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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

釜芸 写真 Vol.6

2014-01-31 07:08:49 | 釜ヶ崎人情
釜芸 写真 Vol.5 からの続き




ブラジルのギャングは相当危ないことだけは知っている。
14、5才の子供でも銃を持って、脅し、金を取る。
そこでなめてかかって拒否をするものならズドン!
お陀仏である。
命が惜しけりゃ抵抗しないほうがいい。
そんなところに自ら飛び込むとは頭がおかしいと言わざるおえない。
「飛行機で降り立つとき、暗闇の中で山々でたくさんの明かりがあってきれいだと思ったんです。
そこがファベーラで大都市リオの周りにある。
すごいところだなと思って行きたいと思ったんです。
まわりのみんなからは当然止められましたよ。
クレージーだって。
でも行きたくて、単独で行きました。」
「でも、相手が相手。殺されそうにならなかったですか?」と私が聞くと、
「ええ、拳銃を向けられて殺されそうになりました。
それでも次第に仲良くなってファベーラで友人も出来ました。」
ちょっと気になったので質問する。
「ファベーラと釜ヶ崎。
そういう貧困とかそういうものに興味があって行動しているんですか?」
「いやいや。そんなんじゃないです。
ファベーラはブラジルに行ったときに見た夜景がとても美しくて、
惹かれて行きました。
もともとブラジルが好きなんですよ。
ファベーラもひっくるめて。
ブラジルすべて。この前、はじめてリオのカーニバルに行きましたよ。
もうすごかったですよ。
それとは別に釜ヶ崎も興味があって、
釜ヶ崎のおっちゃん達を撮りたくて、ここに来たという感じです。
写真を撮るにはまず人間関係を作らなくちゃと思い、
一緒に特掃の仕事をしたりして信頼してもらうようになりました。」
なかなかおもろい兄ちゃんやな。
導入する思考回路が同じやな。私と。
でこれはこの兄ちゃん描かなと思い、
撮った写真で勝手に描かせてもらう。
相手は忙しく、東京で芸能人相手にプロの活動をしている。
今日会ったら次は多分、お盆のとき。
そこまでは待てない。
待ったら描きたいという気持ちが萎えてしまう。
その絵が下の作品。まあこんなものかな?
実物はもっと男前です。




油彩 F10



釜芸 写真 Vol.7 へ続く















釜芸 写真 Vol.5

2014-01-30 07:20:24 | 釜ヶ崎人情
釜芸 写真 Vol.4 からの続き




若原 瑞昌(わかはら みずあき)写真家
彼はアイドルや俳優などを撮っている
AKB48やSMAPも撮っているみたいである。
その彼は自他共に認めるブラジル好き。
仕事で行っているか、遊びで行っているのかわからないが、
時差を乗り越えて日本とブラジルを往復している。
ブラジルとの付き合いは仕事がきっかけである。
その仕事とはブラジル在住の日系人を写真に撮っていく依頼。
農園のオーナーだったり、芸能人であったり、いろんな人を撮りに行った。
会う人達は飛込みではなく、コネクションを使ってセッティングされたものであった。
その撮影現場で会う人会う人に日本を離れてからの苦労話を聞く。
彼曰く、想像を絶するものであるとのこと。
日本からは新天地、天国のような世界が待っていると祝福されて出国する。
当然、当時は貧しくお金もない。
そういう事情も重ねてのブラジル移住である。
なけなしのお金を集めての片道切符の船の旅。
期待と夢を膨らませての上陸は大きな落胆を生むものであった。
用意された土地は田畑に向かない荒れ果てた土地や
傾斜のあるがけの土地。
文句を言おうにも、不満を言おうにもぶつける先がない。
周りには頼る親戚、友人もなく、都会から離れた場所。
生きるためにはそこで根付くしかない。
からからに乾いた土地に根をはることは並大抵のことではない。
人も植物も。
孤立無援とはこのことである。
そんな人たちに出会い、次第に彼はブラジルに好きになっていく。
ある日、夜の街リオに飛行機で降り立つとき、
街の周りに明るい灯の光がたくさんあることに気づく。
リオの街の周りにはそういうところがあるのかと感嘆してブラジルの友人に聞く。
「それはね、ファベーラだよ。」







そこは貧民街。スラムの街であった。
リオを取り囲むようにしてファベーラがある。
彼はそのファベーラの存在に強く、強く惹かれていく。




釜芸 写真 Vol.6 へ続く



街歩き 140103 Vol.12

2014-01-29 07:01:56 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.11 からの続き




「今でもにぎわっていますが、昔はもっとにぎわっていました。
夜になると満員電車の様でした。
今日は三が日でしょ。夜になったらきっと多いです。
ここは飛田の入り口ですが、
昔はここに扉がありました。
女の人が逃げないようにするためです。」
少し考えれば想像できることではあるが、
実際ありましたとリアルに言われると
心が沈む。
沈む心と見てみたいという男の欲望と入り混じって
なんともいえない心持ち。
しかし、強制的にするのは気持ちのいいものではない。
一同、どんよりした気持ちでその場を離れる。
アーケードのある商店街の中を歩いていく。
南のほうに向って。
着いた場所はコンクリートの壁。
壁の前は駐車場になっている。
商店街の中にあるスーパー玉出のトラックが停まる場所。
ここから40mほど離れた店に生鮮食料品をかごに乗せて運んでいく。











