、日本の方が韓国より3千年も早くからコメ栽培が行われていたことになります。

熱帯ジャポニカは、今でも南九州、沖縄、台湾で栽培されており、更にフィリピン、ボルネオ、セレベス、インドネシア、スマトラ、タイ、ラオス、ネパール方面に広がっています。最初に栽培されたコメを熱帯ジャポニカとすれば、それは嘗て柳田国男が主張した“海の道”を通って南九州へやって来た可能性が浮上してきます。

鹿児島県には2万4千年前の耳取遺跡や1万5千年前の仁田尾遺跡があり、そこから年代不詳ながらイネのブラントオパールも発見されています。つまり古い時代にコメを携えて島伝いに日本へとやって来た人々がいたことが彷彿されます。

東アジアのイネは7000年前頃から揚子江中・下流域で栽培されてきた。佐藤洋一郎氏が、河姆渡(かぼと)(中国浙江省)から発見された炭化米のDNA分析を行った処、その全てがジャポニカ種であり、2粒が熱帯ジャポニカだったそうです。つまり原産地は不明なれど、日本の熱帯ジャポニカは東南アジアやシナ大陸南部からやって来たと考えられているのです。

その後遺伝子研究は進み変形の類型が異なること、しかも大陸や半島は分散しているなど...、伝播の道は定説を覆し日本を経由して北上した可能性があるのです。

著者は更に話を進め、最新の知見(ATLウイルス、ミトコンドリア、Y型染色体など)の分類から以下の疑問を投げかけています。

日本人男性のY染色体は韓国人や中国人(北京)とは大きく異なり、しかも遺伝的に速く離れた関係にあるのに、日本人女性のmtDNAは類似し、近いのは何故か...。

さまざまな列挙を通じて、「私たち日本人の主な祖先は1万年以上にわたり日本列島の主人公であり続けた縄文時代からの人たちだった」という何の変哲もないものとなったとの結論を導いています。(系統言語学言語学的にも朝鮮半島と日本は全く異なるとダメを押しています)

神功皇后の三韓征伐をGoogleで調べると真っ先に大嘘という主張が目に入ってきます。しかし、三韓征伐を和人(系統)の保護と考えると、更なる過去より日本人が進出していなければならず長浜説と符合します。そもそも氷河後退期に韓半島にはほとんど人がいなかった...という考古学説もあります。

弥生初期に渡来人が大挙して日本にやってきて、文明的に劣る縄文人(古代日本人)を駆逐し支配したとの戦後の歴史観は常識からいってもおかしいと思います。
いかがでしょうか?