「昔、飛田は塀で囲われていたんです。
ほとんどの塀は取り壊されました。
中には取り壊されもせずに残されたもののあります。
その見える場所がここです。」
何気なく思っていた駐車スペースがそういう場所とは。
高さは5、6mはあろうかと思う。
何の特徴もない普通の壁と思っていたものがそういうものの名残りとは。
嘆きの壁と言ってもよい場所である。
いつかこの場所を絵にしてみたいと思う。
大きな作品にするのか、小品にするのか。
検討もつかないので時間を置くことにする。
ここから三角公園に向かい、トイレ休憩。
その後、主催者の歯科医院に行って、会議室で質疑応答をした。
時間は5時前になっている。1時から5時までの長丁場であった。
私は疲れてウトウトする。
目が覚める頃にはお開きになる段取りであった。(^^;
いろいろ知ることが出来て有意義な一日でした。






街歩き 140103 Vol.11

2014-01-28 03:59:26 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.10 からの続き




今度は飛田のほうへ行く。
行く途中で劇場の前で止まる。
オーエス劇場。
ここにはもう一つ劇場があり、ジャズのライブの出来るところもあるそうだ。
西成をそういう町の文化の特区にしようという動きもある。
このオーエス劇場は300名の定員で1000円とか800円とかリーズナブルになっている。
ここにはストリップ劇場はないんですかと参加者のおばちゃんが質問する。
「実はここは元々ストリップ劇場だったところで衣替えしました。
あの十三ミュージックも大衆演芸場に変わって、
大阪ではストリップ劇場は3ヶ所くらいになったんじゃないかな。」
と阿修羅さんが話す。
彼の物知りにはびっくりさせられる。
それだからこそ街歩きの案内人になってるのではあるが。
オーエス劇場から少し歩いたところに映画館がある。
いつもはオールナイト500円。
1月3日は正月サービスで100円。一晩100円である。









自転車の上に100という文字があるのがわかると思う。
映画はピンク映画ではなく、昔の名作や最近公開されてものなど多彩である。
「昨日、人と話していたら、『映画館が100円だから、久しぶりに屋根のついたところで眠れる』
そういう人もいました。」
と飄々とした表情で話す。
すべての現実がその短い言葉の中で表されている。
深刻ではあるが、暗くはない。
暗くはないとえらそうなことを言っても同じことをする勇気はない。
そしてまた歩き、飛田の入り口までたどり着く。



街歩き 140103 Vol.12 へ続く





街歩き 140103 Vol.10

2014-01-27 07:12:00 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.9 からの続き




この場所から太子1丁目に向う。
太子1丁目にはビジネスホテルが立ち並ぶ。
阪南大学の学生がボランティアで外国人客向けにゲストハウスなど置いたりして、
外国からの旅行客を積極的に受け入れるようにしている。
今は治安のいいところになっているが、
昔は大阪一危ない場所であった。
新世界をつくったときにそのゴミをどうするかということになった。
その仕事を暴力団に依頼する。
そのときから産廃と暴力団のつながりは出来る。
このときからということではなく、江戸時代から続く風習だと思うが。
江戸時代には他の国ではないような下水処理システムが出来上がっていた。
下水処理システムというと大層な言いましであるが、
トイレにたまった肥溜めを回収し、肥料として流通させる仕組みが出来ていた。
そこには水利のような権利というか利権があった。
株組織もあり、そこに任侠の人たちがかかわってきたことは想像できる。
しかし、実際に実行するのは差別を受けてきた人たちである。
新世界の工事と共に太子1丁目に産廃業者が集まってくる。
一時期には非常に羽振りがよく、毎年夏祭りには会社が盆踊りを開催し、
派手に振舞っていた。
そこにホテルや住民が住みだし、いろんなトラブルがあって、
産廃業者は他の場所に移るようになっていく。
立ち並んでいた組事務所もだんだんと移っていく。
そう考えるとかわいそうにも思えてくる。



太子1丁目から釜ヶ崎の中心部に向って歩いていく。
そこで紹介されたのが地面に埋められた石やレンガ。
そう先日そこで描いた絵を称した場所。







その場所はスラムと町工場をセットにして出来上がったドヤ街。
収入が少なく出入りをしていた坂田三吉を町工場の社長たちがスポンサーになる。
そして、新世界に将棋の文化が根付いていく。
釜ヶ崎は水はけが非常に悪く、雨が降ると水浸しになる。
その対策として地面に石やレンガを埋める。
ほとんどのところはアスファルトやコンクリートに変わってしまったが、
奥に入った路地の生活の場所にはそのまま残って、その当時の様子を教えてくれる。
その場所を気に入り、後日描こうと決めて、1月12日に絵を描きに行った。




街歩き 140103 Vol.11 へ続く